働かない若者…

若年者失業率は相変わらず9%台と高い。さらに、もともと失業率は「職を探している」のが前提条件なので、ここに含まれない若者はもっと多い。ニートと分類される若者数は、60万人。半数が25歳以上。フリーターは176万人。大学生の3年以内の離職率は約3割。

 とこうして数字を並べてみると、いったい若者たちは「働く気があるのか」という声が聞こえてきそうだ。では、逆に問い直そう。「なぜ働かなくてはならないのか」。

 小学校以前の子供が、「なんでお母さんや、お父さんはお仕事に行くの?」と聞いたとしたら、仕事のやりがいとか誇りとかよりも、まず「食べていけなくなるから」という答えを返すことが多いと思う。けれど年齢が上がると、不思議にこの問いに対して、様々な理屈や修飾語がついていく。曰く「社会への参加」「自己実現」「働きがい」…。そして、いよいよ就職活動となると、様々な自己分析ツールを使って、自分の適性やら適職を求め、自己PRでは、その職場への期待や展望を語る。不思議ともう誰も「食べていくため」という言葉を公の場では使わなくなる。

 ああ、日本は豊かなのだな…と感じる。食べていくためには、否が応でも「何かをしなくてはならない」時代が過ぎ去った社会なのだなと。そしてある意味若者にとっては不幸な時代でもある。とにかく食べていくためには、今目の前にある職や仕事にしがみついていなければならない状況であれば、迷いも悩みもない。客観的に見れば、悲惨な状況である。その仕事が自分の健康をむしばむ可能性が高く(先進諸国の企業が発展途上国で展開している「スエットショップ」など)、十分な食糧を買うだけの費用を稼げるとは限らない。「食べるために仕事をする」というシンプルな図式は、迷いを許さない。しかしもしその社会の経済状況が好調であれば、仕事にありつく望みは増大する。さらにありついた仕事で、徐々に昇給し、「食べていく」中身が充実していく。これがかつての日本だったのだろう。「金の卵」として就職列車に詰め込まれ、地方から都会に出てきた若者は、けして有利な条件で労働をしていたわけではない。けれども一旦その職を離れると、「食べていけない」という現実的な恐怖感が存在していた。そして将来より良い生活ができるという夢があった。それが「働きがい」という言葉になっていた。

 もう日本はこうした状況にはない。たしかに失業した多くの若者は厳しい生活を強いられる。フリーターの生涯賃金が正社員の1/3にとどまるのはよく知られた話である。生活保護を受ける若者も20万人に達している。一旦職を離れると、再就職が難しいという状況は、実は余り変わっていない。それどころか、高度成長期よりも現在のほうがより厳しくなっているだろう。しかし産業構造の変化と共に、「何かで食べていける分のお金が得られる」という見通しだけは、若者の間で広がっている。実際、学生時代の方が1ヶ月の可処分所得が多かった下宿生も私の周りにいる。

 さて、こうした状況の中、厳しい就職活動をしながら、「なぜ働くのか」という問いに明確な答えを持てないのが、若者の現状だろう。自分に向いている仕事なんてわからない。特にやりたい仕事なんてない。どこでもいいから正社員になりたい。正直、こうした本音は今も昔も変わっていないのだと思う。

 40年前の、30年前の大学生(その頃は進学率は3割だった)も、明確な将来像を持っていたわけではない。大学を卒業したら、何となく就職をするものだろうと思っていた。そしてその受け皿はある程度あった。入社すれば、社員研修等々、良くも悪くもその会社のやり方というのをたたき込まれていった。そして右肩上がりの経済状況の中で、もがけばとにかく業績はついてきた。自分の適性を考える必要すらなかった。

 今はどうだろう。自己分析に適性検査…。あたかも「あなたにあった仕事が既に存在している」かのような装置。そして「働きがい」や「その企業で働く理由」を求められる自己PR。ぼんやりとした本音とは別に、「あなたはなぜここで働きたいのか」という理由を求められる。それにうまく答えられないから、就職が決まらないのだと悩み始める。「働く理由」を何とか見いだそうとする。けれどそれは、プールや海を見たこともない人に、「泳ぐ理由」を問うようなものではないだろうか。働かなくてはいけないのは何となくわかっている。安定を求め、周囲の期待に応えるためには正社員でなくてはいけないとも思っている。けれどその企業にする「理由」は見当たらない。その企業のデータをいくら調べても、その企業で働く姿など想像もできない。

