フェミニン・マスキュリン・リーダ―シップ

松井名津

コロナがパンデミックの様相を発揮するにつれ、国民への呼びかけや政策の浸透に成功したリーダーの多くが女性だったことから、母親的(フェミニン)なリーダーシップが注目された観がある。とはいえユングではないが、一人の人間には女性性もあれば男性性もある。実際、交流分析を主とする心理学ではCP(支配的な親の自我状態)とNP(養育的な親の自我状態)といった要素が登場する。

実際、先日ユース5+αの会議で、厳しい父親的なリーダーシップと受容的な母親的リーダーシップの話になった。例えばインドネシアのユダくんは「母親的」。なぜなら人の話によく耳を傾け、親身になって世話をするし、欠点を受け入れようとするからだ。一方、カンボジアにいた頃の奥谷さんは「父親的」。規律に厳しく、生徒たちが引き締まるからだとのこと。ではデンくんは?と聞くと、奥谷さんがいた頃は「お兄さんかお母さん」だったとのこと。

この会話から察していただけると思うが、父親的(マスキュリン)と母親的(フェミニン)は性別によるものではない。組織のリーダーシップの要素をそれぞれのジェンダー要素に割り振っただけである。例えば父親的には「厳格・規律・統制・権威・トップダウン・ロジカル・客観的・理性的」といった要素が、母親的には「共感・受容・感性・直感・寄り添う・感じる力」といった要素が入るといわれている。(父親的を男性性、母親的を女性性と言い換えても良いのだが、どうもリーダーシップといった場合は「親」の要素を入れた方が良いと思う)。どうも二つに分けると、二項対立(〜対〜)的で、どちらがより良いのかとか、より相応しいのかという話になりがちだ。確かにこの二つ(父親ー母親、男性性ー女性性)は二項対立のように扱われてきた。そして昔はやった歌ではないが、男女の間には「誰も渡れぬ河」があって、男性が女性を(女性が男性を)真に理解することなど不可能だ(と思う)。

とはいえ、この二つは互いを排除するものではない。誰も渡れぬ河であっても「今夜も舟を出す」のが両性のサガでもある。またそれでなくては人類という種の永続性は望めない。そしてどうやら組織の運営においても、父親的・母親的リーダーシップの双方に長所と短所があり、どちらが良いというのではなく、どちらの要素も必要であって、そのバランスは組織の性格、置かれた状況によって異なる。例えば母親的リーダーシップの共感や受容はともすれば優柔不断や、規律不足につながるー決断が必要な危機的状況では困ったリーダーシップである。その一方で、同じような状況で、父親的リーダーシップは決断力や行動力に富むが、「決めたことに全員従え」方式になりがちで、全員が不安に陥っていて丁寧な説明が必要なときには、メンバーが取り残されてしまう。丁寧な説明、相手の立場に立った説明は母親的リーダーシップの要素だろう。危機的状況と一言でまとめても、その時々によってどちらの要素がより適しているかは異なってくる。  こういうふうに考えてくると、果たして組織のリーダーは1人に固定して良いのだろうかと考えてしまう。20世紀型の組織は軍隊と同じで役割でリーダーシップが固定されてきた(平の社員が社長に物申すというのはレアだ)。しかしこうした組織運営のやり方は変化が常道になる世界では非常にリスクが高いのではないだろうか。どのような状況でどのようなリーダーシップの要素が必要とされるかは、あらかじめ予想することはできない。むしろ誰もがリーダーシップを取ることができる、取って当然な組織運営が必要なのではないかと考えている。