ブルジットジョブと⾼付加価値

松⼭⼤学経済学部教授 松井名津

以前、『ブルシットジョブ』という本を紹介したことがある。その時、日本社会は「何のためにやるのかわからない」「誰の役にも立たない」ブルシットジョブを、組織の中で広く共有しているのではないかという推論を展開した。今回、吉田屋を含む温泉津温泉旅館組合がある補助金に採択され、その後の事務手続きを行っていて、もう一つの可能性に気がついた。吉田屋で展開しようとしているプロジェクトは別次元の話ではあるが、少し我慢して読んで欲しい。

まずこの補助金の不思議さは「全体計画」が個別事業体の予算なしでも応募できるという点だ。そして採択が決まると大慌てで各事業体は経費の詳細な見積もりを提示しなくてはならない。老朽化したり、時代に合わない施設の改修を申請する事業体が多い(吉田屋もその一つだ)が、補助金の対象は「施設の改修」なので、あらゆる設備は「固定されている」必要がある。さらに全体計画をより長期的で持続的なものとするために、省庁派遣の「コーチ」が3名ついている。彼ら・彼女たちは全体計画のアドバイスをするのだという。なので、先に書いた補助金の詳細(それは個別の計画を左右する。そして個別の計画が揺らげば全体の計画も変化せざるを得ない)について、個別の事業者が質問するのだが、回答は事務局に持ち帰ってからになる。ちなみに事務局のコールセンターとコーチの返答が齟齬することもままある。このコーチたちとの面談が週に1度(申請後は月に2度程度)1時間余り繰り返される。

とはいえ、これが官公庁の補助金業務の実態なのだろう(長年続いてきた補助金であればもう少し緻密ではあるが)とは思っている。そしてこのブルシットの積み重ねのような業務に付き合っているうちに、気がついたのが日本ではブルシットの積み重ねこそが「高付加価値」なのではないかということである。この補助金の受託業務には非常に多くの人間が関わっている。コーチは一部上場企業から派遣されてくる。ウェブ申請を受託しているのもきっと名が通った企業なのだろう。そして多分そこから派生的に下請けに出されているのだろう。(おかげさまで(?)しっかり申請画面から申請できないというエラーが発生しても、一向に解決できずそのままである)。要は高給を得ている人間が多数関わっているということだ。ということは、この事業自体非常に経費がかかった「高い」事業になっている。なんという無駄…と思いつつ、申請の手引きを読み直していたら、この事業の目的の一つである「高付加価値化」が全て「客単価をあげる」「来客数を増やす」であることに気がついた。

そう、高付加価値化とはお金がたくさん費やされることなのだ。ということは、この補助金事業そのものも、多くの経費を費やすからこそ、付加価値を高める事業になっているわけだ。とうとうここまで来たのか。そう思った。付加価値とは何か。元々の財やサービスが持っている価値以上の価値のことだ。現代経済学の「常識」では価値は消費する個々人が持っている価値観に基づいている。温泉旅館の下にも置かぬもてなしに「価値」を見出す人もいれば、温泉があるだけ他には何もないところに「価値」を見出す人もいる。前者にとっての高付加価値は多くの従業員がいて、痒い所に手が届くサービスを提供してもらうことである。その結果として客単価は上昇する。しかし後者にとって他人のサービスだとか、便利な道具は邪魔なだけ。付加価値を高めるどころか価値を低めることになる。後者にとっては「何もないこと」こそが付加価値なのだから。結果として後者のような消費者は客単価が低い。長々と書いてしまったが、付加価値を高めることと、金銭が多く得られることとは全く別の次元の話なのだー現代経済学でも。

しかし日本では「高付加価値」は「貨幣をたくさん費やすこと」に変化してしまった。さらにそれが当然視され、誰も不思議に思わないらしい。70数年間の戦後の歴史がこの意識を形成してしまったのだろう。なにしろより便利に、より清潔に、より贅沢にが目標だったのだから。けれど、付加価値は本来その人独自の感覚によるものだ。ホームレスのダンボールハウスの建築を研究していた大学院生が、恋人を段ボールハウスの住人に取られてしまったという笑えない実話がある。建築学では有数の大学院に所属していることと、人間の魅力は別だったのか、それとも「生きる力」に惹かれたのかは定かではない。しかし彼女は一般的な高付加価値(学歴の高さ)よりも、自分自身の直感的価値観で選んだのだろう。日本人はこれからも沢山の貨幣が高付加価値だという常識に従って生きていくのだろうか?それとも自分の直感的な価値観を取り戻すのだろうか。

4⽉5⽉の楠クリーン村からの呼びかけではアジアの⽣活技術で協⼒「保存⾷」

松⼭⼤学経済学部教授 松井名津

ミャンマーでの活動に関しては折に触れ紹介しているところですが、今回は保存食技術提携のその後についてお知らせいたします。まずは皆様から、梅干しや漬物、ひしおなどさまざまな技術の詳細や、技術を持っている方の紹介をいただき、ありがとうございました。「自分には技術がないから、せめてお金だけでも」と寄付していただく場合も多く、感激しております。さて、今回の保存食技術提携は日本からだけでなく、アジアネットワークのコミュニティからも、それぞれのコミュニティに伝わる様々な保存食、あるいは保存の技術が紹介されました。その一部をここで皆さまに紹介し、日本でも「もしもの時」の備えにしていただければと思います。ミャンマーの政変は遠いことの様に思えますが、世界に広がるコロナによる都市封鎖(ロックダウン)による流通の機能崩壊・食品不足などは、とても他人事とは思えません。


1)インドからは日干しの技術と土器を使った昔ながらの冷蔵方法が紹介されました。日干しの後か来る油で揚げれば、健康的なスナック…ポテトチップですね。

2)インドネシアからはユダ君が自分の屋台カフェで実践している簡便な保存方法と、プルメリアの花を乾燥させ、油でさっと揚げるスナックが紹介されました。地味なイメージの保存食ですが、花のスナックは可憐で保存食のイメージが変わるかも。


3)ネパールからは伝統食の一つである「グルンドリュック」の作り方です。これは様々な野菜を細かく切って、干して、さらに発酵させたもの。ネパール料理には欠かせない調味料であり、食卓の一品です。手間隙がかかるところはネパールのお袋の味といったところでしょう。


4)フィリピンからはジョリーが実際にイワシの塩漬けに挑戦です。仕上がるのに2ヶ月ほどかかるとのことで、仕上がりのビデオはまだですが、漬け込み方を
YouTubeチャンネルにアップしてくれました。

5)カンボジアからは今までも昆虫食の紹介がありました。ミャンマーでも昆虫は佃煮的に食べられていますし、WHOも未来食として推進中。日本でもコオロギスナックが話題になったばかりです。


6)楠からは簡単な「カクテキ」を楠クリーン村メンターの恒子さんがズームで紹介。日本各地の参加者でも賑わっていました。ミャンマーには大根がありますし(日本とちょっと違うかもしれませんが)ピリ辛味が好みなので、意外と受けるかもしれません。

募集したのが6月と保存食を作るには最適とはいえない時期でした。これから冬に向かう時期。保存食の作り方をご存知の方は、ぜひビデオに収めてお送りください。CWBネットワークの各国も、今後も保存食の情報を集めていきます。

引き際―温泉津の吉⽥屋旅館を輪ケーションに、出会った⼥将から学ぶ

松⼭⼤学経済学部教授 松井名津

どんなに人気を博した主役級の俳優でも、時が経つと自分はもう主役の俳優ではないと感じる時があるのだろう。年齢的な問題、顔や体の変化、あるいは単純にシリーズものが行き詰まったから、等々。その時、どう身を処するか。演劇や映画の世界から身を引く人もいれば、新しい自分を築く人もいる。そこにその人自身の美学だとか、潮目を読む力が集約されている気がする。


こんな前書きで始めたのは、温泉津温泉で引き際を心得ているんだなと思う人に出会ったからだ。子供に継がせることもなく、一人で切り盛りする旅館の幕引きを考えながら、それでも丁寧に朝ごはんを作ってくれた人だ。彼女が幕引きを考えるに至ったのはコロナのこともあっただろう(お客さんがぐんと減ってね)。世間の変化についていけない(何でもネットやけど、ネットはわからんし、1日張り付いてしまうから)のもあっただろうが、何より「潮時」を感じたからではないかと思う。

「若い人が帰ってきてやりよる。新しいもの」に対して羨望するのでも、嫉妬するのでもなく、興味津々で出かけていく。そこに転換期を見出す。自分の今までのやり方が通用しないのも肌身に染みて知っている(パートさんに来てもらってもな、仕入れも無駄になるし)。そろそろ退場の時が来たのだと自覚しているのだなと思った。そして彼女はできるだけ潔く、自分の場所を片付けたいのだろうとも思った。

