曖昧な日本の…

日本の若者には元気がない、覇気がない、やる気がない、よくいわれている。内向き志向、縮み志向といった言葉も日本の若者の同じような生態を表す言葉だろう。これに対して、何事にもどん欲で、上昇志向で、目的意識が強く、活気にあふれ、外へとどんどん出て行くのがアジアの若者。エネルギッシュだ。日本の若者はどうも分が悪い。そしてグローバル時代の今、若者がこんなざまで日本は(あるいは日本人は)どうなるのか!と危機が叫ばれる。私はこの危機のすべてを否定するつもりはない。けれどその危機を日本特有のものとしたり、危機対処策として若者を厳しく鍛え直す必要性が叫ばれたりすると、ちょっとした違和感を覚える。

 歴史上、隆盛を誇った国や体制がピークを過ぎた頃。「近頃の若者は軟弱だ」「何を考えているのか」「豊かな生活に甘えてダレきっている」といわれる。右肩上がりの成長を続けた勃興期、社会変化を受けた変革期に比べ、自分の生活中心で社会のことを考えなくなっているとも批判される。そう、今の日本の若者に投げかけられる言葉の60%ぐらいがいつも繰り返されている言葉だ。共通の表現の根っこには共通の要因が潜んでいると思ってよいだろう。私が考える共通要因は共通目的の喪失だ。共通といっても意識して共有されているとは限らない。時代の風とか時代の精神とか、日本的にいえば「世間の常識」といったものとして、無意識の裡にしっかりと人々の生活や行動、思考様式に根を下ろしているものだ。高度成長期の日本でいうと「明日は良くなる」という考え方になるだろう。今のアジアの若者たちもそう考えているのかもしれないが、高度成長期の日本の若者たちは、自分が努力すれば明日は(近い将来は)きっと良くなる、良い生活(良い給料、良い家、良い…)が得られると思っていた。

 今の日本はどうだろう。時代の風とか精神というと不透明・不確実・想定外という言葉が浮かんでくるのだが、この原稿の読者であるあなたは何を思い浮かべるだろうか。物質的には豊かになった、確かに今日の食べ物はあるかもしれない。でもこの先どうなるのかよくわからない。今はなんとか職についているけれど、来月は、来週はどうなるかわからない。自分は運良く職に就けたけど、先輩は、後輩は…(本当は自分だって運が悪かったら…)。努力と成果が直結していると素直に信じきることができない時代にいるのではないだろうか。逆説的にだからこそ、一部の若者の間で自己責任が叫ばれ、保護を受けている人たち(彼らからみれば努力せずに報酬を受け取っている人たち)に対するバッシングが流行しているのではないか。「あいつ」たちが失業しているのは、惨めな思いをしているのは、保護を受けなくてはならないのは、怠けていたからだ。努力している自分は決してそんな目に遭うとことはないのだと信じたいがために、自己責任を叫び立てているのではないだろうか。全てが自己責任ならがんばっている自分は報いられるはずなのだから。

 話がそれてしまったが(とはいえ結構同根だと思っているのだけれど)要は豊かだけれど、あるいは豊だからこそ、先の見通しがつかなくなっているのではといいたいのだ。別段不況で就職難で雇用不安だからというだけではない(もちろんそれも大きな要因だが)。かつてのように収入が増えれば「良い」生活が得られると考えられない。なぜって「良い」生活の良さがいろいろあるんだといわれているから。目的を持って生きろといわれるけれど、じゃあ目的って何ですかというと、自分で見つけれろ甘えるなといわれる。でもそういっている側はどうかといえば、自分で目的が明確にあった訳ではなく、やはり何となく生きてきただけだったりする。それでも目的があるようにいえたのは、時代の風が目的を設定してくれていたからだ。まずは「豊かになろう」と。でも豊かさって「何の」豊かさなんだろう(お金の?人付き合いの?丁寧に生きるって?貧しくても豊かだって??)。「良い」も「豊かさ」もかつてのような共通のイメージを呼び起こさない。だから自分で考えろといわれる。そしてそれこそが自立なのだといわれる。

