東日本大震災10年に寄せて

 今年3月11日、東日本大震災から10年を迎える。今、カンボジアに私は移住しているが、目黒で働いていてとても大きな揺れを感じ、その夜は大勢のスタッフと一緒に事務所に泊まった。その後週末に大阪の実家にすぐに帰り、あの時もメールとスカイプを駆使して大阪でリモートワークをしていた。そうか、コロナ禍の今と働き方はあまり変わっていない。
 あの地震でいろんな被害を見るにつけて心がふさいで、10年後は日本の技術でチェルノブイリの事故よりもはるかに進んで復興して、少しは明るい未来になっているかと想像していたが、今年コロナで世界の人々の心をますますふさいでいる。どちらも見えないものにますます恐怖を感じる日々になっている。

 10年前に被災地に入って、「ソーシャルニットワークプロジェクト」を始めた。福島の会津若松、岩手の宮古、大槌、岩泉、さらには青森まで広がった。そして1年目は全国から集まった応援でストールやひざ掛け、バッグなどを届けた。心待ちにしている人のために届ける、これは被災地の人たちのやりがいにつながった。慶應義塾大学環境情報学部の故・高橋潤二郎先生も「これは被災した人たちのアイデンティティを取り戻すとても有意義なプロジェクトだね」と褒めてくださった。
 このプロジェクトはおかげさまで話題になって、新聞やテレビなどでも紹介された。また現地に一緒に入って編み物を指導してくれたニットデザイナーの三園麻絵さんもあちこちに紹介してくれて、1年後の3月11日には山本寛斎さんが呼び掛けたパリで商品を紹介、化粧品会社の銀座のビルで展示会を行ったり、さらには青山のおしゃれなお店を紹介してくれたり、さらには品川の駅ビルでクリスマスツリーのオーナメントを作るなど、普通の企業が単に売り込んだだけではできないような大きな仕事もいろいろと舞い込んできた。それだけ被災地を応援するというのは耳目を集めたことだった。
 しかし、難しかったのは実際の編み手さんの生活の再建と、仕事とのバランスだった。コンスタントに被災地で仕事をお願いするためには、こちら側はあちこちに営業して仕事をとってこようとする。ニットは夏場はあまり需要がないので繁忙期と閑散期の波が出てくる。その一方、2年、3年と経ってくると、避難所やプレハブの生活から県営住宅にも引っ越しができて、だんだんと生活を取り戻している。生活の中でやらなければいけないことも増えてくる。だんだん年齢も上がってきて、リーダーだった女性は義母の介護が深刻化してきた。このまま続けられない、そして他の人もリーダーを引き受けるほどの責任を持てない、そういうところから中心だった宮古のチームは解散することになり、現在はできる人が時々三園さんからのサンプルづくりなど、単発の仕事を請けたりしている。
 この時に学んだのは、何もなかったところから仕事を作るといっても、そこに係る人たちとともに起業マインドをどうやって醸成するか、だ。得意なことから発展した編み物だったが、やはり仕事にしていこうとなれば自分のペースだけでは進めることができないし、またきちんとした商品を納品すること、商品タグをつけるなど製品として仕上げること、やはりビジネスになったら納品ルールがある。そこを面白いと思って一緒にステップアップしていかなければいけない。負担だと思ってしまったらビジネスには程遠い。お金をもらうからには顧客のニーズに合うようにきちんと仕事をする。自分の商品をプロモートしてくれる人とも利益を分かち合う。このことをよく理解しなければ、続けることが難しい。

 ここは私もとても勉強になった。現在、カンボジアに移住して、コンポントムという町で地元の中高生と一緒に暮らしている。卒業後に海外や都市部に出稼ぎに出るのではなくて、地元で仕事を創ろうということを掲げている。今年11月に高校を卒業する女子学生が4人いる。すでに一人は覚悟を決めて、会社の社長になってくれて、ビジネスへと一歩進んだ。実務はまだこれからもっと教えていかねばならないが、どうやって誰もが参加しても清潔に保ち、間違えなくカシューナッツを詰めて船便での発送準備に取り組めるかという仕組みづくりを構築している。次に、さらに地元の素材やカシューナッツを加工して商品化するリーダーをどうやって稼げるようにするか、新しい商品化やカフェも合わせてどのように収益にするか。デザインが得意な子、ダンスが教えられる子、いろんな才能も活かしてどうやって仕事にしていくかを考えている。

 また、日本のソーシャルニットワークプロジェクトは、全国からいただいた毛糸を無償でいただいたことで原価がかからずに済んでいた。800組もの人々から集まった毛糸を有効活用させていただき、さらに4年後のネパールの被災地にも広がった。100人近い編み手さんたちが集まり、ニットだけでなくフェルトの商品も作るようになっている。現地のネパール人スタッフも日本がフェアトレードとして買ってくれることを当てにしつつ商品を作り続けてきたが、コロナで日本への輸出が難しくなったという状況が転機となり、ネパール国内に売るようにギアを入れ替えている。チラシや動画のスキルもあげて、大いに販売促進をして、少しずつ認知されるようになった。だんだんとビジネスに育ってきているのは嬉しい。

 この震災、そしてコロナはいろんなことを気づかせてくれた。立ち上げたプロジェクトを長く続けるためには、常に無理があるのでは辛いし、しかし一度つかんだお客様をどうやってリピートしてもらえるかを考えないといけないし、清潔感に対する基準が国や文化によっても違うので、輸出してトラブルがないように気を付けなくてはいけない。仕事を創ることの難しさと面白さを日々経験させてくれている。

第二近代の個人化が進んだ先

根強い安定志向

 15年ほど前にいくつかの大学で現役大学生とかかわることがあった。その際に地方の大学で特に聞かれたのが「収入のいい男子と結婚して専業主婦になること」だった。え?平成の世でもそんな古風なことをいうの?と驚きの読者も多いと思うが、意外に女子大生はコンサバだったのだ。「いやいや、何が世の中起きるかわからないのよ。結婚した相手がもしかしたらDVであなたが苦労するかもしれない。女性問題などで離婚するかもしれない。旦那さんが急に倒れて亡くなるかもしれない。夫にぶら下がるんじゃなくて自分で食べていけるように考えなきゃ」と当時は笑いながら話していたが、そのようなことは今や日本の各地で起きているだろう。

 きっとその学生たちも今や30代後半になり、子育て真っただ中の女性たちも多いと思う。どうなっているかなとふと思うこともある。

 経済成長が上向いている時代は何も考えないでもある程度は稼げる。しかし、バブルがはじけて経済成長が望めない時代に突入してからは、今までの延長線上に日本はもうない。それを身近な大人たちもあまり指摘せず、政府は景気回復ばかりを口にして、かつてのような好景気の幻想を国民が抱く。両親が享受してきたようなモデルはとうに崩れたことを自覚していない女子大生があまりに多かった。しかし、この安定志向は令和になった今でも根強く残っていることがさらに驚きだ。

最小社会単位が家族から孤に

 これも10年以上前の話だが、ある男女共同参画センターの評議員を頼まれ、そこを運営していた団体が適切に事業を行っているかを評価するという仕事の依頼が舞い込んできた。そこは全国でも有名なセンターで、会議に臨む前の事業報告書に目を通させてもらった。私は女性の起業支援事業に対してのアドバイザーだったわけだが、他の項目を見ると若い女性たちを引きこもりから脱却、起業へとお手伝いをするという内容もあった。最初に参加した若い女性たちのアンケートの集計結果があった。その中でも忘れられなかったのが「家にいても落ち着かない」と答えている女性がかなり多かったことだ。

