ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と「組織」であること

松井 名津

 ブルシット・ジョブとは、と書き出してもいいのだが、詳細な定義や分析は本家[1]に任せるとして、要は「誰かのために役立っているとはとても思えないと、その仕事についている人が痛感している」仕事と考えて欲しい。一定年齢以上の人はこの言葉で「窓際族[2]」を思い出すかもしれないが、この本で書かれているのは窓際族とはいえ、何か仕事をしているフリ、忙しいフリをしなくてはならない人たちであり、またリストラの対象でもない(それどころかこの本の中に出てくる実例のほとんどが新規採用者である)。本当に全く何も仕事がない(倉庫の在庫を何度も調べ直す)場合もあれば、やってもやらなくてもどうでもいいような仕事(ワードファイルをエクセルファイルに入力し直す)の場合もある。こうした仕事が低賃金かというと左にあらず、家賃を払い日々の生活費を賄い、奨学金ローンを払ってもまだお釣りが来るほどの賃金を得ている。いってみれば「おいしい仕事」なわけだ。ところがこの「おいしい仕事」についている人のほとんどが、社会に参加していない、自分などいなくなってしまっても構わない存在だと悩み、自尊心を傷つけられ、こんな仕事を続けるぐらいなら…と「実質的(リアル)な」「他人に役立つ」が低賃金の仕事に転職していくという。

 なぜなのか?というのがこの本の根本的な疑問である。現在の生産性から考えて、通常の労働時間は週3日とか1日4時間で済むはずである。ところが「クソどうでもいい仕事」が生まれ、維持され、増殖している。しかも他人に役立つリアルな仕事は大概、家賃を払えるかどうかわからないような低賃金なのだ。こうした社会が真っ当な社会なのか、なぜこのような社会が出来上がったのか、というのがこの本の基底的問題提起である。

 「クソどうでもいい仕事」が蔓延している理由の一つ著者が挙げているのが、人間は辛くてしんどい労働をしなくてはならないという思い込みであり、仕事をしているからこそ一人前という考え方である。辛い・嫌な事が仕事であり、仕事から楽しみを得ているとすれば、それはもはや仕事ではない。ゆえに自分が楽しめる仕事、没頭できる仕事は「仕事」ではない(=無報酬もしくは低報酬)。どんな仕事であっても仕事をしていれば一人前である。だからたとえ自尊心を傷つけられるような仕事であっても、その仕事は「やって当たり前」の仕事である。人から感謝されるような仕事は、感謝という報酬を得ているのだから、金銭的に報われなくても良いはずだ。こうした考え方の背景にはカルヴァン的なキリスト教の影響があることは見てとりやすい。けれど、今や世界中に蔓延している考え方でもあるという。

 ここまで読んだとき、もしかして…日本では、あるいは少なくても私が接している学生のなかで仕事とは「クソどうでもいい仕事」であるという認識が普通になっているのではないかと思いだした。というのも彼ら、彼女たちが仕事にというか、就職で期待するのは「福利厚生」「休暇」「給与」の3点で、事務系であればなんでもいいというからだ。実際の就職活動でも、金融系=とりあえず「堅い」、流通系=大手スーパー=とりあえず検討がつく、営業系=熱苦しいからヤダ(特に女性)、窓口事務(医療系・薬剤系)=責任が軽くてよさそうと、身も蓋もない。生き甲斐とまではいわないが、その仕事をして自分が満足するかという点はあまり考慮しないらしい。どうして?と聞いてもあまり理由はなく「だってそれが普通だと思う」「ブラックじゃなかったらそれでいいし、事務系だったらどれでもいいって感じ」「大学を選ぶときと一緒」となる。

 そう。大学を選ぶときと一緒。なるべく無難な、できれば世間的に見場の良いところに入ること。仕事は「クソどうでもいい仕事」だと認識しているのではないかと私が考えるのは、実はこのところにある。学生たちが歩んできた道は、彼らにとってある意味全て「クソどうでもいい」事(勉強)を繰り返す事だったのではないか。その延長線上に就職があるとすれば、仕事もまた「クソどうでもいい」もので、自分たちの消費を支えるためであれば、つまらなかろうと、興味が湧かないものだろうと、とりあえずブラックではなく、日々無難にこなすことができれば上等だと思っている。そして実は日本企業や日本社会の実態も彼らの期待(?)を裏切らない。そう思えてきたのである。

