社会的な何か

宇沢弘文さんが亡くなったということが新聞で報じられていた。といっても、若い人にとっては全く知らない名前なのは当然だろうと思う。もしかすると現代社会の教科書で自動車公害に関連して本文の欄外に名前が載っていたかもしれないし、白い髭が長い写真に見覚えがある人があるかもしれない。実はかくいう私も宇沢さんの数理経済学分野での成果はよくわからない。けれど『自動車の社会的費用』という岩波新書が話題になり、変わった学者先生がいると思った覚えがある。「変わった」というのは、現実に問題が発生してから批評はするけれど、現実に問題になる前に、問題点を指摘したり取り組んだりしないと思っていたのだ。

 『自動車の社会的問題』にそんな感じを持ったのは、自動車の排ガス(当時問題に成りつつあった)問題だけじゃなく、歩道橋を渡らなければならなくなった人の労力、道路が建設されることによって失われる緑を楽しむこと…そういう普通は「費用」という金銭的な言葉で考えないものを、社会的費用として問題化したからだと思う。宇沢さん自身も意識していたと思うのだが、現実の政策形成に経済学が関わる時は、政策を行った時の費用と便益を計算するという形になる。ただし、経済学の費用は元々金銭的なものだけではないのだが、やはり現実面では金銭に換算しやすいものを費用として計上することになってしまう。「緑を楽しめなくなる費用」は確かに経済学上の費用だけれど、それを定式化する方法がなかったわけだ。そこから宇沢さんは、社会全体で守っていかなくてはならないものを社会的財産とか社会的共通資本という言葉で表していくことになる(興味のある人は、実際に本を読んでみてほしい)。

 ところがその一方で、宇沢さんの問題提起受けて誕生したといってもいい公共経済学では、社会資本(社会的共通資本と呼ばれることもあるが)は主としてインフラストラクチャを意味することになった。例えば道路の整備状況が経済発展や生産性の向上にどのような影響を与えるかといった研究や、公共政策の効率性を考察する経済学になったのである。こうした社会資本は英語ではソーシャルインフラストラクチュアと呼ばれるのだが、日本では定着せず、通常経済学で社会資本といえば、インフラストラクチュアであって、宇沢さんが主張したような緑を楽しむ費用などは入ってこない。というか、入ってこないことが多い。多いというのは、公共経済学の実証研究では、研究者によって費用をどこまで考えるのかが異なっているからである。確かに保育所があることで、「昼間の騒音が増えて落ち着いた生活ができない」と感じる人(どうやらこのごろ増えているらしい。少子化社会らしいことだ。大勢の子供の声を聞いたことがなければ確かに騒音かもしれない)もいれば、「まぁ賑やかで嬉しい事」と感じる人もいるわけだから、実証研究にとってはできるだけ客観的に捉えられる費用を、費用にしておいた方が「中立的」分析になるだろう。

 さてその一方で社会学や政治学の方で「社会的共通資本」という言葉が1980年代後半から90年代にかけて、社会学や政治学の部門で提唱されるようになってきた。原語はsocial capitalなので、当初は「社会資本」と訳されていたりしたのだが、今では「社会的共通資本」とか「ソーシャルキャピタル」と書かれるのが普通である。こちらの社会的共通資本は、「物」ではなく人間関係を指している。例えば一人暮らしのワンルームマンションがあったとする。通常は隣近所の付き合いなどない。大地震が起こった時に「誰がまだそのマンションに残っているのか」という生命を左右する情報は、こういったワンルームマンションで提供されることはない。ところが同じ一人暮らしでも隣近所との関係が緊密であれば(それが都会のマンションであったとしても)、「誰それさんがいない、どうした?!」という声が上がり、それが救出につながることがあり得る。ちょっとした例にすぎないけれど、前者と後者では「物」ではない何かが異なっていることはわかると思う。この違っているものを「ソーシャルキャピタル」というわけだ(多分この連載でも詳しく書いたことがあると思うので、古いのを引きずり出してほしい)。

