松井 名津
さて、今回のコロナウィルスなのだが…海外にいて「トイレットペーパーが買い占められている」というニュースを聞いて「え、また?!」という思いになった。つい先日、オイルショックの時のことを絡めて原稿を書いたのもあって、余計その感が強いのかもしれない。ついでにコメントしておけば、オイルショックの時より今回の方が買い占めに至る因果関係はちょっとわかる気はする。(オイルショックの時は何がどういう理屈でトイレットペーパーに至るのか、さっぱり訳がわからなかった)。その他にも「〜を飲めばコロナウィルスを撃退できる」とか、「〜では…がもう手に入らないから、早めに買っておくべき」というような話は結構蔓延しているらしい(FBのタイムライン上で、これはデマですと回ってくるニュースを見る限りだけれど)。
デマというと、悪意があって間違った情報を広めると考えがちだが、実は善意に基づく誤った情報がデマを引き起こす可能性の方が高い。「善意」なので情報を出している人は「正しい」と確信している。だからその正しさを疑うことがない。そういう人が出した情報に対して、「間違っていませんか?」と疑うような意見を呈すると、酷く躍起になって疑う人を攻撃したりする。周囲の人も、その人が善意で行動していると知っているので、なんとなくその人の味方になったりする…。と、善意で行動する人が出す誤った情報ほど拡散しやすいし、否定されにくい。これは一般人に限らず、専門家といわれる人もそうだ。専門家とはいえ、これほど専門が細分化していると、つい隣の分野のことであっても門外漢である場合が多い。だから慎重な専門家は性急なコメントを控える。積極的に発言する人は自分が科学的に正しい判断をしており、一般にその判断を知らしめ、啓蒙しなくてはならないと考え行動している。ただ、現実は複雑で理論通りではない場合が多い。理論上最善の対応も、現実を考えれば費用がかかりすぎて実質上不可能という場合もありうる。けれど理論的には最善だから、現実にできないのはおかしい、という発言をしてしまうことがある。こうした善意による発言に対して慎重になった方がいいとか、不安を煽るような発言は控えた方が良いという真っ当な意見を呈すると、時に「言論の自由」を迫害する行動だという反応が返ってくる。
であるならば、ここは一番「言論の自由」を真っ正面に据えたミルに登場してもらうことにしよう。ミルは『自由論』の中で、数ある自由のうちでも言論の自由を幅広く認めている。しかしこの言論の自由にも制約がある。それは他者の利益に損害を与える場合(harm principleともいわれる)である。言論、まぁざっくりいえば公に意見をいうことと考えよう。単に言葉を言うだけなのに、他人に損害を与える場合があるだろうか。すぐに思い浮かぶのは言葉による暴力としての「いじめ」だろう。これは別に子供のうちに限らない。日本語でハラスメントといわれている事態のほとんどは、「いじめ」と訳してしまった方がいいと私は思っているのだが、セクシャルハラスメントにしろ、パワーハラスメントにしろ、何にしろ、その人の人格を否定する表現を使う、その人の個性や能力をある特定の視点(女性である、同性愛者である、部下である…)だけを用いて表現する。このような発言はその人の人格を否定するという点で、その人の必須の利益を害している。例え憲法に良心の自由や言論の自由が謳われているとしても、こうした発言を公にした場合は、何らかの罰が課せられるべきである。
では善意から発した誤った情報の場合はどうだろう。特に上で指摘したような発言者が特定の影響力を持つ人だった場合や、周囲が不安に駆られている場合に、人々を社会全体にとって不利益をもたらす行為に導きかねない発言を公にする。これは言論の自由で保護されるのだろうか?それともharm principleによって制限を加える(もしくは社会的に罰を与える)べきなのだろうか?実はミル自身がこの問いに答えを出している。食糧不足で人々の間に不満が高まっているときに、パン屋や商社の前で「食糧不足の原因は一部業者の買い占めによるものである」という主旨の発言をした場合、この発言を制止するべきだとミルは述べているのである。