戦後の社会も70余年。社会に年齢があるとしたら、そろそろ人生の幕引きを考える頃だ。そして確かに一つの時代の幕引きが近づいていることを感じている人も多くなっている。若い人が、ではない。年齢でいえば65から70歳ぐらいの人たち、それも自分で世の中を渡ってきた人たちが感じている。この年代の人たちは戦後の申し子といっていい。ただ申し子といっても常に時代の直中で活躍していたという意味ではない。安保闘争や学生運動の嵐が過ぎゆく頃、ある人は嵐の中にいて、他の人は嵐に遅れてきた。オイルショックの頃、価値観が180度転換するのも知ったし、群集心理の怖さも見た。バブルで踊った人もいれば、踊りたくても踊れなかった人も居ただろうが、時代の雰囲気は濃厚に覚えている。そしてその後の日本が迷走を深める中で、自分の年齢を自覚していった人たちだ。その人たちが「引き際」を考え始めている。なぜなら今が「潮時」だと感じているからだ。

全てが変わる…おそらく10年後には誰の目にもはっきりとわかるように。そう感じている。そしてその新しい何かを支えるのは、自分たちではなく今の高校生か中学生だろうと感じている。感じていて焦り「今」にしがみつこうとする人たちがいるのも確かだ。けれど、しがみつくのは自分たちが当然としてきた価値観が崩壊すると知っているからでもある。そういう人は総じて暗い顔をして悲観的なことを語る。

引き際を考えている人は結構明るい。悲観的なことを言いはする(特に日本社会がこのまま「戦争をする国」になるだろうという危機感を持っている人は多い)。けれど根っこは明るい。「見るべきほどのものは見つ」といって碇を担いで、仰向けに入水した平知盛ではないけれど、時代の変化を時代とともに見てきたと思っている。その上でこれからの10年、社会がどんなに変化していくかを見る楽しみにワクワクしている。そしてその新しい動きに自分の居た場所を明け渡したとしても、どうとしても生きていけるという「軽さ」を持っている。私の個人的な感覚なのだが、若い世代よりもこの辺りの世代の方が、今が転換期だと確信している気がする。それはこの人たちが色々な潮目を見て、経験してきたからかもしれない。若い人にとっては生まれてから今まで、自分が生きている今ここの価値観しか知らないわけだから、この価値観がゴロっと変わるとは確信が持てずにいるのだろう。だとしたらできれば何かをやりたいと思っている若い人は、引き際を知っている人から話を聞くといい。人や時代が変わる時というのはどんな雰囲気なのか。多くの人はどんな風に行動を変えるのか(より正確にいうと行動を変えていないつもりで、変えているのか)。自分の思いを語るのもいいだろう。ただ言葉が通じないこともあるかもしれない。なにせ流行語には疎いから。でも自分の思いを多くの人に通じる言葉を練習する機会だと思って欲しい。彼らは君たちの話をじっくり聞くだろう。助言をするかもしれないが、邪魔はしない。躊躇する原因を抉り出されるかもしれないから、覚悟は必要になるだろうが。

4⽉5⽉の楠クリーン村からの呼びかけではアジアの⽣活技術で協⼒「保存⾷」

松井名津

ミャンマーでの活動に関しては折に触れ紹介しているところですが、今回は保存食技術提携のその後についてお知らせいたします。まずは皆様から、梅干しや漬物、ひしおなどさまざまな技術の詳細や、技術を持っている方の紹介をいただき、ありがとうございました。「自分には技術がないから、せめてお金だけでも」と寄付していただく場合も多く、感激しております。

さて、今回の保存食技術提携は日本からだけでなく、アジアネットワークのコミュニティからも、それぞれのコミュニティに伝わる様々な保存食、あるいは保存の技術が紹介されました。その一部をここで皆さまに紹介し、日本でも「もしもの時」の備えにしていただければと思います。ミャンマーの政変は遠いことの様に思えますが、世界に広がるコロナによる都市封鎖(ロックダウン)による流通の機能崩壊・食品不足などは、とても他人事とは思えません。

1)インドからは日干しの技術と土器を使った昔ながらの冷蔵方法が紹介されました。日干しの後軽く油で揚げれば、健康的なスナック…ポテトチップですね。

2)インドネシアからはユダ君が自分の屋台カフェで実践している簡便な保存方法と、プルメリアの花を乾燥させ、油でさっと揚げるスナックが紹介されました。地味なイメージの保存食ですが、花のスナックは可憐で保存食のイメージが変わるかも。

3)ネパールからは伝統食の一つである「グルンドリュック」の作り方です。これは様々な野菜を細かく切って、干して、さらに発酵させたもの。ネパール料理には欠かせない調味料であり、食卓の一品です。手間隙がかかるところはネパールのお袋の味といったところでしょう。

4)フィリピンからはジョリーが実際にイワシの塩漬けに挑戦です。仕上がるのに2ヶ月ほどかかるとのことで、仕上がりのビデオはまだですが、漬け込み方をYouTubeチャンネルにアップしてくれました。

5)カンボジアからは今までも昆虫食の紹介がありました。ミャンマーでも昆虫は佃煮的に食べられていますし、WHOも未来食として推進中。日本でもコオロギスナックが話題になったばかりです。

6)楠からは簡単な「カクテキ」を楠クリーン村メンターの恒子さんがズームで紹介。日本各地の参加者でも賑わっていました。ミャンマーには大根がありますし(日本とちょっと違うかもしれませんが)ピリ辛味が好みなので、意外と受けるかもしれません。

募集したのが6月と保存食を作るには最適とはいえない時期でした。これから冬に向かう時期。保存食の作り方をご存知の方は、ぜひビデオに収めてお送りください。CWBネットワークの各国も、今後も保存食の情報を集めていきます。

引き際―温泉津の吉⽥屋旅館を輪ケーションに、出会った⼥将から学ぶ

松井名津

どんなに人気を博した主役級の俳優でも、時が経つと自分はもう主役の俳優ではないと感じる時があるのだろう。年齢的な問題、顔や体の変化、あるいは単純にシリーズものが行き詰まったから、等々。その時、どう身を処するか。演劇や映画の世界から身を引く人もいれば、新しい自分を築く人もいる。そこにその人自身の美学だとか、潮目を読む力が集約されている気がする。

こんな前書きで始めたのは、温泉津温泉で引き際を心得ているんだなと思う人に出会ったからだ。子供に継がせることもなく、一人で切り盛りする旅館の幕引きを考えながら、それでも丁寧に朝ごはんを作ってくれた人だ。彼女が幕引きを考えるに至ったのはコロナのこともあっただろう(お客さんがぐんと減ってね)。世間の変化についていけない(何でもネットやけど、ネットはわからんし、1日張り付いてしまうから)のもあっただろうが、何より「潮時」を感じたからではないかと思う。

「若い人が帰ってきてやりよる。新しいもの」に対して羨望するのでも、嫉妬するのでもなく、興味津々で出かけていく。そこに転換期を見出す。自分の今までのやり方が通用しないのも肌身に染みて知っている(パートさんに来てもらってもな、仕入れも無駄になるし)。そろそろ退場の時が来たのだと自覚しているのだなと思った。そして彼女はできるだけ潔く、自分の場所を片付けたいのだろうとも思った。


戦後の社会も70余年。社会に年齢があるとしたら、そろそろ人生の幕引きを考える頃だ。そして確かに一つの時代の幕引きが近づいていることを感じている人も多くなっている。若い人が、ではない。年齢でいえば65から70歳ぐらいの人たち、それも自分で世の中を渡ってきた人たちが感じている。この年代の人たちは戦後の申し子といっていい。ただ申し子といっても常に時代の直中で活躍していたという意味ではない。安保闘争や学生運動の嵐が過ぎゆく頃、ある人は嵐の中にいて、他の人は嵐に遅れてきた。オイルショックの頃、価値観が180度転換するのも知ったし、群集心理の怖さも見た。バブルで踊った人もいれば、踊りたくても踊れなかった人も居ただろうが、時代の雰囲気は濃厚に覚えている。そしてその後の日本が迷走を深める中で、自分の年齢を自覚していった人たちだ。その人たちが「引き際」を考え始めている。なぜなら今が「潮時」だと感じているからだ。

全てが変わる…おそらく10年後には誰の目にもはっきりとわかるように。そう感じている。そしてその新しい何かを支えるのは、自分たちではなく今の高校生か中学生だろうと感じている。感じていて焦り「今」にしがみつこうとする人たちがいるのも確かだ。けれど、しがみつくのは自分たちが当然としてきた価値観が崩壊すると知っているからでもある。そういう人は総じて暗い顔をして悲観的なことを語る。

引き際を考えている人は結構明るい。悲観的なことを言いはする(特に日本社会がこのまま「戦争をする国」になるだろうという危機感を持っている人は多い)。けれど根っこは明るい。「見るべきほどのものは見つ」といって碇を担いで、仰向けに入水した平知盛ではないけれど、時代の変化を時代とともに見てきたと思っている。その上でこれからの10年、社会がどんなに変化していくかを見る楽しみにワクワクしている。そしてその新しい動きに自分の居た場所を明け渡したとしても、どうとしても生きていけるという「軽さ」を持っている。

