口に糊すること

時折学生さんたちと話していて不思議に思うことがある。彼らがそろって「そこそこ普通の給料の」仕事に就きたいというからだ。で「なんでそこそこ普通の給料なの」と聞くと、「やっぱ普通の生活がしたいでしょ」って答えが返ってくることが多い。でも普通の生活ってどんなとか、どれくらいの生活って聞くと、とたんに答えが返ってこなくなる。一ヶ月どれぐらいの金があれば自分なりの生活ができるのかという感覚があまりないようだ。それは結構危険なことなのではないかと思う。

 自分はどれぐらいの金額の生活なら我慢できるのか。今の日本でその加減を知っておくことは大切なことだと思う。それは単純に金額ではないかもしれない。東京都区内で月3万円以下の家賃だと、築40年を超え広さは10平米以下。でも愛媛県松山市だと2万円でその倍の広さの部屋が借りれる。住処一つをとってもどこで生活するかで随分違う。だから正確には、どのレベルの生活なら自分は耐えられるのかと考えた方が良いのかもしれない。いずれにしろ最低限さえ知っていれば怖くはない。最低限で良いと考えれば腹をくくることができる。腹をくくった上で、自分は何でその金額を稼ぐのかと考えることだ。

 貧しい国だと話は反対になると思う。彼らの多くは自分の最低限を知っている。いや知りすぎている。知りすぎてそこから抜け出すことができると想像することをやめてしまったりする。最低限があまりに低すぎてそれ以上の生活を思い描く気力すら残っていなかったりするだろう。貧しい国の危険はそこにある。最低限ではない生活を思い描き望むことがーそしてそれが可能だと思えることがー必要になってくるだろう。

 いずれにしろ、最低限の生活をー片一方はそこを限度として、片一方はそこを抜け出すことをー思い描いて稼ぐ。 私はそうすることで人は強くなれると思っている。別に清貧の勧めを説くつもりはない。最低限稼げれば良いのであれば、それも自分1人の食い扶持であれば、豊かな社会では何とかなるものだ。何とかなるのと思えば、やりたいことをやる強さも生まれるだろう。そして貧しい社会であっても、最低限を脱出するのだと強く思い、その望みが眼前にあるのであれば、多分人はがんばれるのだと思う。私には前者の思いをした経験しかないから、後者に関してはよくわからないのだけれど…。

 ともかく、最低限を稼ぎだす・そこから脱出することが自立の第一歩だと私は思う。そうはいっても、「どうやって」という疑問が湧いてくるだろう。最低限を稼ぐことができる職なんてどこに転がっているのか、安定した職なんてどこにもないじゃないかと。けれど逆に不安定の・不確実のといわれる世の中だからこそ、最低限を考え、たった一つではなく複数の稼ぎ方を持っていることが必要ではないだろうか。収入がただ一つに限定されることは結構危険だ。複数の稼ぎ方を持っていればリスク分散につながる。さらに複数の稼ぎ方があれば生き方も複線化する。なぜって一つの稼ぎ口しかなければ、その稼ぎ口が強制するような生き方(長時間労働だとか、転勤だとか)に固執しなくてもかまわないからだ。こういうとさらにどうやってという疑問が湧くだろう。ただでさえ就職難のこの時代に複数の稼ぎ口なんてと。

 稼ぎ口=正社員、月10万円以上。確かにそんな稼ぎ口は早々転がっていないだろうし、まして複線化なんてとんでもないといわれるだろう(職務への専業義務は公務員に限ったことではないしね)。でもこんな例がある。今治のある女性起業家は注文が重なって自分1人では制作や事務仕事が間に合わない時、知り合いの女性陣に声をかける。女性陣はそれぞれの本業(仕事の場合よりも家事の場合が多いようだが)の隙間を縫って手伝いに馳せ参じる。全くのボランティアでもなく、全くの専業でもない働き方を彼女達はしている。そんなのは本業があるからできるんだ!。待ってほしい。本業があるから半端な副業ができるというけれど、じゃあこうした半端な副業が2つ3つ殊によったら5つ6つとあればどうだろう。一人前の仕事、つまり自分の最低限が稼げる本業になるのではないだろうか。かつてはそんな半端仕事はたくさんあった。節季の餅つきだったり、繁茂期の手伝いだったり、子守りだったり…。報酬は金銭には限らなかった。現物支給や賄いが報酬だったりした(私の勤める大学の近くにある食堂では、今でも学生対象に皿洗いをすれば定食が食べられるというシステムがある)。職人気質の職種では今でも修行中は賄い付きで給与は小遣い程度というところもある(落語家などがその例だろうか)。月収で、一つの働き口での収入で考えれば、半端な副業としかいえないかもしれない。けれど半端だから不必要な仕事だとはいえない。世の中にはちょっとした不自由さに満ちている。デパートで買い物している間の子守り、スマホの使用方法(マニュアルを読んでも分かりっこない)や便利なガジェットの情報と操作方法、レポートの書き方をマンツーマンで教えてほしいという学生さんはたくさんいそうだ(とはいえ、月ウン万円の講師料を払うつもりはないだろう。精々1回2千円といったところか)。こうしたちょっとした不便さや不自由さがちょっとした金額で解消されるなら、喜んで支払う人はいるだろう。

 それは平時に限らない。非常時でもそうだ。阪神大震災で神戸の高級住宅地(大抵高台にある)も被災し、そこに住む高齢者の中には近場の避難所から水や物資をもらうのに苦労した人がいた。私の知り合いの友人もその一人だったそうだが、彼女はボランティアのサービスはいらないと拒否したのだそうだ。そんな「貧乏ったらしいまね」はできないのだと。彼女を批判するのは簡単だけど、1回幾らで物資の配達を請け負う人がいれば、彼女の自尊心も満足し、請け負った側も潤ったことだろう。お金で何でも解決する訳ではないが、お金で解決することも多い。まして長期になればボランティアだけではなかなか難しい。被災地に雇用を生み出すためにも半端で副業的仕事にお金を払う仕組みは結構優れているのではないだろうか。さらにいえば障碍者や、引きこもり等々、いわゆる「通常の」就労が困難な人が1人ずつ半端な(時間的・量的に・仕事のレベル的に)仕事を共同で請け負うことも可能だ。実際に内部障碍を持つ人たちが集まってIT技術を学び、ホームページの作成等を請け負っている組織がある。内部障碍があるから長時間労働はできない。いくら自宅でできるとはいっても、ホームページなどの作成は納期が厳格だから、通常なら不可能な仕事になる。そこを相互に仕事を分け持って(つまり副業化して)互いに互いをカバーできる体制を作って可能にしているのだ。これも副業を重ねて一人前の仕事にする工夫だ。

 そして半端に見える仕事には大きな利点がある。私にしろあなたにしろ、誰にでも何かしらできる仕事があるということだ。ベンチャーにしろソーシャルビジネスにしろNPOにしろ、それに専従するとなると、市場性とか新規性とか色々と難しい理屈がついて、なかなか普通の人間には手出しができなさそうに見える。けれどちょっとした手間仕事、副業だと言われたらどうだろう。なんだかできそうじゃないか。自分ができること、ちょっと得意なことが月々わずかだけれど収入になる。副業にはそんなイメージがある。けれどそれは自分自身の持っている力が金銭という形で評価され認められることでもある。本業では鬱々としているのに副業では活き活きしているなんていうのは、副業には自分のやりたいこと得意なことがお金になり評価されるという要素があるからだろう。

 先に最低限を知らないと危険だと書いた。最低限を知らないと自分と同世代の平均月収がないと「いけない」気になりがちだ。平均月収が稼げないとなんだか自分が劣っているような気になることもあるだろう。けれど最低限を知り、そこで大丈夫だと思えば平均月収にこだわる必要はない。最低限を稼げる半端仕事、ちょっとした手間仕事を重ねることでも良くなるだろう。半端仕事と書いてきたけれど、それは「今・現在」それだけでは平均月収を稼ぎだすことができないという意味で半端なだけだ。自分の最低限をクリアする稼ぎ口、それが自分が望んでいる仕事ではなくても、最低限の時間を使うだけ残りは自分が望んだことができるとしたら。あるいは逆に自分が望んだ仕事が半端な稼ぎしか生まなくても、他の仕事と合わせることで最低限をクリアできるとしたら。それはあなたにとっては半端なものではなく、本業ではないだろうか。自分が決めた自分の稼ぎ。そのためにもがき苦闘する。そこが自立の基礎になると思うのだ。

人は「育てる」のか「育つ」のか

さてもさても近頃は若人の教育がかまびすしく言い立てられており候。甲論乙駁にて、はてさて何が正しいのやら見当もつきかね候。と昔の狂言風に書き出して見たくなるほど、近頃は「教育論」「人材論」「~の育て方」の本が洛陽の紙価を高めるほどに売れております。よくよく表題を眺めますと、求められるのは「即戦力であり、創造力の高い」人材のようです。が、これは既製服に一点もののオリジナリティを求めるような無理難題ではないでしょうか。即戦力というからには、組織に即座に適応し、求められる仕事を求められる水準で、円滑にこなしていく力ということでしょう。しかしこれはその組織の既成のやり方、水準にそっているということでもあります。一方、創造力といえば、既存のものを打ち壊し、新しい地平を開くことでしょう。既成のやり方を大事にしながら、既成のものを破壊する。いささか無理難題なことを日本社会、いえ日本の企業は求めているようです。そしてその無理難題になんとかかんとか自分を押し込もうと苦労しているのが、今の日本の若者ではないでしょうか。元来、無理難題ですから、どうやったらいいのかわからない、だからこそ「指示待ち」になる、受け身になる(というかならざるを得ない)、自分から関心を示さない(関心を持ったとしてもそれが了解されるかどうかわからないから)。若者に向けられる不平不満の多くは、いわゆる「大人」が作ったものではないかと勘ぐっています。

 とはいえ、次世代の育ち方は近代社会にとってはの喫緊の課題でしたし、これからもあり続けるでしょう。なぜ近代特有の課題かといえば(長い話を大幅に端折りますが)共同で一つのプロジェクトを意識的に成し遂げることが、組織の命運を握ることになったのが近代だからです。そしてこれからもあり続けるとしたのは、これからは「意識的に」という部分が拡大していくと考えるからです。上司にいわれたから、会社の仕事だから、ではなく、自分自身が選択し、自分自身のやり方と能力を存分に発揮して仕事をする部分が(たとえ従来の会社組織に勤めていたとしても)増大してくるだろうと考えるからです。

 さてでは、育成方法はという話になりそうなのですが、ここでタイトルをもう一度見てほしいのです。そう、「育てる」のか「育つ」のか。育てるのであれば育てる方法を、育つのであれば、育つための場作りや育つための基礎作りを考えなくてはならないでしょう。