 そうして、何十回と就職試験に、面接に落ち続けていく中で、若者は「働く理由」を見失っていく。適性があるといわれた職種で「むいてないよ」といわれ、それではと職種を広げれば「志望理由が薄弱」といわれる。なぜ働かなくてはならないのか。そう思い始めたとき、食べていくだけなら、学生時代のバイトの延長で十分じゃないのか。その方が気楽だったじゃないか。いったい、ここまで苦労して、企業で働いて、その先何になるのかという思いがよぎる。適性とか適職といった言葉がどんどん薄っぺらくなる。

 こうした経験を経た学生たちは、それでも企業に期待している。苦労して入社したのだから「働きがい」が得られるはずだと。けれど、企業側には新入社員の教育にかける余裕がない。ひたすら即戦力として実績を求める。適性も適職もわからなかったけれど、とりあえず入社したからには、バイトよりは「働きがい」のある仕事を任せられるだろう。そういう期待はあっさりと裏切られる。バイト以上にきつい仕事、それに見合わない評価。働いても「甲斐のない」日々が続くかもしれない。それを乗り越えられれば、その企業に定着することができるだろう。けれど、乗り越えられなければ…離職という道が目の前に開けている。

 素人っぽい分析かもしれないが、学生の視点から見ると、ニートやフリーターの多さも、離職率の高さも、ついでに言えば就職活動のしんどさも、根っ子は皆同じに思える。

 働く前から「働きがい」を、「適職」を追求することが、その根っ子である。そしてその発想の根底には、中学時代から深く根を張っている「自分のレベルだったらここぐらい」があるのではないだろうか。自分ぐらいだったらこの高校、自分ぐらいだったらこの大学と、自分の意志とは別にレベル分けして、行き先が用意されている。そして行き先を決める関門を突破すれば、その中で「受験」や「卒業・就職」を目指して頑張っていればいい。それと同じで、就職活動という関門を突破して、入社すれば「働きがい」は待っているはず…と思ってしまうのではないだろうか。

 「なぜ働かなくてはならないのか」。この問いに明確な答えなどない。根本的に突き詰めれば「食べていくため」なのだ。そして「今現在」食べていくためだけであれば、フリーターであってもニートであってもかまわない状況が、現在の日本にはある。そんな日本で、若年者就職支援と称して、さらに自己分析や面接対策等々、就職活動のテクニックを支援したとしても、若者はいずれ就職への動機をうしなってしまうだろう。学生時代に働くことを体験しようという「インターンシップ」も、都会では就職活動の一環になってしまっている。新入社員の定着率を上げようと思っても、そこまでの人手も労力もない。かといって何とか離職はとどめたい。正直八方手詰まりというのが、行政も企業も実感的な本音だろう。

 では処方箋はないのか。私はそうは思わない。若者に個性的な生き方や働きがいを求めるのはいい。が、その前に働くことの理不尽さを体験してもらう必要があると思っている。働くことは常に相手(仕事仲間、上司、顧客)があってのことだ。必ずしも自分のやりたいことが実現するわけではない。どんなに努力しても実績は別だ。こうした「理不尽さ」心得た上で、もう一度「働くこと」を考え直すことが必要なのではないか。その一方で小さな事でもいいから、自分がやったこと工夫したことが目に見える形でわかる体験も必要だろう。ということで、私が示す処方箋はごく単純。まずは手と足とを動かす労働を学生時代に体験すること。それもできれば最も理不尽な自然を相手に。どんなに頑張っても、一度台風が来ればすべてはおじゃん。どんなに頑張っても、ベテランの技には適わない。その一方で、ちょっとした自分自身の技量の発達を実感できること。非常にプリミティブなことだけれども、その積み重ねがもう一度若者たちに、本当に「働く事って何」を自分事として考えるきっかけを作るのではないかと思っている。その結果として、フリーターの数が変わらなかったとしても、私はそれでいいと思う。統計数字は変わらなくとも、自分自身の働き方をつかんでのフリーターと、仕方なしのフリーターとは、大いに違うと思うからだ。

 今、若者たちが「働くこと」を問い直さなくてはならない時代になっている。その時代に、年配者として私ができることは、働くことの理不尽さと楽しさを自分事として受け止めてもらえる場を作り出すことだと思っている。