私の個人的な感覚なのだが、若い世代よりもこの辺りの世代の方が、今が転換期だと確信している気がする。それはこの人たちが色々な潮目を見て、経験してきたからかもしれない。若い人にとっては生まれてから今まで、自分が生きている今ここの価値観しか知らないわけだから、この価値観がゴロっと変わるとは確信が持てずにいるのだろう。だとしたらできれば何かをやりたいと思っている若い人は、引き際を知っている人から話を聞くといい。人や時代が変わる時というのはどんな雰囲気なのか。多くの人はどんな風に行動を変えるのか(より正確にいうと行動を変えていないつもりで、変えているのか)。自分の思いを語るのもいいだろう。ただ言葉が通じないこともあるかもしれない。なにせ流行語には疎いから。でも自分の思いを多くの人に通じる言葉を練習する機会だと思って欲しい。彼らは君たちの話をじっくり聞くだろう。助言をするかもしれないが、邪魔はしない。躊躇する原因を抉り出されるかもしれないから、覚悟は必要になるだろうが。

安全安心が死語に!未来しよう! Progressの多様性

松井名津

わざわざ英語で始めたのは訳がある。通常Progressは進歩とか発展と訳すのだけど、単に「成り行き」とか「経過」という意味もあって、必ずしも前進とか成長という意味になるわけではないのだ。その時代、その地域なりの「成り行き」があって、その成り行きのまま進んでいった結果、没落したり、危機に瀕したり、極端な場合その国や文明が滅亡することだってあり得るわけである。

で、ミルによれば(と相変わらずミルを持ち出してしまうのだが)中世〜近代までプログレスは、王家同士の戦い・領土の取り合いとその中で の武勇の発揮であった。もちろん王家同士の戦いに無縁な一般庶民にとって、プログレスは無関係であり、たまさか領主が変わって税が重くなったりすると、抗議のために森に隠れたりしたのである。中世のプログレスは一部の人たちのためのものであり、そこで技芸がどのように発達しようとも、その恩恵は一部の人たちのものでしかなかった。これに対し、近代の「貨幣」あるいは「経済」をめぐるプログレスは、その恩恵がより多くの、より普通の人々にまで行き渡る可能性が高いプログレスだといえよう。そして、プログレスへ参加するチャンスも、中世に比べ ればより多くの人に与えられている。それゆえ通常、中世よりも近代の方が「進歩」したと考えられているわけだ。特により多くの人に必需品のみならず、ちょっとした贅沢品をもたらすことになった経済面での発展と交易は、結果的に人々の間の争いを鎮め、温和にしてきたと主張されていた( 18 世紀の終わりの頃だ)。

しかし時代が 50 年ほど進むと、今度は近代の悪弊も明らかになってきた。「貨幣の絆」だけで人々が結ばれている、情け容赦のない解雇や劣悪な労働条件、金儲けしか考えない人々 ……(ディケンズが書いた『クリスマス・キャロル』のスク ルージが代表人物だ)。全てが金・金・金になってしまった!!今の時代に必要なのはかつて中世に存在していた騎士道的精神であり、高貴や崇敬、誇りや敬愛という精神であると、ここまで書くとこの「成り行き」、なんだか戦後の日本の成り行きと似てはいないだろうか?戦時中、「武勇」「天皇陛下の御ため」の名の下、横行していた陰湿なイジメ(それは軍隊内だけではなかったろう)からの解放。 そして「アメリカの豊かさ」への憧れ。より便利に、簡単になる家事。会社で働いてさえいれば自動的に上昇していく給与。貸家暮らしから一軒家へ 。かつては一部の高級官僚や高級将校しか持てなかった「豊かさ」が、より多くの人々の手に届くようになる戦後。 ノスタルジックに語られる「昭和」はそんなイメージである。実際には貧富の差があったし、浮浪児や孤児、若年者の犯罪の多さ、失業者 さまざまな社会問題が溢れていたのだが。そして 1990 年代以降、失われた00年といわれつつ、一向に回復しない経済状況が続く中に生まれ、育ってきた若者 たち(といってももう 30 歳、 40 歳になるわけだが)は、既得権益に阻まれて自分たちが息をできないと感じ出している。そして既得権益をぶっ潰すために、あるいは、自分たちが権益を得るために、昭和の価値を壊そうとしている(その代表が憲法第9条なのかもれない) 。 その時に持ち出されるのが、自国への誇りと愛国心、規律と統制そして倫理(道徳)である。

丸山眞男という政治学者が日本の古層に「つぎつぎとなりゆくいきほひ」があるといったそうだが、意外と私たちが思っている戦後日本の「発展」は「なりゆくいきほひ」=成り行きであり、プログレスだったのではないか。高度経済成長時代、経済の成長に、給与の上昇に喜ばない人はいなかった。ところが同じ時代に水俣病やイタイイタイ病が発生しているのだが、経済成長の副作用として陰に隠れてしまっていた。ちょうど今、原子力発電所立地地域の住民が発電所の存在に対して口が重いのと似た構図だ(題目は経済成長からクリーンエネルギーに変わったけれど)。

昭和 年代半ば生まれの私にとって、高度経済成長は自分の身の回りの風景が年毎に変化することでもあった。家の周りは水田で私の家自体が風景の中で異質な存在だった。地区の道路は舗装されていないのが当たり前で、裏小路で繋がった長屋がちょっと羨ましかったりした。大きな道路を挟んで徒歩 10 分圏内に牛舎があった。水田や畑の肥料はまだまだ人糞で(年に1回誰かが肥壺に落ちる事故が発生していた) 。しかしそんな中に私の家も含めて新興住宅や社宅が建設され、水路はコンクリート化されていった。年毎の変化は「当たり前」のことであり、変化=良いこと・素晴らしいことへの進歩だとされていた。

70 年代オイルショックとともに成り行きは変化した。「大きいことは良いことだ!!」は「スモールイズビューティフル」に急展開した。公害問題が声高に
語られ、消費者運動が盛んに報じられるようになった。一夜にして、といえば大袈裟だが、憧れの対象だった自家用車は急に「排ガスの塊」「ガソリン=石油
資源の無駄遣い」の烙印を押された。夜間のネオン消灯・オフィスでの昼休み消灯が推奨され、多くの企業が自主的に協力をした(その分電気代が浮いたので、
協力金は問題にな らなかった)。灯りの消えた夜の街はひたすら寂しく、狂乱物価が消費に冷や水を浴びせかけた。消費は美徳から一転して、節約・倹約・生活の知恵になった。しかし経済が上向きになるにつれ、節約とか倹約だとかはいつの間にか自分らしい生活=消費の追求に変わった。「おいしい生活」の始まりである。そして世界的に貨幣が実物経済よりも多く出回る時代が来た。日本がニューヨークを買い占めるとか(ダイハード第1作。テロに狙われた高層ビルは日本の会社の持ち物だった)、 などといわれた時代だー今の若い人には信 じられないことだろう。オイルショックの時には狂乱物価といわれたが、日本中が狂乱する貨幣に浮かれ騒いでいた。そして迎えたバブルの崩壊。震災・サリン禍、2度目の震災、さらにコロナ禍。

この間、日本でも世界でも「信頼」や「信用」が大きく揺ぎ、閉塞感に満ちた空気が満ち溢れている。なぜ閉塞感を感じるのか。若者たちにも分からないとい
う。あるいは明確に「既得権益があるゆえ」と断じるものもいる。どちらもごく普通に共有化されている「成り行き」としての感覚だろう。「自分たちには特
別のことなんて起こらない」。「平凡な毎日がただ過ぎていくだけ」。「でもそれ以外に幸せはない」。「自分たちは前の世代ほど恵まれていない」。「前の
世代が一方的に得をしている」。全員がこんな思いを持っているわけではないだろう。しかし こんな思いに駆られたことがないかと問われると、なんとなく
と思ってしまう。なんとなく世間的にそうだから。結局、経済「成長」も経済「停滞」も成り行きとして、大事なことだと思ってはいないだろうか。なぜ新
聞は一面に経済ニュースを取り上げるのか。なぜ全てのニュースで経済的影響が語られるのか。生まれてから死ぬまでにいくらかかるか。どうすれば楽して金が
手に入るのか。「給与は減ったけど、仕事に生きがいを感じている」と生きがいを論じる際に、何故わざわざ給与に言及するのか。お金だけが全てではないとい
いつつ、でも最低限 は と思ってしまうのは何故か。

結局、私たちはどこかでお金を意識しつつ生活をしている。それはこれまでの成り行きであったから、仕方がないともいえる。しかし今、成り行きが変化しつつある。プログレスが経済だけではないということに気付かざるを得ないところに来ている(感染防止か経済かの二者択一を迫られたとしたら、どちらを優先するのだろう。もっともこの選択を曖昧にしたまま、成り行きに任せてなんとか切り抜けて来たのが日本だけど、たまたま運が良かっただけだった ということに終わりそうだ)。オリンピック論議では一国の宰相が 「国民の健康」と「国の国際的威信(?)」を天秤にかけている。で肝心のオリンピックといえばロス五輪からこの方「金儲けのための五輪」といわれ続け、実際アメリカのスポーツシーズンとゴールデンタイムに合わせて競技日程と時間が定まっている(選手の健康かスポンサーの金儲けかでいえば、スポンサーに完全に軍牌が上がって儲けかでいえば、スポンサーに完全に軍牌が上がっているわけだ)。金儲け五輪への批判は従来からあったいるわけだ)。金儲け五輪への批判は従来からあったけれど、パンデミック下でもなお五輪を強行するとなけれど、パンデミック下でもなお五輪を強行するとなれば、日本だけでなく世界的に五輪の存在意義が問われば、日本だけでなく世界的に五輪の存在意義が問われることになるだろう。れることになるだろう。

