CWBアドバイザー 松井名津
ブルーノさんが毎回紹介してくれているラテン・アメリカ諸国のコーポラティブでは、国家とコーポラティブの関係が一つの焦点となっていた。今回のモンドラゴンの新しい動きは、増え続ける移民に対してコーポラティブが「支援」に当たるというものである。
通常移民への支援は国家の仕事と考えられている。移民先の社会に馴染むための言葉や慣習の習得、正規の職業に就くための訓練などの費用を、移民から徴収するわけにはいかない。各個別の企業が負担金を出すというのも、移民を労働力として活用するかどうか未決定な企業にとっては、納得できる話ではない。しかし移民が社会に馴染まないまま、正規の職につけないまま地域社会に滞留することは、社会全体に不安と不安定をもたらす。したがって国家が税金を使って(国家の安全のために)移民に対する支援を行うというのが一つの理屈である。これはラテン・アメリカ諸国のコーポラティブに国家が支援を行っていた理由と重なる。社会の周縁部に存在せざるを得ない人々を、社会の中心部に同化するための支援ともいえる。
これに対してモンドラゴンの新しい動きで紹介された方策は、移民自身が起業家となるためのコーポラティブプログラムである。インタビューによれば目的は「コーポラティブが移民が自分自身の仕事を計画し人生の見通しを改善する」ことにあるという。
特に多くの移民が自分たちのコミュニティから切り離され、相互扶助や相互支援の輪の外に放り出された状態であることから、彼ら自身の困難や必要性を表明できるネットワークを作り出すことが鍵になるとされている。したがってモンドラゴンの役割はコーポラティブの概念や組織化の方法、トレーニングといった側面支援にとどまる。事実インタビューの中で「私たちのような恵まれた立場から移民にアプローチすることは、とても難しいのです。それゆえ移民たちとすでに関係がある団体や場所と協働する事が肝要になっています」「私たちは旅の仲間にとどまるべきなのです」と述べられている。
この二つの対照的なアプローチを読んで、私が想起したのは日本の障がい者運動や近年の高齢者介護で使われる「当事者主権」という言葉である。この言葉はある種の曲解を伴って使われる場合がある。健常者として長年障がい者の介助に従事する立場から、介護の問題に迫っている渡邉氏の言葉を借りれば【本人の思いは、もっともらしい装いを纏って家族や介護職員の思いへと普通にすりかえられる。「こういう状態になったんでしたら、〇〇するのが、ご本人にとって一番いいんです」-「当事者主権は耳触りが良いだけに、その言葉が都合よく曲解されることに対して、ぼくたちは重々に気をつけなければならない(渡邉琢『障害者の傷、介助者の痛み』青土社2018年)」。この記述をあらためて読んだのは、私自身の母が難病の診断を受けた上に大腿骨骨折で入院し、退院後の生活をどうするかという話し合いをケアマネージャーとしているところだった。そして私自身も「母にとって一番いいんです」という罠に陥っていることにあらためて気付かされたのだった。
一人暮らしを望む母、一人暮らしを継続してもらいたい私。その一方日々一緒に生活していく中で「一人暮らしして大丈夫だろうか?」という心配を持つ私。ケアマネージャーからは「一人暮らしをするための支援」と「施設で生活する」という二つの選択肢を示されている状況。その中でともすれば「母にとって…」という言葉で本人の意向を無視しがちになっている自分。まさしく「都合よく曲解」する状況が生まれつつあった。そしてこの曲解は、高齢者に対してだけでなく、さまざまな障がい者、移民、マイノリティと言われる人々に対して、そうではないマジョリティが陥ってしまう罠でもあると痛感した。特に国が関与している場合、いわゆる「健常者」は自分たちの税金が使用されているというただその一点を持って優越的立場に立てる。そして自分たちの意向を無意識のうちに「本人のためだから」と曲解して押し付ける。そしてその意向からはみ出していく人たちに対して「〜の癖に贅沢な、わがままな」主張をする人間だと排斥する。
日本の障がい者運動はこうした社会的規範に対する抵抗であり、社会的規範を変更するための運動だった[1]。なぜ脳性麻痺者が「外出する自由」を持てないのか―具体的にはなぜ車椅子でのバス乗車が拒否されるのか。障がいのある子供が生まれることが出生前診断でわかった時、堕胎する権利は女性だけのものなのか―それは社会から障がい者を消し去ることを意味しないか。障がい者にも性欲がある。障がいがありながら家族を持つこと、子供を持つことは「贅沢」「我儘」なのか。障がい者=当事者の欲求・要求は「健常者」にとって当たり前のことであるのに、障がいを持つから制限されなくてはならないのか。障がい者が地域で「当たり前の生活」を営むのは当然のことではないのか。当事者主権は本来こうした文脈で使われるものだった。