 私たちは社会学で“家族は社会を構成する最小単位”と教わっている。しかし、そこにいることがつらい、居心地が悪いと感じている女性が多いという現実にショックを受けた。彼女たちにとっての居場所はどこになるのか?親の過干渉も目立っていた。昔であれば、親と関係性が悪くても、同居している祖父母が助けてくれたり、近所の心やすいおばちゃんがいたり、誰か身近な大人がその子の支えになれていたのだろう。しかし、今は核家族、そして隣人との付き合いもないような都会生活では、見守ってくれる大人があまりいない。ドアを開ければ小言を言われるので、親とも断絶をして自分の部屋にこもる。そういう人たちが増えているということだ。

 ウルリッヒ・ベックは“第二の近代”において個人化がさらに進むことを述べているが、いまや、社会の最小単位は家族ではなくて「孤」になってしまっているのではないだろうか。これは子どもや若者だけでなく、孤独死する人たちからもわかるように高齢者、さらには都会に一人暮らしをする人たちも、だ。周りの目、世間体、干渉を嫌がって田舎から都会に子どもが出たがると、ある地方の親御さんから話を聞いたことがあるが、いったんは得た“自由”がだんだんと“勝手”に変わり、他人との接点がなくなる。いい時は好きなように生きられているように感じる。しかし、いざという何かが起きた時に “孤独”へと陥る。「将来のことは少しは考えなきゃ…」と気持ちがあっても自分一人で考えることは堂々巡りで回答が出ず、対話もない。ま、いいかとスマホなどに逃避して時間はあっという間に過ぎていく。そしていよいよ大変になった時に何も打つ手がなく、情報に踊らされて右往左往する。

 昨年のコロナで「第2波で女性の自殺率が急増」という記事を何度も目にする。物理的に移動もできなくなって、“孤人化”してしまったことが女性たちを追い込んでしまった原因の1つではないかと推測する。

コロナでメンタルパンデミック

 コロナはどんどん専門家の研究が進んでいるが、ワクチンよりも何よりも、心身共に元気であることが一番のようだ。誰かが“メンタル・パンデミック”と書いていたが、コロナがきっかけで情報に右往左往して元気な人が落ち込んでいく。不安ばかりが募って何もしない状態では、免疫力も下がって、危険だ。そして日本は「こんな時期に東京からこの田舎に帰ってくるなんて許せない」というような変な正義を振りかざした同調圧力がさらに気持ちを萎えさせる。きちんと規則正しく自炊をベースとした生活にして、あまり多くの人と今は接触することを避け、変に怖がらずに平常心を持つことが大事なのではないかと思う。

 私はこの時期に日本に帰れなかったので今回は経験をしていない。カンボジアは今のところこれまでの累計で500人にもまだ満たない。巷ではマスクをしたり、銀行に入るときは検温したり、手袋や消毒液も飛ぶように売れ、価格も高騰しているが、パニックにはなっていない。徐々に結婚式シーズンで人が集まるような機会も増えつつある。一体何が違うのだろうか。気候の違いももちろんあるが、私は生活スタイルではないかと思う。交通手段がバイクが中心で遠出も少ない。国内で観光旅行をする人はまだまだ少ない。ご飯も自分たちでちゃんと1から作り、特にプーンアジでは薪を割ることから始めるわけだが、体を動かす「営み」がある。洗濯も大きなたらいいっぱいにゴシゴシ手で洗って干して…。ここにいる子たちで肥満の子はいない。なんでもボタン一つで楽ができて、時短は図れるが便利すぎることがこれらの運動を営みの中から奪い取っているからなのか。

教育の在り方-私たちの実践

 そして高度経済成長期が限界をとうに迎えていて、失われた20年、30年といわれて久しいのに、教育のシステムは旧態依然だ。今や大学もリモート授業ばかりだそうだが、先生がZoomなどをこなせないから今期はレポートだけ提出といった、生徒たちの勉強の意欲をそぐような行動を起こしている人も結構いると聞いて呆れた。また60人くらいしかいない学科でも一人ずつプレゼンをしたことがなくて、パソコンは持っていてもワードでレポートを書くのみでほとんど機能を使いこなせていないという生徒はたくさんいる。その子たちが卒業して就職して、今やもう1から研修・教育投資ができるほど企業も金銭的・時間的に余裕がない。ということは、転職組の中堅を入れたほうが仕事が回るということで、若い働く人たちの雇用機会が減る。大学4年間で何をしていたかがここで大きく分かれるのではないかと感じざるを得ない。就活の時に取り繕っているようでは手遅れだ。

 現在、プーンアジでは中学生から高校生までのカンボジア人の学生を受け入れているが、ここで私たちは将来都会や海外に出稼ぎにいかなくても、地元で自分で仕事を起こせるようなスキルを身に着けてもらうようにそれぞれに仕事を出している。生徒たちは家も経済的に裕福ではなく、町中に高等教育を受けさせるためにかかる費用を工面するのも一苦労だ。そこで我々が仕事を提供することで寝食する場所を提供し、学校以外の時間は労働力を提供するという形を採っている。親元を離れているから当然甘えられない。ご飯は自分で作らないといけないし、洗濯などもすべて自分。生活の基礎的な部分ももちろん身に着けている。そして、カシューナッツの仕事も今コミュニティで行われているような仕事からさらに発展して自ら商品開発したものを売っていくような試みや、ITの仕事なども請け負う。親はいないからちゃんと自分で起きないといけないし、スマホをやりすぎて夜更かしするというのは禁止にしているので昼夜逆転現象ということもここでは共同生活ゆえにできない。

 日本では子供を大人たちはどう捉えているのだろうか。塾に勉強に忙しいからやらせない、お母さんも仕事で忙しいから変に手伝わせると時間がかかるからやらせない、こういう光景が多いと思う。しかし、子供だから…といつまでも特別枠を設けていると、急にある年齢に達したからといってできるわけでもない。“できない”のは経験し、自信をつけるようにやらせていないことも大いにある。子供なりにできることをやって身に着けさせる場が必要であって、この能力がかなり欠落していることが、ひいては将来自分が自立することをイメージできないことへもつながりうる。生活するための基礎、今のように外に出られないときに自分で自炊をすることを楽しめたり、家でも内職できることを考えて見つけ出したり、時間があるゆえにやれることは若いうちは実は結構あるはずだ。世の中の動きを知って、これまでとは違う時代が来ていることを実感して自分の足で立っていける子供たちを育てていかなければ、いざという時に自分が自分を守るしかない。それがコロナで加速度的に近づいているような気がしてならない。政府の言うとおりにしていたら生活も保障をされて安心だということはあり得ないし、雇用を守るといいながら週休3,4日制を導入すると、食べていけない正社員も出てきそうだ。正社員=安定ではなくなる。そんなときに自分で家をベースとした副業をやるためにどんなアイディアを思いめぐらせたらいいかなど、自分で考えて事業を起こす楽しみを知らなければ、楽しく乗り切ることなんかできやしない。そろそろ日本は何でもあって素晴らしい、金持ちの国だという幻想から目が覚めないと、かなり事態は悪化している。