通常のビジネスを見ても、金儲けを全面に通常のビジネスを見ても、金儲けを全面に出せば出出せば出すほど、顧客が寄り付かない。だからフェアトレードすほど、顧客が寄り付かない。だからフェアトレードだとか、品質へのこだわり、環境品質、だとか、品質へのこだわり、環境品質、などななどなど、とにかくお題目を掲げておかないと、と言わんばど、とにかくお題目を掲げておかないと、と言わんばかりの商品が今日もスーパーの店頭に並んでいる(有かりの商品が今日もスーパーの店頭に並んでいる(有機機、無農薬、有機栽培、特別栽培、契約栽培、顔、無農薬、有機栽培、特別栽培、契約栽培、顔の見える生産者、地場産の見える生産者、地場産一体何がどうなっているの一体何がどうなっているのか、見当もつかないから、結局値段で買うしかなかっか、見当もつかないから、結局値段で買うしかなかったりする)。どの企業も顧客が環境優先なのか価格優たりする)。どの企業も顧客が環境優先なのか価格優先なのか、怖々でうかがっている。あっさりと低価格先なのか、怖々でうかがっている。あっさりと低価格を売りにしたいところだが、グローバル展開をすればを売りにしたいところだが、グローバル展開をすればするほど、するほど、あたりあたりが黙ってはくれない。環境や人が黙ってはくれない。環境や人権を優先した商品と銘を売っても売れるとは限らない権を優先した商品と銘を売っても売れるとは限らないーいや、全然売れないわけではないのだが、所詮数がーいや、全然売れないわけではないのだが、所詮数が限られてしまう。とはいえ環境優先や人権配慮をいわ限られてしまう。とはいえ環境優先や人権配慮をいわなければ大企業でございとはいえない感じがあるなければ大企業でございとはいえない感じがある。。企業も、個々人もどこかで今までの成り行きが変化し企業も、個々人もどこかで今までの成り行きが変化していることは感じている。でもどこに成り行きが向かていることは感じている。でもどこに成り行きが向かうのかわからない。文字通り右往左往で、やけに高いうのかわからない。文字通り右往左往で、やけに高いお金でこだわりたまごを買いつつお金でこだわりたまごを買いつつ均でゆで卵器を均でゆで卵器を買う。今まで通りの商売が通じないと思いつつ、今ま買う。今まで通りの商売が通じないと思いつつ、今まで通りを捨てきれない(それは消費者も同じだ)。おで通りを捨てきれない(それは消費者も同じだ)。お金金ばかりが問題じゃないんだというと「お花畑」と揶ばかりが問題じゃないんだというと「お花畑」と揶揄される。利益優先というと「算盤と論語」と諭され揄される。利益優先というと「算盤と論語」と諭される。兎角この世は住みにくいる。兎角この世は住みにくいとぼやきたくなる。なとぼやきたくなる。なぜなのだろう。ぜなのだろう。
実際答えは皆薄々知っているのだ。みんな誰かが実際答えは皆薄々知っているのだ。みんな誰かが「こっちだぞ!」と指差してくれるのを待っている。「こっちだぞ!」と指差してくれるのを待っている。もしくは何かが起こって、ある方向に行かざるを得なもしくは何かが起こって、ある方向に行かざるを得ない時がくるのを待っている。自分一人が飛び出すのだい時がくるのを待っている。自分一人が飛び出すのだけは避けようと、アンテナだけは高く立てて、周囲のけは避けようと、アンテナだけは高く立てて、周囲の様子を見守っている。だから住みにくく、生きづら様子を見守っている。だから住みにくく、生きづらい。いっそ、と踏み切りたいけどい。いっそ、と踏み切りたいけど踏み切るにはしが踏み切るにはしがらみがあるらみがある(と思っている)。でも、本当に何か指差(と思っている)。でも、本当に何か指差が必要なのだろうか?踏み切らなければいけない程のが必要なのだろうか?踏み切らなければいけない程の高い壁があるのだろうか?森岡泰昌が「壁にぶつかっ高い壁があるのだろうか?森岡泰昌が「壁にぶつかったというけれど、その壁を周りこんでみたら壁が切れたというけれど、その壁を周りこんでみたら壁が切れていたりしないだろうか」というようなことを書いてていたりしないだろうか」というようなことを書いていた(森岡泰昌『美術の解剖学講義』)。全くなのいた(森岡泰昌『美術の解剖学講義』)。全くなのだ。今までの成り行きが経済一辺倒だったから、そのだ。今までの成り行きが経済一辺倒だったから、その成り行きが変化するとしたら「経済ではない全く別の成り行きが変化するとしたら「経済ではない全く別のなにものか」になると思い込んでいるだけなのだ。ゴなにものか」になると思い込んでいるだけなのだ。ゴッホの「ひまわり」を3億円で買う人もいる。だからッホの「ひまわり」を3億円で買う人もいる。だからといって「ひまわり」に変化があるわけではないといって「ひまわり」に変化があるわけではない。ゴ。ゴッホが好きな人にとっては3億という金では表せないッホが好きな人にとっては3億という金では表せない絶対無比の価値があるだろう。あの絵の中に人生の全絶対無比の価値があるだろう。あの絵の中に人生の全てを見出す人もいるだろう。超一級のミステリを感じてを見出す人もいるだろう。超一級のミステリを感じる人もいれば、ただひたすら退屈な絵としかみない人る人もいれば、ただひたすら退屈な絵としかみない人もいるだろう。それぞれの価値は対立するものだろうもいるだろう。それぞれの価値は対立するものだろうか。どれか一つに価値を統一しなくてはならないのだか。どれか一つに価値を統一しなくてはならないのだろうかー「正しい『ひまわり』の価値」はあるのだろろうかー「正しい『ひまわり』の価値」はあるのだろうか?私にはそうは思えない。どの見方が正しいのでうか?私にはそうは思えない。どの見方が正しいのではなく、一枚の絵に対して無数の見方があり、無関係はなく、一枚の絵に対して無数の見方があり、無関係に見えて相互に重なり合いながら「ひまわり」の価値に見えて相互に重なり合いながら「ひまわり」の価値を作り出しているのだと考えてを作り出しているのだと考えているいる。。「あんな絵に3「あんな絵に3億も出して」という人も、「あの絵を3億とはいえ金億も出して」という人も、「あの絵を3億とはいえ金で独占しようとするなんて」という人も、それぞれので独占しようとするなんて」という人も、それぞれの見方で「ひまわり」の存在は認めているのだ。価値と見方で「ひまわり」の存在は認めているのだ。価値というのは元来そんなものではないだろうか?いうのは元来そんなものではないだろうか?

絵画や芸術だから複数の多様な見方が同時並存でき絵画や芸術だから複数の多様な見方が同時並存できるのであって、現実の社会問題ではそうはいかないとるのであって、現実の社会問題ではそうはいかないという意見もあるだろう。それも一つの見方だ。しかしいう意見もあるだろう。それも一つの見方だ。しかし現実の問題だからこそ、二者択一では割り切れないも現実の問題だからこそ、二者択一では割り切れないものがあるのではないか。どちらかが悪でも善でもなのがあるのではないか。どちらかが悪でも善でもない。多様い。多様な見方や考え方があることを前提にな見方や考え方があることを前提にしした時、た時、そのどれでもない何かが立ち現れてくる可能性が増大そのどれでもない何かが立ち現れてくる可能性が増大するのではないだろうか。かつて「ひまわり」は二束するのではないだろうか。かつて「ひまわり」は二束三文の売れない絵だった。その時も今も、「ひまわ三文の売れない絵だった。その時も今も、「ひまわり」は「ひまわり」であって変わりはない。変わったり」は「ひまわり」であって変わりはない。変わったのは人間の芸術への見方だ。何を美とするのか、何をのは人間の芸術への見方だ。何を美とするのか、何をアートとするのか。その前提がガラッと変わっただけアートとするのか。その前提がガラッと変わっただけではない。美とは何かという問いに対する答えが多様ではない。美とは何かという問いに対する答えが多様化し、混沌状態となり、何から何まで芸術になってい化し、混沌状態となり、何から何まで芸術になっていく。それでもやはりそれぞれの美のあり方は違っていく。それでもやはりそれぞれの美のあり方は違っていても、美を求めるという点では一致している。ても、美を求めるという点では一致している。だからだからこそ新しい美を求める動きは続く。現実の社会問題でこそ新しい美を求める動きは続く。現実の社会問題であろうと、民族問題であろうとあろうと、民族問題であろうと((そして「お花畑」とそして「お花畑」と揶揄されようと)揶揄されようと)多様化の中で、互いが求める先にな多様化の中で、互いが求める先になんらかの共通項があるはずだと信じることが、本来のんらかの共通項があるはずだと信じることが、本来の「成り行き」プログレスだろう「成り行き」プログレスだろう。。