 自分で考えること、自分で問うことが大事なのは言うまでもない。でも自分で考えるためには何かしら基盤が必要だ。考え、疑問を呈し、ぶつかるための強固な基盤。ところが、そんなものは「ない」というのが世間の常識だ(本当にないのかどうかはこの際どっちでもいい。ないということになっているのが重要なのだ)。更地から考えること、更地から何かを打ち立てることはしんどい。それよりは目的なしといわれようと、何を考えているんだかといわれようと、「ある」ようにみえるレールに従ったまま、これまで通りに生活を続けて行く方が随分と楽だ。前ではなく下を向いて(そうすれば躓かずにすむ)、決して高望みせず(そうすれば失望せずにすむ)、失敗しても悔しがらず(そうすれば失敗の傷を小さく思うことができる)あるいは失敗を受け入れて(本当は受け入れていないけれど、「わかりました」といっておけば二度とは追求されない)…。

 人間は何時いかなる時代でも、東西を問わずどこでも、一般に(つまり普通なら)辛いよりも楽な方を好むし、何かをして傷つくよりは何もしないことを好む。だから今の状況で日本の若者に冒険的であれ、どん欲であれと望むのは身勝手な話だ。ピークを迎えて嗜好や価値観や生き方が多様だということが建前上であれ「常識」の社会では、若者は未来に賭けることができない。賭けるものが大きいからではない、賭けの報酬が曖昧だからだ(何円あたるかわからない宝くじを誰が買うだろう)。タイトルを「曖昧な」としたのはこのことだ。

 さて、ではこの曖昧な状況の中でそのまま座してひたすら黄昏れていくべきなのだろうか。その道も「有り」だと思う。ただその道はリスクが高い。黄昏れるということは、いわゆるグローバルな競争から降りるということだ。競争から降りた結果、追い抜かれて、馬鹿にされて…でも淡々と生きることができる人はごく少数だと思う。追い抜かれ相手が自分のことをせせら笑っていると思っらコンチクショウと怒る。怒っても自分に実力が伴わない時人間は卑怯になる。自分に実力がないことを泰然自若と受け入れることができずに、相手の揚げ足を取ったり姑息な手段に訴えて相手をおとしめたりしがちだ。そう、黄昏れるという道をとるならば、日本の若者は真剣に自分の品性を磨かなくてはいけない。グローバルな競争という一元的な価値観に決して振り回されることなく、相手を貶めることなく、かといって自分を卑下することなく、淡々と生きることができるための確固とした何かを自分のうちに築き上げなくてはならない。それは結構大変なことだ。

 黄昏れることが難しいならどうすればいいのだろうか。曖昧な状況の中で、共通の目的もなく、黄昏れることもできず、いわゆるグローバル競争で勝ち残るだけの気力や意欲も持てない。きわめて中途半端、まさに曖昧そのものだ。今の若者の姿とどこかだぶって見える。そして私はこの曖昧さの中で曖昧さともがき続けることが、日本の若者の道なのではないかと思っている。もしかすると日本の若者にしかできないことなのかもしれないとさえ思っている。なにしろノーベル文学賞受賞記念講演のタイトルが「曖昧な日本の私」、水墨画にしろ洋画にしろ日本に来ると湿度に満ちた曖昧風となり、白と黒の淡いに百匹の鼠(色)を見いだす。そういう風土と文化に育ってきた日本の若者(国籍ではない、この土地と風土で育っているとどうしてもそうなってしまうのだ)。共通の目的を喪失し曖昧な状況に陥るということが、繁栄のピークを過ぎた「成熟社会」の共通特質だとしたら、曖昧な風土に育った日本の若者はその曖昧さを活かして曖昧な中で生き続ける新しいモデルを作るという道があるのではないだろうか。一見熱のない、ちゃらんぽらんな生き方と区別がつかない道でもある。でも常に留保条件を付け別のやり方や道を意識する曖昧さとちゃらんぽらんな生き方との差は確かにある。それは「自分で決めた」という意識を捨てないことだ。たとえそれが本当は単なる偶然にすぎなく、一時の気まぐれだったりしても、「なんだかんだいっても自分が決めたんだし」と自分自身に対してちゃんといえるかどうかだ。ちゃらんぽらんな生き方にはこれがない。逆に「親がいったから」「会社の命令だから」「いやその時はそれが正解だって風潮だったし」という他人の決定がある。そこさえわきまえていれば、道は千差万別きわめて曖昧。だけどその曖昧さを楽しむ知恵は日本の風土と歴史と知恵の中に埋もれていると思うのだ。