 日本のホワイトカラーの生産性が低いことはよく知られている。と同時に過労死や自殺が絶えないこともまた周知の事実だ。というか、長時間労働をしているのに生産性が上がらないから、生産性が低いというのが妥当だろう。ということは、実は誰もが「やってもやらなくてもどうでもいい」ことを、さも忙しいそうに「仕事」にしていることなのではないか。ブルシット・ジョブの本の中で取り上げられている実例は、会社の中で「自分だけ」があるいは「自分の部署」「自分の職場(職種)」だけが「世の中から消え去っても誰一人困らない」仕事をしている。これに対して日本社会は「誰もが」勤勉に世の中から消え去っても誰一人困らない仕事を、「ある程度公平に」分担していると考えることができる。

 テレワーク推進でやっと実現の可能性が見えてきた押印廃止。日本全国どこでも書類上部にあるピラミッド構造を表す押印欄の面倒くささ、やりきれなさ、馬鹿らしさは通用する。なぜなら、日本中ほとんどどこでも「ただ上司の印をもらうだけ」で待っている時間があり、その上司がどうせ盲判を押しているのも同様だからだ。そしておそらく誰もが「押印廃止のための委員会」「同諮問会議」「同決定会議」「同理事委員会」などなどが設けられ(場合によっては『シン・ゴジラ』のように墨跡豊かな看板が掲げられ)、大量の書類と大量の印鑑と時間を費やして、延々と会議が続くであろうことを、自虐的に想像する。なぜなら誰もがその事態を経験済みであり、自分自身がその事態の当事者でもあるからだ。そしてそれが「組織の通弊」であると考えられている。

 というのも「組織」は大なり小なり命令系統があるピラミッド構造をしていて、その中で互いのパワーゲームのために、各種会議(及び根回し)があるのであって、意思決定のために会議があるわけではないからだ。そして日本の場合、意思決定は空気によって行われ、印鑑によって箔がつけられ、報告書としてきれいにラッピングされて、終了する。ラッピングを破るのはご法度だ。その間、現場ではやりくり算段で物事が進み、やりくり算段がすぎて問題が露わになれば、お定まりの謝罪を行い、誰かの首を切れば良い。この万一のための「首」要員としても「責任はありそうな名前の職務」についている人間が必要になる。そしてその責任がありそうな名前の職務についている人間が、さもパワーを持っているように見せかけるためにもブルシットな仕事(というよりは儀礼)が組織の中で必要になる。そう日本人の多くはどこかで思っている。組織人とはそういうものであり、組織で働くとはそういうものなのだと。

 どう考えても、これでは仕事は楽しくない。むしろ苦痛だろう。確かに『ブルシット』本に出てくる実例のように、単独で全てのブルシットを抱え込むよりは、日本のように組織内で広くブルシットが共有されている方が連帯感があって良いだろう。あるいは「会社のため」が生き甲斐なりやりがいを与えてくれるかもしれない。家庭や世間でどう思われようと、会社の中では一人0000の一人前の働き手なのだと思える。しかし、仕事の無意味さ、どうしようもない空虚さは、毎日薄く積み重なり、やがて肩にのしかかるものとなる。なるほどスーツの後ろ姿がどんどん傾いで行くわけだ(と私は一人で納得してしまう)。

 実際「大学」という組織らしくないところで、教員というこれまた命令系統の判然としない職についていても、年毎に煩雑になるシラバスや各種書類、申請様式に追われている。シラバスなどは「その講義で何を教えるかに関する学生との契約書」であるから、事細かに各講義ごとの内容を詳細に記述するように求められている(求めている主語は学生ではない。文科省のどこかで作られた文書だ)。講義なんて生き物だから、その時の学生のその場の雰囲気で進行状態が変わるものだと思っている。だから取り敢えず埋める。けれど一旦埋めてしまうと、シラバスが私を縛ることになる。どうにも厄介で仕方がない。黒板からスライドへの移行も同様に厄介だ(時々スライドを止めて書き直すこともある。誤字や数字の間違いを訂正するだけじゃなくて、作っていたときとは別のことを話してしまうからだ)。シラバスは生き物である講義を標本ピンで固定するようなものだと思ってしまう。ということで年々講義がやりにくい(言い訳半分)。

