CWBアドバイザー 松井名津
ブルーノさんが翻訳してくれたのは、より長い論文の第1部から第3部までだが、社会的企業を考える際にとても参考になる問題提起がされているので、一旦ここまでの翻訳をまとめて、コメントしてみたい。
【要約】
この論文はモンドラゴンの協同組合主義をマネタリズム資本主義に対して、連帯の原理に基づく「もうひとつの経済」を形成するものとして位置付けている。が、モンドラゴン自体が様々な経済的政治的変化の中で変貌を続けているため、その中核となる要素や動因を明確にするために、カタロニアにあるラ・ファジェダとの比較検討を行っている。そこでクローズアップされるのが、モンドラゴンが3つの要因によって動かされてきたことである。第一にバスクの人々に対して真っ当な生活ができるような職を作り出すこと、第二が労働者が主人公となること、この目的を達成するためにモンドラゴンが重視したのが教育である。第三が人々が自分自身が主権をもって行動するとともに、互いに協働できる人々となることである。この3つの要因は常にモンドラゴンを動かし続けたものである。しかしモンドラゴン自体が拡大し多国籍に展開するにつれて、組合員の中に参画に対する温度差が出てきたのも確かである。
ラ・ファジェダの創設者は元々精神障がいおよび精神疾患の治癒方法として「労働セラピー」を勧めていた。ラ・ファジェダはこの労働セラピーの実践の場であるとともに、精神障がいをもった人たちに労働を通じて自尊心を涵養するための場でもあった。そのためラ・ファジェダには専門のケアチームが組み込まれている。このようにラフファジェダはモンドラゴンと異なり、社会的プロジェクトとしての側面が強いが、補助金を受け取ることなく、今やスペインでも有数のヨーグルト製造企業として経営を続けている。特筆すべきなのは、ラ・ファジェダが精神障がい・疾患の人たちを雇用している企業であり、その製品が精神障がい・疾患の人たちによって作られていることを一切宣伝していないことである。ラ・ファジェダは精神障がい・疾患のある人が「通常の人」と同じく、仕事をし賃金を得ることが重要であると考えているため、自分たちの商品が「障がい」の故に売れていると見なされることを拒否し、商品の質によって消費者に選ばれる道を選択した。そのことが障がい・疾患の人たちの自尊心にもつながる。
モンドラゴンでは組合員は経営への積極的な参画を期待されるし、資本の共同所有者でもある。モンドラゴンでの教育はいかにして組合員=労働者を共同所有者として、自ら経営判断ができる人に育てるかである。したがって組合員=労働者は自分の仕事の内容や全体の中でのその役割を常に意識することを求められる。ラ・ファジェダでは仕事は各労働者の個性(障がいも含む)によって割り当てられる。
ラ・ファジェダでも教育は重んじられているが、それはあくまでも労働者が労働を通じて自己成長を遂げるためのものである。労働者は経営に関与していない。ラ・ファジェダで重んじられているのは仕事が「意味ある仕事」となっているかどうかである。
この両者の違いは、経営危機にあたって組合員=労働者がどのような行動を取るのか(求められるのか)によく現れている。モンドラゴンでは組合員は経営者の立場から自分たちの休日は賃金を自らカットして、経営を軌道に乗せようとする。ラ・ファジェダでも経営課題の解決のために労働者に宣伝等の活動を無償で求めた事があったが、一時期にとどまっているし、労働者自身も無償労働を拒否している。ラ・ファジェダの労働者にとって賃金は自分たちの生活と同時に自立や自尊心を支えるものでもある。
ラ・ファジェダの経験がモンドラゴンに突きつけている問いは、個人の自己成長や個性の発展と経営事業体としての連帯との間のバランスである。これはビジネスと社会性のバランスとともに、社会的企業にとっては大きな課題の一つである。
【コメント】
格差が拡大し深刻化する日本で、ワーカーズコレクティブやアソシエーションに対する関心が再び(あるいは三度?)高まってきている。シビルの読者にとってはいまさらの感があるかもしれない。元来、資本主義的な雇用関係でも無償労働でもない「もう一つの働き方・生き方」を目指した運動として、1980年代に始まったワーカーズ・コレクティブの実践と展開に関しては、私よりもむしろ読者の皆さんの方がより詳しいだろうと推察している。それでもなお、今この時期にモンドラゴンやラ・ファジェダといった社会的協働組織の記事を掲載し、その意味を考える必要があるのではないかと私は考えている。
その理由の一つはモンドラゴンが追求してきた経済性と民主主義的な経営事業体(連帯)との両立が今なお課題だという事があるし、この論文で指摘されている「意味のある仕事」がグローバル化の中でどんどん失われているという問題がある(意味のある仕事の対局にあるのが「クソ仕事(ブルシット・ジョブ)」である。詳細はデイヴィド・グレーバー著『ブルシット・ジョブークソどうでもいい仕事の理論』を読んでほしい)。もう一つの理由は果たして日本で社会的協働組織をめぐる理論的・実践的な課題がどこまで真剣に捉えられているのだろうかという疑問がある。生来の天邪鬼体質のためか、研究分野が「思想史」だったせいかはわからないが、日本における「思想」(カッコ付き)の流行り廃りの速さを痛感する事が多々ある。ラカンにしろ、フーコーにしろ、新聞の書評欄や週刊誌の中吊り広告に名前が掲載されたかと思うと、消費されて消えていく。その中で実践上の課題、実際の社会問題は解決されないまま、滞留して残り続けていく。そんな気がしてならない。というのも、会社に縛られた正社員と不安定で低賃金の非正規雇用という構図の「外」として、ワーカーズ・コレクティブがあるとして、その厳しさと同時に日本的なワーカーズ・コレクティブの特質がきちんと位置付けられていないと考えるからだ。