その事実、本当に事実ですか?ー数字って意外に嘘つき

なんだか今回はキャチコピーのようなタイトルになってしまったけれど、3.11以来、数字のマジックというものをつくづく考えさせられてしまうことが多いのだ。数字のマジックといっても、数字自体が間違っているというのは論外。というよりむしろ質がいいのかもしれない。事実ではないということが調べればすぐにわかるからだ。このごろ増加しているのが「数字は間違いではないが伝え方によって意味合いや印象が異なってしまう」という例だ。

 「死因順位別にみると、第1位は悪性新生物(ガンのこと)…全死亡者のおよそ3人に1人は悪性新生物で死亡したことになる」。この文章は厚生労働省の統計から引用したものだ。さてこの数字やこの文章がガン保険の宣伝に使われていたら、どう感じるだろう。ガンで死ぬ人は3人に1人なのだから、自分もガンになるかもしれない、今のうちに保険に入っておかないと…という不安にかられないだろうか。これがいわゆる数字のマジックである。マジックの種は「全死亡者」にある。「全死亡者」というような、日頃自分が使っていない言葉を前にすると人間は、それを自分にとってなじみのある言葉や概念に置き換えてしまう傾向があるという。この場合「全死亡者」は「全ての人」に置き換えられやすい。全ての人は必ず死ぬ訳のだからといって、そう置き換えて…は「いけない」。全死亡者はその年に死んだ人全員である。この文章は平成20年の統計のものなので、全死亡者数は114万2467人、ガン死亡者数は34万2849人(30%)。これに対して同年の全人口は1億2769万2000人。ということはガンで死ぬ人は全人口比だと2%強。さぁどうだろう。先ほどと数字から受ける印象は随分違っていると思う。

 もう一つ古典的な例としてはグラフの縦軸の比率を変えるといったグラフのマジックもあるが、このマジックを文章で説明するのは難しいので、似たような例としてある心理実験をあげておこう。アイスクリームがカップに入っている写真を想像してほしい。一枚目は250ml入りのカップにアイスクリームがあふれんばかりに入っている(カップの大きさは250mlと書いてある)。二枚目ではアイスクリームはカップにちょっきり収まっている(カップの大きさは300mlだ)。二枚の写真を順番に見た被験者のほとんどが一枚目のアイスクリームを選択するという。見た目「山盛りで多そう」だからだ。逆に二枚の写真を一度に見せられた被験者のほとんどは二枚目を選んだ。比較対象があることで冷静に二つを比べ数字を確かめたからだ。心理学や行動経済学の近年の実験や観察から、人間は山盛りの外見に惹かれやすいーわかりやすい指標に飛びついて判断しがちだということがわかってきている。

 さてさて、このところの報道やネットの記事等々で「見やすく」「わかりやすく」「違いが際立つ」文章やグラフを見かけなかっただろうか。そして何となく数字があるから、データがあるから、きっとこれは確かな事実なんだと思いがちではないだろうか(といっている私も実は数字には極端に弱い。だから数字やグラフがあると詳細に検討せず、鵜呑みにしがちである)。「事実」と思えるように、嘘とはいわないまでも微妙に誤解を招くような文脈で語られていることに気がつかないまま、なんとなく見出しや字幕やコメントを見聞きして、なんとなくそれが事実だと思って、なんとなく不安感や不信感を持ったり、なんとなく「悪いのは…だ」と思ったり…というようなことが、近頃多いような気がする。なによりこのごろ世の中には悪いニュースが満ちている。災いをいち早く知らせることがニュースの語源だと聞いたことはあるけれど、それにしてもちょっと遣り過ぎ何じゃないかというぐらい、新聞各社の見出しは不安と不信と危機の連続だ。就職危機に雇用危機、子供は貧困に陥り、放射能や農薬その他諸々で国土は汚染され、農林水産業は衰退の一途で食料不足が起きる可能性が大、エネルギー不足は目に見えており、近隣諸国からは常に武力で圧力をかけられ、同盟国も頼りになるのかならぬのか、政治は機能麻痺で、政財界は汚職まみれとマスコミ各社の見出しは疲れ知らずだ。本当にこの日本のことなのかと疑ってみたくなる。その報道が全く嘘だとはいわない。日本が順風満帆だともいわない。けれどなんだか危機や不安が喧伝されっぱなしで、耳目を集める「事実」だけが消費されていっている気がする。

