若者の失業率や、職場への定着率が話題になっています。中には「近頃の若者は職場の実態を知らないで就職するから、離職率が高いのだ。従ってインターンシップを行えば…」という短絡的な意見もあるようです。そしてお決まりのように繰り返される「雇用創出」。私は雇用を創出するという言葉に違和感を感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。いえ、私が違和感を感じるのはミルとつきあってきたからかもしれません。なにぶん、彼の『経済学原理』の中でもっとも有名といっていい「労働者の将来に関する章」には「雇用関係の廃棄」という部分があるのです。だから、今更「雇用を創出」するなんて…と思ってしまうのかもしれません。現在の問題からはなれるように思えるかもしれませんが、この「雇用関係の廃棄」の話を説明しておきたいと思います。
日本語訳では「廃棄」という言葉になっていますが、英語ではdisuse。文字通り「使わなくなること」です。使われなくなるのは何かと言えば、資本に使われる(雇われる)こと。その後に始まるのは、働くものが資本を雇うシステムです。以前、この話をアソシエーションとして、起業論として紹介したことがあったと思います。人に雇われて、人の指示に従って働く(自分たちが使用される)立場から、自分たちが資本をを使用する立場になる訳ですから、当然ながら「何に、誰に、どれを、いつ、どこで、どれぐらい、いくらで」を常に考えなくてはなりません。変化する状況の中で、当初立てた計画に固執していてはたちまち倒産するでしょう。試行錯誤と失敗の連続から、顧客が何を考えているのかを読み取っていかなくては、事業は成り立たないでしょう。こうしたシステムが作り出しているのは「雇用」ではなく「仕事」だと私は考えています。そして状況に鋭敏に反応し、試行錯誤から何かを学び取り、その中で自分自身で、自分を成長させながら、自分自身とは何かをつかみ取っていくこと。これが本来の仕事だと考えているからです。本来の仕事は、どんなに単純で肉体作業に見えても、手と足と頭を使い、その人をより鋭敏にするものだと考えます。ではこうした仕事を創り出すことができるのは「起業家」という特殊な人たちだけなのでしょうか。
私の実家は、私が小学校4年生ぐらいから飲食店業を始めました。当然のごとく私自身も中学卒業まで学校のない時は皿洗いをしていました。私の憧れはホールで働くベテランのパートさんでした。中学を卒業した夜、「もう中卒やからホールにたってもええで」といわれたときの喜びを今でもよく覚えています。それからも本当によく怒られましたし、長い間半人前扱いでした。理由は単純で「言われたことしかできない」からです。常連さんの注文を覚えているのは言わずもがなのこと。初めてのお客さんであっても、目線で何を欲しているのか察するのが当たり前。やることがない時間というのはあり得ず、絶えず次の仕事、次の仕事を考える。お客さんの無理は無理として、別の方法でかなえられないかを考える。それで一人前。おしゃれなスーツに身を固め…というような仕事でも、世界を股にかけて…という仕事でもありません。が、私にとって働くことの原点はいつもここにあります。なぜなら、私が初めて「自分で考えて仕事を創った」ところだからです。仕事を創るといっても非常に単純なことです。ある日お客さんに「ここ、お酒おいてないんか~」と言われ「お酒はおいてないんですけど…レモンティーやったらブランデー入れてます」「ほしたら、多めに入れてきてくれや」。こんなことです。けれど、自分で考え、試行錯誤してやってみたことです。結果的にこの時は、このお客さんは喜んでくれました。けれど数知れない失敗もし、その結果を評価され…という過程を繰り返す日々でもありました。そのたびに、自分の思い込みや勘違い、画一化した硬直した態度を悟らされ、臨機応変に柔軟に対処しつつも、どこか一線はキチンと守らなくてはいけないことも感じさせられました。外から見れば単純なパート労働でしか有りませんが、私にとっては私を育ててくれた「仕事」であり、その仕事を創ったのは、私の周りの人々と私自身だったと思っています。