地獄元年によせてーJ.S.ミルのディストピア

松井 名津

 地獄元年という表紙のタイトルに「?!」となった人も多いだろう。私自身はといえば、地獄というよりも蟻地獄かなと思った。もがいても、もがいても引き摺り込まれていく、そういう地獄を思い浮かべてしまった。安部公房の『砂の女』ではないが大量の砂の圧力を時として感じるからだ。一粒一粒はなんということもない砂。少し大きくなったところで違和感を覚えるだけの砂。そんなものがより集まり堆積し一斉に崩れかかってこちらに向かってくる。自分の足元さえもいつの間にか不安定で、拠り所なく、力の入れようもない。今の世の中が地獄に向かっているとすれば、こんな地獄ではないかと私は思う。

 世紀の変わり目だとか、時代の潮目だとかに、人は一斉に夢を見る。19世期半ばに生きたミルもまたそうした数多くの夢を見聞きし、自らも夢見た人である。これまでも彼自身の夢(あるいは「賭」)を紹介してきたが、今回は逆に彼の悪夢を紹介しよう。一言でまとめると「予定調和の世界」がそれである。こうまとめてしまうと何やら理想郷のようにも聞こえる。全ての人があるべき姿で、あるべきところに収まるのが予定調和なのだから。ミルの時代、科学の力によって子供の能力に応じた教育を施し(あるいはあるべき姿を教育し)、適切な職業を与え導こうという動きはラディカル派、守旧派を問わず存在していた。不適切な環境や不適切な教育(無教育)こそが貧困の連鎖を引き起こし、怠惰や犯罪の原因となると考えたからである。適切な教育、適切な職業、適切な人生…これが予定調和の世界である。ラディカル派ではミルの父やベンサムを始めとする功利主義者や、ニューラナークを作ったオーウェンが、こうした考えの先頭を行っていたと目されている。守旧派ではカーライルがそうであろう(彼は奴隷制度を未開の人に文明の端緒である労働を教えるために必要な制度であると擁護していた)。

 ところがこれまでも何度も紹介してきたことだが、ミルはこうした考えを酷く非難する。その根底にはこうして作られる世界がディストピアに他ならないという考えがあったのだと私は考えている。なぜディストピアなのか。彼はこうした予定調和の世界を同時代のインドや中国と同じだと考えていたからだ。どちらも高い文明を持っていた。しかし固定的な社会制度のもとで、人々はそれぞれの社会的地位を、運命的なものとして受け入れるだけで、変化を求めない。そうミルは考えていた。「停滞する」社会である。予定調和の世界もまた、科学の知識によって決められた能力を、決められた手段によって開発し、決められた職業につき…と安定した、だが定まった人生を人は歩むことになる。それに逆らうのは非科学的なことでしかない。こうした世界を垣間見せてくれるのが漫画『地球(テラ)へ』の最終盤である。未来の地球、そこには大人しかいない。ぎっしりと大人が並んで行き来するエスカレーターですれ違う二人の男性が会話をしている。

「なんでも昔は人間が自分で自分の職業を選んでいたんだそうですな」

「なんと野蛮な」

「今は全てマザーが適切に決めてくれますからな」

「全くです」

 ほんのワンシーンなのだが、この世界の全てを語っているシーンだと私は思っている。マザーと言われているのは人間ではない。全知全能たるAIである。人々の能力、個性に応じた趣味、仕事、配偶者を選ぶのはもちろん、全ての悩みの聞き手であり、喜びを共にする存在でもある。人々はマザーのもと安心して日々の生活専念することができる。マザーの決定は全てであり、それに逆らうことは「考えられないこと」「病気の証拠」でしかない。この漫画でこの日常生活を壊すのは、日常生活に不満や不信を抱いた普通の人間たちではない。彼らは日常生活に満足し切っている。(ではなぜこの世界は壊れるのか、それはご自身でどうぞ)。これこそが、ミルが忌避してやまなかったディストピアなのだと私は思う。

 この世界で人は自分で何かを選択するということをしない。いつも誰かによって決められた道を歩む。失敗が存在しない(科学的真理に従っているから)から、変化を求めることもない。もちろんこの世界でもほんの少しの不幸、不満はあるだろう。人と人とのすれ違いから喧嘩になることもあるだろう。しかしそれはマザーによって解消させられてしまう。戦争のない平和な社会である。けれどそれは人間が自ら選んだものとはいえない。あるいは功利主義に対する反論としてよく持ち出される睡眠機械がある。夢の中で自分の希望や欲望が全て叶えられる機械だ(これを扱った秀逸な漫画が『夢みる機械』。ここではこの機械を使って世界征服を図った当のご本人が一番先にこの機械を使っている)。この機械さえあれば人はすべての欲望を何らの代償もなく叶えることができる。功利主義でいえば「最大満足」の状態だ。で、現代の反功利主義者たちはこの事例を使ってこの状態の人間が真に生きているといえるのかと問いを突きつける。現代の功利主義者がこれにどのように反論しているかはともかくとして、ミルならばあっさりNOと答えるだろう。すべての人が夢みる機械に入ってしまった状態はミルのディストピアである。ここでも人は定まったコースを夢に見るだけで、選択をしない。不幸や失敗に出会うかもしれないが、それはストーリーを豊富にするための単なる仕掛けでしかない。機械の中の人たちは全員満足している。しかし、とミルは言うだろう。この満足は幸福ではないと。

 ミルは功利主義者である。が彼が求めたのは幸福である。彼は『自伝』の中で幸福はそれ自体を追求しても手にすることはできない。何か別の目的を追求しているとき、道端の花のようにふと発見するものであると書いている。人生で何らかの目的に向かって行動している。それが幸福の前提である。そうした幸福が疑似体験で得られるかどうか。『夢みる機械』が与えてくれる夢は何もかも不自由のない世界だが、その時本来の達成感が得られるのかどうか。これは実験しなければわからない。が、直観的に「ちょっとそれはね」という人が多いのであれば、おそらく何らかの心理的バリアーがあるのだろう。ミル自身、満足を否定しているわけではない。とはいえ「満足した豚よりも、不満足な人間のほうがよい。満足したバカよりも不満足なソクラテスのほうがよい」というのが『功利主義論』の一節にある。そしてこの一節が代表するように、彼は満足や幸福に質の違いがあると主張した。より高い質の幸福や満足を求めて、より活動的に人生を生き、自ら選択する。これがミルの求めた理想的な人間像であろう。その一方で五感が満足するものを与えられること、与えられた選択肢の中から最も満足するものを選ぶこと。貧しくもなく、飢えもせず、不自由のない生活をおくれるのであれば、考えること、選択することを放棄する。これは彼にとっては回避したい人間像であり、ミルからすれば自ら幸福を放棄していることになる。しかし、安楽で安定していて安全であれば、それで満足だというのが人間でもある。

 ミルは自分の理想と、目の前の現実世界で大多数を占めつつある安全と安楽だけを求める「大衆」的人間の間で揺れ動く。自分の理想を「あるべき姿」としてしまえば、それは絶対的真理を設定し、人間にあるモデルを押し付けることになる。それもまた人間の自由意思を否定することになる。その一方安定と安楽だけという人間をそのまま認めてしまうこともまた、自ら選択するという自由意思を窒息させる社会が実現する道を開くことになる。結局ミルは人間がきっと自由意思を選択するだろうという「賭」を提示することにした。それぞれの時代、それぞれの社会が自由を基準に社会を選択することに期待をかけた。

 それから150年以上がたった。私たちの社会、少なくともこの日本はどちらに近づいているのだろうか。学生に将来どんな生活をおくりたい?と聞くと、ほとんどが「フツ―の生活」と答える。フツ―ってどんなの?と聞いても明確なイメージを持っているわけではない。とにかく毎日無事に、パートナーがいて子供がいて、ちゃんとご飯が食べられて…。ではそういう生活がどうすれば可能なのかと聞けば、会社に入りすれば実現すると思っている。「見苦しくない私服」を考えるのが難しいから、リクルートスーツが一番だという。どこかで聞いたような主張を述べていると安全で安心だと感じている。その癖どこか息苦しいという。

 最初に蟻地獄と書いたけれど、とてつもなく大きくて自分が下に沈んでいっていることも気が付かない蟻地獄に、彼らは生きているのではないかと思ったりする。もがくこともなく、そこが地獄だということを自覚することもなく。ゆっくりとでも確実に、選択しないという不作為によって沈んでいく。そして自分たちが苦しくなったとき、多くの人は「これは自分のせいではない」と思う。当然だ。自分で選択したことがないのだから。だとしたら、始まるのは蟻地獄の中での犯人探しだ。誰が自分よりもより悪いもの、より低いものを見つけて、自分の優位を誇る。地獄には鬼の獄卒がいるというが、怖いのは地獄の囚人同士の罵り合いだろう。  今年が地獄元年となるのかどうか。たとえ小さくとも一つ一つの選択に賭けがかかっている。

ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と「組織」であること

松井 名津

 ブルシット・ジョブとは、と書き出してもいいのだが、詳細な定義や分析は本家[1]に任せるとして、要は「誰かのために役立っているとはとても思えないと、その仕事についている人が痛感している」仕事と考えて欲しい。一定年齢以上の人はこの言葉で「窓際族[2]」を思い出すかもしれないが、この本で書かれているのは窓際族とはいえ、何か仕事をしているフリ、忙しいフリをしなくてはならない人たちであり、またリストラの対象でもない(それどころかこの本の中に出てくる実例のほとんどが新規採用者である)。本当に全く何も仕事がない(倉庫の在庫を何度も調べ直す)場合もあれば、やってもやらなくてもどうでもいいような仕事(ワードファイルをエクセルファイルに入力し直す)の場合もある。こうした仕事が低賃金かというと左にあらず、家賃を払い日々の生活費を賄い、奨学金ローンを払ってもまだお釣りが来るほどの賃金を得ている。いってみれば「おいしい仕事」なわけだ。ところがこの「おいしい仕事」についている人のほとんどが、社会に参加していない、自分などいなくなってしまっても構わない存在だと悩み、自尊心を傷つけられ、こんな仕事を続けるぐらいなら…と「実質的(リアル)な」「他人に役立つ」が低賃金の仕事に転職していくという。