 だからマスコミはと批判したいのではない。マスコミとて商売だから「売れる情報」を優先する。危機意識をあおる情報が確実に売れるのは、人間が動物であり危機に敏感にならざるを得ないから仕方がない。かといってメディアリテラシーの向上をいいたいのでもない。先に書いたようにわかりやすく目を引きやすい情報によって判断しがちなのは、人間の業、性(さが)でもある。微妙な嘘や欺瞞を追求するのも本心ではない。そうではなくて微妙は嘘や欺瞞とうまく付き合う術を一人一人が考えた方が良さそうだということを言いたい。というのも、人間である限り一人一人全員が日常生活の中で微妙な嘘や欺瞞を発しているし、それに付き合わざるを得ないからだ。自分で見聞きしたことだから、経験したことだから、それは事実だし真実に違いないと私たちは思いがちだ。けれど人間の記憶に残る事実は常に「現在から見た過去」でしかない。あるいは日常的知識の文脈の中で解釈された事実、注意を喚起されることで切り取られた事実でしかない(バスケットボールの試合のビデオを見ながら、パスが誰から誰に何回渡ったのか空で記憶するようにといわれた被験者は、コートのど真ん中を横切るゴリラに全く気がつかないという実験結果がある)。私自身、自分の過去を今の自分に都合の良いように解釈し記憶している。夫婦喧嘩の時、過去の出来事を互いに全く逆に覚えていた事実に気がついて愕然としたこともある。大はマスコミから、小は自分自身や周りの人々まで、私たちは微妙な嘘…といってよいどうかわかないが、文脈に依存する解釈の海の中で生きている。

 その中で私たちはともすれば極端な行動をとりがちだ。マスコミがだめならブログ、西洋医学がだめなら代替医療等々。AがだめならBしかない。最初に書いた数字のマジックもそんな極端な行動を後押しする。なんとか確実で信頼のおける安心安全100%を求めて…。でもそれは人間である限り望むべくもないことだ。何故なら人間が関わる限り100%の事実はあり得ない。一人一人それぞれの事実がそれぞれの濃淡を伴いながら存在するだけだ。微妙な濃淡、微妙な嘘、解釈の海の中で、100%を求めようとするとかえって極端な行動をとることになる。あるものやある出来事、ある情報のなかに見つけた一つの嘘で、そのすべてを否定することになる。かといって、全てを否定して何でもかんでも自分で確かめようとしても、それは一人の人間の能力を超えてしまうし、第一不安で不安で正気を保つことも危ういだろう。何を信用したらいいのかと思い倦ねるときほど、嘘をついていないように見える、根拠があって確からしくって、他者の嘘を暴き自分の真理を決然と主張するものは魅力的に見える。それを100%信頼したくなる。こうして私たちは(私も含めてだ)AがだめならBという行動をとってしまう。

 でも、もうそろそろやめよう。この世の中が微妙な嘘で出来上がっていることを引き受けよう。100%の真実、事実はないかもしれない。でも100%意図的な嘘、欺瞞で全てが出来上がっているのでもない。頑なに嘘を拒絶する姿勢は、逆に嘘につけ込まれやすくなる。頑なに力を込めた防御の構えほど、脆く隙だらけなのと一緒なのかもしれない。武道の達人によると、一番強いのは全身を柔らかく保っておくこと、どこかに力を偏らせることなく、いつでもどの方向にでも対処できるように構えておくことなのだそうだ。不安だとか不信だとか危機が喧伝される今の時代に必要なのは、心を柔らかに保っておくことなのかもしれない。いつでも人を信じることができて、いつでも人を許すことができる。でも「なぜ」「どうして」と問うこと、疑問を持つことは忘れない。体の軸をぶらさずにふんわりと構えるのが武道の達人だとすれば、この世の中を行き来する達人は、自分軸をぶらさずに他人をふんわり信じられる人なのかもしれない。

