社会システムが崩壊する足音が聞こえるが…

CWB 奥谷京子

2023年新年号として「フェアトレードからコミュニティワークへ」という冊子にして読者の皆さんにお届けした。アジアを助けるから、アジアから助けられる国にと潮目が変わったと朝日新聞の永井記者も当時記事として紹介してくれた。

その本の中に、かつてフィリピンの看護士を福岡の介護施設で受け入れた時に私が英語の通訳で入った時のエピソードを紹介した。フィリピンで看護士の資格があると半年カナダで働けば永住権が得られる、ドバイのほうが稼ぎがいい、日本は英語で上司が話してくれないし、お給料がいいわけでもないし、魅力を感じないと20年以上前に言われたのだ。

そこから現在は介護の現場はミャンマーやネパールが中心で、ミャンマーは徴兵のために国外へ男性は出られなくなった。つい最近、ネパール人で看護コースを専攻し、その経験を生かして現在技能実習で地方の特別養護老人ホームに3年勤めている女性から話を聞いた。彼女の仕事ぶりは評判がよく、意地悪もなく、いいスタッフに恵まれているという。だが、驚いたのは時間を埋め合わせる作業員でしかない現状だ。

月に8、9回くらい夜勤があり、2時間ごと日本人スタッフと交代し、40人近い介護度3以上の高齢者をたった一人で夜間見ているという。同じグループ内の別の施設にいた時は週1回スタッフ全員が集まるミーティングもあったが、今はそういう機会もなく、任された時間で大きな事故や容体の急変がないように祈りながら担当するという。20代後半だが、顔にある吹き出物がその大変さを物語る。50キロくらいのお年寄りを一人で体を動かしたりしなくてはいけなくて最初はコツもわからず、腰も痛めたそうだ。日本で働く前は介護というのはお年寄りに寄り添って、お庭で一緒に土いじりをしたり、やりたいことをお手伝いするというようなイメージだったが、かなり大きな施設ということもあり、その施設のスタッフの時間に入居者が合わせるという状況で、朝7時からご飯を食べてもらうために眠くても5時から起こし、食べる時も一人ひとりで、入居者同士で談話などもない。介護スタッフは5人の面倒を見て、食べ終わったら寝かせるという状態だという。すべての介護施設がそうではないとは思うと言っておられたが、弱っていく高齢者をみていくのがつらいと漏らしているのだ。日本という場所に憧れたが、施設が立派じゃなくても大家族で身内のお年寄りを見るネパールのほうがいいと感じていそうだ。

これではネパールからもそのうち人が来なくなり、次は経済危機に陥った国を探し、どこもなくなるという道をたどるのだろうか。現在技能実習制度も見直しが図られて、技術を学んでもらって国際貢献の名目から育成にシフトするそうだが、現場の感覚とは乖離している。ネパールにいる彼女の友達で今看護の勉強を始めた人もいるようだが、オーストラリアの給与がいいので(時給は2倍強)、そこを目指しているという。ミャンマーは国の事情でもう若者も出国できなくなり、ネパールの人も1,2年で来なくなると、さらなる人手不足。そしてたまたま介護が自分の天職だと思って20年働いていた日本人女性もこの7月に介護現場から足を洗ってエステの仕事に転職をすることを決めたと聞いた。この仕事が好きだと思っていたけれども、どんどん現場の人がやめていき、彼女も鬱状態になってしまったという。また旦那さんが事業に失敗して蒸発し、4人の子どもを抱えていたシングルマザーも、一番下の子がもうすぐ高校を卒業したらほかの職種にチャレンジしたいといっている。

たまたま介護の例ではあるが、いろんなところで日本のシステムの崩壊がある。農業の人手不足は深刻だとか、学校の先生を目指す人が少なくなったとか、2024年問題で建築現場や運輸業はどうなるかなど、ニュースで聴く話題だけではない。これだけ複雑な要因が絡み合う社会なので簡単には解が見つからない。さらに円がこれだけ安くなると、輸入もいよいよ危うい。輸入食品を扱う街中のお店でも品切れと書かれている表示も見かける。数日経っても慢性的に物が入ってこなくなることも起きてくると、今後一般のお店の運営方法もおそらく変わってくるだろう。

負のスパイラルになった時に、そこから逃げ出していく人たちはたくさんいる。ただ安全と思しき所に移るためにも、自分にスキルなど役立つものがなければ実力が試される場であるほど定着などできるわけがない。お先真っ暗なシナリオを並べても気分が沈むだけだ。以前、片岡が起業スクールでよく言っていたが、「お金のあるところに人が集まり、情報が集まるという時代から、情報化の時代は面白い情報が集まるところに人が集まり、お金が後からやってくる」と。日本も機材は進歩・充実しているけれども、それを扱う人たちがいまだ古い体質から抜け出せなかったのか、周回遅れでやっと情報化にシフトする時が来たのか、と気づかされる。既存の枠組みで限界を論じ、解も見いだせず唸ってばかりいても何も変わらない。

以前、ある地方の障がい施設の話を聞いたことがあるのだが、予算が削られて毎日お風呂が入れなくなったが、近くの山で薪拾いをして燃料を入居者自身が集め、森の中を歩くおかげで幻聴・妄想も減り、さらに運動するので汗をかいて毎日お風呂に入ってぐっすり寝るのでおねしょも減るという一石三鳥くらいの効果が出た、という。

今さらながら「面白がる」心で「やってみる」、それぞれの人が自分の媒体で「楽しい」を発信できること、実験すること、他にやっていないことをやってみることだ。その時に、余裕や遊びの部分があることは重要だ。自給できる食料があることと、今私たちが力を注いでいる自らの文化に誇りをもって守っていくこと、そしてニュースに踊らされて不安がってばかりいずに自分で何かアクションを起こすことなのではないだろうか。ニュースは読むものではなくて、作るもの。それが時代に刺さり連鎖する時の面白さを感じられる自分であり続けたい。