女だから今動ける

タイトルを見た人の中には「女だから・・・」はないだろうという思いを持った人もいると思う。男も女も均等だ、女らしさ、女だから云々とは・・・と。ちょっとその話はストップしておいてほしい。そういう「そもそも論」をする気は毛頭ない。女だから育児、女だから家事なんて主張には正直飽き飽きしている。

 けれど、世間一般にはいまだに育児は女性という意識は強い(少子化対策の該当インタービュー対象者はなぜいつも女性が多いのだろう)、統計的にも有業男性の家事や育児に費やす時間は、週1時間以下である。

 そんな「女」だからこそ、わたしは「今」動くことが出来ると考えている。今は「」の今。長年築き上げてきた営みが、目の前で濁流に飲み込まれる理不尽。どんなに大切に思っていた人も事も、遠慮会釈なく奪われてしまう理不尽。目にも見えず、臭いもない「放射能」をめぐる錯綜した情報、先行きどうなっていくのか分からない不透明さのなかで、自分の将来を考えなくてはならない理不尽。そんな理不尽な「今」である。そしてこんな時だから「女」は動けると考える。

 なぜか。理由は簡単だ。理不尽さに「女」は常日頃からつきあってきているからだ。え?と思われるかもしれない。けれど、想像してみてほしい。一所懸命作った食事が「あ、食べてきたから」の一言で無駄になる。かと思えば「え!今日晩ご飯ないの?」と責められる(確か出かけに遅くなるからいらないといったのに)。なんだ、そんな些細なことと思うだろう。確かに些細な日常の出来事でしかない。そんな日常の中で「女」は自分の努力を踏みにじられる理不尽さや、自分に責任のないことで責められる理不尽さに出会っている。家の中のことだけではないい。仕事を持っているとなれば、仕事の現場で、それも意外なで理不尽とぶつかる。たとえばこんな風に「君、女性だから、女性のことは分かるよね。この仕事は君にやってもらうよ」(それって私が「女」だから?能力じゃないのね…という言葉は密かに飲み込まれる)。育児ともなれば、相手はこちらの都合などいっさい配慮してくれない。徹夜に近い状態で、やっと眠れると思ったら、夜中の3時に泣かれる。はずせない用件のある時をねらっているんじゃないかと勘ぐりたくなるほどのタイミングで、熱を出し病気になる。明日どころか、一瞬先のことすら予想できない。そんなものとつきあわなくてはならない。職業を持っていても、いなくても、子供がいてもいなくても、「女」はいろんな理不尽さにつきあってきた。怒る場合もあるが、怒るだけでは何も解決にならないことも知っている。受け入れたくないと思いつつ、受け入れるしかない場合もある。表面で受け入れ、さらりと身をかわすという高等手段が通用するときもある。日常的にぶち当たる理不尽だからこそ、怒ってばかり入られない、受け入れてばかりもいられない。いろんな対処方法を自然と編み出している。

 そう、「女」は理不尽に慣れている。ことの大小はある。けれど茫然自失とする事態、自分ではどうしようもない理不尽な事態に出会ったとき「女」が強いとよく言われる。私の祖母たちも、8月15日の「勅語」を聞くやいなや、ネルのもんぺの糸をほどいたという。「これでまたコーヒーをたてて売るんや、商売がまたできるんや」と真っ先に思ったそうだ。些細な日常の理不尽さになんとか対処し続けてきているからこそ、茫然自失の事態に出会ったとき、「女」はまず日頃出来ること、慣れていることから手をつけようとするのだろう。それがそれまで理不尽さに対処してきた方法だったのだから。

 そして、日常の中で「女」が身につけているのは理不尽さに何とか対処するやり方だけではない。何年か前に、ある講座で、7人ぐらいのグループで各自が出来ることを出し合って、何が出来るかをまとめてみるというワークをしてもらったことがある。昼の講座だったのでずっと専業主婦だったとか、随分昔に仕事を辞めたという女性が主体だった。最初は「なにもないです」という声ばかりが目立っていた。そのうちの一人が「3人の子供を育てていたから…」と発言したとたん、隣の若い女性が「え、3人も育てられたんですか?実は今子育ての真っ最中で…」。その場で育児相談コーナーが始まった。70歳以上が集まったグループは、「私たちお店始められるわ!」と意気軒昂。何を始めるのかと聞いてみたら、グループの一人が和裁と洋裁ができ、趣味で布小物類を、人形を作っているメンバーがおり、タンスにいっぱいの古着の処分に困っているメンバーがいるとのこと。リサイクルショップではなく、自分たちで古着を再生しておしゃれなグッズや服に仕立て上げるのだという。