 こう考えてくると、先月紹介したミルの「労働が快楽になる」ことの重大さを改めて噛みしめたくなる。当時も今も「労働が快楽になる」は不評だった。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。単なる夢物語。そう片づけられる主張だった。それはまた経済学の根底を崩しかねない危うさを持っていた。けれど、『ブルシット』を読みながら、功利主義者としてのミルにとってはある意味当然の帰結だったのかもしれないと気がついた。人は快楽を求め苦痛を避ける存在である。労働者にとって働くことが苦痛である限り、労働者は労働を忌避する。忌避された労働から生まれた生産物は、何に対しても応答可能(レスポンシブル/責任を持つ)ではない。なぜならそこに労働するものの意思も配慮も含まれていないのだから。逆に労働が快楽であれば、労働するものは自分が生産するものに対して意思と配慮(ケア)を込める。それは使う人との間で応答可能性を持つものになるのではないか。

 果たして労働が快楽になるのは無理・無茶なことだろか。私はそう考えない。労働が快楽だった、少なくとも楽しみを伴うものだったといえるのではないかと思うからだ。例えば『逝きし世の面影[3]』で紹介されている幕末前後に日本を訪れた西欧人が異口同音に語る「明るい笑顔」は、「豊かさ」がもたらしたものではない。農村の労働は肉体的には決して楽なものではない。しかし、少なくとも他人に縛られて働くものはいない。天候に左右され、年貢は取られるが、日々の生活のリズムは自分たち村のものたちが作っている。祭りや神楽も自分たちの手で作り上げている。生活の厳しさはあるが、そこには楽しみと慈しみと美があったのだと(感傷かもしれないが)思う。ミルが大規模農業が盛んになろうとしていた時代に、あえて小規模自営農を擁護するのも、労働と結びついた生活の美のためだ。自分たちの、自分のリズムで仕事をし、生活を営む時、仕事は喜びを生むのではないか。

 例えば私にとって原稿や論文のため、キツいけれどガシガシと原書を読んだり他の論文を読んだりすることは労働だけど楽しい。集中していると時間を忘れる。夢中になっているからだ。誰でもそういう経験があるだろう。その代わりそのあとはダラ〜としてしまう。こんな労働を時間で測ること、時間を定めることはバカらしい。それぞれの人、それぞれの仕事に沿ってリズムがある。営業時間が決まっていたとしても、その中でリズムが生まれる。そのリズムを無視して全て一律に時間と人を割り当ててしまっているのが、今の労働なのではないか。そんなふうに考えると、近代の時計に従って働く労働が逆に特別な・例外的な事象なのではないかと思えてくる。


[1] 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』ディヴィット・グレーバー・酒井隆史(他)訳, 岩波書店, 2020年7月

[2] 出世ラインから外れて閑職につく中高年サラリーマンを揶揄する言葉[コトバンク]

[3] 『逝きし世の面影』渡辺京二, 平凡社ライブラリー,2005年

お茶という日本文化

 日本に戻ってから2か月半が経って、もう少しでカンボジアに戻ろうと、いろんなことを整理整頓し始めていました。そんな折にふと、WWBジャパンの卒業生のことも思い出しました。日本にいないと連絡の取れない方に電話をしてみようかな…と、真っ先に思い浮かんだのが京都の小泉敏子さん(お茶の先生のお名前は小泉宗敏先生)でした。

