人は「育てる」のか「育つ」のか

さてもさても近頃は若人の教育がかまびすしく言い立てられており候。甲論乙駁にて、はてさて何が正しいのやら見当もつきかね候。と昔の狂言風に書き出して見たくなるほど、近頃は「教育論」「人材論」「~の育て方」の本が洛陽の紙価を高めるほどに売れております。よくよく表題を眺めますと、求められるのは「即戦力であり、創造力の高い」人材のようです。が、これは既製服に一点もののオリジナリティを求めるような無理難題ではないでしょうか。即戦力というからには、組織に即座に適応し、求められる仕事を求められる水準で、円滑にこなしていく力ということでしょう。しかしこれはその組織の既成のやり方、水準にそっているということでもあります。一方、創造力といえば、既存のものを打ち壊し、新しい地平を開くことでしょう。既成のやり方を大事にしながら、既成のものを破壊する。いささか無理難題なことを日本社会、いえ日本の企業は求めているようです。そしてその無理難題になんとかかんとか自分を押し込もうと苦労しているのが、今の日本の若者ではないでしょうか。元来、無理難題ですから、どうやったらいいのかわからない、だからこそ「指示待ち」になる、受け身になる(というかならざるを得ない)、自分から関心を示さない(関心を持ったとしてもそれが了解されるかどうかわからないから)。若者に向けられる不平不満の多くは、いわゆる「大人」が作ったものではないかと勘ぐっています。

 とはいえ、次世代の育ち方は近代社会にとってはの喫緊の課題でしたし、これからもあり続けるでしょう。なぜ近代特有の課題かといえば(長い話を大幅に端折りますが)共同で一つのプロジェクトを意識的に成し遂げることが、組織の命運を握ることになったのが近代だからです。そしてこれからもあり続けるとしたのは、これからは「意識的に」という部分が拡大していくと考えるからです。上司にいわれたから、会社の仕事だから、ではなく、自分自身が選択し、自分自身のやり方と能力を存分に発揮して仕事をする部分が(たとえ従来の会社組織に勤めていたとしても)増大してくるだろうと考えるからです。

 さてでは、育成方法はという話になりそうなのですが、ここでタイトルをもう一度見てほしいのです。そう、「育てる」のか「育つ」のか。育てるのであれば育てる方法を、育つのであれば、育つための場作りや育つための基礎作りを考えなくてはならないでしょう。

 普通は「人を育てる」といいますが、本当にそうでしょうか。実は私が専門に研究しているJ.S.ミルという人は、3歳から父親に徹底的な英才教育を受けたことでも有名です。しかもその英才教育は「功利主義」に基づいて人間を「育てる」という目的を持ったものでした。そして父親と周囲の期待に若いミルは見事に応え、功利主義の論客として名を挙げていくことになります。ところがある日、彼は深い失望に陥ります。 彼は徹底的に「育てられた」人間でした。しかし彼は「育てられる」ことによって、自分の中に深い懐疑つまり「自分は作られた機械、教えられたことを繰り返しているだけの機械」ではないのかという思いを抱いたのです。このミルの経験は「育てる」ことの限界をよく表していると私は思います。その限界は、育てる側以上のものには育てられないという限界です。植物を育てる場合を思い浮かべてください。庭の一角を緑に彩るために育てていたクローバーが、庭の通路にまで進出したらどうしますか?引っこ抜きますよね。そうしないと、あらかじめ企画していた庭のイメージにはなりませんから。「育てる」には、「~風に育ってほしい」という完成型の意識がどこかつきまといます。その完成型は育てる側が自分の持っている知識や経験を動員して作り上げたものでしかありません。そして育てられる側が、育てる側の完成型に近づけば近づくほど「良し」とされる訳です。それはミルの例のように「教えられたことを繰り返す」クローンを培養しているにすぎないことになってしまう可能性があります。人を育成するとは、決してクローンを培養することではないと思うのですが、どうでしょうか。

