この頃の若者は失敗をおそれ、小さくまとまりすぎるという苦言をよく聞く。その一方で、何事かを為そうとすると、次のような問いが発せられる。「成功の見込みは?」。この問いに対して、やってみなければ分からないと答えると、無責任と言われる。見込みがあると答えると、「どれだけ」と数値化を求められ、その根拠を問われる。けれど、こうした問いは本当に意味があるのだろうか。
未来に向かって、何かをしようとする時、特にそれが今までやったことのないものである時。人間はそれが成功するかどうかの見込みだとか確率だとかを計算しているのだろうか。難しく考えなくてもいい。初めての愛の告白。その時、あなたは、好きな人があなたの思いに応えてくれる見込みを、計算していただろうか。その人が、あなたの思いに応えてくれる確率が30%だといわれて、あなたは恋をあきらめることが出来るだろうか。
私は、人間が行う新奇の試みはすべて恋愛の告白と一緒だと考えている。やってみるまで結果は分からない。見込みだとか確率だとかで行動するのではなく、自分の心のありよう、決断の仕方で行動している。そしてその結果もやはり「成功」「失敗」ではとらえきれない。もしなにか結果が残るとすれば、それは「経験」でしかないと。そんなバカな。事業は利益を上げるかどうかで成功と失敗が決定されるではないか。新しい試みであれば、それが社会に受け入れられるかどうかで、結果が判断できるではないか。それを単に「経験の積み重ね」だなどとなんと甘いことを、という反論が聞こえてくる。
確かに、今まではそうだったのかもしれない。投資家は投資した資金に見合うリターンを金銭に換算し、そのための保証を求める。融資はなおさら、他人の金銭を預かっているのだという理屈を振りかざして、いっそう確かな裏付けを求める。けれど、それで本当に「新しい」ものを生み出すこと、あるいは新しいものを生み出す「支援」が出来るのだろうか。見込みや確率が計算できるのは、既知の知識の延長線上にあり、その知識の延長戦で理解可能なモノだけだ。今、私はパソコンを使って原稿を書いている。ほんの100年前の人にこの事を分かってもらうには、どう説明すればいいだろう?キーボードを、マウスを、いやそもそもパソコンという機械そのものを、何に例えればいいだろう。その成功の見込みを納得してもらうことが出来るだろうか。「新奇なもの」というのは、既存知識の延長線上ではないからこそ「新奇」なのだ。その新奇性は既知のものや確率計算からははずれたところにある。だからこそ、新奇性にかける人間性をケインズは「アニマルスピリット」とよび、シュンペーターは「アントレプレヌール」と呼んだ。それは確率と既知の世界からは、予想も出来ない事柄であるからだ。それは新奇なもの、新奇な事柄を起こす人だけではなく、その新奇なことを評価し、それに賭けようとする周囲の支援者にも当てはまる。支援者は「おもしろいから」「惚れたから」支援する(実際、アメリカ等の個人ベンチャー支援者は、ベンチャー起業の収支計算書など見ないという。彼らがもっとも重んじるのは事業コンセプトであり、なぜその事業を行うのかという動機だそうだ)。
けれど、こう書いてしまうと、まるでそれは「特別な才能」をもった人による「特別な出来事」であるかのように思えてしまう。Think Differentと言えるのは、そしてそれができるのはスティーブン・ジョブズだけかのように。だからこそ、最初に愛の告白の例を持ってきたのである。もちろん、世の中のあり方を変えてしまうような「発明」とか「発見」というのはある。でも、なのだ。
「大阪城を造ったんは誰や」「そんなん秀吉に決まっとるがな」「あほいえ、大工じゃ」という大阪のベタなギャグがある。そう、大阪城を造ろうと考え、命令したのは権力者であり、特別な人間かもしれない。けれど、実際の石垣をどう積むのかを一番よく分かっており、あの見事な石垣を造ったのは石工である。彼らの営みは名前付きでは残らない。里山で農作業をしていると、尋ねる人毎に、地方毎に、呼び名の違う農機具によく出会う。それは、その地の誰かが、いつともしれず工夫し、やがて多くの人が使うことになった道具である(そして土地が異なれば、非常によく似た機能を持ちながらも、その土地に似合った農機具がいつの間にか生まれる)。