 小泉さんはとても不思議な魅力を持つ方で、いろんな提案を京都の女性起業家セミナー卒業生と共に活用させていただきました。一番思い出深いのは東京駅のイベントスペースでの1週間の出展です。もう15年以上前でしょうか。朝7時から晩の23時まで、東京駅に着物を着て、素人の私が売り子になっても飛ぶように女性起業家の商品が売れました。その代わり、小泉さんも粋な演出を考えてくださり、様々なお茶の道具などを用意してくださったり、篠笛の奏者を呼んでくださったり…。その場で手描き友禅を披露するなど、私たちが100年先まで残したいという手仕事を東京駅の中で縦横無尽に行きかう人たちに見ていただきました。おかげさまでこれから京都に行くというのにすでにお土産を買い求めてくださった方、東北から東京に来て京都とは関係ないけれども手作りのものは素晴らしいと喜んで買ってくださった人など、小さくてもきらりと光る女性起業家たちの商品を見ていただく晴れ舞台となりました。京都という場所で女性起業家セミナーをやらせていただいていろんな方と知り合えたことは私にとっても大きな財産でした。

 もう20年近いお付き合いになると思うのですが、小泉さんは何かというと気にかけてお声をかけてくださいます。彼女が開くお茶会は京都でも有名な大徳寺や京都御所の中だったり、普通の人が借りられないような空間で、さらにはその時代考証を経てこのように献茶が行われたのではないかという形を現代に蘇らせたり、皇居で演奏する雅楽の方を招いて名前の演奏をバックにお茶をたてたりと、その演出がまた壮大なスケールです。その時間はまるで夢か現か、日ごろの喧騒を一瞬にしてかき消してタイムスリップしてしまうような気分になります。粋とは何か、雅な遊びとはどういうものか、古典で習うのではない、目の前で味わう得も言われぬ体験はこの先も二度とないものだと思っています。

 小泉さんは京都大学医学部茶道部の立ち上げからほぼ40年近く携わっており、その代々のOB・OG(第一線で活躍するお医者さんたち)からも大変慕われており、このようなお茶会などに集まる方々もそうそうたる顔ぶれであることは間違いありません。しかし、そこに私のようなサラリーマン家庭で生まれた凡人であっても受け入れてくださる懐の深さがあります。私は茶道の心得は全くありません。しかし、お茶会では精通していらっしゃる方もたくさんいて、もちろんその方たちには最高の演出を提供され、選んだ掛け軸や床の間のお花など設えに関してはもちろん、お道具も身を包むお着物も超一流です。そんな最高潮に緊迫する中でもやさしく誘導してくださり、お茶席でお隣の人の見よう見まねで体験させていただきます。どんな世界においても、どんなレベルの人に対してもきちんと対応できるというのが真の指導者なんだなというのを実感させられるのです。

 現在、小泉さんも70歳を超えられ、今年いっぱいで京大医学部茶道部での指導は退官されるということで、自分しかできないことを残りの人生でやっていかなければいけないとおっしゃっていました。その1つが「茶の湯外交」です。お茶席という日本独特の文化を通じて世界と親睦を深める。このような外交手段がほかの文化にあるでしょうか。お酒の入った食事を共にすることもあります。ただ、お酒の入った席なので素面ではありません。ダンスや古典芸能をみんなで鑑賞することもあります。しかし、お茶の席がさらにすごいところは今の時代に寄り添えるメッセージが伝えられます。掛け軸に込めた想いで何かを表現したり、今あるお花を生けることでその季節を切り取り、客人は周りの人々と一緒に自分が能動的に動いて空間を作り上げます。一期一会でその時に集まった人々でしか醸し出せない雰囲気なのです。さらには教養の高い茶人が客人をはっとさせるような言葉を伝えることが気づきにもなる、とても知的なゲーム性をも含んでもいます。そしてこの飲むお茶が混ざりものなしで農家が丹精に作りあげたものであれば、一服飲むごとに味わいが深まり、もともとは薬と同じような効能であったゆえに元気がもらえる。戦国武将が茶人を寵愛していた理由もなんとなくわかります。

人生最後の集大成として、小泉さんはさらに「相手のことを想うお茶」を掲げています。私も含めて一般の人々はお茶の世界は敷居が高いと思いがちです。しかし、上に紹介したような世界平和や外交にも一役買えるようなお茶という文化を一部の人たちだけがやるものではなく、誰もが親しみをもって触れる機会を作り、さらに深めたい人は道に入るという導入部分(彼女は“序の茶”と表現しています)を作りたい、というのです。小泉さんのお宅にお邪魔すると必ずお茶室で私のような素人でもお茶を点てさせてくださるのですが、そのコツの伝授の仕方がとても上手で、初心者や外国人が初めて体験しても難しいと頭をひねらず、自分でもできたという達成感や喜びを実感できます。