仕事を「創る」

若者の失業率や、職場への定着率が話題になっています。中には「近頃の若者は職場の実態を知らないで就職するから、離職率が高いのだ。従ってインターンシップを行えば…」という短絡的な意見もあるようです。そしてお決まりのように繰り返される「雇用創出」。私は雇用を創出するという言葉に違和感を感じるのですが、皆さんはどうでしょうか。いえ、私が違和感を感じるのはミルとつきあってきたからかもしれません。なにぶん、彼の『経済学原理』の中でもっとも有名といっていい「労働者の将来に関する章」には「雇用関係の廃棄」という部分があるのです。だから、今更「雇用を創出」するなんて…と思ってしまうのかもしれません。現在の問題からはなれるように思えるかもしれませんが、この「雇用関係の廃棄」の話を説明しておきたいと思います。

 日本語訳では「廃棄」という言葉になっていますが、英語ではdisuse。文字通り「使わなくなること」です。使われなくなるのは何かと言えば、資本に使われる(雇われる)こと。その後に始まるのは、働くものが資本を雇うシステムです。以前、この話をアソシエーションとして、起業論として紹介したことがあったと思います。人に雇われて、人の指示に従って働く(自分たちが使用される)立場から、自分たちが資本をを使用する立場になる訳ですから、当然ながら「何に、誰に、どれを、いつ、どこで、どれぐらい、いくらで」を常に考えなくてはなりません。変化する状況の中で、当初立てた計画に固執していてはたちまち倒産するでしょう。試行錯誤と失敗の連続から、顧客が何を考えているのかを読み取っていかなくては、事業は成り立たないでしょう。こうしたシステムが作り出しているのは「雇用」ではなく「仕事」だと私は考えています。そして状況に鋭敏に反応し、試行錯誤から何かを学び取り、その中で自分自身で、自分を成長させながら、自分自身とは何かをつかみ取っていくこと。これが本来の仕事だと考えているからです。本来の仕事は、どんなに単純で肉体作業に見えても、手と足と頭を使い、その人をより鋭敏にするものだと考えます。ではこうした仕事を創り出すことができるのは「起業家」という特殊な人たちだけなのでしょうか。

 私の実家は、私が小学校4年生ぐらいから飲食店業を始めました。当然のごとく私自身も中学卒業まで学校のない時は皿洗いをしていました。私の憧れはホールで働くベテランのパートさんでした。中学を卒業した夜、「もう中卒やからホールにたってもええで」といわれたときの喜びを今でもよく覚えています。それからも本当によく怒られましたし、長い間半人前扱いでした。理由は単純で「言われたことしかできない」からです。常連さんの注文を覚えているのは言わずもがなのこと。初めてのお客さんであっても、目線で何を欲しているのか察するのが当たり前。やることがない時間というのはあり得ず、絶えず次の仕事、次の仕事を考える。お客さんの無理は無理として、別の方法でかなえられないかを考える。それで一人前。おしゃれなスーツに身を固め…というような仕事でも、世界を股にかけて…という仕事でもありません。が、私にとって働くことの原点はいつもここにあります。なぜなら、私が初めて「自分で考えて仕事を創った」ところだからです。仕事を創るといっても非常に単純なことです。ある日お客さんに「ここ、お酒おいてないんか~」と言われ「お酒はおいてないんですけど…レモンティーやったらブランデー入れてます」「ほしたら、多めに入れてきてくれや」。こんなことです。けれど、自分で考え、試行錯誤してやってみたことです。結果的にこの時は、このお客さんは喜んでくれました。けれど数知れない失敗もし、その結果を評価され…という過程を繰り返す日々でもありました。そのたびに、自分の思い込みや勘違い、画一化した硬直した態度を悟らされ、臨機応変に柔軟に対処しつつも、どこか一線はキチンと守らなくてはいけないことも感じさせられました。外から見れば単純なパート労働でしか有りませんが、私にとっては私を育ててくれた「仕事」であり、その仕事を創ったのは、私の周りの人々と私自身だったと思っています。