 最近、プーンアジでは少しうれしいことが起きた。ここのところ順調にカシューナッツの仕事が進んで、昨年よりも倍近い量を早い時期に終えることができそうだ。次の収穫までに1か月ほど時間があり、その分ここでは仕事ができない。そんな中、家への仕送りも含めてもっと稼ぎたいと、敷地内で地元の女性起業家ティーダさんが経営するドリンクカフェでパパイヤサラダを売りたいと上級生の女子たちが言い始めた。自分で少し先のことを考えて小商いにチャレンジする、とてもいいことだと私は思っている。ないなら自分で生み出す、このトレーニングをすることはとても大事だ。日本の同世代の若者たちにこの先を読んで危機意識はあるだろうか。学校で教われないならば自分でどこかからつかんでいくしかない。私はカンボジアを舞台に、日本人カンボジア人にかかわらず、こういう場を提供していきたいと思っている。

国内外に商品をもっと発信するために

〇カンボジアの今

 カンボジアで華やかな産業といえば、繊維、建築、観光だそうだ。しかし、これがコロナ以降、軒並み厳しい状況になっている。まず繊維はコロナのおかげで消費が冷え切って、世界中でみんなが服を買いにショッピングに行くことが少なくなったため需要が減っている。そしてプノンペンは建築ラッシュ。ファッショナブルな商業ビルや都会的でおしゃれなマンションがバンバン建ち始めているが、これも中国人を中心とした外国人ターゲットの物件が多い。こちらも人の行き来が少なくなったおかげで現在ストップしてしまっている工事現場もあるようだ。そしてアンコールワットをはじめとする観光。シェムリアップは観光客で成り立っていたようなものなので、人が来なくなって閉まったレストランも多数ある。またSCYでチキンビジネスも展開するデン君の弟は、英語も堪能で外国人相手の日帰りツアーの案内などをやっていたが観光客が来なくなったため、好きだった仕事から転職して現在不動産業に勤めている。シェムリアップの観光はかなり打撃が大きい。

 現在、カンボジアに入国するのも簡単ではない。3か月日本にいた後、私もカンボジアに戻ったが、同乗者でコロナ陽性反応が出たためにホテルで2週間缶詰めを経験した。簡単に行き来はできなくなっている。外国人入国者からお金を預かる銀行(手数料として一律30ドル取るので)や保険会社、そして受け入れホテルは確かに儲かっているかもしれないが。

〇普段から外に出る必要のない人は田舎で生き生き

 カンボジアにいるとき、私はほとんど外に出ることがない。生徒たちが作ってくれたご飯をありがたくいただいているので、買い物も週に1回朝ご飯用の食パンを買いに行くくらいだろうか。住むのも働くのもプーンアジ内で完結している。外に出かけないから敷地内ではマスクは要らない。たぶん山口県の楠クリーン村も同じ状況だろう。外に行く必要があまりない私たちのような生活にとって、コロナが始まってもあまり生活自体は変わらない。しかし、都会に住んでいる人、働きに出かける人は消毒液を常に携帯し、毎日のようにマスクを消費しなければならない。

 ところが、プーンアジの生徒たちが公立学校へ通学する際にマスク着用が義務のようだ。去年7月にプーンアジを訪れてくれ、さらに10月のカンボジア舞踊キャラバンでも受け入れてくれたクブスリアの柴田恵子さんは家庭で不要の“アベノマスク”それから使い捨てのマスクや消毒液を集めてくれ、今回私が出国する際に託してくれた。ガーゼで洗うと小さくなるアベノマスク。日本ではかなりブーイングもあったと聞いているが、おかげでカンボジアの子供たちにはぴったりのサイズだ。この前会議でデン君にどういう理由でこれをもらったのかを説明し、柴田さんにお礼の動画を送ろうということで、みんながマスクをつけて嬉しそうにしている写真や「ありがとう!」と手を振っている動画を送ったところ、非常に喜んでくれた。寄付してくださったお客さんにもシェアしたいとおっしゃってくれた。     

〇誰もやっていない、ちょっと先のことを見つける

 話は脱線したが、カンボジアに来るまでは大変だったが、来てしまえば何ら普段と変わらない生活が送れるカンボジアで私たちはカシューナッツバターづくりをしていた。朝から晩まで、1日70個前後という少数だが、毎日作り続け、やっとパッキングもして輸出の準備が整ったところだ。

 みんなこれを仕上げたことで自信をつけ、また来年に向けて日本での販売を広めるべく頑張るためにも、カンボジア国内ですべてのものを調達できないか、プノンペンで調査もした。その際に、瓶を取り扱う会社、それからラベルシールを印刷してくれる会社に実際に作ったものを持っていって、同じようなサイズの瓶がないか、日本で頼んだのと同じようにラベルを印刷したらいくらかかるのかなど、見せながら説明したところ、この商品そのものに興味を持ってくれた。

 また、カンボジア産にこだわったヘルシーなお菓子を作っているグループがいる。月に4,5キロカシューナッツを供給できそうなルートができた。もちろんカシューナッツを供給するだけでなく、お互いのマーケットを紹介しあうような関係性が築ければ、国内販売への可能性もまた広がる。私たちのカシューナッツで輸出基準に合わないもの(小さすぎるといった規格外品)を安く提供できれば、私たちも在庫の面からも、先方も市場価格よりも安く変えてお互いハッピーな関係が生まれる。

 ここ1,2年でカンボジアも大きく変わった。1つは輸送。ここコンポントムからプノンペンまでは170キロくらいあり、移動には片道2時間半から3時間かかるのだが、最近ビジネス用の宅配業者が郵便局よりもいいサービスを提供している。コンポントムの支店に18時ごろまでに荷物をもっていけば、翌日にはプノンペンの指定の住所まで届けてくれる。先日2.5キロくらいの重さのものを袋に入れてプノンペンの会社に送ったのだが、送料はわずか1ドルちょいだ。生きている家畜や肉などの生鮮品やにおいのきつい果物(ドリアンなど)はダメなのだそうだが、これは地域を超えて物を提供するチャンスを広げてくれる。もう一つはスマートフォンの普及が拍車をかけ、アプリの活用はある部分で日本よりも普及しているかもしれない。UberEatsのようなバイクでレストランの食事を届けてくれるサービスでFood Pandaというのがあるのだが、この1年であっという間にプノンペンで広がり、とうとうここコンポントムにも上陸。トゥクトゥクもPassAppとかGrabなどで当たり前にみんなが呼んで利用している。インターネットバンキングもアプリを使って送金手数料無料だ。都会の人たちはスマホで何か物を購入するということに抵抗感がなくなっているので、今回私たちがチャレンジするもったいないAppも普及して需要を掘り起こせば十分可能性はある。

 それを考えると、あれこれ商品開発をやってみたくなってきた。カシューナッツを使ったバジルのソース、それから「カレーの壺」のように手間をかけずに簡単に1スプーンで調理ができるような便利なソースは作れないか…など。それを先手を打って進めておけば、今後またツアー客が外国から来た時のお土産にもなる。誰もやっていないことを果敢にチャレンジすることは大事だなと改めて実感した。コロナでふさぎ込んでいる場合ではない。幸いにしてカンボジアは市中感染は話題にはなっているが、まだ大きな影響を受けていないので、今こそ準備するチャンスだと思っている。