 なぜなのか?というのがこの本の根本的な疑問である。現在の生産性から考えて、通常の労働時間は週3日とか1日4時間で済むはずである。ところが「クソどうでもいい仕事」が生まれ、維持され、増殖している。しかも他人に役立つリアルな仕事は大概、家賃を払えるかどうかわからないような低賃金なのだ。こうした社会が真っ当な社会なのか、なぜこのような社会が出来上がったのか、というのがこの本の基底的問題提起である。

 「クソどうでもいい仕事」が蔓延している理由の一つ著者が挙げているのが、人間は辛くてしんどい労働をしなくてはならないという思い込みであり、仕事をしているからこそ一人前という考え方である。辛い・嫌な事が仕事であり、仕事から楽しみを得ているとすれば、それはもはや仕事ではない。ゆえに自分が楽しめる仕事、没頭できる仕事は「仕事」ではない(=無報酬もしくは低報酬)。どんな仕事であっても仕事をしていれば一人前である。だからたとえ自尊心を傷つけられるような仕事であっても、その仕事は「やって当たり前」の仕事である。人から感謝されるような仕事は、感謝という報酬を得ているのだから、金銭的に報われなくても良いはずだ。こうした考え方の背景にはカルヴァン的なキリスト教の影響があることは見てとりやすい。けれど、今や世界中に蔓延している考え方でもあるという。

 ここまで読んだとき、もしかして…日本では、あるいは少なくても私が接している学生のなかで仕事とは「クソどうでもいい仕事」であるという認識が普通になっているのではないかと思いだした。というのも彼ら、彼女たちが仕事にというか、就職で期待するのは「福利厚生」「休暇」「給与」の3点で、事務系であればなんでもいいというからだ。実際の就職活動でも、金融系=とりあえず「堅い」、流通系=大手スーパー=とりあえず検討がつく、営業系=熱苦しいからヤダ(特に女性)、窓口事務(医療系・薬剤系)=責任が軽くてよさそうと、身も蓋もない。生き甲斐とまではいわないが、その仕事をして自分が満足するかという点はあまり考慮しないらしい。どうして?と聞いてもあまり理由はなく「だってそれが普通だと思う」「ブラックじゃなかったらそれでいいし、事務系だったらどれでもいいって感じ」「大学を選ぶときと一緒」となる。

 そう。大学を選ぶときと一緒。なるべく無難な、できれば世間的に見場の良いところに入ること。仕事は「クソどうでもいい仕事」だと認識しているのではないかと私が考えるのは、実はこのところにある。学生たちが歩んできた道は、彼らにとってある意味全て「クソどうでもいい」事(勉強)を繰り返す事だったのではないか。その延長線上に就職があるとすれば、仕事もまた「クソどうでもいい」もので、自分たちの消費を支えるためであれば、つまらなかろうと、興味が湧かないものだろうと、とりあえずブラックではなく、日々無難にこなすことができれば上等だと思っている。そして実は日本企業や日本社会の実態も彼らの期待(?)を裏切らない。そう思えてきたのである。

 日本のホワイトカラーの生産性が低いことはよく知られている。と同時に過労死や自殺が絶えないこともまた周知の事実だ。というか、長時間労働をしているのに生産性が上がらないから、生産性が低いというのが妥当だろう。ということは、実は誰もが「やってもやらなくてもどうでもいい」ことを、さも忙しいそうに「仕事」にしていることなのではないか。ブルシット・ジョブの本の中で取り上げられている実例は、会社の中で「自分だけ」があるいは「自分の部署」「自分の職場(職種)」だけが「世の中から消え去っても誰一人困らない」仕事をしている。これに対して日本社会は「誰もが」勤勉に世の中から消え去っても誰一人困らない仕事を、「ある程度公平に」分担していると考えることができる。

 テレワーク推進でやっと実現の可能性が見えてきた押印廃止。日本全国どこでも書類上部にあるピラミッド構造を表す押印欄の面倒くささ、やりきれなさ、馬鹿らしさは通用する。なぜなら、日本中ほとんどどこでも「ただ上司の印をもらうだけ」で待っている時間があり、その上司がどうせ盲判を押しているのも同様だからだ。そしておそらく誰もが「押印廃止のための委員会」「同諮問会議」「同決定会議」「同理事委員会」などなどが設けられ(場合によっては『シン・ゴジラ』のように墨跡豊かな看板が掲げられ)、大量の書類と大量の印鑑と時間を費やして、延々と会議が続くであろうことを、自虐的に想像する。なぜなら誰もがその事態を経験済みであり、自分自身がその事態の当事者でもあるからだ。そしてそれが「組織の通弊」であると考えられている。

 というのも「組織」は大なり小なり命令系統があるピラミッド構造をしていて、その中で互いのパワーゲームのために、各種会議(及び根回し)があるのであって、意思決定のために会議があるわけではないからだ。そして日本の場合、意思決定は空気によって行われ、印鑑によって箔がつけられ、報告書としてきれいにラッピングされて、終了する。ラッピングを破るのはご法度だ。その間、現場ではやりくり算段で物事が進み、やりくり算段がすぎて問題が露わになれば、お定まりの謝罪を行い、誰かの首を切れば良い。この万一のための「首」要員としても「責任はありそうな名前の職務」についている人間が必要になる。そしてその責任がありそうな名前の職務についている人間が、さもパワーを持っているように見せかけるためにもブルシットな仕事(というよりは儀礼)が組織の中で必要になる。そう日本人の多くはどこかで思っている。組織人とはそういうものであり、組織で働くとはそういうものなのだと。

 どう考えても、これでは仕事は楽しくない。むしろ苦痛だろう。確かに『ブルシット』本に出てくる実例のように、単独で全てのブルシットを抱え込むよりは、日本のように組織内で広くブルシットが共有されている方が連帯感があって良いだろう。あるいは「会社のため」が生き甲斐なりやりがいを与えてくれるかもしれない。家庭や世間でどう思われようと、会社の中では一人0000の一人前の働き手なのだと思える。しかし、仕事の無意味さ、どうしようもない空虚さは、毎日薄く積み重なり、やがて肩にのしかかるものとなる。なるほどスーツの後ろ姿がどんどん傾いで行くわけだ(と私は一人で納得してしまう)。

 実際「大学」という組織らしくないところで、教員というこれまた命令系統の判然としない職についていても、年毎に煩雑になるシラバスや各種書類、申請様式に追われている。シラバスなどは「その講義で何を教えるかに関する学生との契約書」であるから、事細かに各講義ごとの内容を詳細に記述するように求められている(求めている主語は学生ではない。文科省のどこかで作られた文書だ)。講義なんて生き物だから、その時の学生のその場の雰囲気で進行状態が変わるものだと思っている。だから取り敢えず埋める。けれど一旦埋めてしまうと、シラバスが私を縛ることになる。どうにも厄介で仕方がない。黒板からスライドへの移行も同様に厄介だ(時々スライドを止めて書き直すこともある。誤字や数字の間違いを訂正するだけじゃなくて、作っていたときとは別のことを話してしまうからだ)。シラバスは生き物である講義を標本ピンで固定するようなものだと思ってしまう。ということで年々講義がやりにくい(言い訳半分)。

 こう考えてくると、先月紹介したミルの「労働が快楽になる」ことの重大さを改めて噛みしめたくなる。当時も今も「労働が快楽になる」は不評だった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。単なる夢物語。そう片づけられる主張だった。それはまた経済学の根底を崩しかねない危うさを持っていた。けれど、『ブルシット』を読みながら、功利主義者としてのミルにとってはある意味当然の帰結だったのかもしれないと気がついた。人は快楽を求め苦痛を避ける存在である。労働者にとって働くことが苦痛である限り、労働者は労働を忌避する。忌避された労働から生まれた生産物は、何に対しても応答可能(レスポンシブル/責任を持つ)ではない。なぜならそこに労働するものの意思も配慮も含まれていないのだから。逆に労働が快楽であれば、労働するものは自分が生産するものに対して意思と配慮(ケア)を込める。それは使う人との間で応答可能性を持つものになるのではないか。

 果たして労働が快楽になるのは無理・無茶なことだろか。私はそう考えない。労働が快楽だった、少なくとも楽しみを伴うものだったといえるのではないかと思うからだ。例えば『逝きし世の面影[3]』で紹介されている幕末前後に日本を訪れた西欧人が異口同音に語る「明るい笑顔」は、「豊かさ」がもたらしたものではない。農村の労働は肉体的には決して楽なものではない。しかし、少なくとも他人に縛られて働くものはいない。天候に左右され、年貢は取られるが、日々の生活のリズムは自分たち村のものたちが作っている。祭りや神楽も自分たちの手で作り上げている。生活の厳しさはあるが、そこには楽しみと慈しみと美があったのだと(感傷かもしれないが)思う。ミルが大規模農業が盛んになろうとしていた時代に、あえて小規模自営農を擁護するのも、労働と結びついた生活の美のためだ。自分たちの、自分のリズムで仕事をし、生活を営む時、仕事は喜びを生むのではないか。