 そして今、学生たちと一緒に里山で農作業をやっています。里山の農家さんも、ベテランのパートさんと同じです。竹林から竹を切り出して、田植えのための定規を作る。石垣を積み直す。ちょっとしたエンジントラブルなら自分で修理する。百姓というのは「百の姓」の略でそれは百の生業を現していると聞いたことがありますが、里山の農家さんを見ているとなるほどと思います。その農家さんたちですら、「農業は何年やっても、一度として同じ事がない」といいます。だからこそ毎年工夫が必要なのだと。こんな農家さんの元で、学生たちは叱られながら(あきれられながら)農作業をしています。その中で、本当に頭がいい学生はやはり自分で仕事を創っていきます。どうすれば効率的に草刈り機を操れるか。どうすれば自分の身体を楽に使っていけるのか。教えられたとおりにやるだけでなく、色々と自分で試し始めます。最も自分にあったやり方を発見し始め、続いて周囲を見回す余裕を持ち始めます。そうなると今度は次から次とやってみたい事柄が増えていきます。こういう循環にはまった学生は、自分で仕事が創れる学生です。別に起業をしなくとも、どの会社に行こうとも、どんな部署に行こうとも、自分なりに仕事を創ることができ、仕事を通じて自分自身を磨き上げ、新たな自分を育てることができると思っています。

 翻って、「雇用創出」事業はどうでしょう。適性検査を受け、面接セミナーを受け、就職対策講座を受け、そして就職した人たち…。彼らや彼女たちは「仕事に就く」訓練は受けても、「仕事を創る」事が何なのかを体験することがあるでしょうか?インターンシップも同じです。大概のインターンシップではやるべき事柄は、あらかじめ用意されています。どんなに学生の創意工夫を歓迎しますといっていたとしても、それはその企業があらかじめ想定した枠、企業が身を切るような失敗を起こさない枠の中での話です(多いのは、学生の意見を取り入れた新製品開発企画でしょうか)。ちょっとした成功体験や失敗体験をすることでしょう。けれど、定められ、与えられた仕事に就くことに終わってしまうのではないでしょうか。なぜなら、「自分で最初から考え、試してみる」というステップが省略されてしまっているからです。どこかの誰かが考えた枠組みや仕組みの中で、その筋道にしたがって動いていれば、無難に職に就くことができる。いったん職に就けば、またどこかの誰かが与えてくれた仕事を遂行していればよい。雇用創出事業が想定している「雇用」はこれではないかと思うのは、私の勘ぐりすぎでしょうか。でも、そう勘ぐりたくなるほど、雇用創出事業は手取り足取り懇切丁寧なプログラムになっています。

 実はミルの時代にも労働者の悲惨な状況を救済しようとする多様な動きがありました。その中の一つに工場主が労働者用の住宅や教育設備を整え、労働者の生活の安定と健康を計るというものがありました。ところが、ミルはこうした計画に大反対の論陣を張ります。理由はただ一つ。労働者を奴隷にするものだから。衣食住のすべてを雇用主が面倒を見るとしたら、労働者は何も考えなくてすみます。けれども「自恃心」を喪失する。ミルは自恃心を人間の美徳がそこから進展する根っ子であると考えています。自らを恃む心。自分で考え、自分で何かを作り出そうとする意欲。その元となるものが自恃心なのです。すべての事柄を誰か他人に委ねてしまったとき、この自恃心は完全に喪失します。いえ、すべてでなくとも、自分に関する事柄、自分が決定すべき事柄を他人に委ねたとき、自恃心はゆっくりと衰退していきます。

 自恃心を保ち育てる唯一の方法。それは「自分で考え、決定すること」そして「失敗すること」。失敗は自分の今の限界を一番よく教えてくれる教師です。そして失敗を重ねてトライすることで、いつかその限界を突破することができます。ミルが雇用関係の廃棄disuseに期待したのは、単純に起業社会を目指したからではありません。すべての人が、自分で考え試行錯誤し、失敗し、そしてその中から限界を突破する方法を生み出すこと。自恃心を育てること。そのために「仕事を創る」こと。彼が求めたのはこれだったのではないでしょうか。

 雇用創出事業は懇切丁寧に、失敗しないように若者を導こうとしています。けれど失敗した経験が無ければ、失敗することはとてつもなく怖いことになります。失敗するよりは、他人に言われたとおりに動いていよう。そうすれば失敗は自分の責任にはならない。そうして人は失敗を畏れる余りに、自分で考えること、自分で試すことをやめていきます。与えられた仕事を遂行することはこれに似ていないでしょうか。そしてミルはこうした雇用関係の中で、労働者は考えない奴隷になるのだというのです。