こうした日常の工夫を重ねたのは、ごく普通の人々である。彼らは毎日の仕事の中で、「もうちょっとどないぞならんやろか」と問いかけ、工夫をし、新奇なものを生み出していったのだ。それは大きな新奇性ではない。けれど、それを生み出す時に、そうした人々も、きっと「成功」とか「失敗」という言葉で自分の工夫を考えていなかっただろうと思う。ただひたすら「こうやったら、どうなるやろう」「もうちょっとこうしたほうがええやろか」という試行錯誤の連続だっただろう。そしてできあがった道具や仕事の手順なりを、次の世代が引き継ぎ、また新たな工夫を重ねる。そのときも「爺さんはこうしとったけど、ちょっとな~」で工夫が始まったことだろう。それでうまくいくときもあれば、うまくいかないときもあっただろう。うまくいけば、新しい道具、やり方として根付くだろうし、うまくいかなかったからといって、何か責任を問われることもない。本人もせいぜい時間を無駄にしたと思うか、逆に「ええ経験したわ」と思うかのどちらかだったろう。
いったい何時から人間の営みを「成功・失敗」の二分法で評価するようになったのだろう。成功とか失敗とか誰が決めるのだろう。失敗や成功は、ある人のある時点を切り取り、第三者が何らかの指標(会社が上場したとか、一流大学に合格したとか)を外から当てはめて判断する言葉でしかない。いつの間にかこの「外の第三者」つまり「世間様の常識的」物差しによる判断が、物事の基準としてまかり通りようになっている。それが「成功と失敗」の二分法なのではないだろうか。でも、人の一生や、営みは、連続写真では捉えきれない。自分も周りも変転していく中で、即時にそれに対応しながら、延々と時と経験を重ねる。その連続の中では、今日の成功は次の失敗であり、昨日の失敗は明後日の成功なのかもしれない。というよりも、成功も失敗も意味を持たないというのが本当のところだろう。もし、成功とか失敗という言葉が意味を持つとすれば、結果をいかに受け止めたかという点だけだと思う。
人から賞賛されて舞い上がり、あたかも自分自身の力だけでその結果を勝ち取ったかのように思い込む。逆に賞賛の言葉を拒否してしまう。思うように結果が出ず、人からなんだと軽蔑されそうになったときに、「俺が、俺だけが悪いんじゃない」「あいつがあそこでちゃんと仕事をしてれば…」「運が悪いんだ」といいわけをする。このどちらのスタンスも次には何ももたらさない。自分の行動の結果を受け入れていないからだ。逆にほめられたときは素直に受け取り、自分の協力者にもそれを伝え、どこが良かったんだろうと考える。結果が出なかったら、どうしてそうなってしまったのかを事実ベースで考える。結果をまともに受け止め、その原因を「誰か」がしたことではなく、「何が」その原因となったのかを考える事。そうすると、その結果は次に活かすことができる。ただし同じ事は二度とは起こらないから、あくまでも次の出来事に対処するためのヒントが重ねられていくだけでしかない。肝心なのは、そうしたヒントの引き出しをたくさん持ち、そこからどれだけの対処方法を引き出していけるかだ。天才とか、世界的な起業家と言われる人は、ある出来事に対処するヒントを引き出しから引き出すのに秀でているか、一つのヒントから数万の対処方法を思いつける人だと思う。でも、私のような凡人でも一つ一つの経験を大切にすれば、「次は…」というヒントを積み重ねていける。そしてその一つ一つを大事にしていけば、自分にできること、できないことがわかってくる。自分の思いを伝えやすくなっていく。自分ができることがわかり、思いを伝えることができれば、一緒に仕事をしている仲間とも共有できること、委ねられることが多くなる。信頼関係が生まれる。
本当に小さな事かもしれない。けれど、歴史を、社会を動かしてきたのは、こうした小さな動きの積み重ねでしかないのだ。龍馬や秀吉も一人では何事もできない。仲間がいても少数であれば社会は動かない。社会が動くとき、それは小さな動きがいつの間にかシンクロするときでしかないのだ。だからこそ小さな営みの中で、一つ一つの経験の積み重ねを大事に受け止めることが一番大切なのではないかと思う。