お茶という日本文化

 日本に戻ってから2か月半が経って、もう少しでカンボジアに戻ろうと、いろんなことを整理整頓し始めていました。そんな折にふと、WWBジャパンの卒業生のことも思い出しました。日本にいないと連絡の取れない方に電話をしてみようかな…と、真っ先に思い浮かんだのが京都の小泉敏子さん(お茶の先生のお名前は小泉宗敏先生)でした。

 小泉さんはとても不思議な魅力を持つ方で、いろんな提案を京都の女性起業家セミナー卒業生と共に活用させていただきました。一番思い出深いのは東京駅のイベントスペースでの1週間の出展です。もう15年以上前でしょうか。朝7時から晩の23時まで、東京駅に着物を着て、素人の私が売り子になっても飛ぶように女性起業家の商品が売れました。その代わり、小泉さんも粋な演出を考えてくださり、様々なお茶の道具などを用意してくださったり、篠笛の奏者を呼んでくださったり…。その場で手描き友禅を披露するなど、私たちが100年先まで残したいという手仕事を東京駅の中で縦横無尽に行きかう人たちに見ていただきました。おかげさまでこれから京都に行くというのにすでにお土産を買い求めてくださった方、東北から東京に来て京都とは関係ないけれども手作りのものは素晴らしいと喜んで買ってくださった人など、小さくてもきらりと光る女性起業家たちの商品を見ていただく晴れ舞台となりました。京都という場所で女性起業家セミナーをやらせていただいていろんな方と知り合えたことは私にとっても大きな財産でした。

 もう20年近いお付き合いになると思うのですが、小泉さんは何かというと気にかけてお声をかけてくださいます。彼女が開くお茶会は京都でも有名な大徳寺や京都御所の中だったり、普通の人が借りられないような空間で、さらにはその時代考証を経てこのように献茶が行われたのではないかという形を現代に蘇らせたり、皇居で演奏する雅楽の方を招いて名前の演奏をバックにお茶をたてたりと、その演出がまた壮大なスケールです。その時間はまるで夢か現か、日ごろの喧騒を一瞬にしてかき消してタイムスリップしてしまうような気分になります。粋とは何か、雅な遊びとはどういうものか、古典で習うのではない、目の前で味わう得も言われぬ体験はこの先も二度とないものだと思っています。

 小泉さんは京都大学医学部茶道部の立ち上げからほぼ40年近く携わっており、その代々のOB・OG(第一線で活躍するお医者さんたち)からも大変慕われており、このようなお茶会などに集まる方々もそうそうたる顔ぶれであることは間違いありません。しかし、そこに私のようなサラリーマン家庭で生まれた凡人であっても受け入れてくださる懐の深さがあります。私は茶道の心得は全くありません。しかし、お茶会では精通していらっしゃる方もたくさんいて、もちろんその方たちには最高の演出を提供され、選んだ掛け軸や床の間のお花など設えに関してはもちろん、お道具も身を包むお着物も超一流です。そんな最高潮に緊迫する中でもやさしく誘導してくださり、お茶席でお隣の人の見よう見まねで体験させていただきます。どんな世界においても、どんなレベルの人に対してもきちんと対応できるというのが真の指導者なんだなというのを実感させられるのです。

 現在、小泉さんも70歳を超えられ、今年いっぱいで京大医学部茶道部での指導は退官されるということで、自分しかできないことを残りの人生でやっていかなければいけないとおっしゃっていました。その1つが「茶の湯外交」です。お茶席という日本独特の文化を通じて世界と親睦を深める。このような外交手段がほかの文化にあるでしょうか。お酒の入った食事を共にすることもあります。ただ、お酒の入った席なので素面ではありません。ダンスや古典芸能をみんなで鑑賞することもあります。しかし、お茶の席がさらにすごいところは今の時代に寄り添えるメッセージが伝えられます。掛け軸に込めた想いで何かを表現したり、今あるお花を生けることでその季節を切り取り、客人は周りの人々と一緒に自分が能動的に動いて空間を作り上げます。一期一会でその時に集まった人々でしか醸し出せない雰囲気なのです。さらには教養の高い茶人が客人をはっとさせるような言葉を伝えることが気づきにもなる、とても知的なゲーム性をも含んでもいます。そしてこの飲むお茶が混ざりものなしで農家が丹精に作りあげたものであれば、一服飲むごとに味わいが深まり、もともとは薬と同じような効能であったゆえに元気がもらえる。戦国武将が茶人を寵愛していた理由もなんとなくわかります。

人生最後の集大成として、小泉さんはさらに「相手のことを想うお茶」を掲げています。私も含めて一般の人々はお茶の世界は敷居が高いと思いがちです。しかし、上に紹介したような世界平和や外交にも一役買えるようなお茶という文化を一部の人たちだけがやるものではなく、誰もが親しみをもって触れる機会を作り、さらに深めたい人は道に入るという導入部分(彼女は“序の茶”と表現しています)を作りたい、というのです。小泉さんのお宅にお邪魔すると必ずお茶室で私のような素人でもお茶を点てさせてくださるのですが、そのコツの伝授の仕方がとても上手で、初心者や外国人が初めて体験しても難しいと頭をひねらず、自分でもできたという達成感や喜びを実感できます。

「表とか裏とかいう流派でお茶碗の回し方が違ったりいろいろあるけれども、根っこは同じ。特に茶の湯外交の時ははっきり言ってどうでもいいことなんです。なぜお茶碗を回すか。自分のほうに美しい柄があると“もったいない”と思うからそれを避けるという日本人の美意識、ただそれだけのこと。だから回しすぎて再び絵柄が自分の手元に来てもいけない。もしかしたら外国人からしたら、自分のほうに美しい絵柄があったほうが喜ぶかもしれないし…」と相手の立場を慮ってお茶を考えると先生はこういう解釈になるわけです。

この“序の茶”の喜びがなければ広がらない、そのためには初めての人でも点てやすいような環境をまずは整えることが大事だという思いに至った小泉先生は、地元の有名な陶芸作家に駆け寄って、点てやすい器の開発まで始めています。だいたいお茶碗にどのくらいのお湯の量を入れたらちょうどいいか(私が点てたときはポットのお湯です)を一目でわかるような内側に絵付けを頼み、形も丸ではなくて楕円型。この方が茶筅を動かしやすいのだそうです。それをお弟子さんたちが忠実に再現し、特注することで若手作家たちの仕事づくりにつなげたいとおっしゃっています。この器と小泉さんの厳選したお抹茶と茶筅をセットにして、外国人でも自宅で楽しめるようなキットにして少しずつ広げていきたいと考えていらっしゃいます。