 普通は「人を育てる」といいますが、本当にそうでしょうか。実は私が専門に研究しているJ.S.ミルという人は、3歳から父親に徹底的な英才教育を受けたことでも有名です。しかもその英才教育は「功利主義」に基づいて人間を「育てる」という目的を持ったものでした。そして父親と周囲の期待に若いミルは見事に応え、功利主義の論客として名を挙げていくことになります。ところがある日、彼は深い失望に陥ります。 彼は徹底的に「育てられた」人間でした。しかし彼は「育てられる」ことによって、自分の中に深い懐疑つまり「自分は作られた機械、教えられたことを繰り返しているだけの機械」ではないのかという思いを抱いたのです。このミルの経験は「育てる」ことの限界をよく表していると私は思います。その限界は、育てる側以上のものには育てられないという限界です。植物を育てる場合を思い浮かべてください。庭の一角を緑に彩るために育てていたクローバーが、庭の通路にまで進出したらどうしますか?引っこ抜きますよね。そうしないと、あらかじめ企画していた庭のイメージにはなりませんから。「育てる」には、「~風に育ってほしい」という完成型の意識がどこかつきまといます。その完成型は育てる側が自分の持っている知識や経験を動員して作り上げたものでしかありません。そして育てられる側が、育てる側の完成型に近づけば近づくほど「良し」とされる訳です。それはミルの例のように「教えられたことを繰り返す」クローンを培養しているにすぎないことになってしまう可能性があります。人を育成するとは、決してクローンを培養することではないと思うのですが、どうでしょうか。

 では「育つ」という場合はどうでしょう。実はこれにも陥穽があります。放任・放置になりやすい。「勝手に育つからほっとけばいい」あるいは「見て学べばいい」というやつです。行きつけのバーで、マスターからこんな話を聞きました。カクテルを作るときシェーカーを振る場合があります。昔は「とにかく振れ」としかいわれなかったそうです。少し丁寧な人であれば、「8の字を描くように」といったアドバイスがもらえたそうですが。でも誰も「何のためにシェーカーをよく振らなくてはならないのか」という根本的なことは教えてくれない。というか、知らない。ですから、新人バーテンダーは訳が分からないまま、とにかくシェーカーを振っていた。かつてどこの企業でもやっていたOJTとよく似ています。ところがある時、誰が言い出したともなく全国的に「シェークするのは、シェーカーの中の材料に空気をよく混ぜ込むためだ」ということがわかった。となると、 先輩は自分のやり方を教えるけれども、それが最善の方法であるとは限らない。新人諸君はシェーカーの中に空気をよく混ぜるためには、どういう風にシェーカーを振ればいいのかを考えればいい。何が目的なのか、よくわかっているからこそ、先輩のやり方を教えられ学びながらも、自分のやり方にしていくことができる。「何のために」という目的がはっきりと示される。そして見本となるやり方は示される。でもそれが唯一のやり方ではない。目的を達成するために、自分なりのやり方を工夫する余地はあるし、また工夫しないと本当に目的を達成することは難しい。同じことは、伝統芸能でもいわれています。「(扇を持った)師の手を見るな。師の手の先を見よ」。 これが「育つ」ということではないでしょうか。どんな名人といわれる人でも、その人のやり方をただひたすらまねするだけ(「育てる」)では、その人を超えることはないでしょう。けれど、その人が目指していた目的や境地を、自分も共有する。そしてそれを目指して自分なりの工夫を重ねる(「育つ」)。そうすればいつか誰かがその名人を超えていくことでしょう。

 ところで、先ほどのバーのマスターですが、彼は普通のバイトの子にはカクテルは教えません。でも本気でバーテンダーになろうとしている若い子には、彼も本気で自分のやり方を見せます。なぜか。普通のバイトの子は単にバイトに来ているので、カクテルに興味も関心も持たないからです。「育てる」のではなく「育つ」ためには、育つ方が何らかの興味や関心を持っている必要があります。それは「なぜ?」という疑問を持つことだと言い換えてもいいでしょう。例えどんなに目的が示され、やり方を教えられたとしても、なぜという疑問がなければ、自分なりの疑問に気づくことがなければ「育つ」事はないでしょう。その理由をミルは次のように言います。どんな優れた教えや真理であっても、それが次世代に伝えられるときに「なぜ?」という疑問を持たれなければ、やがてそれは形骸化したモノ、死んだモノになってしまうと。

 今までの人材育成が「育つ」ことではなく「育てる」ことに重心を置きがちだったのは、育つ人たちの興味や関心、意欲、疑問を持ってもらうことが非常に難しいことだからです。単純に「面白い」「珍しい」ではなく、英語のinterest(面白い、興味、関心)です。interestはつきることがありません。その領域で一つ物事を知れば、その途端、自分の知らない膨大な領域がその向こうに広がっていることがわかります。人とのつきあいでも々で、次から次と興味関心が広がり、人との出会いを求めるようになります。けれどinterestを無理矢理かき立てることはできません。育つ人が自分なりに気づく以外にないのです。そしてその気づきの機会は、違いを自覚することから生まれます。自分と他人との違い、価値観や考え方の違いとであい、その違いをなぜなんだろうと考える事が、育ちへのアンテナを形成します。けれど残念ながら、今の日本社会ではよほど恵まれていない限り、「みんな一緒がみんないい」の風潮の中で、自分自身の特別な関心を持つことが難しくなってきています。いっそ、日本人だということを強烈に自覚しなくてはならない場に放り込んでみること(自ら出て行くこと)が、必要なのかもしれません。そのためには、まずは自分にとって「日本」というのは何なのか。それを考える事、それを考える場を用意することが今最も必要とされていることなのではないでしょうか。

注記:この原稿の最初の3行でわざと昔風の熟語を使ってみました。もはや死語ですが、こうした言葉を使うのが「かっこいい」時代もあったのです。

自活と自給自足ー「人」と「組織」をめぐってー(亡きR氏に)

自分たちで自分たちが食べるものを、安全で安心な生活を確保しよう!自然と共に、自然の中で、自分たちだけで自活しよう!おそらくこうした動きは1970年代のオイル・ショック前後から脈々と続いてきたものだろう。それは消費者と生産者が作る生活協同組合運動(いわゆる「生協」だけではない)の一部を支えていたし、なかには実際に「自分たちの村」を作るものもあった。そしてこうした意識なり、活動は「フクシマ」を契機にして一層活発になってきているし、新しい動きも始まり、注目を集めている。

 けれど「自給自足」ってなんだろう?自分たちで「自活」するってなんだろう?

まずは「自給自足」を考えてみよう。たった一人で自給自足する生活の代表選手はロビンソン・クルーソーだろう。離れ小島に漂着した彼が自分の才覚を頼りに、サバイバルを遂げるのは児童書でもよく知られた話である。けれど見過ごされがちなのは、彼は最終的には「救助」されることであり、またフライデーと彼が勝手に名付けた現地住民を従者として使用していることである。救助の見込みや従者がいない状態では、おそらく28年近い生活は不可能だったろう(その場合は小説も成り立たないけれどー笑)。実際的に考えても、たった一人の人間が自給自足生活を行うのには相当な無理がある。それゆえ実際に考案され、実行に移される自給自足は、一定の規模の人数をもった共同体単位である。たとえばロバート・オーウェンの「ラナーク」、アーミッシュの村が思い浮かぶだろう。さて、こうした自給自足共同体にはある特徴がある。それは「他から孤立して存在している」ということ、そして「ある共通の理念によって結集している」ことである。

 理念を共有している共同体は文字上は非常に美しいが、時として悲惨な結果が生じることもある。また、非常に成功したとしても、理念を共有しない「異邦人」に対しては排他的である。こうした共同体での自給自足は原則自己完結的である(例外的に外部との取引はあるとしても)。

 こうした自己完結的自給自足共同体が無数に存在する世界を考えてみよう。可能かどうかは問わない。また、共同体への加入・脱退は自由意志に基づくと仮定してみよう。おそらくこうした世界は持続可能だろう。ただし、どのような変化もない、静態的な世界においてという条件付きで。そしてこの世界では取引(transaction)や市場の役割は極小化される。協働体感の人々の交流(transaction)もごく希だろう。こうした世界はSFに見えるかもしれない。が、擬似的な自己完結的自給自足共同体は現実世界に無数に存在する。「組織」のほとんどがそうだ。何らかの理念(経営理念でもいいし、利益至上主義でもいい、もちろん使命でもかまわない)のもと、多くの人が割り当てられた「仕事」を果たし、その共同体内での評価が、その人にとって重要な意味を持つ。何らかの理由で一時的にせよその共同体を離れる(育休等)と、それはマイナス要因、へたをすると裏切り行為に見なされる。どうだろう、心当たりはないだろうか。

 いや、我々が求めているのは「組織」ではなく、単純に自分たちが安心できる食べ物や、生活するためのエネルギーを、どこかの誰かに頼るのではなく、自分たちの手で確保することなのだと反論されることだろう。では、こう問い返そう。あなた方はそのために、何らかの「組織」を作ろうとはしていないだろうかと。ここで私が言う「組織」は理念「共同体」であり、排他的要素を持つような「仲間」の「絆」で結ばれ、その中でだけで通用する一定の原理を持つ、そういうものだ。私たちは、余りに長い間こうした「組織」に生きてきたのではないだろうか?そしてそうした「組織」が、自分たちにとって都合の良い情報だけを提供してきたこと(きていること)が、現在の不安感、自給自足を求める感情の基盤を作っているのではないのだろうか?だとしたら、その不安感、どこの誰かはわからない(顔の見えない)「組織」に依存することへの不信感を解消するために、また別の「組織」を作ったとしても、事態は余り好転しないのではないかと私は思う。

 では、お前には代替案があるのか。そもそも何かを多人数で継続的に行うときに「組織」無くして実行できる訳がないだろうと反論されそうだ。ちょっと迂遠だが、この反論に答えるためのキーワードとして私は自活をあげたい。

 自活といっても、辞典的な意味での自活つまり自分自身で生計を立てることではない(それも含むのだが)。この漢字二字の熟語を「自らを活かす、自らが活かされている」と読みたいのだ。あえて楽天的に楽観的に断言したい。この世の中に活かすべき才能や技能を持たない人間など一人も存在しないのだと。ただ、現在の仕組みでは、その技能や才能は「市場(しじょう)」の場で評価されずに埋もれ去ってしまう。典型的な例がアウトサイダー・アートだろう。障碍者の手すさび、あるいは単なるリハビリの一環と見なされていたものが、その人独自の世界を現すアートとして評価される(そしてその途端に市場価格とやらがついていく)。別段、その人が変わったわけでも、作品が変わったわけでもない。単純に世の中の仕組みが変わっただけだ。(今「人生ここにあり」というイタリア映画が公開されているが、その映画も是非見て欲しい)。どんな人にでも、その人独自の何かがある。それを活かすこと。それが自活の一つ目の意味。もう一つの意味は、そうした独自の何かは決して一人では見いだすことも、活用することもできないということだ。自分のことほど自分にはわからない。他人の方が良く知っている場合もある。自分の技能や能力を見いだすためには、他人の評価や意見は必要だし、それは身近な人のものに限定する必要はない。そしてどう活用するかも、一人ではできない。周囲やもしかすると見知らぬ他人の必要性に応じて、その人の持っている能力が引き出されていく場合も良くあることだ。それは割り当てられた「仕事」、あてがいぶちの「仕事」では起こらないだろう。けれども、他人と自分の必要性の交差するところ、人と人とが対等に向き合い、それぞれの持てる力を引き出そうと真摯に対峙する場では、日常的に生じることだと思う。私の考える自活は漢字の字面と異なって、自分だけでは存立し得ない自活である。