 では「育つ」という場合はどうでしょう。実はこれにも陥穽があります。放任・放置になりやすい。「勝手に育つからほっとけばいい」あるいは「見て学べばいい」というやつです。行きつけのバーで、マスターからこんな話を聞きました。カクテルを作るときシェーカーを振る場合があります。昔は「とにかく振れ」としかいわれなかったそうです。少し丁寧な人であれば、「8の字を描くように」といったアドバイスがもらえたそうですが。でも誰も「何のためにシェーカーをよく振らなくてはならないのか」という根本的なことは教えてくれない。というか、知らない。ですから、新人バーテンダーは訳が分からないまま、とにかくシェーカーを振っていた。かつてどこの企業でもやっていたOJTとよく似ています。ところがある時、誰が言い出したともなく全国的に「シェークするのは、シェーカーの中の材料に空気をよく混ぜ込むためだ」ということがわかった。となると、 先輩は自分のやり方を教えるけれども、それが最善の方法であるとは限らない。新人諸君はシェーカーの中に空気をよく混ぜるためには、どういう風にシェーカーを振ればいいのかを考えればいい。何が目的なのか、よくわかっているからこそ、先輩のやり方を教えられ学びながらも、自分のやり方にしていくことができる。「何のために」という目的がはっきりと示される。そして見本となるやり方は示される。でもそれが唯一のやり方ではない。目的を達成するために、自分なりのやり方を工夫する余地はあるし、また工夫しないと本当に目的を達成することは難しい。同じことは、伝統芸能でもいわれています。「(扇を持った)師の手を見るな。師の手の先を見よ」。 これが「育つ」ということではないでしょうか。どんな名人といわれる人でも、その人のやり方をただひたすらまねするだけ(「育てる」)では、その人を超えることはないでしょう。けれど、その人が目指していた目的や境地を、自分も共有する。そしてそれを目指して自分なりの工夫を重ねる(「育つ」)。そうすればいつか誰かがその名人を超えていくことでしょう。

 ところで、先ほどのバーのマスターですが、彼は普通のバイトの子にはカクテルは教えません。でも本気でバーテンダーになろうとしている若い子には、彼も本気で自分のやり方を見せます。なぜか。普通のバイトの子は単にバイトに来ているので、カクテルに興味も関心も持たないからです。「育てる」のではなく「育つ」ためには、育つ方が何らかの興味や関心を持っている必要があります。それは「なぜ?」という疑問を持つことだと言い換えてもいいでしょう。例えどんなに目的が示され、やり方を教えられたとしても、なぜという疑問がなければ、自分なりの疑問に気づくことがなければ「育つ」事はないでしょう。その理由をミルは次のように言います。どんな優れた教えや真理であっても、それが次世代に伝えられるときに「なぜ?」という疑問を持たれなければ、やがてそれは形骸化したモノ、死んだモノになってしまうと。

 今までの人材育成が「育つ」ことではなく「育てる」ことに重心を置きがちだったのは、育つ人たちの興味や関心、意欲、疑問を持ってもらうことが非常に難しいことだからです。単純に「面白い」「珍しい」ではなく、英語のinterest(面白い、興味、関心)です。interestはつきることがありません。その領域で一つ物事を知れば、その途端、自分の知らない膨大な領域がその向こうに広がっていることがわかります。人とのつきあいでも々で、次から次と興味関心が広がり、人との出会いを求めるようになります。けれどinterestを無理矢理かき立てることはできません。育つ人が自分なりに気づく以外にないのです。そしてその気づきの機会は、違いを自覚することから生まれます。自分と他人との違い、価値観や考え方の違いとであい、その違いをなぜなんだろうと考える事が、育ちへのアンテナを形成します。けれど残念ながら、今の日本社会ではよほど恵まれていない限り、「みんな一緒がみんないい」の風潮の中で、自分自身の特別な関心を持つことが難しくなってきています。いっそ、日本人だということを強烈に自覚しなくてはならない場に放り込んでみること(自ら出て行くこと)が、必要なのかもしれません。そのためには、まずは自分にとって「日本」というのは何なのか。それを考える事、それを考える場を用意することが今最も必要とされていることなのではないでしょうか。

注記:この原稿の最初の3行でわざと昔風の熟語を使ってみました。もはや死語ですが、こうした言葉を使うのが「かっこいい」時代もあったのです。