また、小泉先生の使うお抹茶は、宇治の生産者で、かつて神社仏閣に奉納する以外に、他のどこにも出していない門外不出の幻のお茶です。26年前に、このお茶をいただいたときに、小泉先生が6歳でお茶を始めようと決意したときに初めて口にしたお茶と同じ味がしたのに感動して、それ以来ずっとその農家に契約栽培をお願いしています。一般的にお茶は宇治、静岡など有名な産地が表記されていますが、多くの場合はその地域のものがある程度の割合で入っていれば名乗ってよいという決まりごとがあるそうです。宇治茶も近隣の関西地方で採れたお茶と配合されて、時には添加物なども配合されて出されているものもあるのだとか。コーヒーでも同じですが、どうしても自然相手の農作物はいい出来と悪い出来の年があります。毎年同じ味・品質を安定させるためにも輸出される港で混ぜられ、均一化させるという方法が長らくとられてきました。しかし、最近中南米の国々ではコーヒーの品質向上を推進し、ワインのようにどの産地、さらにはどの農園の味かといった産地別、農園別といった細かい区分のスペシャリティコーヒーなども登場しています。もともとお茶も戦国時代などは金の延べ棒かそれ以上の価値があったもので、庶民にも飲まれるように手に入りやすくなったことはもちろん大事ですが、小泉さんはコーヒーの今の状況と同じようにちゃんと農家に頑張った分だけの見返りがあるように作ってもらいたいと、代替わりしてもこの契約栽培農家を応援し続けています。また小泉さんの息子さんがつい先日脱サラして、この宇治の茶畑を一緒に守り、推進する手伝いに回ることになりました。

 お茶を点てるくらいで何がそんなに違うのかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私がたった1~2時間教わって、自分でやっただけでも大きな違いを実感できます。まずは抹茶のお粉。濃茶は苦くて甘いお菓子がないと飲めないかというと、何回も味わうごとにおいしさを感じられます(そもそもお茶席で何杯もお茶をおかわりすることはありませんよね)。品質のいいお茶だと分量も少なくてもちゃんと点てられます。そして点て方が上手になると味わいが全く変わってきます。茶筅の持ち方、意識の向け方、点てている時の音のコツを教わっただけで変わります。そしてこのようなお茶の歴史や所作がどのようにしたらきれいに見えるかというポイント、さらには今の世の中のことなどを話しているうちに、文化教養に触れて日本人としてのアイデンティティを感じ、メンターから生き方を学ぶ人格形成の場でもあり、そしておしゃべりというヒーリングなんだなぁ…と。小泉さんに会って家に帰るときには気持ちも晴れ晴れ、頭もすっきり、いろんなことを吸収したという満足感で満たされていました。お茶やお花を学びに行くのは憧れの大人たちから生き方を学んで大人になっていくという意味でもあったのかも、と。私はまだカンボジアでも日本でも若い人たちに対して、私が得てきたような学びだったり、気持ちの面で鍛錬されるような時間や場というのを提供できていないと改めて気づかされました。

今回、久しぶりに小泉さんにお目にかかることができて、文化というのは国境を越えてつながれるものだと再確認させていただけるいいチャンスをいただきました。現在、カンボジアで文化を守るということも私たちの活動の柱の1つです。私たちの生徒が昨年日本各地で踊ったことで自分たちのアイデンティティを呼び覚まし、自信をつけたことに私もとても誇りを感じています。現在はノーという女子学生がこのダンスを教えることで生計を立てられるようにするにはどうしたらいいか、スマホを使ってダンス出前サービスやオンラインでダンスを教えることなど、少しずつ形にしていこうという動きが出始めました。

そしてもう1つ、“カシューナッツを文化にしていくには?”という着想を得ました。お茶もそもそもは中国由来のもの。日本でさらに加工法、味わい方が長い歳月をかけて発展して独特の文化になったのだと思います。カンボジアのカシューナッツもルーツをたどれば肥沃ではない土地に何か作物をと40年ほど前に外から取り込まれたものです。まだまだ歴史の浅いものではありますが、それをインドやスリランカでもアフリカでもない、カンボジアだからこそというものにしていくにはどうしたらいいのか、日本のお茶会ではないですが、カシューナッツを味わい尽くす懐石料理的なものなのか、何か他の人がやっていないけれどもこれは面白い!と思うことを産地から発信していくことができるのかなと思い始めています。昨日たまたまプノンペンでカシューナッツバターをもって瓶探しやラベルを印刷してくれる会社を探していたところ、そのスタッフたちがこの商品についてとても興味を持ってくれました。国内の掘り起こしは可能性を秘めているなと手ごたえを感じました。以前のインドネシアのフローレス島でカカオの経験でもそうでしたが、生産している地域では換金作物は収入源としか見ておらず、自分たちで味わう習慣がないと自分の作った作物が美味しいと誇りを持てることが「次世代に残そう」につなげられないのではないかと思っていました。コンポントムという小さな町ですが、プーンアジの位置は産地の畑からは町中で、外国人だけでなく、カンボジア国内の人をも呼び寄せられるところです。カフェのティーダさんとも協力して、こういう話題と人を呼び、お土産を買って帰ってもらう仕掛けができたら面白いかなと少しワクワクしてきました。

教育スタイルそのものが世界で変わる

<コロナで身動き取れない子供たち>

 カンボジアも日本と同様に突如3月半ばに学校が閉じられました。その翌日からすぐにCWAカンボジアではSCYの畑に行ける生徒たちを送り込み、最終的にはお留守番のマシャー(学生リーダー)以外、全員が畑で作業です。ちょうど今年の開墾と新しいカシューの苗を育てて植える準備もありましたので、それが普段通りに学校に通いながら週末に行き来するだけでは追い付かないくらいの仕事量だったので、ずっとSCYの畑で彼らがやってくれたことは、遅れを取り戻すのに大いに役立ちました。

 そして1か月経った4月11日、クメールニューイヤーが始まりました。本来はプーンアジで父母会を行って、そのまま親が生徒たちを実家に連れて帰るという予定で考えていましたが、ロックダウンのおかげで集会もできず、結局はSCYで現地解散となりました。久しぶりに実家に帰るのをみんなさぞかし喜んでいるだろう…と思っていたのですが、再び集合する18日を前に数名の生徒が帰ってきました。「あれ?実家にもういなくていいの?!」と聞くと、「寝ているばかりで飽きちゃった」とか「お母さんがいない」という返事。本来このお正月は普段プノンペンや海外へ働きに出ている兄弟や親戚、ご近所さんも民族の大移動で一斉に田舎に戻ってきて、そこでお祭りが開かれたり、サンボープレイクック遺跡でも出店が出て大音量で音楽をかけてダンスが披露されたり、イベントが開かれます。それが軒並み中止、しかも1家族4,5人くらいの規模で過ごしなさいという通達。たくさん家の中にいると警察にチェックされる徹底ぶりだったようで、何もできない状況はまさに今の日本と同じではないでしょうか。1,2日は何もせずにゴロゴロできて幸せですが、これがずっと続いてもケータイでYouTubeを見るだけ。寝て起きてずっと見ていたら頭も痛くなるの繰り返し。外にも出られない。気晴らしもできない。日本の子以上に元気に動き回るカンボジアの子供たちからすれば苦痛そのもので、結局早くプーンアジに帰ってきて動きたい、仕事しようと思ったようなのです。子供たちも必要とされたところで自分の居場所を見出すんだなと改めて感じました。昨日ほぼ全員がそろって久しぶりににぎやかな声が聞こえてきて、みんなで木登りをして木の実をとったり、ワイワイ自炊が始まっています。そして今日これからみんな畑へ移動して仕事と勉強が始まります。

<プーンアジの方針は間違いなかった>

以下、私たちの活動紹介を簡単に表でまとめてみました。文化、農業、ビジネスの勉強をしつつ、上の学年に上がっていったらそれぞれの専門性を磨いていく。これらを通じて単にここで町中にある寄宿舎として過ごすだけではなく、中学を卒業した後の専門性をどう磨くか、高校を卒業したらどういう道に進むのか、そんなことを思い描けるようなステップアップにしていけたらいいなと思っています。