 「仕事に就く」、「仕事を創る」。皆さんはどちらが好きですか。

ワークとレイバー

もうふた昔以上前、日本人はウサギ小屋に住む働き蟻だと揶揄されたことがある。過労死は「karoshi」として英語の辞書に収録されている。家庭は妻子に任せ、会社のため、仕事のために粉骨砕身するのが、日本人特にサラリーマンの典型像のように思われている。

 これに対比されるのが、欧米人の仕事よりも私生活というライフスタイルである。かつて家族を同伴して来日した外国人プロ選手が、家族が日本になじめないという理由で退団、帰国したときのマスコミの騒ぎを良く覚えている。その騒ぎの根底には「たかが妻子供のために、大の男が仕事を放り出すのか」という非難めいた驚きがあった、

 時代はそれからもう30年近くたっている。しかし「単身赴任」など欧米ではありえないとか、学会に子供や家族のためのプログラムが用意されているといった話を聞く限りでは、事態はそんなに換わっていないように見える。

 家族重視で仕事とプライベートをしっかり分ける生き方と、仕事とプライベートの境目があいまいになっている生き方。この二つは相容れないもの、まったく異なった生き方に見える。しかし本当に相容れないのだろうか。「仕事」というもの「生き方」というものをもう一度考え直すことからはじめてみたい。

 仕事というとワークという英語が思い浮かぶが、実はレイバーという言葉もある。レイバーは「労苦」という意味合いを含んでいる。実際、今でも経済学の標準理論はレイバーを「できれば忌避したいもの。しかしレイバーなしでは所得が得られないので、所得と余暇とのバランスで最適な労働時間を選択している」と考える。キリスト教的な意味合いではエデンの園を追われ、現在を背負ったアダムとイブの子孫である人間全体におわされた「原罪」の一部と考えられるときもある。ここでの仕事は、仕方なく遂行するもの、義務でしかない。しかし、おなじキリスト教文化の中に仕事を表す別の言葉が存在する。ワークとcallingである。前者はおなじみなの英単語なので、説明を後回しにすることにして、後者のcallingから検討してみよう。これは文字通りcall(命)に応える仕事である。神からでもいいだろうし、自分が感じた使命でもいいだろう。何事かに呼ばれるようにして、自ら「天職」として選んだ仕事である。これはレイバーの対極にあるといってよいだろう。忌避するものではなく、喜んでそのために一身をささげるような、そんな特別な仕事である。そして比較的中立的なワーク。ただし、ワークも同じ言葉が芸術作品に使われるように、レイバーのような重荷感は比較的少なくなる。

 日本語はどうだろう。苦役という言葉はめったと仕事には使わないだろう。稼ぎがもしかするとレイバーに近いのかもしれない。生活のため、食べるためにやらなくてはならないこととしての「稼ぎ」。生業(なりわい)となると、少しニュアンスが違う。callingほどではないが、「これを生業としております」という人(職人さんが多いのだが)は、どこか誇らしげである。仕事という言葉自体は新しい言葉でもあり、比較的中立だろう。面白いのは「なりわい」という言葉が感じでは「生業」とかかれる事だ。どうも、日本では古くから「生きること」と「仕事」はくっついていたらしい。水田稲作という世界一生産性の高い(ただし労働集約的な)生活基盤を持っているからかもしれない。なにせ田んぼを作るのは、家族総出の作業であり、生活を維持することと家族を維持することは同義なのだから。けれど、日本的な生業に私的な生活がなかったかというとそうではないだろう。逆に西欧的な天職には私的な生活はないといってもよい(神から召命を受けたら、家族も家財も放り出して、神の命に従うというのが天職なのだ)。

 実は、家族やプライベートといった私的生活と仕事が分離していくのは、近代社会の傾向である。仕事とプライベートをきっちりと分ける、家族と過ごす時間を別に確保するという典型的な西欧型のライフスタイルは近代の産物である。だからこそ、西欧人にとってはそれが「普通」なのであり、他の社会ならともかく自分たちの社会の中で「仕事第一」と言い放つような人間は、「異質なアウトサイダー」と見られやすい。その逆パターンが日本だといえよう。要は、その社会で承認されやすいスタイルを(無意識に)選んでいるし、それが典型だと考えているわけだ。

