あえて地獄へ赴かんーDare to down

先日奥谷さんからクリスチャンモニター紙に記事が載りますというアナウンスメントを受け取って、早速ネットで覗いてみた。記事中で記者の神林さんが奥谷さんや女性起業家たちの仕事をdare to earthと表現していた。なるほど「敢えて地に足をつけて(現実に根ざして)」とベテラン記者の表現力に驚くとともに、なんと不思議な縁だろうとも思った。時折この連載中で持ち出すミルが似たような表現を使っているからだ。彼の場合は地に足をつけるのではなく、敢えて地上から墜落するつまり地獄へ行くのだが。

 ミルが生きていた頃は19世紀半ばから末、産業革命も爛熟し機械文明が始まる頃、科学万能の世界が始まったと思われがちの頃だが、同時に神秘主義の時代でもある。有名なところではシャーロックホームズの生みの親であるコナン・ドイルが交霊術や妖精を熱狂的に信じていた。科学と魔術、科学と神秘の境も曖昧だった。現代で万能薬といえばちょっと怪しげだが、当時は著名な医師(その中には近代医学の基礎を築いた人たちもいる)が堂々と万能薬を販売していた。体制を変革し新時代をもたらす主張を掲げた社会主義の中には宗教団体やフリーメイソン的な同業集団になるものもあった。近代科学が進展する一方で、それだからこそいっそうなのかもしれないが、科学を標榜するもの、科学を否定するもの、科学を超越するというもの種々諸々の神秘主義や新興宗教が幅を利かせる時代でもあった。

 この時代に宗教を論じ「敢えて地獄に赴かん」というのであるから、ミルが宗教全てを否定していたかというとそうではない(同時代人ともいえるマルクスは「宗教はアヘンだ」といったそうだが)。彼は宗教の必要性を認め、神の存在も可能性として認める(まぁ正確にいえば不存在を証明できないという消極的なものだけれど)。彼が否定したのは現世の悪や不幸を神の試練とし、耐え忍ぶのが神から与えられた修練であるとする信仰である。彼は神が人間を試し、人間がその人間性を高めるために悪や不幸、不正や罪を作ったのだとしたら、そんな神は神ではないという。そしてその神が神を認めないからという理由で、ミル自身を地獄に落とすというのであれば「私は喜んで、敢えて地獄に赴くであろう」という訳である。

 さて現在と過去は科学主義で神秘主義という点で結構似ている。たださすがに1世紀以上経過すると科学主義と神秘主義の混淆はいっそう進んでいるといってよい。科学主義だから「検査」や「数字」を用いるけれど、実際には数字の神秘を信奉しているだけではなにだろうか。だから、同じ品質であれば高い方が売れるという不思議な心性を現代人はもっているし、どんな検査値であれその意味を考える前に数値の高い低いで一喜一憂しがちだ。混淆ではなく純粋であれば?科学主義を信奉するものは、現在の科学に反するものをすべて非科学的として排除する。逆に科学を疑うものは、科学的な反論を金銭的利益に基づいた歪曲として排除する。混淆にしろ、純粋にしろ、対立する両極端の間をつなぐ橋が見つからないままに互いに排除し合っていないだろうか。そして見過ごされ、見捨てられるのは「現実の」何かだ。それは不幸や不正かもしれない。極論の間でもしかしたらあり得たかもしれない、本来は合意可能な現実的な解決策かもしれない。なんだか様相は違うけれど、現実のこの地上の物事がそのまま放置される一方で、どの神が一番良い神なのかを争い合い、神と神が互いにその信者ごと競い合っているという状況は過去も今も変わらないような気がする。

 だからこそ、今回の原稿でdown to earthという表現が使われたのがすごく響くのだ。世の中には何万人という失業者がいる。根本的解決のためには科学的手法が大事だという声があるだろう(大概エコノミストが唱える)。それに対してエコノミストは企業側や政府側の利害を代表しているにすぎない。起業だの規制緩和だの結局は労働者の権利を侵害するだけだ。もっと人間的な労働政策が必要だという声がある。そしてどちらからもたった1人の起業みたいな小さな問題解決は、あまりに小さくあまりに身近であまりに成果の乏しい「地道な」方策でしかない。 何か松明や幟を掲げる訳ではない。 現実的で些細でちっとも大きな問題の解決にはならない。 ただ目の前の物事をなんとかしようともがくことをどこまででも大事にしているだけ。そういう意味で地道でdown to earthな方策。けれど私は思うのだ。何を掲げるでもなくただ地に足を着いたことを日々続けるのには覚悟と勇気がいる。それこそミルがいうように「敢えて地獄に赴く」勇気がいると。