 前号の記事で自らの核を持つというようなことを書いたが、自活はこの核を見いだし活用することに他ならない。そしてそのためには、他人との協働は必要だ。けれど、それは旧来的な「組織」を作ることではないと私は考えている。組織の英語はorganizationだが、これは生物組織organと同じ語源の言葉だ。私が漠然と思い考えているものは、organizationではなく、organと表現するのが一番手っ取り早いかもしれない。organである限り、つまり生物体である限り、一定の形態を保っているように見える。けれどその細胞(つまり一人一人の個人)は、別段何かの命令系統に従って動いているわけではないし、離れていくモノもあれば、入ってくるモノもある。いや、生物体だって神経系統があって、脳からの指令が、DNAが…という人は是非、団まりな氏の著作を読んで欲しい。細胞は一つ一つ意志と知性を持っているというのが彼女の主張だ(もちろん人間的な意味での意志や知性ではないけれども)。第一、人間が理性的で脳の意志によって行動しているというモデルは脳科学や心理学によって崩されつつある。私の身体も行動も意志や感情も、バラバラだけれども、この私の身体という場を共有している細胞たちによって形成されているだけなのだ。

 えっと…それのどこが現実の協働と関係があるの?そう思われることだろう。では、こう言い直そう。組織体には入れ物がある。それは工場かもしれない、店舗かもしれない。けれど、それがどんな工場なのか、どんな店舗なのかは、その場を構成している個々人が作っていく。その作り上げる過程がorganなのであり、私の考える協働の場でもある。この協働の場は、場を構成している個々人が変わるにつれて変転する(紡績工場が化学工場になるかもしれない。趣味人が集うカフェが大衆食堂になることも良くあること)。場は理念によって結ばれているかもしれないが、その理念すら場を構成する個人によって読み替えられていく。

 そして、もし自給自足という言葉をこうした場で使うとすれば、それは自活する個人が、自分を活用し自分が活用されることによって、何事かをその場に供給し、そして自分に不足しているモノを受容(需要)することだ。そしてこうした場は、一人に一つとは限らない。一人の人間が複数の場を持ち、複数の能力を活用し、複数の自給自足をしていいのではないか。閉鎖的でtransaction(取引であり交流であるところの、そして「しじょう」ではなく「いちば」であるところの)の無い世界での自給自足よりも、transactionと場の変転と、自らの変化に満ちた世界の自給自足の方が、私には魅力的に思えるのだが、果たしてあなたにとってはどうだろうか。

第二近代と個人の生き方

 「第二の近代」という言葉には特別の意味合いが込められているのだろう。20年ほど前、近代の終焉が喧伝され「ポスト・モダニズム」が一世を風靡した。しかしそれは近代を前提として近代を逃れるものでしかなかった。「第二の近代」という言葉には軽薄な流行に終始してしまったポスト・モダニズムへの深い反省と、近代を正面から受け止めなくてはならないという決意が秘められているのだと思う。

 さて、上のような推測が的を得ているかどうかはさておき、ここでは私なりに考えた「第二の近代」と、個人の生き方や行動の仕方の変化を述べていきたいと思う。

 「第二の近代」。この言葉は「第一の近代」がもはや崩れ去っているという認識と同時に、「第一の近代」の正と負の両方を背負って「第二の近代」があるという認識を持っている。では「第二の近代」が背負わなくてはならない、そして超えていかなくてはならない「第一の近代」の特色は何だろうか。個人のあり方や行動の仕方に焦点を当てて考えてみたい。

 みなさんは「100000年後の未来」という映画をご覧になっただろうか。原子力発電所から出るいわゆる核のゴミが半減期を迎えるのが10万年後。その10万年後までいかに安全に核のゴミを埋蔵隔離するかという問題を、多方面の科学者達が真剣に考え、プロジェクトを立案し、実現にむけて実際に埋蔵用の穴を掘り進めている様子を撮影したドキュメンタリー映画である。こう紹介すると、福島の事故以来、原子力発電とそれに伴うリスクを全く考えていなかったことを痛感させられた日本人としては、これこそ「第二の近代」を代表する行動様式と思いたくなる。確かに、原子力発電所を建設するのであれば、ゴミの処理まで考慮にいれなくてはならないという彼らの主張は首肯できるものだし、そうあるべきだったのだろうと思う。

 しかし私は、このプロジェクト自体が「第一の近代」の極北に思えて仕方が無い。なぜなら科学者達は10万年後の未来のあらゆる状況を想定可能であり、対処可能だと真剣に信じているからだ。「第一の近代」の特色はここにある。科学や人間の英知を持ってすれば、どのように遠い未来のことであれ、予測可能であり制御可能である。人間とその知識は時に過ちを犯すことはあれ、最終的には真実に達する。人間は正しく強いのだという前提だ。言葉を換えれば、人間は強くなくてはならない、強くない人間は劣っているという意識、これが「第一の近代」に通底しているものである。自らの意見を人前で堂々と発表する、自分の欲求や要求をはっきり示す。目標をたて適切な手段を選び、ぶれずに達成する。明確なアイデンティティを持っている。こういう人間が集まって、おのおのの個性をぶつけながら、能力に応じた役割分担、指揮命令系統ができあがる。これが「第一の近代」の理想の主体像であり組織形態であろう(アメリカの人気テレビシリーズ「スタートレック」のように)。悩み惑い続け前に進めない人、意見を求めるばかりで発言することが少ない人、時により目標が変わる人。こういった人は意志が弱く、自ら努力して意志を鍛えなくてはならないとされるであろう。

 しかし3月11日以来、私たちは核廃棄物の後始末という事態に否が応でもつきあわざる得なくなった。そして自然エネルギーへの転換や、人間と自然の共生、自然に優しくが喧伝されている。こうした方向性もまた、新しい生き方として提唱されていることだろう。しかし「自然に優しく」というとき、人間は「自然に優しく」できるほど強い存在なのだと無意識に考えてはいないだろうか?

 あの大津波を前にして、「自然に優しく「自然と共生」できると言い得るだろうか。自然は人間に容赦なく牙をむく。

 森林のえさ不足で住宅地に出てきた野生熊に対して、自然保護・動物保護の立場からドングリを撒く人たちもいる。しかしそれは同時に熊の餌付けやその森林の生態系の破壊に繋がる場合がある。人間の英知や人間の自然への配慮など自然の前ではたかがしれているのだ。

 もう二度と物事が人間の英知の「想定内」に収まると100%断言することはできない。反原発の立場をとろうと、原発推進の立場をとろうと、それは変わらない。原発への賛成反対の対立軸は、原発のリスクをどうとらえるのか、それはどこまでのリスクなのか、どのリスクを優先するのかでしかない。そしてそのリスクは制御不能であり、予測不能である要素を多分に含むばかりではなく、リスクが現実化すれば旧に復することは不可能という欠如を突きつけるものである。

 こういう何が起こるか分からない、何を起こすか分からない、そして人の生活に大きな欠如をもたらす、そういうものとつきあう術(すべ)を我々は築いていかなくてはならない。それが「第二の近代」を特徴付ける行動様式になるのではないかと私は考えている。

 ではそれはどのような行動様式なのか問われれば、私は「弱くあること」「弱いということを受容し認めること」だと答えたい。私たちは他人や環境を全面的に制御できるほど強くもないし、その行動や変化を確実に予想できるほどの能力も持ち合わせていない。そういう「弱さ」をすべての人が共通にもっている。起こりうる事態を確実に想定し、それに備えて身構え、起こったことに耐えきる強固さを、私たち自身も、私たち自身が作るものも持ち得ないのだ。むしろこれから必要なのは、どのようなことが起こるにしてもそれを柔軟に受け入れ、つきあう術を持つ柔らかさであろう。それは「強さ」からは生まれない。強いものは柔らかくなれないから(言葉遊びでいうのではない。強くあろうとすると、人の心は固く決心をしなくてはならない。そういう固い決心、一途な決意はともすれば「固い信念」になり、柔軟性を失いやすい)。

 そして全員が「弱くある」からこそ、お互いの弱さを活かす試みを互いに考え、いろいろな試みにチャレンジすることを繰り返すことになるだろう。当初設定した目標は相互のやりとりの中で、どんどん変化していくかもしれない。「弱くあること」はともすれば、甘えやもたれ合い、依存に繋がるかもしれない。しかし互いに弱ければ、もたれられ、依存され、甘えられることは、弱いものの中に強者を作り出すことになる(頼られる人が強者になるとは限らない。何もかも押しつけられる一番の弱いものになる可能性もある)。全員が弱くあるためには、甘えやもたれ合いは禁物なのだ。私たち一人一人は一本の弱い糸のようなものだ。その糸が縁と思いを頼りにより合わさって織物が織られていく。あらかじめ模様が決められている織物を織るのではない。途中で途切れたままになる模様もあるだろう(織り手が、糸がいなくなってしまって)。地色が変化するかもしれない。新しい模様が織り出されるかもしれない。けれども、その時々に集う糸は同じ織物を織っているのだ。弱い自分だけでは絶対に完成できないものを、誰かが引き続けてくれることを信じて。

 さて、もう精神論はこれまでにしよう。今何より求められているのは弱くあることを試してみることだ。それは難しいことではない。たとえば電力。なぜ今まで巨大な発電所から送電していたのだろう?送電ロスが大きいのに。実際広大なモンゴル平原では、パオに太陽光発電と蓄電池を設置する試みがある。発電所を作るよりずっと安上がりだからだ。一つ一つのパオの電力はその家族の分だけしかまかなえない。でもそれで充分なのだ。スマートグリッドだから最新鋭の仕組みだとは限らない。

 自然の前の弱さを味わいたかったら、近くの里山へ出かけて、下草刈りに精を出してみよう。次の週にいったらきっと前のところに同じように草が生えている。でも毎週続けると草はだんだん少なくなる。その時初めて里山は、里山の魅力を見せてくれるだろう。私たちの周りの自然も実は弱いのだ。人間と営みをともにしながら私たちの周りの自然は生きている。人間の手が入らない自然は荒廃し、風雨にさらされやがて崩壊するのだ。

 人を支援することもまた「弱くある」事を試すための第一歩になる。弱い私の思いを、誰かに届けたい。思いを固めて巨大にして、いつ誰に渡るか分からない方式に寄付して…。なんだか、それって違うような気がするのは私だけだろうか。ちょっとだけ、顔の見えるところを選んでみよう。一つ一つは小さな営みで、決して大きくなく、たくさんの人に分配されるものではないだろう。でも確実に糸(意図)は繋がる。一緒に織物を織っているという実感をもてるだろう。

 織物を織ることは一人では、一本の糸ではできない。糸を丸めて巨大な玉にしても織物にはならない。一本一本が互いにいろんなところで絡み合いながら、あちらこちらで色々な織物を紡ぎ続けていくこと。これが私の「第二の近代」である。

組織のあり方を考える

 1995年の阪神大震災は後に「ボランティア元年」と呼ばれることになった。金銭関係ではなく、志で集まる人々に始めて注目が集まった。その後NPO法人の族生、グラミンバンクのユヌス氏へのノーベル賞の授与、社会起業やプロボノといった言葉がマスコミで取り上げられることが多くなった。