 そんな達人になるにはまだまだ道は遠いけれど、でも心を柔らかにおおらかに保つ意識はずっと持っていたい。

常識・非常識

このところTPPがらみで日本経済新聞などでは「今農業が新しい」とか「成長産業としての農業」という言葉が踊っている。一頃の衰退産業扱いとは打って変わって花形産業扱いだ。ところが同じ1次産業の水産業ときたら、相変わらす衰退産業扱いである。そんな水産業で非常識なことをする人がいる。彼は愛媛八幡浜にあるトロール漁会社の跡継ぎだ。トロール漁法は網を広げて魚を捕るから、網の中には狙った魚のほかに変わった魚が入ってくることがある。一尾か二尾だから市場では売れない。浜の常識では廃棄処分か身内が食べるものだった。彼は「もったいない」と思った。「なんとか売れないか」そう思った。だから非常識に直売りを考えた。今彼は東京の一流料理店やフレンチレストランと契約している。八幡浜であがった「ただ一尾」の魚を契約レストラン等に直送しているのだ。彼は淡々とそのことを語る。常識を壊した風雲児などと持ち上げられることを好まない。彼は自分の会社と従業員の生き残りをかけて必死に模索した結果だと言う。

 常識とか非常識という話になるといつも彼のことを思い出す。そしてもう一つ思い浮かぶ挿話がある。森村泰昌『美術の解剖学講義』の挿話である。それは「シャボン玉とんだ」という歌がとてつもない災害を歌った歌だと主張する漫才師の話だ。なぜか。シャボン玉どころか「屋根まで」飛んでいるからだ。屋根が飛ぶなんてトンでもない強風なのに、飛んだ屋根は「壊れて消えた」のだ!

 この本を初めて読んだとき笑いをこらえるのに難儀した。そして同時に妙に納得した。確かに歌詞はそうなっている。じゃあ何故それまで飛ぶのはシャボン玉で屋根ではないと思っていたかというと、屋根は滅多矢鱈と飛ぶものではないと思っていたからだ。そう「常識」では…。でも常識を取り外して歌詞だけを見れば、飛ぶのはシャボン玉でなく屋根であってもかまわない。いやむしろ最後に「風、風吹くな」と願いを込められているのだから、屋根の方がふさわしいかもしれない(と思わず納得するのである)。

 こんな風に常識というやつは人のものの見方や考え方を規定している。そして常識が壊されるとき、物事は違って見えるし新しい価値が生まれたりする。最初に紹介した話では、常識的には「捨てるだけで値打ちのない魚」が一流料理店でウン万円の晩餐の材料になる。でもただこれだけの話なら世間によくある起業家の成功話にすぎない。私が八幡浜の彼のことを紹介したかったのは、彼が自分のことをちっとも非常識だと思っていないからだ。彼は経営者の「常識」として会社の存続をはかっただけだという。そしてそれを聞く私もきっとそうなのだろうと思っている。

 常識、英語ではcommon senseという。commonは共通のという意味、senseは感覚だ。原義通りに英語の常識には「みんながそれがそうだと感じている何か」という感じがある。なんとなく「それはそうだ」と感じている(考えているのではない)から、何となくそれがまかり通っている。それが常識というものが持っている強みであり、弱みでもある。みんなが「それはそうだ」と感じているもの、なんだか空気みたいで取り立てて意識していないもの。だから常識は強い。みんなのものだから、それに逆らう人や事柄は「非常識」であり、非常識は非難しても良く、いやむしろ積極的に排除すべき事柄…と無意識のうちにエスカレートして行く。とくに常識を破っている相手が、自分たちと共通の背景を持っていなかったりすると、排除までの道は一直線だ。私は大相撲の横綱をめぐる騒ぎを見るたびにこの常識の排他的な側面を思い出してしまう。日本の常識に従う外国人力士は「立派な横綱」で、そうでないのは「品格にかける」と、はなっから決めてかかっているような気がしてならないからだ。

 とはいえ、常識の強みは排他的に働くだけではない。何となくみんなが守っているものがないと、世の中うまく行かないことが多い。交差点での車のすれ違い方もそうだ。大阪では交差点で「メンチ」を切って勝った方がわたるのが常識である。東京では(少なくとも管見する限り)信号機に従うのが常識である。東京で信号機がストップしたら通行はできないだろう。でも大阪では何とかなるのではないかと思う(実際郊外の幹線道路で信号機が動いていないのに遭遇したが、2車線道路を車が相互に通行していた。後でニュースになっていないところを見ると事故も起きなかったようである)。明示的なルールがなくても常識があれば、なんとか世の中は動いてしまうものだ。初対面同士の挨拶だとか冠婚葬祭の服装だとかも常識が幅を利かせる分野だ。常識がないと結構困ってしまう(自由な服装でお越し下さいと案内される結婚披露宴は会場に着くまでドキドキものだ)。

