遺す

以前「継承」について書いたことがあるが、今回はその反対側の「遺す」ことについて書いてみたい。といっても、「何を」「どう」…と考えていくと手がかりがなさすぎるので、昨今流行りの相続税対策の宣伝から始めよう。どんな宣伝が思い浮かぶだろうか。そう…都会の、大金持ちではなく、といって年金だけで生活しているという風もない、身綺麗で流行に敏感そう、センスが良くて…という老夫婦が子供や孫にというパターンだろう。無理もない。今回の相続税改革で新たな対象になると想定されているのは「大都会でちょっとした土地や住宅を持っている中流の上」ぐらいの層だからだ。そして年齢的には団塊の世代かその少し上ということになるだろう。こうした宣伝対象の絞り方が的を射ているのかどうかは別として、世間一般に遺贈というとこういう人達や雰囲気が思い浮かぶと言っていいのであろう(でないと宣伝の意味がない)。

 そして決して農家の老夫婦が子供のために土地を残す…という宣伝はない(農家の軒先に座るのは大概農協の共済だ)。けれど実際には農家の方が土地をどのように遺すかには腐心している。なぜなら先祖代々の土地を出来ればキチンと受け継いでほしいからだ。こう書くと情緒的に思えるかもしれないが、非常に合理的でもある。農家が農地として使ってきた土地は長期投資先であるともいえる。なぜなら一朝一夕では肥沃な農地は出来上がらないからだ。自分たちが長年苦心して投資し、育てきたものを無駄にされてしまっては元も子もない。だから出来れば農地として有効活用する信頼のできる人に託したい。ただ今の所この「信頼」が血縁関係にとどまっているものだから、農地の相続には腐心がつきものということになる(事情は中小企業でも同じだ。後継者がバカでは会社が潰れてしまう。とはいえ、後継者以外に信頼できる人となると…という悩みが尽きない)。こうしたケースはひっそりと専門誌や伝手の間でささやかれ、解決が模索される。ここでは遺すものも、遺したいものも明確である。だからこそ継承にも意味がある。

 では、最初の宣伝のケースはどうだろう。遺したいものは一体なんだろう。「土地とかお金でしょ」という答えが返ってくるだろうが、その土地やお金は何のために遺されるのだろう。子供や孫のよりよい生活のため…というのがごく一般的な答えだろう。けれどそのよりよい生活というのは具体的にはどんな生活なのだろう。例えば今政府が推進する教育費の贈与推進策。孫の教育費としてであれば贈与税が軽減されるという政策だ。相続税対策にもなると喧伝されている。けれど今大学入学率は50%、大卒は「普通免許」になっているといっていい。だからこそ普通免許の大学ではなく、特殊免許つまりより「良い」大学へと、子供の頃から塾に通わせるといった教育費が増大し続けている。そして政府が狙っている教育費としての贈与税軽減策は、この高額化した教育費を祖父母世代に負担させ、その分、個人消費を増大させようという景気対策の一環でもある。

 そこまでして(と敢えて言うのだけれど)子供に教育をつけさせて、その子供の将来を保障しようとしているわけだが、こうした保障を受けることのできる子供は全体から見れば少数派である。特殊免許の大学は都会、東京に集中しがちである。そうした大学を受験し合格しようとすると、相当な教育費を支払える資力が必要になる。東京以外に在住しているとなるとなおさらだ。韓国の親子でアメリカ留学に倣って、親子で東京留学も笑い話ではなくなるかもしれない。要するに、特殊免許の大学へ合格するエリート大学生の道を進める人間はより少数になっていくことだろう。別段アベノミクスが格差社会を増大するからではなく、少ない子供に資力のある家庭の資力が集中し、その資力を背景に特殊免許の大学へ入学しやすくなる一方で、祖父母や親が普通の家庭の子供は、その家庭の資力を費やしたとしても地元大学以外へ通う資力がなく、地元の普通免許の大学へと道が自然と別れてしまうからだ。さらにその下方には大学進学すら叶わない子供たちが増大していく(現在でも退学理由の大半は進路変更=就職であり、中には授業料未納のため除籍処分=大学に進学しなかったことになる学生もいる)。