 そして今回の震災。マスコミは「がんばろう」という標語を掲げたが、むしろ「絆」という言葉が多く使われている。多くの人が、安全な場所から「がんばろう」と声をかけることよりも、時と空間が隔たっていても何らかの絆を結びたいと感じている。そしてこうした動きと全く無関係に見えるかもしれないが、今回の震災を契機として、多くの企業が拠点の分散化、現場への権限や判断の委譲を計っている。人と人との関係のあり方、そして組織のあり方が根底から考え直される時代が来ているようだ。

 現在の組織形態の多くがモデルとしている株式会社は20世紀の産物である。それも第1次世界大戦を契機として広まったという側面が大きい。意外に思う人も多いかもしれない。20世紀的社会の始まりである産業革命は、18世紀後半おそくとも19世紀には始動し、それとともに大規模工場制も始まったと思われているからだ。しかしこの時代、中心となっていたのは個人所有の工場であり、その多くは大資産を所有する特権階級のものであった。確かに当時も「株式会社」という形態は存在していた。しかし現在と違って株主は無限責任を負わなくてはならなかった。

 労働者は(今もそうだが)資本家が所有する「大組織」に雇用され、自分たちの生活形態まで決定されていた。この当時の労働者は主として肉体労働者であり、1日18時間に及ぶ長時間労働も普通であった。彼らの生活水準のひどさや教育不足は社会問題として取り上げられ、なかには労働者の生活改善運動に乗り出す資本家も多くいた。労働者のために住宅を敷地内に建設したり、教育を施していたりした。今風にいえば福利厚生施設の充実であり、その代わりに雇用主である資本家は労働者の「勤勉さ」と「命令系統への秩だった服従」を獲得しようとしたのである。

 しかしこうした労働形態や組織のあり方そのものに根本的な疑問を投げかけ、新たな組織形態を提唱するものたちもいた。今回は、J.S.ミルの議論を中心としながら当時「アソシエーション」と呼ばれたこの組織形態を紹介していきたい。

 アソシエーションを日本語にするのは難しい。通常は「団体」や「協会」と訳されるが、「結社」「おつきあい」といった訳語も出てくる。まずは「志を同じする個人の集合体」という広い意味で受け取っておいほしい。19世紀初めから半ば、このアソシエーションという言葉はちょうど現在の社会起業と同じように一種のはやり言葉であるとともに、社会の将来像を指し示す用語として、色々な人々によって使われていた。たとえばサン・シモンに始まるサン・シモン派は、アソシエーションの根本を連帯感情とし、連帯感情に基づいた協同性を信条に据えた。彼らは当時(1820年代から30年代)の状況を「愛情のあらゆる絆が打ち砕かれ…不振と憎悪、まやかしと術策とが全体に関わる関係の中で大きな役割を演じ」ているとしている。こうした中で新たな「絆」を宗教という形態を通じて、人々の愛情と秩序を通じて結び直そうとしたのがサン・シモン教のアソシエーションであるといえるだろう(参考 佐藤茂行「サン・シモン教について:サン・シモン主義と宗教的社会主義」経済学研究,35巻4号,1986年)。彼らは最終的に宗教団体という形態をとるのだが、現実の労働者・生産者の身体的、精神的、道徳的境遇の改善を旗印としていた。ただ、「秩序」を強調するあまりにかテクノクラート的な側面が強いアソシエーションでもあった。

 同じくフランス人としてサン・シモンと並び称されるのがフーリエである。彼は自らのアソシエーションに「ファランジュ」という名前をつけている。そして人々の色々な情念を4つに分類し、それぞれの情念の間には(重力のような)引力と斥力があるとした。ファランジュはこうした情念の系列に沿って、人類や動植物の潜在的な能力を最大限引き出すための共同生活を行う場である。フーリエおよびフーリエの後継者たちは、ファランジュでこそ「富と正義が一致する共同社会」が実現するとしている。このファランジュの仕組みは非常にユニーク(労働者は1日のうちに複数の活動に従事する=1種類の労働に専念してはいけない。子供はある年齢に達すると自分の親を複数選択し、その元で暮らしながら仕事を覚える等々)なのだか、そのいちいちを紹介していると紙数が尽きるので、興味ある方は『産業的協同的新世界』や『四運動の世界』を実際に手に取ってみてほしい。ただ一つ強調しておきたいのは、フーリエがファランジュでは「労働が苦痛ではなく快楽になる」と主張していたことである。

 こうした初期の動きの影響を受けて、19世紀の半ばにJ.S.ミルは『経済学原理』で、「雇用関係の廃棄(disuse使わなくなること)」を打ち出す。そして彼なりのアソシエーション論を展開する。それは労働者自身が自らの資本を持ち寄って形成する企業体である。そのため通常ミルのアソシエーション論は「労働者協同組合」といった解釈をされている。しかし私はミルのアソシエーション論の特質は、アソシエーションに参画する個々人の平等なパートナーシップであり、志を中心とした入退出自由な組織体であることだと考えている。まずは志を中心にしているという点から説明していこう。そのためにはミルが有限会社と有限会社に対する投資をどう考えていたのかから説明していきたい。

 当時イギリスではフランスで認可されていた有限会社形態を法的に認めるかどうかが議会で議論されていた。議会証人として呼ばれたミルは有限会社を少額の貯蓄しか持たない労働者が新規事業を始めるための唯一の方法として推奨する。先程も述べたように、当時は無限責任が唯一の形態であった。そのため会社を興すのに十分な資金を持たず、社会的地位も低い労働者は、資金の借り入れも投資も受けられない状態であった。有限責任であれば、出資者は出資金の範囲で責任を負えばよいことになる。見所のある事業、これまで信頼していた仲間に対する出資がしやすくなり、労働者自身が自らの手で事業を興しやすくなるとミルは訴える。さらにこうした会社形態が個人所有の会社に対して持つ利点として、多くの出資者に対して事業内容や事業収支を明確化しなくてはならず、そのことが事業の透明性を高める点を挙げる。そしてそもそも投資とは事業内容すなわち事業を興すものの志への投資であるとする(この点は現在のように株式市場が整備され巨大化した現代との大きな違いだろう)。この点はアソシエーションに関しても同様で、当初志を同じくし、資金を出し合った仲間であったとしても、志が異なってくれば直ちに脱退可能である。

 このように投資にしろアソシエーションの結成にしろ、「いかに儲けるのか」ではなく「それで何をしたいのか」という意志がまず最初にある。意志に集う仲間が形成するのがアソシエーションなのである。しかしアソシエーションといえども、組織形態である限り役割分担や命令系統は必要となってくる。その点をミルはどのように考えていたのだろうか。

 彼の議論が面白いのは、アソシエーション論と男女の夫婦関係論とが同じ「イコールパートナーシップ」という言葉で表現され、類比されながら考えられていることである(ちなみに夫婦関係の方が子供を育てなくてはならない分、継続性が重んじられる)。そしてどちらにおいても、役割の固定化は自明の理ではない。ただ、アソシエーションの場合、異なった才能や能力により、それぞれの得意分野が次第に固定される傾向があること、さらに対外的な(他社との交渉等)必要性から、ある程度の固定が望ましいことが主張されはする。しかし、リーダーシップをとる人間も、その指示に従う人間も、同じアソシエーション内の個人としては「イコール」である。その分評価も厳しくなるだろう。逆に個人の状況に合わせた働き方を認容する余地も出てくるだろう。だからこそ、ミルはアソシエーションは旧来の企業形態よりも遥かに高い生産性をおさめると主張したのである。それは単純に、同じ立場のものが集まって意気盛んだからという理由だけでは無いだろう。志を同じくする仲間と厳しいながらも同一の目的に向かっているとき、そして仲間が互いの弱点も長所も十二分に開示し、信頼し合っているとき、「労働は快楽」になるとミルは考えたのではないか。なぜなら、ミルは19世紀初期の様々なアソシエーションの内、フーリエ派を最も高く評価しており、その理由がフーリエにおいては「労働が快楽になる」という点だったからである。

 現代社会でも「労働が快楽」というと新興宗教かと言われるだろう。しかし、本当に労働は苦痛なだけなのだろうか。そして、投資や消費は単純に利益と利便性のためだけに行われているのだろうか。今回の震災が私たちに見直しを迫っているのは、今までの組織内での労働とお金の使い方そのものではないだろうか。

どこで学ぶか

松井 名津

 先月号でJ.S.ミルの教育論について概略を紹介したのだが、編集局の方から「働き・学ぶ」は難しいですかね?との注文がついた。先月号はどちらかというと教育の中身で、それも知識中心に書いてしまったので、ミルの教育が「学校の中」のものだと思われたのだと思う。

 時代的な背景もあって、ミルの中で働くことと学ぶことはちょっと微妙な関係になっている。1833年の工場法で9歳以下の児童労働は禁止されたものの、児童労働と青年・成年労働が一体化していた繊維工場などでは、児童の年齢確認をごまかすなどの逸脱行為が慢性化していた。またこの工場法は13歳未満の児童に対して工場主に教育義務を課すものでもあった。したがって「働き・学ぶ」といった場合、こうした既存の法制度に基づいた教育制度を指すことになっただろう。特に幼少者(13歳未満)に対して「ハーフタイム制度」(午前6時間、午後6時間の2シフトで労働する)を設け、労働時間の前後に教育の時間を確保しようという運動が展開されていたから、尚更である。ミル自身も児童への教育機会を確保するこうした運動を肯定していたし、称揚していた。しかし、彼自身が求めていたのは「基礎的な知識」「感性」「論理」からなる教育である。こうした教育が何のために提唱されていたのだろうか。

 ここでミルが「経験論者」だったことを思い出してほしい。ここでいう経験論はとても単純なものだ。人間はその五官から得た情報に基づいて、それのみで数々の判断をする存在である。そしてその五官からの情報に基づく判断は過誤の可能性を含むものである。それゆえ常に検証が欠かせない。こんな人間がその感覚を鈍らせたらどうなるだろう??原始時代であれば生き延びられない(だから感覚器官は研ぎ澄まされている)。しかし文明が進展するにつれて、人間は自分の身体能力を拡大する道具や機械を作り出していった。また国家や法を整備し、暴力から自分を守る装置を作り上げた。結果的に生活の利便性は増したが、感覚器官の鋭さは衰えていった。その上、機械性工場が登場すると労働者の労働は単調で繰り返しが多いものとなった。こうした労働の単調さが人間の知性を鈍らせるという危機感は実は経済学の始まり(アダム・スミス)から存在し、ミルもそれを受け継いでいた。文明の進化とともに弱まる感覚器官の鋭敏さに加え、単調な労働がもたらす知性の鈍麻。この二つに対抗するためにスミスも教育が必要だと考え、そう書き記してはいた。そしてミルの時代。保守的な立場からも急進的な立場からも、労働者や労働者児童への教育が喫急の課題だと考えられていた。

 保守と急進が対立するのは、教育の方法と内容をめぐってである。保守的な立場からは教会の日曜学校制度をモデルとした「キリスト教的基礎教育」が、急進的な立場からは宗教から中立的で、実物や画像を使う「経験的な基礎教育」「体を動かすことによって健康な身体の発達を促す」内容を伴うものが提唱されていた。さて、ミルはどうか。以前書いたことではあるが、ざっくりまとめていうと、彼は急進的な立場をとっていたが、急進的な立場が唱導する「生徒による生徒の監督・教育」には反対だった。と、ここで話を終わっても良いのだが、少し想像を膨らませてみたい。