 彼女たちは別段特殊な技能を身につけた人たちではない。ごく普通に育児と家事にいそしんできた人たちだった。いや、逆にこう言った方がいいのかもしれない。育児や家事にいそしんできたからこそ、身についた技能があったのだと。それは会社組織の論理の中では評価されない技能かもしれない。けれども、日常を生き延びる上では欠かせない技能でもある。専業主婦が希少種となったといわれる現代でも、家事育児を担わなくてはならない「女」は、こうした技能を何かしら身につける。

 考えてみれば、家事や育児を担うということは、細切れになる時間、自分では思い通りに管理できない時間のなかで、いかに効率的に働くかを意識することでもある。洗濯機が止まる時間を計算しながら、朝ご飯を作り、洗濯物を干す手順を意識しながら、テーブルの上に離乳食をぶちまけようとする子供に素早く手を伸ばす、なんて芸当を、軽々とこなさなくてはいけないのだ。家事育児を担わなくてはならなかった「女」は、マルチタスクをこなし、タイムマネジメントをし、リスクを意識しているのである。

 だからこそ、私は「女」は「今」動けると考えている。途方もない理不尽さ、そのあまりの巨大さを見つめると、何をしていいのか分からなくなる。けれど、日常生活は続いていく。ともかく明日のご飯は食べなくてはならない。限られた物をどう活かすか。これは常日頃、日常の中で意識してきたことだ。やったことが無駄になるかもしれない。そんなことは当たり前だった。評価されないかも?そんなことが当たり前なのが、家事育児だ。だから無駄になるかもしれないと思っても、何かしら始めることに抵抗は少ない。さらに「女」の(通常悪口としていわれる)特徴的な行動「しゃべりながら…する」。これも「今」の状況には結構役立つ。たかがおしゃべり、されどおしゃべり。他愛もないとか、所詮井戸端会議で噂話で‥などといわれる。でもおしゃべりは内容だけに意味があるわけではない。他人と繋がっている、自分がここにいるという表明でもある。女性と男性では鬱病にかかる割合は女性が高く、自殺する割合では男性が高いのも、このあたりに原因があるという人もいるぐらいだ。理不尽さを分かち合い、互いの経験を交換するときもあるだろう。その中から、新しい動きを始めようという意欲や方向が見えることもあるかもしれない。

 そして私が今動ける「女」に、理不尽さになれた「女」に期待していることが一つある。それは理不尽さに怒りを持って立ち向かう虚しさだ。

 理不尽な出来事、理不尽さ仕打ちにあったとき、人は茫然自失とし、やがて怒りの感情を覚えることだろう。「なぜ自分だけが」「なぜ私たちだけが」…。そして怒りの感情をぶつける対象を探す。けれど、怒りの感情は(例えそれが正当なものであったとしても)破壊的な効果をもたらす。怒りの感情を抱いた本人自身に。怒りは人を縛り付けてしまう。理不尽な状況から一歩も動けなくしてしまう。まして怒りの対象を敵として固定してしまったら、なおさらだ。敵を殲滅するまで、何もできなくなる。けれど、その敵はだれだろう。日常の些細な理不尽の中では、その敵は自分がつきあい続けなくてはならない相手でもある。殲滅戦は勝利への道ではない。相手を憎み怒り…そして残るのは怒りに縛り続けられた虚しい自分。それは些細な日常ならよくわかる(夫婦げんかの後みたいに)。でも大きな物事では分からなくなる。同じ怒りを抱く人の数が多ければ多いほど、怒りが正当化されたような気になる。けれど、怒りはやはり怒りでしかない。それは人を前に進めはしない。ましてや周囲の人々を動かしはしない(怒る人間をはやし立てる人はいても)。怒りを覚えるなとはいわない。怒りは自然な感情だと思っている。けれど、怒ることの虚しさ、敵を作ることの虚しさも心得ていて欲しいのだ。

自立って何?