 自分の子供に、あるいは自分の孫に「より良い生活」を保障しようとすること、そのために子供や孫に教育費を注ぎ込むこと、それ自体は親や祖父母として普通の感情であり合理的な行動なのかもしれない。けれど今の日本社会全体でそれが進んでいくとと出来上がるのは格差の拡大である。それも実力による格差でないことはだんだんと明確になってきている。実力でなく「生まれ」によってどの大学、どの企業に入れるかがなんとなく分別される社会になってきていると感じ始めている若者が多くなってきている。そして一度決まった分別は後から逆転できないのだと思う若者が多くなってきている。ヨーロッパでもアメリカでも韓国でも…そしてたぶん日本でも。そう「『丸山真男を引っぱたきたい 31歳フリーター。 希望は戦争。」で提起された「安定していて平和な家庭」と「どうあがいてもすり減らされる機械としてのフリーターの自分」という対比は確実に進展している。「安定して平和な生活」が実現できても、その周りではヘイトスピーチに暴動、殺人や強盗が起きる可能性が高い社会に生活することは、本当により良い生活なのだろうか。

 先に農家は土地に長期投資をしていると書いた。都会で、いや敢えてはっきりと東京で、と言おう。東京で必死になって働き、一軒家を構え、子供を育て、気がつけば悠々自適の生活を送れるようになった世代にとって、長期投資にあたるものは子供や孫への教育費の贈与や、節税してより大きな財産を遺贈することなのだろうか。私は逆にそれは短期投資に過ぎないと思う。なぜなら結果が孫の世代までに限定されるからだ。では長期投資にあたるものはなんだろう。

 農家が土地を、中小企業がその事業を後継者に託し継承して欲しいと願うのは、土地や事業に自分自身だけでなく多くの人が関わっていることを承知しているからだ(今現在を生きている人だけでなく、過去の人々を意識する場合もあるだろう。逆にその場の人だけでなく技術や製品、その先の顧客を意識する場合もあるだろう)。高度成長とともに成長し、少子高齢化社会の中で高齢者として生きる東京の人にとって、多くの人が関わることは何か。それは決して子供や孫のことではない。むしろ自分自身のことではないだろうか。世界でも類を見ない速さで高齢化が進展している日本。地方での高齢化の問題ばかりがクローズアップされがちだが、より深刻な問題が発生する可能性が高いのはむしろ東京の方だろう。なぜか。東京は根っこのない社会だからだ。東京大空襲で市街地のほとんどが焼け野原となり、東京オリンピックとともにかつての風景を失い、地番や地名もどんどん消えていく。争前から東京住まいの人間より、地方から流入してきた人口が圧倒的に多く、夜間人口が極端に少ない街区の隣に夜間のみの繁華街が存在する都市。そこで、高齢者となり配偶者を失い、一人で生活を続ける。病気を煩わなくとも、弱っていく足腰は避けられない。決して歩行者に優しくない道、整備されていない歩道、極端な混雑と狭いホーム。東京は老人に優しい街…とはとても言えない(と私は思う)。逆にだからこそ、首都圏を中心に田舎住まいの勧めがはやるのだと思っている。

 しかし東京は最先端の高齢化都市にもなり得るのではないか。地方から流入した人口が多いからこそ、どのようにしたら新しい絆、社会共通資本を作り上げることができるのかという壮大な実験ができる。さらに高齢者が高齢者を介護する事態が増えれば増えるほど、どうすればより安くより便利な介護支援が可能となるのかというチャレンジの可能性が広がる。東京で今高齢者となりつつある団塊の世代やその上の世代の人々にとっての長期投資はここにあると私は思う。自分たちが不便なこと、嫌なこと、つまらないことを、かつてのようにシュプレヒコールと共に叫んで欲しい(あ、くれぐれも安田講堂への立てこもりは避けましょう。もう若くありませんし、それこそ年寄りに冷水になりますので)。それは今度こそ日本の社会を変える一歩になり得る。高齢者として当事者として、かつての言葉をあえて使うなら一市民として、自分たちが住み良い制度やインフラを整えること、それに自ら関わること。それは東京を世界で一番高齢化問題に取り組み、高齢者とそれ以外の世代が共に暮らせる巨大都市を実現させる壮大な実験場にすることでもある。それは自分たち自身の問題や課題の解決であるとともに、子供や孫よりさらに先の世代、誰もが迎える老齢と死を中心に据えた都市を実現するという長期投資である。車椅子であろうと、義手や義足であろうと、はたまたベッドのままでも、自由に外出し、最先端のファッションを楽しめる都市。カラフルな模様の酸素吸入器をつけた人々が、互いのウェアラブル端末の新機能を自慢し合う都市。車椅子が夜間スピードとテクニックを競い合い、ドッグレースを繰り広げ、それを必死になって規制しようと走り回る若い警察官というシュールな風景が展開する都市…となると大阪人の悪ノリになるが、ともかくも長期高齢化社会のための当事者としてのインフラ投資こそ、都会人の長期投資ではないかと私は思うのだが、どうだろう。