 例えば私にとって原稿や論文のため、キツいけれどガシガシと原書を読んだり他の論文を読んだりすることは労働だけど楽しい。集中していると時間を忘れる。夢中になっているからだ。誰でもそういう経験があるだろう。その代わりそのあとはダラ〜としてしまう。こんな労働を時間で測ること、時間を定めることはバカらしい。それぞれの人、それぞれの仕事に沿ってリズムがある。営業時間が決まっていたとしても、その中でリズムが生まれる。そのリズムを無視して全て一律に時間と人を割り当ててしまっているのが、今の労働なのではないか。そんなふうに考えると、近代の時計に従って働く労働が逆に特別な・例外的な事象なのではないかと思えてくる。


[1] 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』ディヴィット・グレーバー・酒井隆史(他)訳, 岩波書店, 2020年7月

[2] 出世ラインから外れて閑職につく中高年サラリーマンを揶揄する言葉[コトバンク]

[3] 『逝きし世の面影』渡辺京二, 平凡社ライブラリー,2005年

女だから今動ける

タイトルを見た人の中には「女だから・・・」はないだろうという思いを持った人もいると思う。男も女も均等だ、女らしさ、女だから云々とは・・・と。ちょっとその話はストップしておいてほしい。そういう「そもそも論」をする気は毛頭ない。女だから育児、女だから家事なんて主張には正直飽き飽きしている。

 けれど、世間一般にはいまだに育児は女性という意識は強い(少子化対策の該当インタービュー対象者はなぜいつも女性が多いのだろう)、統計的にも有業男性の家事や育児に費やす時間は、週1時間以下である。

 そんな「女」だからこそ、わたしは「今」動くことが出来ると考えている。今は「」の今。長年築き上げてきた営みが、目の前で濁流に飲み込まれる理不尽。どんなに大切に思っていた人も事も、遠慮会釈なく奪われてしまう理不尽。目にも見えず、臭いもない「放射能」をめぐる錯綜した情報、先行きどうなっていくのか分からない不透明さのなかで、自分の将来を考えなくてはならない理不尽。そんな理不尽な「今」である。そしてこんな時だから「女」は動けると考える。

 なぜか。理由は簡単だ。理不尽さに「女」は常日頃からつきあってきているからだ。え?と思われるかもしれない。けれど、想像してみてほしい。一所懸命作った食事が「あ、食べてきたから」の一言で無駄になる。かと思えば「え!今日晩ご飯ないの?」と責められる(確か出かけに遅くなるからいらないといったのに)。なんだ、そんな些細なことと思うだろう。確かに些細な日常の出来事でしかない。そんな日常の中で「女」は自分の努力を踏みにじられる理不尽さや、自分に責任のないことで責められる理不尽さに出会っている。家の中のことだけではないい。仕事を持っているとなれば、仕事の現場で、それも意外なで理不尽とぶつかる。たとえばこんな風に「君、女性だから、女性のことは分かるよね。この仕事は君にやってもらうよ」(それって私が「女」だから?能力じゃないのね…という言葉は密かに飲み込まれる)。育児ともなれば、相手はこちらの都合などいっさい配慮してくれない。徹夜に近い状態で、やっと眠れると思ったら、夜中の3時に泣かれる。はずせない用件のある時をねらっているんじゃないかと勘ぐりたくなるほどのタイミングで、熱を出し病気になる。明日どころか、一瞬先のことすら予想できない。そんなものとつきあわなくてはならない。職業を持っていても、いなくても、子供がいてもいなくても、「女」はいろんな理不尽さにつきあってきた。怒る場合もあるが、怒るだけでは何も解決にならないことも知っている。受け入れたくないと思いつつ、受け入れるしかない場合もある。表面で受け入れ、さらりと身をかわすという高等手段が通用するときもある。日常的にぶち当たる理不尽だからこそ、怒ってばかり入られない、受け入れてばかりもいられない。いろんな対処方法を自然と編み出している。

 そう、「女」は理不尽に慣れている。ことの大小はある。けれど茫然自失とする事態、自分ではどうしようもない理不尽な事態に出会ったとき「女」が強いとよく言われる。私の祖母たちも、8月15日の「勅語」を聞くやいなや、ネルのもんぺの糸をほどいたという。「これでまたコーヒーをたてて売るんや、商売がまたできるんや」と真っ先に思ったそうだ。些細な日常の理不尽さになんとか対処し続けてきているからこそ、茫然自失の事態に出会ったとき、「女」はまず日頃出来ること、慣れていることから手をつけようとするのだろう。それがそれまで理不尽さに対処してきた方法だったのだから。

 そして、日常の中で「女」が身につけているのは理不尽さに何とか対処するやり方だけではない。何年か前に、ある講座で、7人ぐらいのグループで各自が出来ることを出し合って、何が出来るかをまとめてみるというワークをしてもらったことがある。昼の講座だったのでずっと専業主婦だったとか、随分昔に仕事を辞めたという女性が主体だった。最初は「なにもないです」という声ばかりが目立っていた。そのうちの一人が「3人の子供を育てていたから…」と発言したとたん、隣の若い女性が「え、3人も育てられたんですか?実は今子育ての真っ最中で…」。その場で育児相談コーナーが始まった。70歳以上が集まったグループは、「私たちお店始められるわ!」と意気軒昂。何を始めるのかと聞いてみたら、グループの一人が和裁と洋裁ができ、趣味で布小物類を、人形を作っているメンバーがおり、タンスにいっぱいの古着の処分に困っているメンバーがいるとのこと。リサイクルショップではなく、自分たちで古着を再生しておしゃれなグッズや服に仕立て上げるのだという。

 彼女たちは別段特殊な技能を身につけた人たちではない。ごく普通に育児と家事にいそしんできた人たちだった。いや、逆にこう言った方がいいのかもしれない。育児や家事にいそしんできたからこそ、身についた技能があったのだと。それは会社組織の論理の中では評価されない技能かもしれない。けれども、日常を生き延びる上では欠かせない技能でもある。専業主婦が希少種となったといわれる現代でも、家事育児を担わなくてはならない「女」は、こうした技能を何かしら身につける。

 考えてみれば、家事や育児を担うということは、細切れになる時間、自分では思い通りに管理できない時間のなかで、いかに効率的に働くかを意識することでもある。洗濯機が止まる時間を計算しながら、朝ご飯を作り、洗濯物を干す手順を意識しながら、テーブルの上に離乳食をぶちまけようとする子供に素早く手を伸ばす、なんて芸当を、軽々とこなさなくてはいけないのだ。家事育児を担わなくてはならなかった「女」は、マルチタスクをこなし、タイムマネジメントをし、リスクを意識しているのである。

 だからこそ、私は「女」は「今」動けると考えている。途方もない理不尽さ、そのあまりの巨大さを見つめると、何をしていいのか分からなくなる。けれど、日常生活は続いていく。ともかく明日のご飯は食べなくてはならない。限られた物をどう活かすか。これは常日頃、日常の中で意識してきたことだ。やったことが無駄になるかもしれない。そんなことは当たり前だった。評価されないかも?そんなことが当たり前なのが、家事育児だ。だから無駄になるかもしれないと思っても、何かしら始めることに抵抗は少ない。さらに「女」の(通常悪口としていわれる)特徴的な行動「しゃべりながら…する」。これも「今」の状況には結構役立つ。たかがおしゃべり、されどおしゃべり。他愛もないとか、所詮井戸端会議で噂話で‥などといわれる。でもおしゃべりは内容だけに意味があるわけではない。他人と繋がっている、自分がここにいるという表明でもある。女性と男性では鬱病にかかる割合は女性が高く、自殺する割合では男性が高いのも、このあたりに原因があるという人もいるぐらいだ。理不尽さを分かち合い、互いの経験を交換するときもあるだろう。その中から、新しい動きを始めようという意欲や方向が見えることもあるかもしれない。

 そして私が今動ける「女」に、理不尽さになれた「女」に期待していることが一つある。それは理不尽さに怒りを持って立ち向かう虚しさだ。

 理不尽な出来事、理不尽さ仕打ちにあったとき、人は茫然自失とし、やがて怒りの感情を覚えることだろう。「なぜ自分だけが」「なぜ私たちだけが」…。そして怒りの感情をぶつける対象を探す。けれど、怒りの感情は(例えそれが正当なものであったとしても)破壊的な効果をもたらす。怒りの感情を抱いた本人自身に。怒りは人を縛り付けてしまう。理不尽な状況から一歩も動けなくしてしまう。まして怒りの対象を敵として固定してしまったら、なおさらだ。敵を殲滅するまで、何もできなくなる。けれど、その敵はだれだろう。日常の些細な理不尽の中では、その敵は自分がつきあい続けなくてはならない相手でもある。殲滅戦は勝利への道ではない。相手を憎み怒り…そして残るのは怒りに縛り続けられた虚しい自分。それは些細な日常ならよくわかる(夫婦げんかの後みたいに)。でも大きな物事では分からなくなる。同じ怒りを抱く人の数が多ければ多いほど、怒りが正当化されたような気になる。けれど、怒りはやはり怒りでしかない。それは人を前に進めはしない。ましてや周囲の人々を動かしはしない(怒る人間をはやし立てる人はいても)。怒りを覚えるなとはいわない。怒りは自然な感情だと思っている。けれど、怒ることの虚しさ、敵を作ることの虚しさも心得ていて欲しいのだ。

