競創 「自給自足」と「消耗戦」の間で

グローバリズムという言葉が使われ始めてもう15年以上たっただろう。この言葉が良い文脈で使われることは滅多と無い。ましてグローバリズムと競争となると、悪の温床のように目の敵にされる。逆に自給自足、地域資源、地産地消という言葉は、善の代表選手のように取り扱われている。

 思想史という過去の思想をあれこれとつつき回している人間は、こういう時、ついつい斜に構える。なぜなら、「自由+競争=悪」対「自給自足+共同体=善」という現在にも似た図式で、過去にも論争が行われ不毛になったことを知っているからだ。

 なぜ「悪対善」が不毛なのか。

 例えばの話、自給自足的が善だとしよう。では自給自足できない土地に住んでいる人々はどうすればいいというのだろう。サハラ以南の慢性的飢餓に悩む人々に、自給自足をしたらというのだろうか。いや、そんな遠くまで行く必要はない。日本の大都会そのものが沙漠であり、自給自足にほど遠い。

 自給自足を善とする人の中には、こうした都会的生活そのものを抜本から変革し、自分たちの村を作ろうとする人たちもいる。大正時代の「新しい村」運動、19世紀のロバート・オーウェンなどが過去の事例としてあげられる。彼らは、文字通りラディカルに生活形態を改変し、自給自足的生活を築き上げようとした。そこまでラディカルではなくても都市生活の無機質さや機械的生活から人間性を取り戻すためにと、設計されたのが「田園都市」である(東京多摩田園都市はこの運動が日本に波及したもの)。

 現代でもこうした運動に邁進する人たちがいる。そのこと自体をとやかく言うつもりはない。けれど、ともすればこういう運動は閉鎖的になりがちである。これは無理もないことだ。平凡な人間が何の疑いも持たずに過ごしている生活を根底からひっくり返すわけなのだから、こうした運動に同意する人たちは、当初はごく限定された数になる。またその運動が依拠している根本原則に従う人でないと受け入れられないことになる。結果的にある原理原則を元にした集団が出来上がる。これだけならば、別段不自然でも不可思議なことでもない。通常のベンチャー企業と同じだ。

 しかし、一つだけ大きな違いがある。ベンチャー企業は市場や顧客に対して自分たちの商品やサービスを説明し、売らないと生きていけない。顧客の不満に耳を傾けなければたちまち倒産だ。しかし自給自足的集団は文字通り「自分たちだけ」で生きていける。だからこそ、外からの批評に耳を傾ける必要はない。時として批評を非難として、攻撃として受け取ってしまうこともある。外だけではない、内側からの批判に関しても同様になってしまう危険性を持っている。

 なぜここまで閉鎖的になるのか。その答えは案外単純だと断じた人がいる。これまで時折登場願っているJ.S.ミルだ。彼の答えは「競争の排除が原因」というものだ。彼は自給自足的な組織や、今の生活協同組合的組織、労働者によるベンチャー的なアソシエーション、いずれに対しても「競争」することを求める。それも既存の企業とともにだ。

 そんなことをいわれても、農業組合法人や農業法人と、イオンといった大スーパーでは資金や仕入れの有利さで競争どころかスタートラインにすらたてないじゃないか。こういう反論は当然だろう。しかしそれでも競争をとミルはいう。なぜなら競争が無ければ、組織が閉鎖的になり、新しい息吹が吹かなくなるからだ。そしてミルの主張する競争は、現代的な意味での競争(彼の言葉を借りれば「相手を押しのけ押しつぶす」闘争的競争)ではない。

 ミルのいう競争を理解してもらうために、ちょっと話を変えてみたい。世界陸上・W杯・F1。こういった競技に観衆は何を期待しているのだろう。金に飽かして有力どころをそろえたチームが常勝路線を突っ走ることだろうか。それとも互いが、ギリギリまで鎬を削り、よりすばらしい記録、よりすばらしいプレーを残すことだろうか。単純に自国チームが(たとえダーティーといわれようと)勝利を手にすることだろうか。もしすばらしいプレーヤーやチームだけが見たいのなら、なぜわざわざ弱小チームとの競技会をもうけるのだろう。雪の無いジャマイカのボブスレーチームに世界中が熱狂的な声援を行い、ついには映画にまでなったのはなぜか。結局のところ私達は、同じ目標を持った人間がどこまでの高みを目指せるかに熱狂するのではないだろうか。そしてそのためには、互いに競争しなくてはならないということを暗黙裡に認めている。