 この「承認」という欲求、そして自分が行っていることが意味あることだという「意義付け」。この二つが仕事でもプライベートな生活でも、人が生きる上での大きな決め手となっている。夜遅く帰宅し、休日出勤をいとわなくても「家族は俺の(私の)ことを認めてくれている」し、自分の仕事は会社を通じて社会的に「意義がある」と思うからこそ、モーレツサラリーマンは生まれる。もし会社の仕事に意義を見いだせず、会社の中で自分の仕事や居場所が承認されなければ、仕事はワークではなくレイバーになる。そうなったらどんなに成果主義で飴と鞭を振るっても、労働生産性は上がらないというのが、現代経済学の知見である。プライベートな生活でもそうだ。欧米では休日や帰宅後、地域のボランティアやコミュニティの活動に積極的に参加する。それは「意義」ある仕事であり近隣コミュニティの一員として「承認」が得られるからである。もし義務的な割り当てになってしまったら、途端にコミュニティの様々な活動は停止してしまうだろう(70年代以降、コミュニティが崩壊の一途をたどっているのがアメリカである)。

 仕事にしろ、私的な生活にしろ、その根底にあって人を動かす動力源となっているのは「承認」と「意義」だといってもよい。どの場所で、どのような承認や意義付けが得られるかで、仕事と私的生活が渾然一体となる場合と、明確に分かれる場合があるだけだ。

 そして、今後、人々は自分自身にとって最も相応しいと思える場所での承認と意義を求めて行くことだろう。大手だから社会的に「意義」があるとはいえない事件が続き、仕事と生活の双方を充実させようという動きが徐々に広がってきている。自分自身が「意義」を感じられ、その場で対等の仲間から「承認」される仕事を求め、その中で自分らしい「生き方」も模索していくことだろう。なぜなら自ら意義を感じて集まった対等の仲間であれば、仕事に関する意見の相違を尊重するだけでなく、それぞれのライフスタイルの違いも尊重する可能性が高くなるからだ。そこではもう「仕事と私生活の区別がないのが不思議」という感覚はあっても、それが間違っているという判断はあり得ない。それはその人がその時選んだ「意義」付けの方法なのだから。逆に私生活優先だからといって、組織内の仕事をきっちりと果たしているのであれば、「なんで先に帰るんだ」などという不平も生まれようがないだろう。

 ただし一つだけ注意が必要である。「意義」と「承認」は人間にとって不可欠だが、麻薬のようなものだ。ファシズム的絶対服従を産んだり、舞い上がって、自分の会社さえ良ければなにをしても良いという行動が承認されるようになる。洋の東西を問わず、組織がスキャンダルを起こす場合、その背後にはこうした意義付けと承認のゆがみが隠れている。これは特に外に対して閉鎖的な組織で起こりやすい。逆に、組織や家庭の中で、なかなか承認が得られないとなると、マイナスの承認を得ようとする場合もある(スーパーでぐずって言うことを聞かない子供を思い浮かべてもらうといい。子供は親の注意を引きたい場合がほとんどだ)。これは非常にやっかいだ。生き方においても、仕事においても、何らかの承認が欲しいがために、マイナスでもいいからとなっていくと、マイナスの承認を引き寄せてしまうし、マイナスの承認を自ら求めるようになるというのが、心理学の知見である。

 こうなると、 自分自身に対する評価を低め、常に叱られている方が「安心」するようになる。生きにくそうに見えるのだが、案外本人はそれに気がついていなかったりする。周りが常に自分より優れているように見えるので、周りのまねをしよう、周りの指示通りにしようと必死になることになる。じつはそれが自分自身の意義付けの根っ子を掘り崩していることに気がつかないまま。やがて、根っ子のない、芯のない生き方しか選べなくなってしまう。もしかすると、マイナス承認ばかりを受けすぎて、知らないうちに心が折れてしまい、ふと気がつくと自死しているかもしれない。

 おそらく、今後働き方あるいは生き方の問題としてクローズアップされてくるのは、過労死や自殺の根っ子にあるマイナス承認衝動ではないかと危惧している。しかも真理に関わるだけに、本人が変えようと思わない限り、他人がどのように働きかけようと無駄である。とはいえ、これは人間の自尊や自侍という人間の様々な特質の基本的土台に関わるものである。自尊や自侍なしに創造的なものは生まれない。正直この点に関しては、将来社会が抱える最大の問題ではないかと危惧しているのだ。