 けれど何となくの常識には弱みがある。なんとなく…なので、改めてその根拠はと問われると返答に困ってしまう(「だってジョーシキでしょ」としか言えなくなる)。そして常識が壊されるとき、妙な開放感が生まれ、快哉が叫ばれる。場合によっては新しい価値が生まれるときもある。何故ならそれまで当たり前だと空気のように思っていたことが、自分の考えやものの見方を拘束していたことに気がつき、それが壊されたことで「清々した」感じを覚えるからだ。時代が不況だとか、失業だとか、あるいはうまく言葉にならないような不安や不満に満ちて閉塞状態に陥っていればいるほど、常識を壊す動きは「清々した」開放感を持って迎えられる。そして常識を壊すことはなんだかすばらしく格好良いことのように見える。

 でも、それは間違いだ。常識を壊してはいけないというのではない。常識は破っても壊してもかまわない。その常識が排他的だったり、あなた自身をどうしようもなく拘束してしまっているものだったりするのなら、破るべきだ。けれど常識を常識だからと破るのはやめた方がいい。何かを壊すとき、何かを破るとき、「何か」が何なのかはよく承知しておいた方がいい。

 そして常識の中には破ってはならない常識もある。最初に紹介した彼が従っているのは「会社は従業員の仕事を守るものだ」という常識だ。だから彼は常識破りと呼ばれるのを好まない。人を殺すなというのも常識の一つだ。目的は手段を正当化しないというのもこういう常識の一つかもしれない。長年人々がいろんな行動を積み重ねた結果、これだけは守っておかないとどうも人間社会というものがうまく行かないと悟った、その「これだけ」の常識。これは破ってはならない常識だ。一方で、儀礼だとか長年の…と言われる常識の中には、もう死に絶えてしまって人を縛る効果しか持たないものもある。

 けれど、この二つの違いを見分けるのは実は難しい。なぜなら常識はたくさんの人の共通の経験を集めた「なにか」であって、それが人間社会の基盤になっているのか、ただの習慣にすぎないかはちょっと見た目はわからないからだ。人間は未来を予見できない。わかるのは過去の出来事とその結果だけだ。だから過去を手がかりにして必死になって未来の行動を決定しようとする。未来の行動のよすがとなる過去の手がかりが大量に集まっているのが常識なのである。常識は分類されていないおもちゃ箱のようなものだ。ただの習慣に思えたものが、案外基盤的な要素を持っていたりするし、逆に基盤に思えたものが、案外単なる習慣にすぎなかったりする。(挨拶は習慣に見えるけれど、挨拶がない社会というのは非常にすみにくいということが立証されている。結婚して子供を産むのが日本社会の基盤のように見えるが、そうなったのは戦後になってからだ)。

 ではどうすれば見分けれるのか。スマートな見分け方は私にもわからない。自分が自分の生き方をして、どうしてもこれは譲れないというものと常識がぶつかってしまった時。実はその時、その常識が本当に基盤的なものか、それとも慣習として破ってもかまわないものかが試されているのだと私は思う。基盤的なものであれば、きっと個々人の生き方の自由が生かされる道がどこかに存在しているー人を殺すなという常識に抜け道があるようにー。単なる習慣的なものなら非常に排他的な圧力が生まれる。自分の生き方だとか楽しく必死になってもがいている日々の営みがあって初めて常識の価値がわかるのかもしれない。

 本当に真剣な常識破りが世の中にたくさんある社会こそが、人が人として生きやすい社会なのではないだろうか。不必要な排他性や拘束はないけれど、しなやかな決まり事はきちんと守られているという意味で。

「新しい」?時代

新年、政権が変わったこともあってか、「新しい時代」だとか「新たな胎動」といって見出しを見ることが多くなった気がする。根っからへそ曲がりで、天の邪鬼なものだから、こうした見出しを見ると「ほんと?」と突っ込みを入れたくなる。9.11の後、世界が変わったと言われた。3.11そしてFUKUSHIMA。世界は変わるのだと言われている。「レス・イズ・モア」というタイトルの記事が生活を啓蒙するのがうたい文句の雑誌を飾っている。