今、左側の矢印の部分は公立中学(7~9年生)高校(10~12年生)のレベルを書いたのですが、ここが完全に閉じられているので、そこの勉強も現在SCYでデン君を中心にフォローしています。

伝統に誇りを持ち、田舎での農業に若者を投入して活気づける、そして起業を応援する、この3つの方針がプーンアジに来た子たちにまず理解してもらい、実践することです。最初はそれがわからなくても、だんだんとチームで仕事をしていき、そこで責任ある役割を果たし、お金をお客様からいただく、そして自分たちの給与や食費をそれで賄う、これをオープンに生徒たちに見せています。

<日本の大学生もチャンスが広がるはず!>

これまでプーンアジも大学生インターンとして桜井祐子さん、田中彩琳さん、そして現在いる永山涼さんはじめ、学校を休学してここで何かを得るぞ!と覚悟して10か月なり1年という歳月をここで過ごしてきました。  しかし、これからどういう世界になるのでしょう?現在私が講師登録をしている産能大学でもネットを使った授業になるという説明会がつい先日あり、松井先生の松山大学も5月末からそのような方向で動くとおっしゃっていました。どの大学もどんどんオンラインの授業に切り替わっています。そして今日お昼ご飯を食べながら涼さんに「これからオンラインの学校になるんでしょ?だったらここにそのままカンボジアにいても大丈夫だね?」といったら「そうなんです。私も生徒たちと一緒に朝と夕方畑をして、お昼間に勉強のスタイルにしようかな…」と。わざわざ学校に行く必要がない、むしろ実践としてアジアなどのフィールドで知恵を出し、現場で試行錯誤をし、そして時間を作ってオンラインで自分で勉強をする、自分の深めたいところをインターネットを通じて学ぶ、こういうデュアルな学び方に変わっていくはずです。そこでチャンスをつかみ取れるかどうか。今までの大学生の4年間以上のもっと濃い時間を過ごすことができて、これからの若い世代の人たちの実践に大いに期待したいところです。楠クリーン村やカンボジアの私たちのようなところが実践の現場を提供できるところをもっと増やしていく必要がありそうです。

<体を動かす・汗を流す+頭を使う+パソコンで世界と発信するの三位一体が教育に>

 終日在宅ワーク、ずっと終電まで会社、あるいは農作業だけ、こういう働き方には限界があると思います。より健康に、心身ともにリフレッシュし、頭も体も動かすには、プーンアジの実例は胸を張って自慢できます。朝5時に起きて涼しいうちに作業を始め、10時半にはいったんお昼寝。お昼ご飯を食べてから暑い日中は木陰で勉強をしてまた夕暮れから日が沈む前に外で思い切り体を動かして働き、おいしいご飯を食べて真っ暗になったら疲れて眠る。当たり前のサイクルなのですが、今、これが特に都会ではできないのです。

 例えば都会で通勤だけでは運動不足だといってフィットネスジムがあるわけですが、SCYにいればジムに行く必要はありません。否が応でも足元の悪い砂地を一歩一歩力を入れて歩みを進めていかねばなりません。パソコンばかりに向かっていたら目が悪くなって眼鏡も必要になりますが、SCYにいれば電線もない広いお空を眺めて緑に囲まれてリフレッシュ。だからといって事務作業を何もしないのではなくて、お昼間にソーラーパネルで発電してその電気でパソコンを使ったり、ノートとテキストを開いて勉強を進めたり、自分のやるべきことはきちんとやるということです。

そして国境は封鎖されていたとしてもオンラインで世界と仕事もできるし、友達ともやり取りできる時代です。自分のことも発信することも大事です。遠くまで通わなくても得られる情報時代ですので、豊かに生きていくためには自分が毎日必要だと思うことをたくさん考えて、周りから必要とされる自分であり続け、行動することです。先生の言うことをおとなしく聞いている子が成績優秀者ではなく、自分がどう貢献したらいいか想像を働かせて動くことができる力を備えたら、将来指示待ちのサラリーマンではなく、どこでも働くことができる、必要とされる人材となるのではないでしょうか。  カンボジアの子供たちも何もしないで1週間も家にじっとしていることはできませんでした。きっと1か月以上学校に行けない日本の子供たちはよりフラストレーションがたまっていることでしょう。でも、そこを変わるチャンスとしてとらえ、体を動かし、頭も使い、パソコンで発信する、この3つをバランスよくできる生活設計、そのための移住も含めて考えてみてはいかがでしょうか。効率化を優先させた都市集中は完全に崩壊です。分散し、自立していくことが今、ますます求められているのです。

ちょっと見方を変えたら捉え方も変わる?!

 今のお金がある時一瞬にして価値が変わってしまうのか…。この国のお金の使い方を見ているとハイパーインフレはやむを得ずとも思えます。今のスーパーのトイレットペーパーがなくなる騒ぎの比じゃないことが起きるのではないか・・・。今の国の在り方、決定のプロセス、悲観的に考えれば怖くなるような材料ばかりです。
 
 ただそれは、今の延長を考えているからであって、生き方のシフトチェンジ、お金の使い方、消費の在り方を一人一人が見直す潮目なのでは?と最近思うのです。日本では東日本大震災も1つのきっかけだったと思います。以後、私は8年 前東京を離れて、さらには日本からも離れてインドネシアやカンボジアという違う環境に身を置いたことで、自分の中でのマインドセットはすでに訓練されています。とことん生活水準を変えたら(「落としたら」と書くとみじめな感じがしますが、シンプルにするだけです)どうなるのかという実験の日々。
 ここ、カンボジアでは停電もしょっちゅう起こるし(だから懐中電灯は手放せない)、毎日手で洗濯していますし(今日は井戸水を汲んで)、電子レンジも使わない。生徒たちは薪で毎日ご飯を炊いてくれます。


 1日に買う量は些細であってもちょこちょこお金を使わない。この前、インターンの涼さんと コンビニの話をしたのですが、ついあれこれちょこちょこ買うが、ヨーロッパには多分今もコンビニないよ、と。だから25年前、私が留学したころ、日曜日だとどこもお店が開いていなくて、本当に困ったときはミュンヘンの中央駅の売店に駆け込むしかなかったんだ、と。それがルールになっていれば、みんな困ることがない。毎日24時間開いていなくたって平気なんだよ、と。
 特にアジアはコンビニもたくさんあり、ものにあふれて右肩上がりになった部分もあるけれど、 今後は余分なものは買わない、作らない、簡単に捨てない生活。いい加減なものはそぎ落とされていったり、本物が光る時代、それを取捨選択できるのはいいなと私は思います。

