里山にて

  職業:大学教員。所属:経済学部。専門:経済思想史、主として19世紀イギリスのJ.S.ミルを対象とする。これが私の公式のプロフィール。大学教員だから、当然のごとく講義やゼミで学生を教える側にいる。そして、私のゼミは自称「経済学部農学科」である。なぜかって?2年前から松山市の郊外で米を作っているからだ。ちなみに作った米のほとんどは販売している。パッケージデザイン、価格の設定、販路の開拓はすべて学生が自分たちで行っている。教員はアドバイスはするが、介入はしない。「こうした活動を通じて、市場経済の仕組みを単なる机上の理論だけではなく実感として知るとともに、自ら動く力、課題を生み出し解決する力を養う」というのが、このゼミ活動の目的である…。
 というのは、全くの建前。

 本当の理由は単純明快。私自身が現地の里山里地に惚れ込んでしまったから。

 それゆえ、1年目の学生はある日突然「あ、里山でお米作ることになったから」と言い渡され「え~~っ」。その後「うん、そのかわりできたお米は自分たちで売っていいって。頑張ったら売り上げはあんたらのもんやから」とフォローにもならぬフォローが入り、再度「えぇえ~~!?」という具合。

 という訳で、1年目の去年は教員も学生も全くの手探り状態。教員学生とも米作りには全くの素人。里山に広がる棚田3畝(1畝は30坪)の先生は若きは70歳前から最長老は80云歳になんなんとする指導農家の方々。ひたすら教えを請う日々が始まる。
 まずは田植え。「3畝じゃけんの~。6人で一杯じゃ」。ちょうど間がいいというか悪いというか、お隣の田を借りていた市民の方がぎっくり腰。同じ棚田を耕すのも何かの縁とばかりに、隣の田も同時に田植え。しかしなぜ6人で一杯???謎が解けたのは、指導農家さんが田定規を持ち出した時。一本の竹の両端に長い棒と短い棒がくみ合わさったものがついている。竹には一定間隔でひもが小さく丸くついている。「ええか、この棒の端を畦の端に合わしてみぃ。ほれ、まっすぐせんかい」「ほうじゃ、ほしたら、ひものとこを目当てに苗をこう持って植えて…ほれ、そんなにたくさんうえたらあかんじゃろが…3本ほどでええんじゃ」「よっしゃ、一列終わったら、縦横の棒を植えたとこに当てて、ほれ、次の列が分かるじゃろ」。名前の通り「田」植えの「定規」。これで一件落着…とはいかないのが素人の哀しさ。棚田は曲がりくねってる。一列に植えながら下がっていくと、田定規が余ってしまう。さて…「先生。これ縦棒を直前の列じゃなくて、その前の列に当てて、横にずらしたら、次の列出来ますよ」と学生が発見。「あ、ほんま。あんた、頭ええやん」「単位は落としましたけどね…」。

 こんな調子で、新しい物事に出会いながら、夏の草刈り(太いナイロンひもを取り付けた草刈り機で草をたたくように刈っていく。ストレス解消にもなる私が一番得意とする作業)、田の中の草取り(稲と野生のヒエの見分けが難しい。田の中での作業なので、手足だけでなく顔を葉で切ってしまうことも)…。
 稲木干し用に里山から竹を切り出すこと。竹は細い部分は箒、雀よけの糸を張るため等々、余すところなく使えるので、里山には必ず竹があること。昔、換金作物として作っていた肉桂が今は野生化してしまっていること。愛媛で絶滅危惧種となっている蛙やトンボが復田とともに、里地に戻ってきていること。同時に猪や猿もやってくること(かつては里地に人が多かったのでよってこなかったのだという)。里山里地では教わることが多い。

 それは農作業にとどまらない。例えば農家の収入。単純に現金収入は昔から低いと思い込んでいた。ところが最長老曰く「わしが若かった頃は、里山で仕事して月に1万5千円、田んぼで仕事して月に1万5千円ぐらいは楽に稼いどったわ」。聞けば昭和20年代後半から30年代始めの頃。その頃4年制大学卒業の初任給は1万2千円程度。なんと、かつては大卒の倍の収入だった訳だ。(今農家の平均年収は200万円以下といわれている。昭和2,30年代の4大卒はエリートだったから、現在であれば年収600万は軽く超える層だろう)。