 どうもどこかで見た風景だと、半世紀生きてきた人間は思う。オイル・ショックの時、日本中が(といっていいぐらいに、マスコミが)スモール・イズ・ビューティフルと叫んでいた。1973年の交通標語は「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」だったし、石油会社のCMでは「気楽に行こうよ」という歌が流れていた。省エネが叫ばれ、自然や環境と調和した暮らしが理想のモデルとされ、有機栽培とか無農薬という言葉が登場し…。今流行っている物事の原型は全部そろっていたような気がする。こう切り出したからといって、今の時代風潮が70年代の焼き直しだと言いたいわけではない。ただ、「新しい…」には落とし穴があるということを言っておきたいと思ったのだ。

 新しいことがなぜか無条件によいと思われがちな国に私たちは住んでいる。これはどうしようもないことだ。なにせ新しいものはいつも「外」から来て、そしてそれはいつも「自分たちのものより優れている」と思わされるものだったのだから(韓半島から、中国から、そして欧米から)。だからこそ「新しい」には注意が必要だ。新規なものに対して、あるいは新たな経験や挑戦に対して慎重になれといいたいのではない。「新しい」がついて喧伝されるものに対して、慎重になって欲しいのだ。それは本当に新しいのかー単に古いものの上に新しそうな皮を着せただけではないのか、それは本当によいのかー単にうたい文句だけのものに終わっていないか、それは自分に合っているのかー単に流行だからになっていないか。「新しい」という形容詞がついたものに出会ったら、とりあえずこの3点は点検してみて欲しい。というのも、この国では「新しい」ことは消費されては捨てられていく運命に逢うからだ。新しさが「目新しさ」の別名で、単純に外面の新しさが通用してしまいがちなところで、本当に新しいものと目先だけ新しいものが競い合っている。こういうとき、得てしてわかりやすい新しさの方が先に目立ち、脚光を浴びる。やがてわかりやすい新しさが忘れ去られるとき、わかりにくかったけれど本当は大切だった新しさも、わかりやすい新しさと一緒くたにして捨て去られてしまったりする。だから「新しい…」には出会ったら、慎重に見極めて欲しいのだ。 

 なんだかわかったようなわからないような議論かもしれない。では私の友人が作ったたとえ話を紹介しよう。あるところに老夫婦二人でやっている豆腐屋があった。二人きりで作っているので量はたくさんできないが、丁寧に作っているので、近所では贔屓にしている人が多かった。ある時、この豆腐屋がテレビの取材を受け、全国的に評判となり、客が押しかけることになった。近所のお客さんが豆腐屋に出かけても売り切ればかり。銀行は増産を勧め機械化のための融資をするという。夫婦の息子は銀行の話に乗って機械化と増産をした。けれど機械化で手作りの良さがうしなわれ、全国からの客は潮が引くようにいなくなってしまった。近所のお客は、売り切れ続きに嫌気をさして、別の豆腐屋さんのお客になってしまっていた。結局老夫婦は豆腐屋をやめることになってしまった。さてどうだろう。元々あった良さや大切なものが、流行やブームの中でその良さをうしない、ついに飽きられるという図式は結構あちこちにないだろうか。「新しさ」に慎重になって欲しいというのは、こうした現象がこの国では多発しているからだ。ことは流行の店、流行のファッションに限らない。考え方、働き方といった形にならない、人の生き方に関わるようなことでも同じようなことが起きている。たとえば「フリーター」という生き方。今では信じられないかもしれないが、バブル最盛期の頃、この言葉のイメージは「かっこいい!」だった。会社の奴隷にならない、世の中の「通常の」「お仕着せの」価値観やレールを飛び出した、自由な若者の新しい生き方だった。さて、今流行の「ノマド」な生き方や働き方。同じような言葉でもてはやされていないだろうか。キーワードは全く一緒。もてはやし方も全く一緒。そして事の本質をどこかで外している(かもしれない)ところでも全く一緒…なのではないかという危惧を抱いている。