 ミルが子供の教育について著作の一部で触れたり、手紙の中で言及している時、そこには彼自身の早期教育と、家庭内教育が色濃く反映されている。子供に早くから論理の材料となる基礎的知識を教えるべきだという主張も彼自身の体験を反映してのものだ。そして家庭内での教育に感性や情緒を求めるのは、彼自身が家庭内で感情に触れることがほとんどなかったからだ。そして彼自身が自分の幼少期に決定的に欠けていると思っていたのが、同年代の子供との触れ合いであり、実際的で実践的な活動だった。ミルの父が英才教育としてたたき込んだのは「知性」を磨くものだった。そのためになおざりにされたのは感性や情緒だけでなく、日常生活もまたそうだった。彼は後年自分自身で靴紐一つ満足に結べないと自嘲しているが、まぁ昨今でいえばネクタイ一つ満足に結べないというところだろう。だからこそ逆に「手足」を使う教育には大きな関心を払っている。ただしそれは手足を使うことが、感性や知性を発達させる場合に限る。カーライルが奴隷労働を、怠惰な奴隷に手足を勤勉に使って労働する大切さを教育するものであると論じたのに対して、そんな「勤勉」よりも「怠惰」の方がより美徳だと厳しく批判するのも、奴隷労働が感性にも知性にも結びつきようがない労働だからだ(奴隷に知性や感性がないというのではない。ある人間に奴隷労働を強いることは、その人間の知性や感性に対して破壊的な影響をもたらすことが多いという意味である)。

 さて、ここでやっと本題に入ることになる。「働きながら学ぶ」という言葉は多様な「働き、学ぶ」を含んでいる。日本の高度成長期に紡績工場の担い手となった(そして「東洋の魔女」としてオリンピック・女子バレーで金メダルをとった)女性たちの多くは、中山間地域農村出身だった。彼女たちが紡績工場に憧れ就職したのは、給与の高さとともに茶道や華道などの「花嫁修行」を工場敷地内で学べるからだった。夜間中学、夜間高校が盛んだったのは、働きながらより高い学歴を目指すことができるからだった。どちらも「働き、学ぶ」だけれども、労働と学びの内容は結びついていない。むしろ日常のモノトーンな作業や貧しい生活から抜け出すための「学び」だった。誰もが快適で便利な暮らしを求めていた時代に、より高い学歴、より多くの収入を求めることは、自分の生活に直結していた。だからこそ人々は競って「学歴」を求めた。けれどそれは往々にして既存のレールに沿って、既存社会の中でもう一つ上を目指すことでもあった。

 ミルが目指していたのは、おそらくこういう形の学びではないと思う。彼は労働者が会費制の図書室を作り、自費で本を集めて回覧するという運動を高く評価している。そしてそうした運動のためにもと、自著『経済学原理』の廉価版を出版している。鉄道と新聞が国中の隅々に普及する時代に、労働者が無知蒙昧の状態で満足することはあり得ないのだと(期待を込めて)語る。労働者が労働者として教養を積むこと、自分達が属している経済社会について知識を持つこと。しかし、それだけが学びではない。労働者にとって自分たちが持ち寄った資本によって、アソシエーションを組織し、市場で自分たちの力量を試すこと。これが労働者の「教育」に最も大きな力を持つとミルは考えていた。日常的に市場の動向に敏感になり、自分たちの賃金や物の価格がどのように決まっているのかを実感する。その実体験の上で経済学の書物は意味をもってくる。その一方でいわゆる実務教育は「仕事の中で」身に付ける物だとする。社会の一員として求められる教育は、専門技術ではなく一市民として自力で考え、自力で判断するためのものなのだ。

 では、社会に出る前の教育はどうだろう。手と足を使い、経験を豊富にするための教育。それは確かに「働く」ことと結びつく。任された仕事をどうすれば上手く効率的に仕上げることができるのか、誰が一番うまく場を仕切る人で、誰が一番うまく仕事ができる人なのか。どうすれば先輩に追いつけるのか。こういう事柄は現代の日本ではスポーツクラブや習い事で身につくと期待されているものだろう。なぜスポーツクラブ(将棋や囲碁、競技かるたでもいいのだが)で身につくと期待されているかといえば、「結果」が目に見えるからだと思う。競技であれば負けることもあるし、勝つこともある。どちらにしろ自分がやってきたことが一つの結果として残る。その結果が次の行動を促す。それが諦めることであったにしてもである。だとすれば、働くことの方がもっと有効ではないだろうか。お手伝いの枠を超えてきちんと働く。かつて自営業の子供であれば誰しもが体験したであろうことだ。働くとすぐに結果が見える。失敗すれば全体にどういう影響が出るかもすぐにわかる。一緒に働くのが大人であれば尚更、ごく身近に「こうなりたいモデル」が存在するーー私の場合はホールを仕切っていた30歳前後の女性だった。親よりも怖い先輩として、そして信頼でき一流の仕事をする大人として、彼女のようになりたいと小学校高学年から中学を卒業するまで、彼女のやり方を真似ようとしていた。

 その時に学んだことは、知識ではなく論理だと思っている。論理と日本語にすると、何やら小難しい理屈のように思えるが、英語ではreasoning、筋道が通っていること、理にかなっていることである。どうやって仕事を組み立てるか、どうすればうまく体を動かすことができるようになるか。それは単純に人真似では身につかない(自分と他人とでは体格も運動神経も異なっている)。試行錯誤の中で自分なりのやり方を見つけることが、ここでの論理だ。これは現在の学校のように一律に同じことを同じように教える場で身につけるのはなかなか難しいのではないかと思う。自分の体と頭で試行錯誤しなくてはならないことと、学校の勉強のように予め設定されている正解にどれだけ早く辿り着くかということは、全く別のカテゴリーに属していると思うからだ。ただし、やはりこれは「働く」が自分の意思を伴って行われているからこそだと思う。もし単調な仕事をただ稼ぎのためだけにやらされるのであれば、その仕事で何かを学ぼうとも、誰かから学ぼうとも思わないだろう。

 ミルの時代の児童労働は主として炭鉱での運搬、織物工場での糸繋ぎなど子供の小さな体格とすばしっこさに目をつけた単純労働だった。だからこそ彼は児童労働に反対するし、子供には教育を受ける権利がある、学校に通わせるべきだという。けれどそれは彼が「学校教育」のみを絶対視していたことではないと考えている。それよりも、子供をより広い場所に連れ出すこと、新たな経験を積ませることに主眼がったのではないか。彼自身が、父親の手元を離れ初めて欧州大陸で過ごした時に、山々の風景に、同じ年頃の子供との交わりに、それまで経験したことのない世界が存在することを痛感したように、親の拘束が強ければ強いほど、親の世界から離れて子供が生活し、学べる場が必要なのだ。

 今の大学生を相手にしていると、彼らが自分の周囲の世界からなかなか出ようとしないことを痛感する。そして親の言いつけに反抗しない「良いこ」であろうとすることも痛感する。そして親の方は「子供の自由に」と放置しながら、「普通の人生を歩んでほしい」と口にしている感じがする。真綿で包まれて育ち、真綿に包まれたまま、息ができないとは思わず、でも浅くてしんどい呼吸を続けているのが常態になっているのじゃないか。そんな気がしてならない。自由で豊かに見えながら、どこかとてもしんどく、表情が乏しい彼ら・彼女らを見るとき、何を言っていいのかわからないけれど、とりあえず何かを懸命に追いかけてみないかと声をかけたくなる。包まれた世界から一歩踏み出すのは、冬の朝に暖かい布団から出る以上に勇気がいることだ。でも暖かい布団から出てみれば、意外と手足が動くものだ。決められているように見えるレールを外れることは、勇気がいるように見えるかもしれない。けれどよくみればそのレールはあちこちでガタがきているのだ。

J.S.ミルと時代に流されない(普遍の)教育

松井 名津

 今回、編集局からいただいたお題は「J.S.ミルと時代に流されない(普遍の)教育」なのだが、折も折、締め切りが最後のセンターテストと重なっている。これはおそらく天の配剤だろうと、今の日本の教育を頭におきながら書いてみようと思う。

 まず注意しておかなければならないのは、ミルにはまとまった教育論がないということだ。『J.S.ミルの大学教育論』が新訳で出ているが(訳は以前よりずっと良くなった)これはセント・アンドリューズ大学名誉校長就任時の演説である。『経済学原理』等の経済・社会に関する論考で教育に触れることはある。例えば労働者が自ら有料図書室を作る動きを称賛していたり、ビジネス実務に関することは、ビジネスで学ぶと主張したりしている。そんなあれやこれやを私なりに編集して、紹介していきたい。

 さて、私が見るところミルの教育には3つの柱がある。暗記(あるいは繰り返し訓練)・感性・論理である。最初の暗記には「?!」という人も多いかもしれない。自立的・自律的思考を求めているミルなのに暗記の勧めとは?というところだろう。けれどこの最初の段階はミル自身の経験に基づいている。3歳から始まった彼の早期教育は有名だが、彼はこうした早期教育の利点として、幼い時ほど知識を容易に吸収できることを挙げている。彼自身はラテン語やギリシア語の早期教育を受けたのだが、どちらの言語も「死んだ言語」である。死んでいるだけに、文法や用法は動かない。言語だけになぜそんな変化をするのか、なぜ愛がamourなのかという問いを立てたとしても、それを探究できるのは遥か先のことだ。とりあえずは覚えなくては始まらない。同様に算数の初歩1+1=2の謎は集合論やらに踏み込むことになり、初学の段階では感覚的、経験的になんとなくわかるけど…で済ましておかないとある意味仕方がない問題である。哲学を除く全ての学問に、基礎部分であるだけに当初は覚えるしかないものがある。小さな子供にとって新しい物事を覚えるのはとても楽しい。それだけで自分の世界が広がるからだ。こういう暗記に頼る基礎部分などは、できれば小さいうちに済ませておく方が無難だろう。

 そして繰り返し訓練だが、ミルはよく思考力を筋肉の鍛錬に例える。使わない筋力は衰える。だから毎日筋肉を使う必要がある。でもうまく筋肉を使うコツを覚えるには、基礎的な運動を繰り返し行わなければならない。すごく地味で自由度も少ないが、基礎鍛錬なしに高度な技を身につけることはできない。これと同じことは思考力にもいえる。思考の基礎鍛錬が何かといわれると、ちょっと具体例に困るのだけど、試験のたびに繰り返し解いた問題集などを思い浮かべてもらえるといいかもしれない。まぁ基礎訓練というのは何であっても「つまらない」「発想の自由などない」ものだ。しかし自由で創意あふれる技を生み出すためには必要不可欠ではある。

 ここまでだとミルは「詰め込み教育」「知識偏重教育」に賛成のように見える。そして実際基礎部分に関しては知識を覚える教育に賛同していたと思う。とはいうものの、当時教会で行われていた聖書を基にした読み書き教育には、モラルの押し付けであると同時に子供の活力を奪うものと批判をしている。したがって出来るだけ子供の興味を引くような方法でとなるだろう(というものの、どうやったら九九を楽しく覚えられるか私にはわからないのだが)。何れにしても丸暗記を一概に否定していたわけではないというところが肝要だと思っている。日本の教育改革はどうも入試に目が行き過ぎるのか丸暗記に否定的だ。けれど暗記しなくてはいけないものを、あたかも暗記しなくても良いかのように扱うのは考えものだ。確かに九九や算数・数学の公式は、覚えなくても自分で考えだすことができる(特に数学の公式は)。けれどそれが易々とできるのは元来数学が得意な子供・生徒だ。二次関数の解の方程式を必死に覚える必要などない、と豪語した人物は「そんなものいつでも自分で導出できる」とのたもうた。自分で導出できないからこそ、数学が不得意な私は覚えるしかないのだ。「覚えなくても覚えているでしょ」は覚えられない人間にとっては酷な物言いだ。