男女共同参画時代といわれ、女性の社会進出を促進するための方策として育児休暇や保育制度の充実が盛んに喧伝されて久しい。いや、それ以前から、女性の自立は女性が経済的に自立することであり、それは男性と同等の立場で働くこと、つまり男性と同等の賃金と処遇で就労することだった。確かに女性の自立(女性に限らないけれども)には経済的基盤が必要である。近代になってもイギリスでは女性に財産権は一切なかった。父親が死んでも、夫が死んでも、子供として妻として、遺産を相続することすらできなかった。だからこそ、当時の中流以上の女性にとって「結婚」は自分が生存するための第1目標であり最終目標であった。その結果、男性の支配下に女性が隷属することとなる。だからこそ、女性解放運動の当初から女性の「経済的自立」、女性の男性並みの就労は目的の一つだった。

 しかし、バブルがはじけた頃から、こうした女性の経済的自立を目指す生き方に対する疑問が、徐々に表面化してきたように思う。こうした変化は、男女均等法以前の第1世代、男女均等法直後の第2世代の「頑張る」姿に対する反動として語られることも多かった。雑駁な言い方をすれば「あんな風には頑張れない、しんどい生き方」を見せられた次世代が、もっと楽な生き方を見いだそうとしているという語られ方である。

 この分析自体に異論も多い。けれども私は一面の真実を突いていると考えている。女性が経済的自立を目指して、企業に就職する。けれど、その企業は従来のやり方「男性正社員には長時間労働、扶養者になる女性には補助労働」を大幅に変更していない。男性並みを求める限り、男性社員と同じ長時間労働を求められる。そこへ家事や育児の負担が重なってくるのだから、「しんどい生き方」になってしまう。実際、女性の社会的活用度が先進国で世界一低いといわれ、数値目標までたてられ、企業は女性管理職を増やそうとしているが、現場ではこんな声が聞こえるという。「うちの会社でも女性管理職を増やそうとしているんですけど、『このままでいいです』とか言って拒否するんだよね」「40歳になっても管理職になりたくないっていう女性も結構いますし、自分がリーダーになるのではなくサポート的な仕事をしたいという女性が意外と多い。肩や肘を張って働くんじゃなくて、緩く長く勤めたいと」(日経ビジネスオンライン「河合薫の新リーダ術 上司と部下の力学」2010720日より)。

 もし経済的自立だけが、自立なのであれば、このような女性の行動は「奇妙」でしかない。自分で自分の会社内でのキャリアを捨て去るようなものだからだ。「いや、それは女性が出産とか育児とかを背負っているせいでしょう?男性が育児や家事にもっと参加すれば、女性も会社内でのキャリアを追求するんじゃないの」という反論もあるだろう。けれども、私は事はそう単純ではないと思っている。男性の育児参加や、育児休暇等の制度の充実はワークライフバランスという言葉で語られることが多い。しかし本来のワークライフバランスは、単純に女性が働き続ける状況を整備することではない。男性も含め、多様な生き方・働き方を許容することである。労働者が自分なりの生き方の中の一要素として、その企業で働いていることを認めることだ。一要素だから、時には仕事に邁進し、時には地域活動を優先する。あるいは子育てを、ボランティアを。こうした生き方を、現在の企業の中でどれだけ実現できるだろうか。実現できないと断言するつもりはない。実現できるところ、実現しているところもある。愛媛では子供の運動会に出席するからというのが堂々と有給休暇の理由として認められているクリーニング店がある。ここはその他にも様々な地域活動や子育て活動での休暇を認め合っている。それで業績が悪くなるどころか、従業員の定着度が高くなった結果、業績が伸びている。でもこうしたところはまだまだ少数だし、やはり「休暇」であって仕事と同等の位置を占めている訳ではない。自分なりの生き方の要素の一つとしての仕事というのは、企業側からすれば、なかなか認めがたいところがある(特に日本では)。