実はこの一条はミル研究者の間でも評価が分かれるポイントにもなっている。制約が加えられるべきなのは、不安な社会状況の中で暴動やパニックを引き起こしかねない発言や、一定の個人(あるいはグループ)に対する暴力を引き起こしかねない発言とまとめたとする。では誰が「不安な社会状況」にあると判断するのか、誰が「暴力を引き起こしかねない発言」と認めるのかという問題が生じる。もし政府が…と簡単にいってしまうと、それこそちょっとした自然災害だとか、連続傷害事件が発生した途端、戒厳令のように言論の自由を取り締まることができる根拠を与えてしまうことになる。また「暴力を引き起こしかねない発言」の場合も、当事者で意見が分かれることがあるだろう。この一条を認めることによって、言論の自由が大幅に制約される、いや結局骨抜きになってしまう。こう考える学者もいる。その一部に理のあることを認めつつも、私は判断はやはり「最も立場の弱いもの」の側から行われるべきだと彼は考えていたのだと主張したい。なぜなら言論の自由そのものが、社会で異端として抑圧されやすい少数派の意見を多数派から保護するために主張されているからだ。そしてまた、パニックや暴力を引き起こす発言を抑制する・制止する必要性があるとミルが考えたことは正当だと考えている。ただし、抑制するのは政府ではなく、個々人であり、発言に責務を負う人々(ジャーナリストやマスコミ、もちろん政治家もその中にいる)だと考えている。
というのもチェルノブイリ事故の直後にヨーロッパに旅行したことがあるからだ。テレビでは連日天気予報のように放射能の拡散状況が放送されていた。天気予報のようにと書いたが、実際報じられているニュースの様子は毎日の天気予報とほとんど変わらない。低気圧の雲の代わりに放射能を帯びた雲や風が表示されている。アナウンサーは「明日は〜地方にはソビエト方面からの風が強く吹き付けるとともに、強い雨が降ります。不要な用事のない方、特に幼い子供は家の中で過ごす方が良いでしょう」と淡々と語る。まぁ私が滞在していたのはイギリスで、BBC放送だからだったのかもしれない。でもロンドンも(ずっと小雨が降ったり止んだりだったが)賑わってもいない代わりに、閑散ともしていないというロンドンらしさで、相変わらず傘を持っているのに傘をさしていない人が歩き、コートの襟を立てて薄ら寒そうに人が行き交っていた。ホームステイ先は北海に面していたが、別に避難するという話もなく、雨の中でクリケットをしたり、近くの川縁に生えているクレソンでスープを作ってくれたりしていた。
ヨーロッパでは核の悲劇は日本ほど理解されていないのだ、そう言ってしまえばそれで終わるかもしれない。けれどそのとき私が痛感したのは、中学生の時に遭遇したオイルショックの日本との違いだった。連日のようにテレビからは激昂したような声が響き、一般紙までがスポーツ紙のような大見出しをつける。スーパーの店頭からは物が消えていく。そんな風景を思春期特有の皮肉な目で見ていた自分を思い浮かべながら、もしこれが日本の近くで起こっていたらこんな風な日常はありえないだろうなと思ったことを鮮明に覚えている。
別にヨーロッパだから偉いというのではないのかもしれない。ヨーロッパは大陸も島国のイギリスも含め、13世紀以降の十字軍、16世紀から17世紀の宗教改革の中で、流言飛語によって多くの人が虐殺された歴史を持つ。同じキリスト教徒であっても、いや同じキリスト教徒だからこそ「異端」を殺すことは神の御心にかなったこととされた。アルビジョア派を殲滅した十字軍、プロテスタントを虐殺したサン・バルテルミ、逆にカソリック教徒の殲滅を目指したクロムウェルの鉄騎隊。そして近代になれば記憶に新しいナチスとそのシンパによるユダヤ人の虐殺(虐殺されたのはユダヤ人だけではない。ロマの人々、同性愛者などなど)。こうした数々の虐殺を招く豊かな土壌が、自分たち自身の中にあったことを、多分彼らは日本人より見に染みているのだろう。(最もこのところ、そうした記憶が薄れてしまったのか、経済状況が悪いからか、ヨーロッパでも流言飛語と付和雷同が増えているようだが)。
人間は「目に見えない恐怖」に弱い。放射能、新型ウィルス、ペスト…目に見えない恐怖に社会が覆われたとき、多くの人がよりわかりやすい解決法、目に見える敵を求める。今・ここにある恐怖をなるべく早く打ち消すための本能的な反応なのかもしれない。動物も食糧不足などどうしようもない危機の際にパニック状況になる。そして人間の場合も動物の場合も、行き着く先は同じだ。「共食い」。最も弱い物が殺される。人間はずるいから実際には手を下さないかもしれない。100人が1人に向けて石を投げれば、その1人は死ぬだろう。石を投げた100人は自分が投げた石が殺したとは思わないかもしれない。でもやはりそれは「共食い」なのだ。そして人が人を追い込むとき、人には動物にはない武器がある。「言葉」という強力な武器が。そして本来、武器を持つものは武器の真の怖さを知っていなくてはならないのだ。
SNSによって人々の言葉はいろんなところに拡散する。それだけ私たちの言葉は強くなった。強い武器を持つ以上、私たちはその怖さも十分認識しなくてはならない。
追記:カミュといえば『異邦人』が有名だが、今ぜひ読んで欲しいのが『ペスト』だ。紹介文には「極限状態における人間の連帯」などと軽い言葉が踊っているが、絶望的な状況の中で絶望しながらも、そこに踏みとどまる人間を描いている小説だと私は思っている。