 暗記に頼る基礎部分、例えば地名や年号、人物名に円周率、漢字の読み方。こういったものを暗記するのは興味がないものにとっては苦痛である。けれどこの基礎部分がないと「パリはロンドンにあります」「山茶花=やまちゃばな」などという素っ頓狂な答えを出すことになる。素っ頓狂を素っ頓狂と笑い飛ばしていられる間はいいのだが、これが大学生や社会人の答えになると社会的に相当まずい事態といわなくてはならないだろう。正しい思考の基礎には正しい知識・情報が不可欠だ。それを暗記だから、押し付けだからと悪者扱いするのはかえって教育の基礎を蔑ろにしかねない。

 2番目の感性の教育。ミルの時代、こんなものを教育の対象にするという考え方はなかった。もちろんミルも学校という制度で教育するものとして挙げているわけではない(ミル自身は家庭での感性教育に期待を寄せていた)。しかし、彼は感性が磨かれなければモラルも市民性も育まれないと考えている。美を感じ取る感性は、同時に人の行為に共感したり、より良いものを求める動機を作り出すものだ。現代でもこれは学校という制度には馴染まない。学校の科目としての音楽や芸術を否定するつもりはない。音符の読み方を知っている方が便利だろうし、印象派とピカソの絵が違うことを知っている方が世の中何かとスムーズだろう。けれどそれ以上の「鑑賞の答え」を求めるのは、感性を封じ込めることになるだろう。感性の教育に関して学校に何か役割があるとすれば、せいぜい生徒を美術館や博物館に連れて行くことだろう。説明は専門家に任せた方が良い。学芸員といわれる専門家はそれぞれの年齢に応じた展示や説明の方法を知り尽くしたプロである。図書館も同様だ。本や情報への専門家として司書がいる。ところが日本には学芸員や司書を置かない博物館や美術館、図書館が多い。学校図書館などその際たるものだ。読書を導く専門家がいなくて、読書好きの子供を作ろうなんて土台無理なことを堂々とやっている。説明する専門家、展示のための専門家がいなければ博物館や美術館はただの倉庫に過ぎない。たまにイベント的に大衆受けする展示、それも巡回展示をするだけの施設になってしまう。

 1番目の基礎知識を土台に、2番目の感性という支えを得て、社会をより良いものにするために必要なのが論理の教育である。ミルのいう論理は形式論理ではない。むしろ日常言語でどうやって理屈と道理に基づいて、互いに主張を交わし合うための基礎となるものだ。日常言語を使うから、同じ言葉でも異なるものを思い浮かべることになる。すれ違いが生じ、誤解や誤謬が生じる。そんな危うい道具をどうやって安全にかつ効果的に使うか。それを教えるのが論理学だ。ミル自身が早期に教え込まれたラテン語やギリシア語は、実はこうした論理や修辞の力を養う基礎でもあった。日本の例に当てはめれば、明治時代の文人知識人のほとんどすべてが漢学の素養を持っていたのと同じだろう。古代ギリシア・ローマ時代の演説が手本とされていたというだけでなく、死んだ言語(書くだけ・読むだけ)だけに、きちんとしたルールに則って書かなければ意味の通る文章を作ることができないというメリットがあったのだと思う。しかし当時すでにこうした古典語の教育に対して、時代に合わない古臭い教育であり、実社会に適さないと批判が投げかけられていた。これに対してミルはこうした古典語の教育こそ、高等教育に必須の科目だと主張している。論理を身につけるためであると同時に、年月を超えて生き残った「よい文章」を原語で味わえるからだ。古典的なよい文章(それは時代を経ているから古臭い言い回しで満ちているのだが)を原語で味わうというのは、文章を書く上では必要不可欠、とまではいかないかもしれないが、重要要素だと考えている。日本語の場合は、古文や漢文がそれにあたるだろうけれど、大学入試ではどんどん分量が減らされている分野でもある。また、実際日本語教育を考えたときに、現場でどれほどの力を費やせるかといえば、非常に難しいだろうとはわかっている。(第一義務化してしまうと、日本語を母語としない学習者にとっては非常な重荷になるだろう。ただ日本語を母語としない学習者は、「正しい」日本語を学んでくるので、日本語を母語とする学習者よりもきちんとした日本語を書くことができる確率が上昇するのではないかと私は思っている)。

 けれど、こうした古くからの言葉に触れる機会が減少した結果、文章力が衰えているのではないかと懸念している。大学教員を長年やっていると、学生の文章力が衰えてきていることは痛感する。論理的な文章を書けないというレベルではない。論理的な文章、ざっとした言葉でいえば「筋の通った文章」が何かということが、わからないのではないかと思うことが多い。というのも、接続詞の使い方が酷くバラバラだからだ。「しかし」が「ところで」とほぼ同じ感覚で使われていたり、全てが「が」で繋がれていたりする。話し言葉をそのままに、形式だけを無理に書き言葉に移している感がある。

 おそらく長い文章を書くのが苦手だというのは、私自身の時代からおそらく変わっていない。大きく変わったことは、日本語の言い回しを使えなくなったことではないかと思う。『フィネガンズウェイク』を個人訳した柳瀬尚紀氏が『日本語は天才である』という本を上梓している。カタカナに平仮名、横文字に振り仮名と自由自在な日本語の天才ぶりに感嘆している本なのだが、こうした日本語の自由さに気がつかないまま、不自由でぎこちない手つきで日本語を綴っている。まるで体に合わないお仕着せの背広を無理やり着せられているようだ。では若い人の話し言葉が豊かになっているかというと、どうもそうではないような気がする。「ヤバイ」に代表される若者言葉ばかりを聞いているせいかもしれない。が、いろんな感情を一つの言葉に押し込めているような気がするのだ。古文や漢文の文法を教えるかどうかはともかくとして、古文や漢文を読むことは、文章表現の幅を広げる上では効果があったのではと考えてみたりする。まぁ実際にどう役に立っているかと尋ねられると、自分自身もはっきりしないのだが、古文の柔らかな手触り、漢文の岩山のような様相と漢字がもたらす多様な色彩に影響を受けたのは確かだ。個人的な感想だから、全員に通じるとは思わない。けれど、言葉の豊かさの中から自分の言葉を紡ぎ出すことが、自分なりの筋が通った文章を生み出すのだとしたら、論理力を鍛えるためにはまず言葉を豊かにすることから始めなくてはならないと考えている。

地獄元年によせてーJ.S.ミルのディストピア

松井 名津

 地獄元年という表紙のタイトルに「?!」となった人も多いだろう。私自身はといえば、地獄というよりも蟻地獄かなと思った。もがいても、もがいても引き摺り込まれていく、そういう地獄を思い浮かべてしまった。安部公房の『砂の女』ではないが大量の砂の圧力を時として感じるからだ。一粒一粒はなんということもない砂。少し大きくなったところで違和感を覚えるだけの砂。そんなものがより集まり堆積し一斉に崩れかかってこちらに向かってくる。自分の足元さえもいつの間にか不安定で、拠り所なく、力の入れようもない。今の世の中が地獄に向かっているとすれば、こんな地獄ではないかと私は思う。

 世紀の変わり目だとか、時代の潮目だとかに、人は一斉に夢を見る。19世期半ばに生きたミルもまたそうした数多くの夢を見聞きし、自らも夢見た人である。これまでも彼自身の夢(あるいは「賭」)を紹介してきたが、今回は逆に彼の悪夢を紹介しよう。一言でまとめると「予定調和の世界」がそれである。こうまとめてしまうと何やら理想郷のようにも聞こえる。全ての人があるべき姿で、あるべきところに収まるのが予定調和なのだから。ミルの時代、科学の力によって子供の能力に応じた教育を施し(あるいはあるべき姿を教育し)、適切な職業を与え導こうという動きはラディカル派、守旧派を問わず存在していた。不適切な環境や不適切な教育(無教育)こそが貧困の連鎖を引き起こし、怠惰や犯罪の原因となると考えたからである。適切な教育、適切な職業、適切な人生…これが予定調和の世界である。ラディカル派ではミルの父やベンサムを始めとする功利主義者や、ニューラナークを作ったオーウェンが、こうした考えの先頭を行っていたと目されている。守旧派ではカーライルがそうであろう(彼は奴隷制度を未開の人に文明の端緒である労働を教えるために必要な制度であると擁護していた)。

 ところがこれまでも何度も紹介してきたことだが、ミルはこうした考えを酷く非難する。その根底にはこうして作られる世界がディストピアに他ならないという考えがあったのだと私は考えている。なぜディストピアなのか。彼はこうした予定調和の世界を同時代のインドや中国と同じだと考えていたからだ。どちらも高い文明を持っていた。しかし固定的な社会制度のもとで、人々はそれぞれの社会的地位を、運命的なものとして受け入れるだけで、変化を求めない。そうミルは考えていた。「停滞する」社会である。予定調和の世界もまた、科学の知識によって決められた能力を、決められた手段によって開発し、決められた職業につき…と安定した、だが定まった人生を人は歩むことになる。それに逆らうのは非科学的なことでしかない。こうした世界を垣間見せてくれるのが漫画『地球(テラ)へ』の最終盤である。未来の地球、そこには大人しかいない。ぎっしりと大人が並んで行き来するエスカレーターですれ違う二人の男性が会話をしている。

「なんでも昔は人間が自分で自分の職業を選んでいたんだそうですな」

「なんと野蛮な」

「今は全てマザーが適切に決めてくれますからな」

「全くです」

 ほんのワンシーンなのだが、この世界の全てを語っているシーンだと私は思っている。マザーと言われているのは人間ではない。全知全能たるAIである。人々の能力、個性に応じた趣味、仕事、配偶者を選ぶのはもちろん、全ての悩みの聞き手であり、喜びを共にする存在でもある。人々はマザーのもと安心して日々の生活専念することができる。マザーの決定は全てであり、それに逆らうことは「考えられないこと」「病気の証拠」でしかない。この漫画でこの日常生活を壊すのは、日常生活に不満や不信を抱いた普通の人間たちではない。彼らは日常生活に満足し切っている。(ではなぜこの世界は壊れるのか、それはご自身でどうぞ)。これこそが、ミルが忌避してやまなかったディストピアなのだと私は思う。