 指導農家さんたちは厳しく暖かい。学生を叱咤激励しつつ、うまくおだてほめて働かせる。そしてちょうど疲れた頃に「ほれ、スイカじゃ。裏の畑で作ったやつ。スーパーのよりまずいとはいわせん」と差し入れがくる。見事な人心掌握術。

 けれどもここには、見えないけれど、もっと大きな先生がいる。里山里地そのものだ。

 田植えをしている時、草刈りの時…。里山里地を訪れると自分の五官・五感がどんどん変わっていくのを感じる。足の裏、手の先のちょっとした変化をすぐに感じ取れ、そのかすかな感覚をたよりに自分の体の動きを調整するようになる。
 なにより裸足でたっていると、足の裏からすうすう「風」が入って、頭の上の方からすうすう抜けてゆく。手が入っていなかった竹林から竹を切り出した後、ふと肩に手をおかれた気がして振り返ると、風が吹き抜けてゆく。お疲れさん。そういわれたような気になる。雑草を刈っていると「刈られ往く 我が身にも名は あるものを」とつぶやきが漏れる。ふと手元を見ると、つい最前まで小さな可愛らしい花と思っていた草を、私の手が刈っている。多くの命を犠牲にして一粒の米が出来ていく。

 それだけにさやさやと揺れる穂並みは涙が出るほど美しい。多くの命を吸い上げているから。そしてそれを食べるのが私たち人間なのだ。

 里山里地は言の葉も鍛えてくれている。私は元々論理的に文章を組み立てる方ではない。どちらかというと感覚的というか、情感的に文章を書いてしまう方だ。だから専門論文であっても、何かを感じ、その感覚や思いのもとを突き止めるために文章を書く。その時、いつも突き止めたい何かを具体的なものやイメージに変換しながら、自問自答する癖がある。「う~ん。結局このところの論理と帰納は往還運動て進んでいく訳だから、尺取虫的なんだけど、もうちょっとこう…武張っているというっか」とか「ここでの社会のイメージって、おぼろ豆腐みたいにふわふわしてるけど、塊魂はしっかりしているって感じ」。

 こうした具体的なイメージがなぜ浮かんだのか、どこから浮かんだのか、そのイメージから何が言えるのか、そのイメージから何がどうつながっていくのか。その時々に思いついた文章を一気にかけるところまで、書いてしまう。そして大概3000字程度で原因も分からないまま止まってしまう。その時は、しばしば止まったままにしてしまうことが多い。そしてまた具体的なイメージに戻ってやり直す。こんな感じで先の見えないまま論文を書きだすものだから、ことごとく無駄な文章が乱立してはデスクトップのゴミ箱に突っ込まれ…ずに、別ファイルにしまい込まれる(もったいない精神ー苦笑)。

 里山里地はこうした癖のある私にたくさんの言葉やイメージをもたらしくれる。竹の音、風の色。言葉だけでしかなかったものが、私の手足を通じて入ってくる。山は本当に笑い、水音は千差万別。風は青くも赤くも変化する。草の香はむせ返るほど高いときもあれば、枯れかけて寂しく地をはうときもある。知らず知らずに私はそれを教えられている。里山にいるときに論文のことを考えている暇はない。論文を書いているときに里山のことを思い出すことはない。けれど同じ私の中で、両者はどこかで確かにつながっている。名も無い草が繁茂する風景、人間がいてこそ維持される自然と、荒れ果てた自然の寒々とした荒涼さ。

 人間ってどんなものなんだろう、他人が考えてることや感じていることなど所詮分かるはずも無いのに、なぜ人と人はつながれるのだろう。机上で考えていては堂々巡りする論議を里山の自然は目の前で断ち切ってくれる。豁然として。堂々として。根源にあるのは「生き続ける」ことなのだと。

 私だけではない。一緒に行っている若い学生たちもそれぞれに里山の教えを持ち帰っているようだ。単純に作業でほめられたことをしっかりと抱きしめる子もいる(あの子はずっと自分は何をやってもだめだといわれてきたといっていた)。販路開拓で交渉のこつを教えてもらった学生もいれば、試食販売で大声を出したおかげで面接が怖くなくなったという子もいる。就職活動の暇を縫って手伝いにくる学生もいる。里山に戻ると彼らの顔から角が取れる。それを「癒し」という今風の言葉にしてしまいたくはない。彼らは里山に教えてもらいに帰ってきているのだと思いたい。「生き続ける」ことの原点を。