 働き方についても、自宅待機で退屈と嘆く人、はたまた家に長居しすぎて「コロナ離婚」という言葉も現れたとか。高層ビルが立ち並ぶオフィス街の会社に毎日行くのが仕事と思っている人からすれば窮屈なんでしょうか。私は日本にいる時は空いている平日に母と好きな時に一緒に出掛けて、やるべき時はとこんとん集中的にやれる(それで1週間どこにもいかずに勉強して総合旅行業取扱責任者の資格を取りました)、ネットでどこの国の人とも会議ができる、大好きなコンサートは絶対 行く、これほど自由で楽しいことはないと思うのに。その代わり、カンボジアに 戻ってきたら休日はほぼありません。むしろ娯楽があるわけでもなく、必要がないというのか。現場はいろんなことが起きて大変でもあり、でも楽しいので。先日AirBnBで来たフランス人に聴いたら6か月もハネムーン旅行。それでも”サバ ティカル”という9か月休んでも会社に戻れる制度があるそうで、日本みたいな休みがなく拘束時間も長い働き方が信じられないと驚いていました。

 未来永劫、今と同じことが続くことを前提に考える、安定志向の考え方を少し変えてみたら、結構楽しめるのではないでしょうか。ミャンマーで出会ったスペイン人も「私、今回の旅を通じて、バルセロナに住み続けることが人生ではない と気づかされたの」といっていました。彼女はカイロプラクティックの施術をやっていましたが、身軽に住む場所や環境を変えてみる。どこでも生きていける、働けるという力を付けたら、意外と一歩踏み出せることなのかもしれません

アジアで実践、新しい教育

カンボジアのアジア村学校で父母会

 2人の生徒が学校を去りたいと言ってきた。先ずは、ここを運営するNPO・コミュニティワークアジアで事情を聴き、対策を練る。ここの理事は現地のダンス担当のカンボジア人で50代の男性(文化省に勤めるが、今年定年を迎える)、日本人の日本語教師(ボランティア)、そして、ここのスタート時から関わる二十代後半のカンボジア人の若者の三人だ。その若者が代表だ。

 学校を辞める事情を聞く際に、日本人の出番はほとんどない。言葉の問題に加え、家の経済状態や両親の夫婦問題、村の中での評判等は、その地域の歴史を知らないとわからない部分が多い。それを村長や学校仲間からも聞く。

 一人の生徒は両親が離婚し、お母さんの住む村に行きたいというのが原因だった。お父さんが来て最初に言っていたのは「自分が引き受けるので、ここに継続して世話になりたい」ということだったが、生徒に確認するとやはりお母さんの村に移りたいので継続は難しそうだ。お父さんは涙ぐんで説得したが生徒の結論は変わらなかった。

 もう一人は公立中学の勉強についていけないのが引き金になって、仲間と「働き学ぶ」もできなくなり、村に帰りたいという。お母さんは「帰ってきたら腕の骨を折ってやる」とか、最後は「殺してやる」とか息巻いていたが、学校側から「働かないと食事も出ないし、部屋で寝られなくなるよ」だから「これからここでレストランを始めるので、ここで働いたら良い」と勧めたが結局、お母さんが甘やかして連れて帰ってしまった。親が最後は言葉とは裏腹に甘やかすことを子は知っているのだろう。『人をダメにするのは簡単だ。甘やさせばよい』とよく言うが、きっと、その家族は口だけの家族なのだろう。村の他の父母も口出ししなかった。

 これから2か月に1回、父母会を行い、その交通費はNPOが負担することにした。一人5ドルのバス代は両親にとって決して安いものではない。お金がないことが理由で差をつけたくないという配慮だが、経済的には日本が負う部分も多いので依存関係が強くならないように気を付けることが肝要だ。依存と格差の問題は、経済的に優位な日本人にとって課題だ。出せばよいというものではない。

親にも学んでもらう、既にある未来

 両親が来た時に、親にもレクチャーすることにした。カンボジアの教育者の質は悪い。生徒から賄賂をとる先生もいる。特に勉強が遅れたりすると要求するようだ。金額を聞いて驚いた。それを借金して払うのだという。賄賂をもらった分、一生懸命に教えるのかというと違い、単に合格にすることだ。

 アセアン10か国の中でラオスと並んでカンボジアは給与水準が低い。より高い国に出稼ぎに行く。カンボジアに肩入れし、一生懸命教えても、ある日タイに行くので辞めたいと言われることもある。それは私たちも辛い。

 アジア村学校はカンボジアの街(コンポントムという中都市、だが村から来ると大都市に見えるらしい)に来て、遅れを意識するようだ。しかし、もう少し広い視野でみると、団栗の背比べで、良い成績をとって意味があるのかと思いたくなる。そのことも説明する。

「公立学校に行くのは否定しないが、そこに通わなくなったからと言って騒ぐことないですよ。それよりこのアジア村学校でITや伝統文化を学ぶほうがよほど将来価値あるものになります。AIの時代はもう来ており、ホワイトカラー的な職はどんどん減る。都市に出るより、村で農業で自立し、特技を持つことがこれからの社会で重要になります」と話したが、なかなか伝わらない。親向けのレクチャーを父母会で続け、コミュニティで役立つ人材育成の実践学校の意味を伝えていきたい。

 だからと言って、外に出ることを阻むのではなく、むしろ推奨している。コミュニティをベースにしながらグローバルな視点も大切だ。国境を越えて活躍する人材は、自分の村に帰ってくるだけでなく、国境を越えてコミュニティに仕事を作り出す。日本に研修に来て英語や日本語を話すようになる生徒もいれば、全く変わらない生徒もいる。チャンスに気付く育ち方、生き方を教えていくのは難題だが、それが新しい地平を開くと思って実践する。ここに親、先生、地域という三辺の軸は欠かせないようだ。

経済性、社会性、人間性を教育

 その方法として「働き学ぶ」を実践してきた。机の上では学べないチームワーク、社会のリアルな見方、生きる技術などを学ぶ。働きながら学ぶことは、決して金稼ぎの手法を学ぶことではない。むろん経済的にバランスしないと継続できないから重要だが、それ以上に社会の問題、コミュニティの問題解決も学ぶ。そして最後は生きることを文化や歴史から学ぶ。歴史を学ぶとそこからちっぽけな人間に気付き、自然にも謙虚に向き合えるようになる。

 国毎の賃金格差の問題も真正面から捉えたい。それを解決する唯一の道は起業だろうと気付いた。すべての人の格差をなくすことは難しいが成功事例を作り、それを真似て広げていく。努力と責任を教えるのは起業が向いている。そして他国で雇われ働くのでなく、コミュニティにいて、それを実現する。

 こんな目標を立てて現地の若者が代表の会社がアジアに3つできた。今後、日本人が作った組織も、現地の人に引き継がれていく。国籍にこだわらないことになるだろう。そんな意欲のあるハングリーな若者を起業候補として10人選んだ。日本にも研修に来てもらっているが、将来その中から日本の企業の社長が生まれるかもしれない。グローバルであり、かつコミュニティをベースに国境を越えて働く人材をもじってグロミティスタッフとして選任して活躍する仕組みも育成の柱としたい。いずれ、その活躍をレポートしたい。

先見性で次の社会像を選ぶ

 それらの人材が時代を作る。今後どの技術をいかに活用するかの選択だ。環境や人間性の否定になるようなものは採用しない。儲かるから、便利だからで取り入れるのではなく、将来の社会像を描き、選択することになる。それには教える側に先見性が求められる。

 第二近代はリスクを最小にすることに優先順位を置く。技術の暴走に歯止めをかける。ときにはそれが政府の意向に反することもあるだろう。それでも主張し実践する。そんな勇気ある若者育てが第二近代実践研究会の目標だと思えてきた。それは一代では終わることのない永久革命かもしれない。決して暴力に訴えるのではなく、権力に頼るのでもなく、草の根から変えていく。その担い手も自らの生き方を変えていく。目立たないし、ゆっくりではあるが、これが第二近代的な変革だと思われる。

 第二近代という概念を提唱したベック氏は、それはアジアからと言っていた。アジア、そして多様性のインドでの実践は、そんな現場だ。そこから世界の変革を引っ張りたい。

 前号で紹介したITの活用は国境を越える武器として、使い方によって役立ちそうだ。この原稿をバンガロールで書いている。第二のシリコンバレーと言われるところだ。ここにも事務所を持った。国境を越えたIT協働の拠点にしたい。

新しい組織、新しい経営のカタチ

社長をなくせるか?