 この世界で人は自分で何かを選択するということをしない。いつも誰かによって決められた道を歩む。失敗が存在しない(科学的真理に従っているから)から、変化を求めることもない。もちろんこの世界でもほんの少しの不幸、不満はあるだろう。人と人とのすれ違いから喧嘩になることもあるだろう。しかしそれはマザーによって解消させられてしまう。戦争のない平和な社会である。けれどそれは人間が自ら選んだものとはいえない。あるいは功利主義に対する反論としてよく持ち出される睡眠機械がある。夢の中で自分の希望や欲望が全て叶えられる機械だ(これを扱った秀逸な漫画が『夢みる機械』。ここではこの機械を使って世界征服を図った当のご本人が一番先にこの機械を使っている)。この機械さえあれば人はすべての欲望を何らの代償もなく叶えることができる。功利主義でいえば「最大満足」の状態だ。で、現代の反功利主義者たちはこの事例を使ってこの状態の人間が真に生きているといえるのかと問いを突きつける。現代の功利主義者がこれにどのように反論しているかはともかくとして、ミルならばあっさりNOと答えるだろう。すべての人が夢みる機械に入ってしまった状態はミルのディストピアである。ここでも人は定まったコースを夢に見るだけで、選択をしない。不幸や失敗に出会うかもしれないが、それはストーリーを豊富にするための単なる仕掛けでしかない。機械の中の人たちは全員満足している。しかし、とミルは言うだろう。この満足は幸福ではないと。

 ミルは功利主義者である。が彼が求めたのは幸福である。彼は『自伝』の中で幸福はそれ自体を追求しても手にすることはできない。何か別の目的を追求しているとき、道端の花のようにふと発見するものであると書いている。人生で何らかの目的に向かって行動している。それが幸福の前提である。そうした幸福が疑似体験で得られるかどうか。『夢みる機械』が与えてくれる夢は何もかも不自由のない世界だが、その時本来の達成感が得られるのかどうか。これは実験しなければわからない。が、直観的に「ちょっとそれはね」という人が多いのであれば、おそらく何らかの心理的バリアーがあるのだろう。ミル自身、満足を否定しているわけではない。とはいえ「満足した豚よりも、不満足な人間のほうがよい。満足したバカよりも不満足なソクラテスのほうがよい」というのが『功利主義論』の一節にある。そしてこの一節が代表するように、彼は満足や幸福に質の違いがあると主張した。より高い質の幸福や満足を求めて、より活動的に人生を生き、自ら選択する。これがミルの求めた理想的な人間像であろう。その一方で五感が満足するものを与えられること、与えられた選択肢の中から最も満足するものを選ぶこと。貧しくもなく、飢えもせず、不自由のない生活をおくれるのであれば、考えること、選択することを放棄する。これは彼にとっては回避したい人間像であり、ミルからすれば自ら幸福を放棄していることになる。しかし、安楽で安定していて安全であれば、それで満足だというのが人間でもある。

 ミルは自分の理想と、目の前の現実世界で大多数を占めつつある安全と安楽だけを求める「大衆」的人間の間で揺れ動く。自分の理想を「あるべき姿」としてしまえば、それは絶対的真理を設定し、人間にあるモデルを押し付けることになる。それもまた人間の自由意思を否定することになる。その一方安定と安楽だけという人間をそのまま認めてしまうこともまた、自ら選択するという自由意思を窒息させる社会が実現する道を開くことになる。結局ミルは人間がきっと自由意思を選択するだろうという「賭」を提示することにした。それぞれの時代、それぞれの社会が自由を基準に社会を選択することに期待をかけた。

 それから150年以上がたった。私たちの社会、少なくともこの日本はどちらに近づいているのだろうか。学生に将来どんな生活をおくりたい?と聞くと、ほとんどが「フツ―の生活」と答える。フツ―ってどんなの?と聞いても明確なイメージを持っているわけではない。とにかく毎日無事に、パートナーがいて子供がいて、ちゃんとご飯が食べられて…。ではそういう生活がどうすれば可能なのかと聞けば、会社に入りすれば実現すると思っている。「見苦しくない私服」を考えるのが難しいから、リクルートスーツが一番だという。どこかで聞いたような主張を述べていると安全で安心だと感じている。その癖どこか息苦しいという。

 最初に蟻地獄と書いたけれど、とてつもなく大きくて自分が下に沈んでいっていることも気が付かない蟻地獄に、彼らは生きているのではないかと思ったりする。もがくこともなく、そこが地獄だということを自覚することもなく。ゆっくりとでも確実に、選択しないという不作為によって沈んでいく。そして自分たちが苦しくなったとき、多くの人は「これは自分のせいではない」と思う。当然だ。自分で選択したことがないのだから。だとしたら、始まるのは蟻地獄の中での犯人探しだ。誰が自分よりもより悪いもの、より低いものを見つけて、自分の優位を誇る。地獄には鬼の獄卒がいるというが、怖いのは地獄の囚人同士の罵り合いだろう。

 今年が地獄元年となるのかどうか。たとえ小さくとも一つ一つの選択に賭けがかかっている。

リスクと付き合う

松井 名津

 第二近代という言葉はこのシビルの読者にとっては耳になじんだ言葉だと思う。けれど、今一度定義を振り返っておこう。この言葉は1986年『危険社会』(ウルリッヒ・ベック著)で提唱された言葉で、第一の近代が「富の分配」を主題とした社会であったのに対して、第二の近代は「(認知された)リスクの分配」が課題となるとベックは主張した。ベックがこうした概念を提唱した背景には、冷戦構造の崩壊・福祉国家の限界といった国民国家の弱体(第一近代のセイフティネットの崩壊)と、個人化の進展(家族や親族といったセイフティネットの崩壊)、グローバル化(個人や国民国家の枠組みでは対処できない危機の存在)があったといわれる。ザクッとまとめると、既存の枠組みが崩壊しているのがだれの目にも明らかになりつつある一方で、新しい枠組みがなく人々や社会が漂流している状態を表したものだと考えることができるだろう。

 さて、ミルは現代から振り返れば第一近代に生きた人物である。が、彼も含めて彼の同時代人は自分たちの時代を、過去の枠組みが崩壊し未だ新しい枠組みが成立していない移行期と捉えていた。これは哲学者や思想家だけでなく、ディゲンズやカーライルといった文学者も同様に感じていた。既存の枠組みと新しい動きが錯綜する中で、さまざまな理想社会像が描かれる一方で、新しい動き、特に市場経済の発展を脅威と考え、社会の安定・秩序の強化も提唱された。ミルのアソシエーション論もこうしたさまざまな思想的実験の一つだといえる。たしかに第一近代の始まりにおけるこうしたさまざまな思想的実験は(マルクスの社会主義も含めて)「富の分配」をめぐる議論としてまとめることができる。が、今日はあえてベックに倣ってリスクの分配という観点から考えてみることにしたい。

 カーライルやディケンズは市場経済の進展とともに、労働者と雇用主との関係が単なる「金銭的絆(キャッシュネクサス)」に堕してしまったと捉える。金銭を媒介とした雇用契約は、労働者と雇用主を対等な契約者として扱うように見えるが、雇用主は被雇用者である労働者の衣食住に対する責務を一切負わない。一方で労働者もまた真摯な労働、雇用主への人的愛着を一切排除して、ただ金銭のためにのみ労働を行う。労働者にとっては一定の金銭が支払われる時間内でいかに労働量を節約するかが、雇用者にとっては時間内にどれくらい労働量をしぼりとるかが、双方の命がけの闘争の場となる。これに対して南部アメリカ合衆国等で展開されている近代的な奴隷制は、雇用主が奴隷の衣食住に全面的な責務を負う一方、奴隷は雇用主に対して人的愛着を持って奉仕を行うと考えられた(彼らが近代的奴隷制を全面的に擁護したわけではない。たとえば男女や家族が強制的に分離される点を激しく批判している。とはいえ、こうした批判もまた雇用主が奴隷の家庭的生活に責任を負わなくてはならないという視点からなされている)。この主張をリスクの観点から整理してみよう。雇用の安定という点から見れば市場は不安定でリスクを伴う装置である。全体的な好不況の波ばかりではなく、個別業種、個別企業の業績が雇用の継続を決定する。そして、金銭的契約に基づく雇用関係は、こうしたリスクのすべてを労働者に押し付ける。雇用契約が打ち切られると、金銭的収入を雇用に依拠していた労働者は生計の手段を失う。雇用者もまたリスクの海の中で、リスクを回避すべく必死の努力を続けているものと想定されているが、彼がこうした市場のリスクから重大な影響を受けるのは、労働者のすべてが犠牲となった後である。解雇した労働者の生活がどうなるかはあくまでも雇用者の責任の範疇外に位置付けられているのが「金銭的絆」の社会である。

 これに対して奴隷主と奴隷は一家として、市場の荒波を共に渡り抜こうとする運命共同体とされる。船主である奴隷主は一家のために、ありとあらゆるリスクを計算し、最適の航路を選択し、決断と命令を下す。全ての成員は船主の命令に服従し、それぞれの責務を果たす。リスクも責任も奴隷主だけが背負い、全員を保護する責務を全うしなくてはならない。だからこそ、全員は奴隷主に愛情と敬意を抱き、その命令に従う。奴隷制という点だけから見れば、非人道的で時代遅れの議論に過ぎないが、当時こうした雇用主が被雇用者の生活を守るべきだという主張は、保守層だけでなく社会変革側からも唱えられていた。その代表がオーウェンであり「ニューハーモニー」はその実践でもあった。彼らは市場のリスクを「悪」とみなし、このリスクから人々を守る「組織」を形成し、トップダウン方式で人々を保護しようとしたのである。この方式は実は20世紀の様々な組織の原型となっていると考えることができる。会社にしろ、労働組合にしろ、あるいは福祉国家という国家形態にしろ、「組織」を形成し組織のメンバーをリスクから保護する(日本型経営はその主たるものだろう)。リスクはトップに集中し、メンバーはリスクを考えることなく、奉仕(仕事)に専念するという方式である。個々のメンバーにとってリスクは複雑かつ巨大すぎて個人では対処できないものと考えられた。

 こうした方式を拒否したのがミルである。彼は人道的奴隷制にも、オーウェンのニューハーモニーにも真正面から反対した。その根元には人間が元来リスクとともに生きているという認識がある(人間は過去から未来を類推する生き物である。未来の事象は因果律に従っているとはいえ、人間はその全てを把握する能力を有していないために、未来は常に不確定性を帯びる)。人間がリスクの認識から完全に保護されることは、外界世界から隔絶され自分で感じ考えることを排除されることでもある。一部の人間のみがリスクを判断することは、権力の固定化につながるとともに、他の人間の能力を封殺することにつながる。リスクは人間の生を脅かす「悪」であると同時に、人間の生を活性化する「種子」でもある。アソシエーションにおいて、責任が特定の個人に集中するのではなく、それぞれの役割や才能に応じてリーダーシップが交代する形式を求めたのも、全員がリスクを担うという側面を持つといえる。ミルが求めたのは全員が何らかの形でリスクを担うアソシエーションが、市場の中で互いに競争することでもあった。市場はリスクの塊ではなく、人々やアソシエーションがリスクと出会い、格闘し、それぞれの解を見つけるための共通の場である。ミルは別に個々人にリスクに立ち向かう英雄になることを求めているわけではない。各人がそれぞれの経験からリスクに対処する行動様式を形成していく。従ってリスク回避型の人もいれば、リスク追求型の人も出てくるだろう。そのどちらが良いというのではなく、それぞれの場で判断や討議を重ねつつ、市場でその判断を確かめていく。ここで市場はリスクの荒海ではなく、リスクに対する様々な判断が示されるショールーム、リスクへの対処を確かめる実験場である。失敗や成功という判断基準はもちろんあるが、それよりも重要なのは、多様な判断に対する多様な経過と結果の情報・知識の蓄積である。こうした情報や知識は市場参加者の共有財産でもある(ミルが「株式会社」の透明性を重んじたのも、経営判断のプロセスが囲い込まれないことにあった)。