 ミルのいう競争は、競い合うことによって、より高度なものを人間社会に提供していくための競争、つまり「競創」である。

 もの(商品だろうとサービスだろうと、記録だろうとなんであれ)を創りだすことは、苦痛に満ちている。だからこそ共に競う相手がいないと、すぐに自己満足に妥協に流されやすい。そしてその結果を批判されると、ついつい敵対的になる。逆に共に高みを目指しているのであれば、批判や欠点の指摘は自分の成長へのチャンスと受け入れることができる。

 ミルは自己目的化した成長、すべての人間が同じ目標(金銭的動機)を持ち、敗者を蹴落とすためには何でもするような競争を拒絶する。彼は人間が人間として、そして多くの人間がその人自身の生を生きるための社会を創り続けるための成長を求め、そのためにこそ「闘争的」競争ではない競争、「競創」を求めたのである。 ミルが「競争(競創)」を常に手放さなかったのは、互いが互いを高め合う機会を喪失してしまうからである。 

 ここからは私の勝手な推論になるのだが、ミルの競創を煎じ詰めると敗者も勝者もいなくなる。ドトールも、スターバックスも、フェアトレードコーヒーも「コーヒー消費市場」で戦っていると考えれば、当然敗者と勝者が出てくる。けれど、この3つの店舗へ足を運ぶ消費者はいつも同一の動機で消費しているのだろうか。コーヒー1つとっても人はいろんな動機で商品を選ぶ。それぞれにあった商品を提供している限り、そして創造的に自分たちの商品やサービスを成長させている限り、敗者も勝者もいないのではないだろうか。

 20世紀「グローバルで競争する」というと、体力勝負(資金力勝負)の消耗戦しかあり得なかった。しかしこれからグローバルで、世界で、競争すべきなのは、体力や資金量ではない。自分たちがどれだけ高い目的や目標を持って、日々変化し創造し続けることができるかだ。海外市場に堂々と自分の商品を売りにいく地酒の蔵元がある。資本金は3000万円に満たない(同業種のトップ企業は資本金6億弱だ)。世界のファッションショーに服地を提供する地方の小さな織元もある。品質の高さで負けない商品を創りだす人々が、いわゆる「発展途上国」に存在している。彼らとサシで勝負するのってワクワクしないだろうか?どちらがより高い品質のものを、どちらがより創意工夫に飛んだものを創造し続けるか。勝負は買ったり負けたりしながら、ずっと続いていく。それが「競創」の世界である。

 さて、いつのまにか自給自足の話題が競争の話題になってしまったが、自給自足を頭から否定している訳ではない。また現在のグローバル路線や自由貿易路線が良い結果をもたらすとは思えない。だからこそ、ここまではあえて「競創」という言葉を使って、別の形態の競争があるということを示したかった。

 私は自給自足という言葉、運動に閉鎖へと向かう危険性とともに、もう一つの可能性もあると考えている。たとえば日本の「民藝運動」。柳宗悦といった民藝運動を主導していた人々は、普通の人が普通に使っていた日常雑器の中に世界に通用する「美」を見いだした。そしてそれを一般に公開することを望んだ。さらに志を同じくするバーナード・リーチとともにイギリスに日本式の窯をつくり、多くの陶芸家を育てたりもしている。彼らの運動には批判もある(なにしろ大日本帝国時代であり、その枠組みから抜け出せなかったのも確かだ)。しかし注目してほしいのは、日常的なものをその土台や根っこを破壊しないまま、より開かれたもの、洋の東西を問わずその真価を問うことができるものへと進化させていったという過程である。

 先述した地酒の蔵元も地元産の米や果実にこだわった製品を作り続けている。そういう意味では「自らのもとに(供)給されるものにこだわって」いるのだ。そして「自らがもって足りとするもの、つまり自信が持てるもの」を送り出している。自分の生きる場所、自分が自信を持ってこれだと決めた仕入れ先や材料を大切にし、自分が自信を持って世界に問うことのできる物を作り出すこと。これもまた「自給自足」では無いだろうか。ただしこの場合の自給自足は、単純な地産地消ではない。自らが決定し自信を持つのであれば、地球のどこから仕入れていい、地球のどこへ供給していい。地球の大地に根を下ろす自給自足である。その時、自給自足はその閉鎖性を逃れることができるだろう。