 理念や理想では動かないからこそ、理念や理想を掲げる人たちから見れば、現実に妥協した「堕した」姿にしか見えないかもしれない。成果はあまりに小さく、身近な人にすらその成果を認めてもらえないかもしれない。それでも続けるためには、小さいけれどもしっかりとした覚悟と勇気がいる。でも人間は本当に弱いから、覚悟と勇気だけではやってはいけない。たとえこの場で認められなくても、世界中のどこかで、いや時代は違え誰かが、きっと自分のことを認めてくれるのだという信念と、その信念を裏付けてくれるような「何か」が必要になる。ミルはそれが宗教の役割だという。

 彼が唱える宗教にはどうも神はいないらしい。正義も善もあまり一意には決まらないようだ(まぁ19世紀の欧州人らしく欧州中心の正義や善が普遍的ではないかという色はあるけれど)。あるのはこれまでの人類がなんとはなくだけど認めてきた人間とその行いの集大成だけだ。もしかするとその集大成に含まれる人々は文化や時代によって、極論すれば個々人によって違いがあるのかもしれない。けれどそういう違いに目くじらを立てるよりも、他人がその集大成に誰を含めようが、自分自身が目指すものとしてある人々や行動を信念の背骨として持つような感じだ。自分がどのような人になりたいのか、何を裏切れないのか、どんな行動を積み重ねたいのか。その見本としての誰かなり、行動の集大成。その集大成から自分の今の行動が、今の生き方が「認められている」という裏付けとしての信仰。 どうも宗教っぽくない。むしろ道徳つまり行動の原理原則という言葉がふさわしいのかもしれない。とはいえ、現実にその人が生きている世の中では認められないかもしれない行動の原理原則を維持する強力な動機になるのだとすれば、やはり道徳という弱い言葉よりも信仰という強い言葉の方が似つかわしいのかもしれない。

 いずれにしろこの宗教には教義がない。いや正確にいえば教義は揺れ動く。新しい行動や人物が出現し、それに多くの人が感動を覚え、その行動や人物を自らの信念の裏付けとする人が現れ、やがて多くの人がそれを認めれば、集大成はその新しい行動や人物を含むものへと変化するだろう。誰の、どんな行動を集大成に含めるかで抗争や闘争が起こる可能性もある(分派もするだろう)。なにしろ道徳にしろ真理にしろ規制のものを疑うことを教育の最大の成果とする人なのだから、宗教に関してもその真理を疑うことを提唱したとしても何らおかしくはない。道徳だから何か一つの原理原則を教えなくてはいけないとか、伝統を遵守させることがモラル教育だなんて、ミルにいわせればおおよそ教育の根本をはき違えた議論だということになるだろう。けれどおそらくたった一つだけ揺るがせにはならない原則があるとすれば、それは「敢えて現実に即する」ことだと私は思う。現実に苦しみ悩む個別の人間に即しているかどうか。これが「敢えて地獄に赴く」といった人が提唱する宗教のたった一つの原則として似つかわしいと思うのだ。そう思うには理由がある。学校でいくら良いことを教えても社会がその逆の様相を示しているとしたら、学校での教育は何にもならない、いや毒にすらなると彼が主張しているからだ。学校でどんな良い理念を教えられても、その理念が現実に踏みにじられていれば、理念は軽蔑され見捨てられ、建前よりも本音、弱さよりも強さが求められてしまうだろう。だからたとえ宗教であっても現実の小さな問題と地道に立ち向かい一つずつでも改善することが原則になるのだと私は思う。

 現代には多くの神々がいる。先進国のほとんどで信教の自由は認められている。科学主義であれ、神秘主義であれ、その混淆であれ、何を信奉するかは自由だ。けれど信仰争いの谷間で地に足をつけた人々の苦しみと悩みが見過ごされることがないことだけを望んでやまない。