 さて、現代に目を移そう。私たちは、特に日本という土地に生きている私たちは、どんな社会に生きているのだろう。食品偽装が起こるたび「食の安全」が叫ばれ、自然災害が起きるたびに「ハザードマップ」「リスク評価」がうたわれ、子供が事故にあえば「通学路の安全確保」が問題になる。あたかも安全であることが当たり前で、リスクは「あってはならない」ことのようだ。「あってはならない」という言葉もこの頃よく繰り返される言葉だ。「このような事態はあってはならないことで…」「本来あってはならないことが…」という台詞が、いつも出てくるものだから「あってはならない」という言葉の意味が、「あるべきではないが、必ず起こること」に変わらないか心配になってくる。いやもし「あってはならない」が「あるべきではないが、必ず起きること」を意味するとすれば、この言葉はリスクに対する今の私たちの態度を言い当ててるのではないだろうか。私たちはリスクを無視したがる。いつも安全・安心100%を求めている。災害だけではない。自分の将来に対してさえ「安全・安心」な進路を求めている。そしてリスクは「あってはならない」こと、避けて通るべきこと、私たちの生活に「あるべきではないこと」になる。あるべきでないリスクが顕現した時、私たちはリスクの存在そのものを誰か他人の責任にしてしまいたくなる。想定外を想定すべきであったと、100%の安全を確保すべきだったと。けれど、人間が100%未来を予知できない生物である以上、私たちの日常生活にリスクは常について回る。第2近代が「(認知された)リスクを分配」する社会なのだとしたら、私たちがまずしなくてはならないのは、リスクを認知することなのではないだろうか。

 リスクをただ「あってはならない」ものとして忌避するのではなく、人間という存在にとって良くも悪くも欠かすことのできない存在として、私たちはそれを認め、知り、付き合うすべを互いに学び続けなくてはならない。ミルが将来世代に残した「自由への賭け」、将来世代が選ぶ社会への道は、リスクの認知から始まると私は思う。

伝統とは

松井 名津

 伝統とJ.S.ミルは相性が悪いことになっている。個人主義で自由主義、既得権益を批判する…といった特色から当然と思われるかもしれないが、実はミルと伝統が相容れないと考えられている要因の一つに、ハイエクによる批判がある。少し専門的な話になるが伝統を考えるときに重要な要素も含んでいるので、お付き合い願いたい。

 自由主義を擁護する際にハイエクは「真の個人主義」と「偽の個人主義」という考え方を持ち出した。真の個人主義は自由主義を擁護する、あるいは自由主義を促進するのに対して、偽の個人主義は集団主義や全体主義への道を開くものだという。そして真と偽を見分けるメルクマールの一つに伝統がある。ここでいう伝統は、長年続いてきて社会で当たり前になっている物事のやり方、と考えてもらったらいいだろう。ちょっと洒落た言葉でいえば「社会インフラ」としての伝統である。真の個人主義はこうした社会インフラが存在してはじめて個人、あるいは個人の自由が成立すると考える。これに対して偽の個人主義は、合理的計算を行う個人を出発点として社会を考えるから、伝統といった社会インフラを否定し、合理的な法律体系を求める。また人間の理性が無謬の計画を設計できると考えるから、伝統や慣習によって決まっているやり方(ルール)よりも、設計された法律や体制が優れていると考える。したがって、合理的な体制が成立すれば、自由は確保されると考えがちだから、一旦体制が成立すれば体制と摩擦を起こすような自由は抑圧しても良いとする。

 以上がハイエクによる「真の個人主義と偽の個人主義」の荒っぽい要約である。そしてこの中でハイエクはミルを本来なら真の個人主義の伝統に根ざしているのに、偽の個人主義の影響を強く受けてしまった人物として描き出す。その際槍玉に挙げられるのが、既存の慣習や世論の影響を鋭く批判した『自由論』だった。このハイエクの論が非常に有名になったこと、そしてハイエクの議論と軌を一つにするバーリンの「二つの自由論」との相乗作用で、ミルには非伝統主義者というイメージが付着したのである。

 さて本当のところはどうだろう。私自身はミルと伝統は単純に対立とか親和とかではないと思っている。確かに『自由論』でも『論理学体系』でも習慣的なものの見方を疑うという姿勢は一貫している。しかしその一方で、ありとあらゆるものを分析してしまい、行動に伴う感情を失うことの恐怖を、彼自身が自分の経験として文字通り身にしみて知っている。伝統をそのまま丸呑みにすることも、伝統を分析し尽くしてその妙味を失うことも、彼は拒否していると思える。ある意味中途半端というか、折衷的な態度である(そう、ミルはいつも折衷的と批判されるのだ)。しかしこの折衷的な態度こそ、伝統に対して真っ当に向き合う際に忘れてはならない態度ではないかと思うのだ。

 「伝統」とはなんだろう。日本もイギリスも伝統の国だとよく言われる。イギリスの伝統というと何だろうか。山高帽に固く巻いた傘をもつジェントルマンだろうか(「キングスメン」という映画ではこの典型的な紳士姿のスパイが活躍したが)。しかしこのスタイルはミルの時代に確立されようとしていたところだった。イギリスといえば紅茶といわれるが、これまた18世紀以降少なくともジャマイカ等の西インド諸島を植民地としてから、イギリス全土に広がる習慣である。では日本は?日本の伝統ー茶道・華道だろうか。華道は室町時代、茶道は安土・桃山の好機に確立したから、確かに年月を経ている。しかし、どちらにも共通する「家元制度」は江戸時代の産物だといわれている。また同じ茶道であっても近年まで家元制度を採らなかった流派もある。家元とか伝統芸能に見られる一子相伝も、血縁関係によるものではない。むしろ近代特に戦後になってから一子相伝が強まったといえるかもしれない。芸能に限らず、武家も町屋も「家」「商家」を守るために、他所から養子を取ることが当たり前だった。能力が足りない後継を押し込めたり、隠居させたりして、能力のある子どもを養子として家を継がせるのは、生き残りのために必須の作戦でもあった。

 そう、伝統は今ある形のまま伝わってきたのではない。継続させるための努力があって、残ってきているものである。残すためには養子を取るだけではなく、様々な変更を加え続けている。能楽は室町時代の言葉をそのまま現代に残しているとして、ユネスコ世界遺産になった。しかし節回しは大きく変わっている。かつては一つの節回ししかなかったが、江戸の頃に二つ(強と弱)に別れたらしい。失われた曲も多いー演目が人気がなかったとか、作り物が多くお金がかかるとかー、仕舞としてはよく上演されるけど、全曲上演がほとんどない曲はそれ以上に多い。舞い方もちょっとずつ変化するー実際に舞台で演じられるのと、教本として描かれているのにズレがあったりする。そんな時私の師匠は「う〜ん、これは自分もやったことがないですね。これだと舞台でうまく合わないですよ…どうしますかね〜」などと言って、最初は教本通りに教えようとするのだが、やっぱり自分のやり方で教えてくれる。教本が間違っているのではなく、教本がまとめられた時と現在(30年程度)とでは、囃子方や謡の速さや間の取り方が異なっているのだ。もちろん歌舞伎のようにアニメや他国の伝統芸(マハーバラータ)を新演目として取り入れる場合もある。華道では洋物といわれる西洋花を使うことはもう当たり前のことになった。茶道でも椅子席を使った手前が開発され続けている。伝統が博物館の展示物にならないためには、伝統を生かし続ける人々と、その人々を経済的に支える装置(演技場しかり、観客しかり)が必要なのだ。

 この関連する人たちが生かし続ける伝統とは若干異なる伝統というものもある。「礼節を重んじるのは日本が世界に誇る伝統である」とか「日本の伝統でもある謙虚さを世界にアピールする」といった風に語られる伝統である。その多くがいわゆる道徳律である。古いところだと「大和魂」などがある。いつの間にか武士道と一緒くたになってしまっているが、歴史は浅くて明治期以降に流布されたものである。江戸時代の武士道は支配官僚としての武士階層の倫理として確立したという側面が強いから、非常に儒学的で理想主義的で教条的なものがある。実際に武士が戦いに従事していた頃には「7度主君を変えてこそ武士」だとか「卑怯といわれようと臆病といわれようと生き延びることこそが大事」というのちの武士道から見れば、トンデモナイ発言が武将の格言ー自家が生き延びるための手段ーとして残っている。

 さて大和魂に話を戻そう。大和魂といえば本居宣長の「敷島のやまと心を人とわば朝日に匂う山桜花」から取られたとされている。そして大和魂といえば「武士として潔く散る」である。ところがここで歌われているのは山桜である。山桜は柔らかい若芽と蕾が一緒に出てくる。決して一気に咲く花ではない。また散り落ちる時ははらはらとこぼれるように舞い散る花だ。とてもとても一気に咲いて一気に散る花ではない。第一、本居宣長といえば漢学(儒教)に対して「やまと心」を訴えた人ではあるけれど、彼が賞揚したのは『源氏物語』に典型的に現れている「もののあはれ」である。確かに山野の広葉樹林のなかにチラホラと混じる山桜の花が朝日に照らされている風情は、潔さよりも「色気」「艶」という言葉がよく似合う。生来のプレイボーイ光源氏にはよく似合いそうだ。ところがどういうわけか、山桜はソメイヨシノになり、もののあはれは武士道や儒教になってしまった。その転換点はどうやら日露戦後の日本にあるらしい。漱石の『我輩は猫である』の一節に「東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている」「誰も口にせぬものはないが、誰も見たものはいない。誰も聞いたことがあるが、誰も逢ったものはない。大和魂はそれ天狗の類か」と皮肉満点な部分がある。どうやら日露戦争の戦勝に酔って、上から下まで大和魂が掛け声になったのが始まりのようだ。

 とすれば、この伝統は結構眉唾物だといえる。人々の生活の中、あるいは上層階層の文化の中から出てきたものでもなく、守り伝えようと努めたがゆえに現代まで生き続けているものでもなく、ある時代の風潮の上に出来上がり、あたかも古くから存在したかのような顔をしているわけである。しかしそれが「伝統」という顔をしてまかり通るのは、それ相応の時代の風潮とその時代が去った後もこれを「伝統」として振りかざすことが利益になる人たちがいるからである(日露戦争の戦費のために政府が宣長の歌から名前をとったタバコを作ったりしている)。

 ミルが伝統に対して、是々非々とでもいうべき折衷的な態度をとったのは、伝統という言葉で本来は伝統ではないものまで、伝統と呼ばれかねないからだ。それは19世紀半ば「イギリスといえばジェントルマン」の伝統が目の前で作り上げられようとしていた時代に生きていたゆえかもしれない。あるいはまた、戦時の意気軒高に酔いしれて「イギリス一番!!」と気勢を揚げる時代に生きていたからかもしれない。ともあれ、ハイエクが主張したように伝統を重んじるから真の個人主義で、自由主義を守れるのだと、そう簡単にはいかないことは、この20年の日本やアメリカを見ていると痛感することでもある。

 最後にミルだったらいいそうなことを付け加えて終わりにしよう。「伝統とは何か。それは他の伝統と比較した時に初めて分かる何かである」。