 研究会に属する10いくつかの会社の中心メンバーがまじめに議論しているテーマだ。アジアから7つ、日本から5つの組織が参加している。

 代表の肩書は社長や代表だが、それは内部的にはいらないが対外的には必要となった。法的に責任を取る人が必要だからだ。あと、ほとんどのことは社長了解が不要なのが理想だとなった。メンバーが自己の自発性と責任で自分のミッション実現を目指す。そんな個々人を管理ではなく動きやすいようにする仕組み作りがリーダーの役割となる。役割も自発的に決まっていくことも多いが、時に調整役も必要になる。英語でいうコーディネーターだ。

職場よりIT組織が優先する

 10を超える組織が組織をも超えてコトをなしていこうとすると法的な役割とは別の原理で動き出す。言語もいくつもあるとコミュニケーションも大きな課題となる。英語が中心になるが、それだけでは現場と繋がれない。地域に仕事作りを目指すには現地語が必要になる。時差もあるからいわゆる勤務時間もフレキシブルになる。残業時間はあってないようなものだ。

  メールを送ってすぐに返事ができないとチャンスを失うことも多い。ルールの一つが24時間内に返事をすること。更に、自分の不得意なことや都合の悪いことを放置することもある。1週間で動かないものは担当を変える。そうすることでブレーキが少なくなる。

加速する仕掛け

動機づけが給料や肩書だった時代から仕事そのものを楽しめるかに人々の志向は移っている。ここでの働く人の動機は社会に役立っているか、そのサービスが笑顔で迎えられるかになっていく。「いいね!」も、その一つだろうが、いかにも軽い。地域で仕事作りをミッションにしていると、そのコミュニティで認められるか、だ。存在感が重要だ。

 例えば、インドネシアの組織はごみ、ツアー、ITを同時並行で経済的自立を目指している。それぞれに社長候補がいる。将来、それぞれが自立してもITソフトは共通で、その傘の下に残る。ソフトがミッションを共有する。

  4キロ四方の地域で「ごみゼロ運動を始めた。スマホに登録するとごみがポイントになる。ポイントは現在お金に交換しているが、将来は地域サービスに交換すると地域経済の活性にもなる。地域通貨の仕組みだが、バリの空港から歩いて数分のロケーションなので旅行者も巻き込める。地域貢献ツアーとでも呼ぶものもネット上に構築中だ。その中心に安いステイ施設を持つメンバーが中心にいるので、そこを新しい働き方で「楽しく働く、遊びも生活」企業呼び込みを計画している。そこから五分も歩けばサーフィンもできる浜辺だ。労働時間に縛られることなく思い切り働き、好きに自分の時間をデザインする働き方改革の提案だ。

AI時代にサラリーマンは?

 ワークシフトが言われている。様々な業種が消えていく。日本では大銀行で年間一万人以上が整理されると読んだ。ATMからスマホ決済へ、従来の銀行窓口はいらなくなっていく。いや、すでにない国もある。役所などもっと合理化すべき筆頭だろう。いわゆる事務作業や、他人に言われてやるサラリーマン要素の強い仕事はなくなっていく。安定志向で行政に就職できたから一生安泰ということはなくなりそうだ。仕事と趣味は別で、会社は金をもらうところ、という人の職場はなくなっていくのだろう。日本の学生の志向も変わりつつあるようだが、変化にどれだけシンクロしているか、一人一人の人生を選択する時代が来た。が、それほどに、その行動も価値観も変わらない。そして、時代の変化から取り残される。

勢いのあるアジア、インド

 数か国の若者が同世代間で一つのミッションに向かって働くようになると、日本人の劣化は明確になる。日本から研究会に参加している農業団体はインターンを年間20人以上受け入れる計画だという。アジアの国では農業が就業人口の70%から80%という状態だから、当たり前に地域に農作業がある。そして、子供の頃からそこで育った彼らはタフだ。暑さに強いだけでなく女の子でも鶏を絞める。肉屋で冷蔵庫にある鶏肉しか見てない日本人とは違う。同じ人間かと疑うほどに自然との共生体験の差は大きい。机上の勉強では学べない部分だ。「働き学ぶ」が問われている。しかも、彼らはとても前向きだ。受験勉強で点数だけのところと、なんでも、これからの人生に役立てようという意気込みの違いだ。

働くことがあって学ぶ

 カンボジアで学校経営をしている団体のやり方は「働き学ぶ」だ。学歴社会は、いつのかにかそれが逆転してしまった。偏差値という物差しで人間の能力を計るようになった。嘘つきであろうが、ポジションを得られる社会になってしまった。それが権力を持てば社会の信を失わせる。もし、カンボジアの汗と現場を知り、コミュニティで共に汗を流して生きることを学んでいれば見える風景も違っただろう。

  法律が先にあるのではなく、必要に応じて作っていけばよい。それが逆転すると、こんなことになる。「忘れました」がまかり通る。社会の仕組みも作り直さなければいけないが、その変革も教育からだ。日本の三権分立が虚構になる中で、吉田松陰の松下村塾は、国境を越えてアジアでそれを教える。

アジアに松下村塾を

  まだアジアでは維新以降の日本の経済発展への評価は高い。親和的だ。いくつかのアジア、インドで講座を持っているメンバーが研究会にはいる。大学闘争世代の先生もおり、日本の失敗を伝えることも忘れない。経済の講義で、自分の運動体験を伝える。石を投げても、大きな圧力団体の長になっても、自分たちの力で政治家を作っても、社会は変わらない。一人一人の市民が自らの価値観と生活を変えない限り、この格差と自然収奪の構造は変わらない。君らの世代の改革はコミュニティから君らが作り出すと教える。社会起業の勧めだ。それをアジア10としてネット上で情報交換し、スカイプで議論し競争し、新しい価値を作り出すのにITは有益だ。次の世代はITで国境をいとも簡単に超えていく。

「超える」が時代の言葉に

 克己、自らを超える。国境を超える、政府を政治を超える。時を超える意識を学ぶことも大事だ。

 何億年の宇宙の歴史から見れば人類なんて小さな存在だ。ブラックホールの存在が写真で見ることができた。

 南インドの大学とも提携しているが、ここの博物館の仮面を見て驚いた。日本の歌舞伎そのものなのだ。そうしてみていくと楽器も、サンスクリット語から派生し、仏教用語が日本人の生活にも入り込んでいる。言葉もインドが原点であることが実に多い。

 カンボジアのアンコールワット建造にはインドの技術者が協力したという。交通がそれほど便利でない時代ではあったが、国境など軽く超えている。世界の政治の風潮が自国主義となっているが小さい小さい。文化を学ぶことだ。