そして今、学生たちと一緒に里山で農作業をやっています。里山の農家さんも、ベテランのパートさんと同じです。竹林から竹を切り出して、田植えのための定規を作る。石垣を積み直す。ちょっとしたエンジントラブルなら自分で修理する。百姓というのは「百の姓」の略でそれは百の生業を現していると聞いたことがありますが、里山の農家さんを見ているとなるほどと思います。その農家さんたちですら、「農業は何年やっても、一度として同じ事がない」といいます。だからこそ毎年工夫が必要なのだと。こんな農家さんの元で、学生たちは叱られながら(あきれられながら)農作業をしています。その中で、本当に頭がいい学生はやはり自分で仕事を創っていきます。どうすれば効率的に草刈り機を操れるか。どうすれば自分の身体を楽に使っていけるのか。教えられたとおりにやるだけでなく、色々と自分で試し始めます。最も自分にあったやり方を発見し始め、続いて周囲を見回す余裕を持ち始めます。そうなると今度は次から次とやってみたい事柄が増えていきます。こういう循環にはまった学生は、自分で仕事が創れる学生です。別に起業をしなくとも、どの会社に行こうとも、どんな部署に行こうとも、自分なりに仕事を創ることができ、仕事を通じて自分自身を磨き上げ、新たな自分を育てることができると思っています。
翻って、「雇用創出」事業はどうでしょう。適性検査を受け、面接セミナーを受け、就職対策講座を受け、そして就職した人たち…。彼らや彼女たちは「仕事に就く」訓練は受けても、「仕事を創る」事が何なのかを体験することがあるでしょうか?インターンシップも同じです。大概のインターンシップではやるべき事柄は、あらかじめ用意されています。どんなに学生の創意工夫を歓迎しますといっていたとしても、それはその企業があらかじめ想定した枠、企業が身を切るような失敗を起こさない枠の中での話です(多いのは、学生の意見を取り入れた新製品開発企画でしょうか)。ちょっとした成功体験や失敗体験をすることでしょう。けれど、定められ、与えられた仕事に就くことに終わってしまうのではないでしょうか。なぜなら、「自分で最初から考え、試してみる」というステップが省略されてしまっているからです。どこかの誰かが考えた枠組みや仕組みの中で、その筋道にしたがって動いていれば、無難に職に就くことができる。いったん職に就けば、またどこかの誰かが与えてくれた仕事を遂行していればよい。雇用創出事業が想定している「雇用」はこれではないかと思うのは、私の勘ぐりすぎでしょうか。でも、そう勘ぐりたくなるほど、雇用創出事業は手取り足取り懇切丁寧なプログラムになっています。
実はミルの時代にも労働者の悲惨な状況を救済しようとする多様な動きがありました。その中の一つに工場主が労働者用の住宅や教育設備を整え、労働者の生活の安定と健康を計るというものがありました。ところが、ミルはこうした計画に大反対の論陣を張ります。理由はただ一つ。労働者を奴隷にするものだから。衣食住のすべてを雇用主が面倒を見るとしたら、労働者は何も考えなくてすみます。けれども「自恃心」を喪失する。ミルは自恃心を人間の美徳がそこから進展する根っ子であると考えています。自らを恃む心。自分で考え、自分で何かを作り出そうとする意欲。その元となるものが自恃心なのです。すべての事柄を誰か他人に委ねてしまったとき、この自恃心は完全に喪失します。いえ、すべてでなくとも、自分に関する事柄、自分が決定すべき事柄を他人に委ねたとき、自恃心はゆっくりと衰退していきます。
自恃心を保ち育てる唯一の方法。それは「自分で考え、決定すること」そして「失敗すること」。失敗は自分の今の限界を一番よく教えてくれる教師です。そして失敗を重ねてトライすることで、いつかその限界を突破することができます。ミルが雇用関係の廃棄disuseに期待したのは、単純に起業社会を目指したからではありません。すべての人が、自分で考え試行錯誤し、失敗し、そしてその中から限界を突破する方法を生み出すこと。自恃心を育てること。そのために「仕事を創る」こと。彼が求めたのはこれだったのではないでしょうか。
雇用創出事業は懇切丁寧に、失敗しないように若者を導こうとしています。けれど失敗した経験が無ければ、失敗することはとてつもなく怖いことになります。失敗するよりは、他人に言われたとおりに動いていよう。そうすれば失敗は自分の責任にはならない。そうして人は失敗を畏れる余りに、自分で考えること、自分で試すことをやめていきます。与えられた仕事を遂行することはこれに似ていないでしょうか。そしてミルはこうした雇用関係の中で、労働者は考えない奴隷になるのだというのです。
「仕事に就く」、「仕事を創る」。皆さんはどちらが好きですか。