ところが、70年代に始まった障がい者の運動、障がい者の自立生活運動に対抗したのは労働者であった[2]。実際の現場で介助や補助にあたる病院や施設の労働者、交通機関の労働者にとって、障がい者の要求は自分たちの労働強化として受け取られ、ともに問題を解決しようという姿勢が見られなかった。90年代になると介護補償制度が各自治体で制度的に認められるにつれて、障がい者の地域生活基盤整備が進んでいく。それは障がい者に対する24時間介護補償が実現する=障がい者が地域で自分で生活していくことでもあったが、同時に福祉介護部門における非正規労働者の増大を伴うものであった。非正規労働者の増大というと負の側面が強調されるが、障がい者介護の現場ではそれまで9時~5時、週18時間という正規ヘルパー派遣以外の部分は、ボランティアによって担われていた。重労働でもある障がい者介護(介助)を無償で、しかも深夜であっても対応するボランティアを確保することは非常に難しい。したがって時給が払われ、かつ24時間誰かが対応してくれる形での非正規労働者の存在は、障がい者が地域で自立生活を営む上で必要でもあった。一方で非正規労働者の増大は、多くの人の生活基盤を切り崩すことになった。また90年代に始まった「自由化」「市場化」の動きが、社会のセーフティーネットを弱めた。その動きは同時に障がい者の介助者の給与が減少していく動きと連動していた。これはちょうどフリーターという言葉が「自由でカッコいい」働き方から「底辺労働」へと意味を変容させ、ニートが社会問題になった時期と重なる。そして介助者の報酬が切り下げられてしまうことは、障がい者の地域生活基盤を切り崩すことにつながる。
ここで長々と日本の障がい者と労働者の問題を取り上げたのは、問題が障がい者の自立と労働者に限定されないと考えるからだ。障がい者の部分を高齢者に変換すれば、現代の高齢者社会における介護問題に、移民に置き換えれば近い将来の移民と労働者の問題に通用するだろう。それゆえ、以下の引用は心に刻むべき指摘であり、モンドラゴンのインタビューと共鳴している。
「相手との対等な関係ということは、弱者と関わるとき、誰しもがみな思うことですが、こういう思いそのものが、白々しく、関わる人のうぬぼれなのです。たとえば脳性マヒ者は、障害による緊張で顔の筋肉が強ばって、どう見ても普通の人とは見られないし、また、トイレも好きな時に行けません。対等というより、そこでは、両者の立場の違いを、はっきりと双方が自覚した上で、そこは、両者の思いやりのなかで、深く理解しあっていくしかないのです。…対等な関係というのは、双方の関係の中で詰めあっていく努力をして、それぞれの立場の違いを自覚した上で、双方がお互いの生活を見あっていくという関係が無いかぎり、お互いに認め合った関係とは言えないのです」。
さて、その上でもう一度モンドラゴンの試みを考えてみよう。先に引用したようにモンドラゴンは移民に自分たち自身で起業家・コーポラティブを結成することを促すための手段、機会あるいは教育を与える立場だと表明している。さらにスペインでの事例として介護職の移民女性たちがアソシエーションを創り始め、この分野で無視できない存在になりつつあるという。日本の経験から敷衍してみるに、彼女たちは低賃金・低待遇に置かれていたのだろう。その待遇改善とともに自分たちの人生を自分たちで組み立て、尊厳を守るために、彼女たちは集団として組織を創設したのだろう。しかし、単純にコーポラティブを結成することが最終解決になると述べられているわけではない。むしろこうした動きが気づき(awareness)をもたらし、理論から実践へと実験を促すことにつながるとされる。さらに受益者は移民にとどまるものではなく、草の根からの経済を築くものすべてが受益者になりうるし、そうなるものとしてプログラムが存在すると述べられている。とすれば、これは上記の引用にある「双方の関係の中で詰めあっていく努力」を担保する試みであるといえよう。
とはいえ、モンドラゴンの試みをなぞるだけでは何も生まれないと思う。私たちが目指すべきなのはモンドラゴンを超える(というと言い過ぎかもしれない)こと、コーポラティブが1つのコーポラティブとして閉じてしまわないことではないか。唐突な言葉のように聞こえると思う。けれどこれは日本の障がい者運動が労働者や労働組合と対抗関係に陥ってしまったことを踏まえての考えなのだ。当事者は当事者だけで存在できない。障がい者であっても、高齢者であっても、移民であっても、その周囲には支える労働を担う人がいる。さらに当事者が住む地域社会の住民がいる。こうした周囲の人々もまたそれぞれの当事者としての利害を持っている。ちょうどさまざまな中心を持った円が重なり合うように、それぞれの利害は特有の焦点を持つとともに重なり合う部分がある。その重なり合った部分で、それぞれが当事者としての利益に拘泥すると、対抗関係に陥る。利益に拘泥しやすいのは、それぞれが組織の立場を重んじる時ではないかと私自身は考えている。「個人的にはわかるのですが…」というやつだ。コーポラティブも組織体である以上、組織の立場は生じてしまう。だからコーポラティブを閉じてしまわないことが必要になる。
「閉じてしまわない」とは具体的にはどのようなことを指すのか。これに対する答えは抽象的なものになってしまう。組織の構成メンバーが組織への帰属意識と同時に個人としての判断を手放さないこと。逆に組織体は組織に属するメンバーが、個人として判断し異論や意見を発議したとき、その発議を拒否しないこと。さらにメンバーが個人の判断を優先させ、組織を離れることを敢えて促進すること、つまりいつでも独立していけるように個人の能力を育成し続けること。そんな組織は組織体として成立しない、維持し続けられないといわれるかもしれない。しかし、私自身はこれぐらい「閉じない」組織でないと、将来的に組織として存立し得ないのではないかという予感を持っている。
[1] 日本の先駆的な運動としては「青い芝の会」が挙げられる。青い芝の会の歴史や主な文献をまとめているのが、
http://www.arsvi.com/o/a01.htmである。