 女性が起業それも自分の身の回りの問題解決をテーマとした起業を目指すのは、こうした意識があるからではないだろうか。えらく話が飛び過ぎだと思われるかもしれない。しかし、高卒や大卒女子の就業率は男性とさほど変わらない。そして起業を目指す女性の多くは、30代から40代以上(60歳を過ぎてという人も多数いる)である。つまり、起業を目指す女性の多くは、一度通常の企業で働いた経験があるという事だ。結婚や出産を期に辞めた人も多いだろう。そういう人たちの中で、再就職という道を選ばずに起業という道を選んだ人たちの多くは、男性起業家に比べて、社会貢献と年齢に関係なく働きたいという点を起業理由としてあげている。男女両方を通じてもっとも多いのが「自己実現」と「自分の裁量で自由に仕事をしたい」である事をあわせてかんがえると、女性起業家は、より柔軟な働き方、自分だけの仕事ではなく周囲も巻き込める仕事、一生続けられる仕事を、従来の企業の中では実現できないと知って、起業という道を選んだと考えられる(21年度中小企業白書より)。

 起業という言葉で、あるいは社会起業という言葉で一括りにされるので、見逃されやすいが、拡大路線をとる起業と自分の無理のない範囲での起業があると思っている。この二つの路線は当初から決まっているというよりも、実際に起業して事業を展開していく中で、だんだん定まってくるものだとは思う。けれど、この二つは(起業家の個性も大きな要素であるが)目指すものが違っていると感じている。拡大路線をとっていく問題解決型の起業は、社会問題の解決を大型化・フランチャイズ型で解決する形になる。従って、通常の企業と同じく被雇用者が存在する事になる。理念を共有するという点では通常の企業とは異なるかもしれない。けれどもそこで働く人にとってはやはり「仕事」という感覚がだんだん強まってくる事だろう。良い・悪いではなく、組織が大きくなるという事に伴う必然的な事である。そして今、経済産業省をはじめとして日本再生なんとかが期待しているのは、このタイプの社会起業である。なぜなら「雇用を創出」してくれるからだ。

 後者の場合はどうだろう。無理のない範囲での事業。今までの発想でいけば、やがて市場競争に敗れてしまう、そんな甘い事では事業はできないと退けられてしまうものだ。けれど、案外しぶとく生き残っていく場合が多い。大きな儲けはない。人も雇えないかもしれないし、雇ったとしてもお手伝いにとどまっているだろう。それでもなぜだか破綻もせずに継続していく。なぜだろう。答えは案外単純で簡単なものだと考えている。

 「居場所」だから。

 そう、無理のない範囲での起業は、会社を興しているのではない。自分が生きていく場所を作っているのだ。だから無理をしない。無理な生き方をしたくなくて起業しているのだし、生きていくのに無理は続かない。小さいからといって競争に負けて消えてしまわないのは、自分の生き方と一体化していて、その生き方に惹かれる人が顧客になっていたり、協力者になっていたりするから。そしてそうした人が口コミで新しい顧客を引っ張ってくれるから。そして「生き方」であり「居場所」だからこそ、他にはないものを自然と作っていかなくてはならないから、自然と差別化ができる(ここを勘違いしてしまうと、容易に敗退してしまう。自分の人生なのだから、他人のまねをしても仕方がないのだ)。そしてこの差別化は大手企業がやるような「他者を排除するための差別化」ではない。むしろ、他があってこそ自分が際立つような差別化だ。なぜなら、自分以外の人がいないと、自分自身がわからなくなるから。そして他の同じような生き方や居場所を反映した事業と競争はしなくてはいけないけれど、それはスポーツ競技のようなもので、互いに能力を高め合うような競争だろう。相手を打ち負かし、自分が市場を独占するためではなく、互いの個性をより高めるための競争になるだろう。

 そして、事業内容にも人生が反映されていく。立ち上げ時の仕事一辺倒の時間もあるだろうし、育児が入っていたり、介護が入っていたり、近所付き合いが入っていたりするだろう。自分の生き方のその時々の要素によって、同じサービスや財を売っているように見えても、品揃えが変わるだろうし、事業内容が変わるだろう。しかし、根っこは同じなのだ。無理なく自分が生きていく場所=居場所としての事業。

 そんな起業がふえると、もっと楽な生き方、楽しんで働く生き方が増えていくのではないかと思っている。自立という言葉が、自分自身の人生を生きる事を意味するのであれば、これが「自立」なのではないかとさえ思っているのだ。