 そしてもう一つ、ここで紹介しておきたいのが『コモンズ』である。近頃とみにアニメの無断配信で話題になっている「著作権」だが、この著作権や発明や特許に関する権利が本当に個人のものなのか?という問題提起をしている本である。著者のレッシグは著作者や製作者の権利を否定するわけではない。けれどLinuxというOSが当初の開発者がネット上にそのソースを公開したために、ありとあらゆるプログラマーが集い改善したように、ソース(資源とか元々の原本)に手を加えることを許容することで、様々な創造性が生まれるとする。「いや~それってネット上の話でしょ」という人は、政府が推進している「クールジャパン」ってそもそも何なのかを考えてほしい。アニメの主人公の格好をするためには、その服装や髪型を創造した著作者(等)の許認可がいるーディズニーランド以外のところで公式のミッキーマウスを見た人は少ないはずだー。けれど日本アニメやその原作者はその権利を行使しなかった。それどころかファンジン(ファンによる雑誌)として始まった2次創作を公的に認めている作家もいる(もちろん厳しく拒否する人もいる)。レッシグが提起しているのは、一元的に「著者固有のもの」と取り締まるのではなく、それぞれの著者や発明者が望む範囲で共有化して良い新たな権利である。そしてそうした緩やかな権利で創造が行われる場をクリエイティブコモンズと呼んでいる。

 宇沢さんの社会的費用から始まって、こうして「社会的ななにか」を見てくると、どうも「私有財産制」という近代的な制度そのものが妨げになっているところがある。実は私自身結構切実に痛感させられるいる。いつも学生と米を作っている田圃のほぼ真下にポツンと一つ耕作放棄地がある。葛や雑草が茂り放題。猪の遊び場になっている。周囲からすればせめて草刈りだけでも…なのだが、どこかにいる所有者がガンとして許さない。そして日本の法律上、私有財産の土地に「無断で立ち入る」ことは刑法上の犯罪となる。一度も現地に来たことがない所有者の権利が、常日頃周囲の土地を耕している人々の作物を猪の被害に晒している。

 かつて私有財産は、公の権力(=公的暴力)を握っている支配者層から「自分のもの」を守るために設定された。この「自分のもの」には財産だけでなく生命も入っていた。だからこそ私有財産制は人々の自由を保証するものと考えられていた。これに対して「公(国家)」は私有財産を持たない(持てない)人々の保護や、私有財産制度では実現不可能な(あるいは実現しても不効率になるだけの)インフラを整備するために、仕方なく必要なものであった。けれど現在自由の根幹だったはずの私有財産制度が、人々の自由や生命を制限してしまう場面が出現している。ではかつて私有財産が諸悪の根源であると主張した共産主義を再検討すべきなのだろうか。私はそうは思わない。「私有対共有」という対立図式そのものが過去の遺産に過ぎないからだ。今、問い直さなくてはならないのは、私有財産制度の在り方そのものだろう。果たして現在の私有財産制度が今の社会にもっともフィットしたものなのか、他の私有財産制の可能性はないのか。宇沢さん流にいえば「私有財産の社会的費用」が問われているのだと考える。「車の社会的費用」が唱えられた時、車の排ガス問題は「誰がこの費用を負担すべきなのか」「果たして社会に車は必要なものなのか」「どのような車ならば許容できるのか」を人々を考えさせるきっかけだった。結果的に車はなくならなかった。だが厳しい排ガス規制をクリアする新型車が出現した。宇沢さんが「車の社会的費用」で提起した問題が全て解決したわけではない。けれどその時その社会にとって必要だった解決手段はなんとか生み出された。

 同じことが再び起こることをどこかで私は信じている。今回ブレイクスルーを産むのは技術ではないだろうし、社会工学でもないだろう。都市計画や建築家といった専門家が議論をリードする場面はあるかもしれない。けれど、今回の私有財産の社会的費用をめぐる問題は、それこそコモン(=普通)である私たちが解決する問題だと思っている。車は大量生産できる。でもソーシャルキャピタルは量産できないし、他の場所の真似で作ることもできない。だからこそ「今、ここの、普通の」私たちが作るしかないのだと思う。難しい?そんなことはない。かつて日本人は入会地を自分たちで管理していた。河川沿いに田畑が並ぶ村では決まった時期になると土地の取り替えが行われた。河川にもっとも近い田畑は水害に遭いやすい。そのリスクを均等化する工夫だった。その土地に合ったコモンルールが存在し、暗黙裡に守られ伝えられていた。今現在の社会では暗黙裡に…とはいかないかもしれない。けれど、コモンルールを設定しようと試みることはできる。そしてその試みそのものが、コモンを設定することなのだと私は思っている。