民主主義を問い直す

CWBアドバイザー 松井名津

近頃民主主義は評判が悪い。民意を反映しない政治だとか、金権汚職やポピュリズムだとかいわれている。あるいは西洋生まれの「民主主義」は西欧以外では通用しない(根付かない)という言説もよく聞く。しかし果たして今現在ある民主主義、西欧流の民主主義だけが「民主主義」なのか、そもそも西欧流民主主義は本来の「民主主義」なのか?この根底的な問いを立て、民主主義の可能性の別の可能性を開いて見せているのがデヴィッド・グレーバーの『民主主義の非西洋的起源について』という本だ。この本を読みながら、これまでコーポラティズムに関して立てられていた民主主義的な経営の課題が、別の光の中で浮かび上がってきたような気がしている。今日はそのことについて書いてみたい。

まずはグレーバーが実践的民主主義の要諦として挙げているものを紹介しておきたい。

「垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上位下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に伝統的な参加方式のもとでなら周縁化されるか排除されるような人びとの声を聞き入れることを保証するために、何らかの仕組みを…([その仕組みは]無限に存在しうる…)確保する必要性(p.9)」

「文化と文化の間に開いた錯綜した空間の中から(p.66)」から生み出されるものであって、何らかの強制力を伴わないもの。

異なったコミュニティ間では、相互の行き違いは武力による解決の可能性を多大に孕んでいる。しかし実際に武力を行使することは互いに望ましくない結果をもたらす。したがって互いが対等でありつつ、互いが納得できる水準で、お互いの関係性を保つために「民主主義」が生み出される。こうした「民主主義」には多様な形態があり、西洋流の議会制や代表制民主主義や選挙にのみ限定されるものではない。グレーバーは、ホデノショイ・イロクォイ連邦(アメリカ先住民による5カ国連邦で、現在のカナダからアメリカ東北部に渡る大きな地域を占めていた)の形体が合衆国連邦に大きな影響を与えたという例を挙げている。ホデノショイ(イロクォイ)の「民主制」は以下のような特徴を持っているので、グレーバーが挙げている民主主義の要諦にもある程度合致するだろう(以下の記述は木村武史『ホデノショイ(イロクォイ)社会の「宗教」』(2004)および馬場優子『堀り棒とトマホークーイロクォイ母系制における女性の地位と役割』(1992)によっている)。まずホデノショイの「首長」は人々(女性)によって選ばれ、「首長」に腐敗等があった場合は人々によって罷免される。また「首長」の権威は他の役割(戦士)や部族民に優越するものではない。ホデノショイ連邦の「首長」たちは各部族の問題を話し合いによって全員一致で解決に努める。ただし「首長」による会議だけが審議体ではなく族母によるもの、軍事を司る首長、および長老たちの審議体があり、それぞれ別途に審議を行い、最終的に公開討論を経て、長老たちが結果を発表する。

さて民主主義は何も西洋の専売特許ではなく、今ある議会制民主主義とは別の形態の民主主義があるというグレーバーの議論にある程度納得がいったところで、これがどう民主主義的な経営の課題と結びつくのか。日頃ミャンマーとカンボジアを結んだ会議に出席していて、つくづく思うのが「発議」の難しさだ。発議といっても何か小難しい議論を提起しなくてはならないという意味ではない。ミャンマー・カンボジアでいえば、「ネズミがたくさんいて困る」とか「クッキーを何種類作ったか」という感じだ。書いてみると「なんだそんなこと」レベルのものだ。しかしこれを問題(課題)と感じることが全ての始まりになる。誰かが発議しても、面倒という空気が大半であれば、その場では議論が始まらない。発議が発議になるためには、そもそもそれがなぜ問題なのかが共有されている必要がある。これが意外にというか、当然のことというか、とても難しい。発議ができないとか、議論にならないというと、だから〜は自分の意見をもっていない、個人が確立していないといわれる。個人が自立しているというのは、個人が自分の意見を持っている(あるいは個性を持っている)という意味に使われる。ある集団や組織と個人とは別個の存在で、それぞれの個人は自分たちが共同で関わっている集団や組織にどう関わっているのかが、意見として表明される。意見が表明されれば、それに対して別の個人が意見を表明する。これが西洋流の民主主義の前提になっている。

この前提は果たして実践上前提にしてよいのだろうか。同じコミュニティの人と普段と変わらず生活をしていると、人は問題を発見するよりも、問題を見逃す風に動いてしまわないだろうか。見て見ぬ振りをするというより、見えていても見えていないまま―というか問題があることに気がつかないまま過ごしているのが普通ではないだろうか。道端のゴミとか、街路樹の手入れとか、自分たちの手でやればなんとかなるものも、「誰か」に委ねておくものとしてしまう。日本ではその方が楽だから。ではミャンマーでは?その「誰か」が銃を構えて互いに争っている。だから問題が目に見える。けれど誰も手を出さない。手を出すことが命懸けになるから。そんな土地から徴兵を忌避して、カンボジアにやってきたのだから、仲間意識は強固だ。メンバーは同じ文化に属してきたから、互いを評価することに慣れていない。より正確にいえば、互いに思っていることやメンバー内でなんとなく共有されている評価はあるのだが、それを言挙げすることに抵抗がある。討論discussionという言葉が「話し合う」ではなく「話し合いで相手を負かす」というイメージを持っているのかもしれない(これは日本でも一緒のような気がする)。高い低いに関わらず、評価をすることが、仲間の和を壊しかねないという危惧がある。こうした感覚は普遍的なものかもしれない。実際、アダム・スミスは道徳の基準をproprietry(深慮と訳されるが、世間で許容される範囲を指す)に置いた。とすれば、西洋流の民主主義は「議論しても組織やコミュニティは壊れない」という強固な信頼や、組織やコミュニティとは関係なく個人が存在し得るという幻想をベースにしていることになる。

西洋流にいけば「民主主義的経営」とは、常に互いに意見を表明し、討議し、結論を導き出す集団を基盤にしたものということになる。しかし正直にいえばこれが実践できているところはあるのだろうか?グレーバーは文化が同じところではコンセンサスが優先されるという。ホデノショイでも結論は全員一致だ。そのためには表面に出ない合意形成がなされることもあるだろう。雰囲気や「風」が全員一致を生むこともある。その一方でこうした合意形成は澱んだ空気を、強制された一致を生む。だからこそ敢えて仲間意識を自覚する必要がある。評価や議論が和を乱すものではなく、より良いチームを産むために不可欠のものだということを、行動を通じて実感する必要がある。幸いビジネスでは、評価や議論が市場で生き抜くために必要不可欠だ。「ビジネスとして」はよい口実というわけではないが、グレーバーの「文化と文化の間」の空間の持つ緊張感を生み出しやすい。つけて加えて私たちの会議メンバーは「異文化」メンバーだ。国だけでない、民族も文化も年代も違う。今はまだ発議に慣れていない。でも少しずつ慣れていくだろうと思う。

バイクで2時間かかるところに仕事で出かけた時の飲食費用をどうするか。そんな問題も「どんなルールを作れば全員が納得でき、気持ちよく仕事ができるか」につながる。毎日の会議で私が聞いているのは、今民主主義が芽吹き、育ちつつある現場なのだと考えている。私たちはコミュニティが壊れてしまった、あるいは壊れつつある時代に生きている。その中で民主主義的な経営は、常に組織やコミュニティを作り上げる、育てている営みでありうると考えている