里山にて

  職業:大学教員。所属:経済学部。専門:経済思想史、主として19世紀イギリスのJ.S.ミルを対象とする。これが私の公式のプロフィール。大学教員だから、当然のごとく講義やゼミで学生を教える側にいる。そして、私のゼミは自称「経済学部農学科」である。なぜかって?2年前から松山市の郊外で米を作っているからだ。ちなみに作った米のほとんどは販売している。パッケージデザイン、価格の設定、販路の開拓はすべて学生が自分たちで行っている。教員はアドバイスはするが、介入はしない。「こうした活動を通じて、市場経済の仕組みを単なる机上の理論だけではなく実感として知るとともに、自ら動く力、課題を生み出し解決する力を養う」というのが、このゼミ活動の目的である…。
 というのは、全くの建前。

 本当の理由は単純明快。私自身が現地の里山里地に惚れ込んでしまったから。

 それゆえ、1年目の学生はある日突然「あ、里山でお米作ることになったから」と言い渡され「え~~っ」。その後「うん、そのかわりできたお米は自分たちで売っていいって。頑張ったら売り上げはあんたらのもんやから」とフォローにもならぬフォローが入り、再度「えぇえ~~!?」という具合。

 という訳で、1年目の去年は教員も学生も全くの手探り状態。教員学生とも米作りには全くの素人。里山に広がる棚田3畝(1畝は30坪)の先生は若きは70歳前から最長老は80云歳になんなんとする指導農家の方々。ひたすら教えを請う日々が始まる。
 まずは田植え。「3畝じゃけんの~。6人で一杯じゃ」。ちょうど間がいいというか悪いというか、お隣の田を借りていた市民の方がぎっくり腰。同じ棚田を耕すのも何かの縁とばかりに、隣の田も同時に田植え。しかしなぜ6人で一杯???謎が解けたのは、指導農家さんが田定規を持ち出した時。一本の竹の両端に長い棒と短い棒がくみ合わさったものがついている。竹には一定間隔でひもが小さく丸くついている。「ええか、この棒の端を畦の端に合わしてみぃ。ほれ、まっすぐせんかい」「ほうじゃ、ほしたら、ひものとこを目当てに苗をこう持って植えて…ほれ、そんなにたくさんうえたらあかんじゃろが…3本ほどでええんじゃ」「よっしゃ、一列終わったら、縦横の棒を植えたとこに当てて、ほれ、次の列が分かるじゃろ」。名前の通り「田」植えの「定規」。これで一件落着…とはいかないのが素人の哀しさ。棚田は曲がりくねってる。一列に植えながら下がっていくと、田定規が余ってしまう。さて…「先生。これ縦棒を直前の列じゃなくて、その前の列に当てて、横にずらしたら、次の列出来ますよ」と学生が発見。「あ、ほんま。あんた、頭ええやん」「単位は落としましたけどね…」。

 こんな調子で、新しい物事に出会いながら、夏の草刈り(太いナイロンひもを取り付けた草刈り機で草をたたくように刈っていく。ストレス解消にもなる私が一番得意とする作業)、田の中の草取り(稲と野生のヒエの見分けが難しい。田の中での作業なので、手足だけでなく顔を葉で切ってしまうことも)…。
 稲木干し用に里山から竹を切り出すこと。竹は細い部分は箒、雀よけの糸を張るため等々、余すところなく使えるので、里山には必ず竹があること。昔、換金作物として作っていた肉桂が今は野生化してしまっていること。愛媛で絶滅危惧種となっている蛙やトンボが復田とともに、里地に戻ってきていること。同時に猪や猿もやってくること(かつては里地に人が多かったのでよってこなかったのだという)。里山里地では教わることが多い。

 それは農作業にとどまらない。例えば農家の収入。単純に現金収入は昔から低いと思い込んでいた。ところが最長老曰く「わしが若かった頃は、里山で仕事して月に1万5千円、田んぼで仕事して月に1万5千円ぐらいは楽に稼いどったわ」。聞けば昭和20年代後半から30年代始めの頃。その頃4年制大学卒業の初任給は1万2千円程度。なんと、かつては大卒の倍の収入だった訳だ。(今農家の平均年収は200万円以下といわれている。昭和2,30年代の4大卒はエリートだったから、現在であれば年収600万は軽く超える層だろう)。

 指導農家さんたちは厳しく暖かい。学生を叱咤激励しつつ、うまくおだてほめて働かせる。そしてちょうど疲れた頃に「ほれ、スイカじゃ。裏の畑で作ったやつ。スーパーのよりまずいとはいわせん」と差し入れがくる。見事な人心掌握術。

 けれどもここには、見えないけれど、もっと大きな先生がいる。里山里地そのものだ。

 田植えをしている時、草刈りの時…。里山里地を訪れると自分の五官・五感がどんどん変わっていくのを感じる。足の裏、手の先のちょっとした変化をすぐに感じ取れ、そのかすかな感覚をたよりに自分の体の動きを調整するようになる。
 なにより裸足でたっていると、足の裏からすうすう「風」が入って、頭の上の方からすうすう抜けてゆく。手が入っていなかった竹林から竹を切り出した後、ふと肩に手をおかれた気がして振り返ると、風が吹き抜けてゆく。お疲れさん。そういわれたような気になる。雑草を刈っていると「刈られ往く 我が身にも名は あるものを」とつぶやきが漏れる。ふと手元を見ると、つい最前まで小さな可愛らしい花と思っていた草を、私の手が刈っている。多くの命を犠牲にして一粒の米が出来ていく。

 それだけにさやさやと揺れる穂並みは涙が出るほど美しい。多くの命を吸い上げているから。そしてそれを食べるのが私たち人間なのだ。

 里山里地は言の葉も鍛えてくれている。私は元々論理的に文章を組み立てる方ではない。どちらかというと感覚的というか、情感的に文章を書いてしまう方だ。だから専門論文であっても、何かを感じ、その感覚や思いのもとを突き止めるために文章を書く。その時、いつも突き止めたい何かを具体的なものやイメージに変換しながら、自問自答する癖がある。「う~ん。結局このところの論理と帰納は往還運動て進んでいく訳だから、尺取虫的なんだけど、もうちょっとこう…武張っているというっか」とか「ここでの社会のイメージって、おぼろ豆腐みたいにふわふわしてるけど、塊魂はしっかりしているって感じ」。

 こうした具体的なイメージがなぜ浮かんだのか、どこから浮かんだのか、そのイメージから何が言えるのか、そのイメージから何がどうつながっていくのか。その時々に思いついた文章を一気にかけるところまで、書いてしまう。そして大概3000字程度で原因も分からないまま止まってしまう。その時は、しばしば止まったままにしてしまうことが多い。そしてまた具体的なイメージに戻ってやり直す。こんな感じで先の見えないまま論文を書きだすものだから、ことごとく無駄な文章が乱立してはデスクトップのゴミ箱に突っ込まれ…ずに、別ファイルにしまい込まれる(もったいない精神ー苦笑)。

 里山里地はこうした癖のある私にたくさんの言葉やイメージをもたらしくれる。竹の音、風の色。言葉だけでしかなかったものが、私の手足を通じて入ってくる。山は本当に笑い、水音は千差万別。風は青くも赤くも変化する。草の香はむせ返るほど高いときもあれば、枯れかけて寂しく地をはうときもある。知らず知らずに私はそれを教えられている。里山にいるときに論文のことを考えている暇はない。論文を書いているときに里山のことを思い出すことはない。けれど同じ私の中で、両者はどこかで確かにつながっている。名も無い草が繁茂する風景、人間がいてこそ維持される自然と、荒れ果てた自然の寒々とした荒涼さ。

 人間ってどんなものなんだろう、他人が考えてることや感じていることなど所詮分かるはずも無いのに、なぜ人と人はつながれるのだろう。机上で考えていては堂々巡りする論議を里山の自然は目の前で断ち切ってくれる。豁然として。堂々として。根源にあるのは「生き続ける」ことなのだと。

 私だけではない。一緒に行っている若い学生たちもそれぞれに里山の教えを持ち帰っているようだ。単純に作業でほめられたことをしっかりと抱きしめる子もいる(あの子はずっと自分は何をやってもだめだといわれてきたといっていた)。販路開拓で交渉のこつを教えてもらった学生もいれば、試食販売で大声を出したおかげで面接が怖くなくなったという子もいる。就職活動の暇を縫って手伝いにくる学生もいる。里山に戻ると彼らの顔から角が取れる。それを「癒し」という今風の言葉にしてしまいたくはない。彼らは里山に教えてもらいに帰ってきているのだと思いたい。「生き続ける」ことの原点を。