 今、事の本質という言葉を使ったけれど、この「事の本質」すら流行の惹句である(だから要注意)。本当の「事の本質」というのは、誰か他人が言ったことの中にはなくて、自分自身で確かめるしかないのではないかと思う。とはいえ、私自身はといえば、実は自分自身だけで確かめてはいない。いつも頼りにしている準拠枠がある。時々ここでも紹介しているJ.S.ミルだ。彼が生きていたのは19世紀の半ばだし、場所はイギリス。時代も地域も国柄も違っている。でも彼の言葉を読んでいると頷いたり、そういう見方もあるのかと驚いたり、これはここにも通じるなと感心したりすることが多い。だから何か新しいものに出会うと、ミルだったらどう考えるのかなと考えてみる。個人の自由を大切にする彼だったら、体罰に関して何を言うだろう?規律と自由を矛盾するというだろうか?会社人間をどう考えるだろう?ノマドワークっていうけれど、本当に自由だっていうだろうか、そんな風に色々と考えてみる。そうしている内に、あれ?これって…と当たり前に受け入れてしまったことに疑問が湧いてきたり、見直してみたりということが起こる。自分一人だとなかなか考えが及ばなかった事柄に、彼だったら…と考えるだけで、別の見方ができたりする。一人で考えるのはめんどくさいし、うっとうしいのだけれど、ミルと会話していると考えると結構楽しい(何せ、いつ呼び出しても文句も言わず、ややこしい話でもとことんつきあってくれるなんて、現実の友人でもなかなかそうはいかない。そんな得難い相手でもある)。

 こんな風に一緒に考えたり、会話を続けていて気がついたことがある。それは枝葉的なことと、根本的なことの区別、そして根本的なことを考えるために自分なりの基準を持っておくことの大切さだ。彼は当時の制度の批判勢力として流行になっていた社会主義に賛同しながらも、質問を投げかける。現在の制度(個々人が財産権を持ち、互いに自由に競争する)は弱肉強食で、競争は死活をかけた闘争になっている。これに対して社会主義は理想的な未来図を描く。この両者を比べれば、旗は問題なく社会主義の方に揚がる。けれどそれは不公平な比較ではないか。なぜなら現実の様々な軋轢や偏見、歴史的経緯とは無縁の理念と、現実にまみれた現状を比較しているからだ。比較するなら、社会が富を所有するという社会主義の理念と、個人がその働きに応じて所有する権利を持つという現在の理念同士を、どちらが個々人の自由を尊重するかという視点で比較すべきだと彼は言う。彼の死後、社会主義はソビエト連邦等、現実の存在として実現し、やがて消滅した。その大きな要因に個人の自由が抑圧されていたことがある。そして社会主義が消滅した時、現在の制度の勝利だ、現在の自由な競争市場が正しいのだといった人たちがいた。ミルなら、そういう人たちに対しても苦言を呈するだろう。現在の制度が個々人の自由を実現できているのかと。

 現実を肯定する姿勢あるいは逆に批判し否定する姿勢。こうした姿勢を私たちは評価しがちだ。けれどそれは本質や根本ではない。何を基準にしているのか、何を理念として大切にしているのか。その根っこがあって初めて批判や肯定という姿勢がある。この根本を無視して、「現状を批判しているから”いい”」なんていうのはナンセンスだ、ということを私は彼から学んだ。なんだか日常生活と遠い話に思えるかもしれない。でも「新しい時代」といわれる時、その新しさで何を大切にしていくのか、何を根本においているのかを問うことなく、ただ新しいだけでは、本末転倒になったり、流行り廃りに浮かれ消費されてしまって結局元の木阿弥になってしまわないだろうか。

 例えばの話「無農薬野菜」が流行だけれど大量にそして簡便に無農薬野菜を作ろうと思えば、遺伝子組み換え野菜を作るのが一番になりかねない。病虫害や雑草に強い遺伝子組み換え野菜であれば、栽培中に農薬を撒く手間はいらないからだ。遺伝子組み換えが怖いというのであれば、植物工場という手もある。これならば無農薬で遺伝子組み換えではない。が、大量のエネルギーを消費する。「無農薬」で何を求めていたのだろう、何を大切にしたいと思っていたのだろう。そこを忘れるととんでもない結果を招くかもしれない。こういうことが、今「新しい」という言葉であちこちで起こっているのではないだろうか。

 何を大切にしたいのか。何を根本におきたいのか。それを見つめ、きちんと自分の中に定着させた上で、色んな物事に、新しい事柄に向き合っていってほしいと思うのだ。