もちろん私は専門的な研究者ではないし、実践家でもない。しかし「使命感」「働きがい」がワーカーズ・コレクティブの特性として指摘され、時に評価される(ただしそれは給与・報酬の低さの指摘と同時にである)のには違和感を否めない。ましてワーカーズ・コレクティブの事業分野が介護等の「エッセンシャルワークであり低報酬」の分野と重なることを考えると、日本社会が「やりがい」や「使命感」を食い物にして成立しているのではないかと疑いたくなる。この点に関しては今回の論文でラ・ファジェダの労働者が「真っ当な賃金」を要求して、タダ働きを拒否したことをあっぱれと言いたくなる(もちろんそれをきちんと認めたボードに対しても)。
しかしそのためには「厳しい」市場社会で生き残る、つまりビジネスとして収支の目処が立っている事が必要になる。しかしこの道は日本ではとても厳しい。それは市場社会がマネタリズムに覆われているせいだけだろうか。モンドラゴンがビジネスとして成立することを掲げ、ラ・ファジェダが政府からの補助金なしで活動を続けているのは、なぜだろうか。独立不羈という言葉がある。中央であれ地方であれ補助金を受け取ることには条件がつきまとう。それは活動の余地を狭めることでもある。ビジネスとしての収支を追求することと、社会性を追求することを同時に成立させることはスペインでも難しい。それでも形態は異なっても両者は40年近くの歴史を刻む。
とはいえ日本で、特にワーカーズ・コレクティブ等が事業を展開している分野で、補助金に頼らず経営を続けるのが難しい構造が根っこにある。それはサービスの対価が政府によって決められていることだ。安価で均一なサービスを全員に平等に届けるために設定されているとされている公的サービスだが、逆にそれが労働する側の低所得や低待遇を招いているという。その一方で、自由化されれば市場原理に委ねられ、価格が高騰しサービスを受給できない人が増えるという主張も根強い。さて、この2分法、どこかで聞き覚えがある。お馴染みの「市場対社会」だ。この2分法にとらわれると市場原理に委ねられないものは全て社会的に守らなければならないものであり、その社会(あるいは公益)の代表としての政府(行政)が現れてくる。市場対社会という構造の「外」にあるはずのワーカーズ・コレクティブの実践がどこかでその構造の「中」で便利に安価に使える(使われる)ものとして位置付けられてしまってはいないだろうか。これはワーカーズ・コレクティブに関わらず、公と民の間にあるもの(第3セクターとか、中間団体など言葉は異なる)に共通する問題点だ。特に日本のように「道徳」だとか「よいこと」を強調する割に、その行動なり理念なりを持続可能にする経済的裏付けを無視しがちな社会風潮の中で、こうした分野や諸団体が「補助金」をもらいつつギリギリのところで喘ぐ合切袋になっているとしたら、そのこと自体を問題にしなくてはならないだろう。
さらに付言するならば、ワーカーズ・コレクティブにおける報酬は金銭的報酬に限定されなくても良いのではないかとも考えている。農家とのネットワークがあるところであれば、野菜や米、果物などの現物と、自分たちのサービスとを組み合わせる方法もあるだろう。清掃サービスを展開しているところであれば、ワーカーズ・コレクティブのメンバー自身が給与の代わりにサービスを受け取るということも可能だ。ワーカーズ・コレクティブ同士の間で、互いにサービスや物品の交換を行い、労働の対価とすることも視野に入ってくる。かつてはこうした交換の記帳や調整は人手を使う煩わしいことであったが、幸い今はパソコンなり携帯のソフトが発展している。金銭ではない安心のネットワークを提供することが、働く意義につながると考えている。
一方で、日本のワーカーズ・コレクティブには未来につながる特徴もある。モンドラゴンとは異なり、単体の事業体として拡大するのではなく、同種の事業体を周囲に生み出しつつ連携するネットワークを作り出すという日本的なあり方が、拡大ではなく持続可能性を第一義に考えた経済社会にとってヒントを持っていると考えている。モンドラゴン自体もその内部は多様な業態を持つ各事業体が、相互に監査や投資を通じたネットワークの中にいるといえる。ラ・ファジェダがカタロニア地域全体に影響を与えたのも、なんらかのネットワークを築けたからだろうと推測する。ネットワークを拡大する際に大事なのは、思想(ミッション)が共通であること、手段に対する了解だと考えている。日本のワーカーズ・コレクティブの中には共通の母体から発生したものも多い。そのことがミッションや手段に対する了解を支えていると考えられる。また中には設立時に外部の人材から積極的にアドバイスを得る事ができる組織づくりを進めたところもある。ミッションを同じくするという意味ではクローズドでありつつ、外部にも開かれたオープンさを保つ。これもまた協働組織にとっては重要なバランスではないかと考えている。
こうした事柄が現実社会でどのように展開しているのか、ブルーノさんによるモンドラゴンやラテン・アメリカの諸団体の論考は、私たちにたくさんの問いを与えてくれている。このコメントの執筆にあたり、様々な文献を参考にしたが、紙面上載せられない。