カンボジアでの10日間

CWBカンボジア 奥谷京子

昨年9月以来のカンボジア。今回の主な目的は4月に来日する7名のカンボジア人たちのビザを取るために日本大使館にアテンドすることだった。

これまで何年にもわたって何度も短期商用ビザの申請に挑戦しているが、大使館ですんなり受理されたことが一度もない。申請時に日本人が付き添いをしていないからカンボジア人のそれ相応の身分の人に推薦状をもらってこい、来日予定日には超えるけれども申請時に18歳に達していないために親の同意書にサインしたものと親のIDカードをコピーせよなど、何かしら不備を指摘してくる。そのたびに再び片道3時間の道を戻って、時には生徒たちは実家に戻って書類を整えて再びプノンペンに持っていく。

ただ、今回は7名いて、5人が学生で2名が学校の教師やダンスの指導者といった社会人がおり、このメンバーの予定をすべて合わせてこられるのも1回限りにしたい、と念入りな準備と確認をした。それでも当日にファミリーレコード(住民票のようなもの)は原本を見せないといけないので早朝3時に出発して姉のプノンペンの家に寄ってから来ると約束したはずなのに持ってきていないという事態が起き、朝6時半に着いてから8時に大使館が開くまでに取りに行ったり…。大使館前に残った3人のメンバーと待っている間に書類の確認、写真の添付、直筆のサイン、さらには大使館スタッフから質問されることに対してちゃんと答えられるかなどの練習をしておいて、入館後も順番待ちの間にほかのメンバーに同じことを伝えて…と7人の足並みをそろえるのは結構大変だった。大使館に入ってから約2時間、質問攻めもうまく応対し、全員の申請書を無事に受理され、無事にパスポートを引き取ることができた。

そして今回来日して披露するYike(現地では「ジーケー」と発音する)というドラマに関して、である。2019年に女子生徒5名が来日した時は、この5名でできる演目をピックアップし、ダンスの音楽を準備し、途中で一緒に手の動きを真似たりとダンサーと観客が一緒になって作り上げるイベントとなった。しかし、今回はドラマ仕立てでしかも「武器のない平和」がテーマ。私たちがカシューナッツの栽培を行っているコンポントム州は内戦が続いた20世紀終わりに民主的な選挙がカンボジアで行われた時に国際ボランティアで現地に入った中田厚仁さんが殉職した地域でもある。そこから「アツ村」という名前が付けられ、小中学校もある。そんな私たちの活動拠点との因縁もあり、中田さんと同じく平和は作るものであり、この地域に仕事が生まれて家族仲良く暮らせることであると私たちもコミュニティビジネスをこの地で実践している。今回はプロの役者さんにも演者・指導者として入ってもらい、地元で長らく文化活動を推進してきた人にシナリオを描き下ろしてもらい、構想から1年以上かけて作り上げてきたのだ。本来は上演する場所に生演奏の楽団も一緒に参加し、その太鼓の音の迫力などもまたすごいのだが、残念ながら今回は録音で行く。その音源を撮り、練習も私が滞在している期間中に行った。

ちょうど今、ミャンマーのメンバーはかなり緊迫した状況で、この4月以降18歳以上の若い独身の男女は政府軍に否応なく徴兵されそうだ。ウクライナも戦争が始まって地雷をたくさん埋まっているエリアではそれを除去するのに日本の機械が役立っていて、男女関係なく市民が機械の扱い方を教わっているというニュースをテレビで見たことがあるが、今この瞬間でも世界でこのようなことがある。今回のドラマはカンボジア人が演じてクメール語で30分近い演目なので、確かに日本人観客にはハードルが高いと思う。何を言っているのかを理解しようではなく、その情熱を感じ取ってもらって、カンボジア・日本に関わらず、平和とは何かを考える機会になればと思っている。演じる10代の彼女らももうポルポト政権のことを知らない世代であり、今のような平和を享受できることを教育し後世へ受け継いでいかねばならない世代でもある。戦地や危険な場所に若者がなぜ赴かねばならないのか、どれほど親が悲痛な思いであるのか、そんな状況にさせないために私たちは何ができるか、ウクライナやパレスチナ、そしてミャンマーはよその国の戦火だと自分事として考えなくてよいのか。

この公演を全国で開催するにあたって、前号のシビルミニマムを読んで沖縄でやりたいと申し出て下さった大学の理事長もいらした。その近所の高校の教頭先生も賛同して下さった。ただ、来日を長期休みが取れるクメール新年(4月12~16日)に合わせたために、日本では新学期が始まったばかりで実現することができなかったが、沖縄では慰霊の日に合わせて6月は平和を考えるような学校行事が全学年であると聞いた。広島は8月には原爆のことを忘れないためにも夏休み期間でも登校して語り部の話を聞くなど、今も平和教育に力を入れていると聞く。しかし、今、全国でもっと身近に考えなければならないテーマとなっている。何年か前に山口県の大津島に行かせてもらった時に回天記念館を案内されたことがあった。飛行機ごとぶつかっていく神風特攻隊のことは知っていたが、一度中に入ったら出られない、ブレーキもない、海の中で敵の潜水艦に突っ込んでいく回天があったことを初めて私はそこで知った。海流の速さを計算して自分で運転をしなければいけないので、より高度な技術と知性を求められ、ほぼ命中することなく優秀な若者が命を落としていった。誰もがこんなことを望んでいない。でも世界の動きや利権、政治家の思惑、リーダーたちのにらみ合い、複雑な要因が絡みあった時によからぬ方向へ進んでしまうこともある。今一度私たちは戦争や武器のない平和を深く理解しなければ、私の祖父母の世代の悲劇がいつまた繰り返されるかわからない。

プンアジのみんなで最後の夜はBBQをおなか一杯食べて、楽しんだ。大掃除をして、埃まみれになって笑いながら汗を流し、みんなで頑張った後のご飯はおいしかった。アツ村で育った子どもたちもプンアジにはいる。中田厚仁さんが今生きていれば50代半ばだが、彼が今いたらこの風景をにっこり見守ってくれていたであろう。