松山大学経済学部教授 松井名津
経済学講座します、それほど堅苦しい話はしません。とアナウンスして始めたはずの経済学講座なのですが、「農で自立心」の講座で貨幣と交換がディスカッションの的になったこともあり、第1回目は急遽交換と貨幣の話が焦点になりました。「お金」にはなぜか「あまり良くない」イメージが付き纏うのは、日本人だけではないらしく、お金を抜きにした交換が可能かどうかという点は1 回目と2 回目に共通するテーマとなりました。
面白いことにお金、貨幣というものは、経済学理論の基礎ではあまり活躍の場がないのです。需要の量と供給の量が決まれば、価格はそれに連れて動く存在で、貨幣は価格を数量的に表す単位でしかありません(貨幣は交換を円滑にする手段)。でも現実に生きていると「貨幣って万能」、「貨幣ってパワーとか権力そのものじゃん」という方が実感に近いでしょう。そして貨幣の多寡によって人や物が価値づけられてしまう。貨幣が全て。貨幣を稼ぐために働かなくてはならない…。となると、いっそ貨幣なしに必要なものを必要な人同士が交換する仕組みが考えられないか。貨幣以外の価値判断基準で人が動くようになればいいのでは?こういう意見が出てきますし、当日の議論でも出てきました。
確かに物々交換には困難が伴う(自分が欲しいものを持っている人が、自分が持っているものを欲しいとは限らない)けれど、今のIT 技術があれば、それぞれの欲しいものと持っているものをオープンにして、最適の組み合わせをAI で示せばいい―そんな意見がインドネシアのアディさんから第2回目に出ました。
実は私自身は(そして多くの経済学の理論家も)貨幣抜きの交換、市場抜きの経済社会は想定不可能だと考えています。ただしこれは地域通貨の可能性だとか、アディさんが提唱しているようなIT システムを使った交換システムを小さなコミュニティの中で、実行することを排除するものではありません。なので、第2回目の時、アディさんには「身の回りの小さなコミュニティでは実行可能かもしれない。理論的には難しいけれど、理論と実行とはまた別だし、可能性はないとは言えない」と非常に歯切れの悪い答え方をしてしまったのです。
その後、インドのスリーダラー先生と話をしていて、ああ、そうだったんだよな…経済学ってそういうところの理論なんだよねと思い直したのです。スリーダラー先生の一言は「誰もが欲張りでも、嘘つきでも、騙し屋でもなければ、うまく行くかもしれないね」でした。全てが善人であれば経済学はいらない(生産活動も分配も人間の間では問題にならないから)。全員が悪人なら経済学は成り立たない(誰もが盗み合い、殺し合うから)。7割ぐらいの人間がそこそこ世の中のルールを守るだろうというところで、経済なり経済学は成り立つ。
ということで、第3回目からは「経済学が成り立つような社会」はどう成り立つのか、今の社会以外の社会のあり方はあるのか??みたいな根本的なテーマを考えつつ、個別のテーマにあたることになりそうです。第3回目はコモンがテーマですが、そもそも共有とコモンは一緒なのかどうかというところあたりから始めようかと思っています。