「表とか裏とかいう流派でお茶碗の回し方が違ったりいろいろあるけれども、根っこは同じ。特に茶の湯外交の時ははっきり言ってどうでもいいことなんです。なぜお茶碗を回すか。自分のほうに美しい柄があると“もったいない”と思うからそれを避けるという日本人の美意識、ただそれだけのこと。だから回しすぎて再び絵柄が自分の手元に来てもいけない。もしかしたら外国人からしたら、自分のほうに美しい絵柄があったほうが喜ぶかもしれないし…」と相手の立場を慮ってお茶を考えると先生はこういう解釈になるわけです。

この“序の茶”の喜びがなければ広がらない、そのためには初めての人でも点てやすいような環境をまずは整えることが大事だという思いに至った小泉先生は、地元の有名な陶芸作家に駆け寄って、点てやすい器の開発まで始めています。だいたいお茶碗にどのくらいのお湯の量を入れたらちょうどいいか(私が点てたときはポットのお湯です)を一目でわかるような内側に絵付けを頼み、形も丸ではなくて楕円型。この方が茶筅を動かしやすいのだそうです。それをお弟子さんたちが忠実に再現し、特注することで若手作家たちの仕事づくりにつなげたいとおっしゃっています。この器と小泉さんの厳選したお抹茶と茶筅をセットにして、外国人でも自宅で楽しめるようなキットにして少しずつ広げていきたいと考えていらっしゃいます。

また、小泉先生の使うお抹茶は、宇治の生産者で、かつて神社仏閣に奉納する以外に、他のどこにも出していない門外不出の幻のお茶です。26年前に、このお茶をいただいたときに、小泉先生が6歳でお茶を始めようと決意したときに初めて口にしたお茶と同じ味がしたのに感動して、それ以来ずっとその農家に契約栽培をお願いしています。一般的にお茶は宇治、静岡など有名な産地が表記されていますが、多くの場合はその地域のものがある程度の割合で入っていれば名乗ってよいという決まりごとがあるそうです。宇治茶も近隣の関西地方で採れたお茶と配合されて、時には添加物なども配合されて出されているものもあるのだとか。コーヒーでも同じですが、どうしても自然相手の農作物はいい出来と悪い出来の年があります。毎年同じ味・品質を安定させるためにも輸出される港で混ぜられ、均一化させるという方法が長らくとられてきました。しかし、最近中南米の国々ではコーヒーの品質向上を推進し、ワインのようにどの産地、さらにはどの農園の味かといった産地別、農園別といった細かい区分のスペシャリティコーヒーなども登場しています。もともとお茶も戦国時代などは金の延べ棒かそれ以上の価値があったもので、庶民にも飲まれるように手に入りやすくなったことはもちろん大事ですが、小泉さんはコーヒーの今の状況と同じようにちゃんと農家に頑張った分だけの見返りがあるように作ってもらいたいと、代替わりしてもこの契約栽培農家を応援し続けています。また小泉さんの息子さんがつい先日脱サラして、この宇治の茶畑を一緒に守り、推進する手伝いに回ることになりました。

 お茶を点てるくらいで何がそんなに違うのかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私がたった1~2時間教わって、自分でやっただけでも大きな違いを実感できます。まずは抹茶のお粉。濃茶は苦くて甘いお菓子がないと飲めないかというと、何回も味わうごとにおいしさを感じられます(そもそもお茶席で何杯もお茶をおかわりすることはありませんよね)。品質のいいお茶だと分量も少なくてもちゃんと点てられます。そして点て方が上手になると味わいが全く変わってきます。茶筅の持ち方、意識の向け方、点てている時の音のコツを教わっただけで変わります。そしてこのようなお茶の歴史や所作がどのようにしたらきれいに見えるかというポイント、さらには今の世の中のことなどを話しているうちに、文化教養に触れて日本人としてのアイデンティティを感じ、メンターから生き方を学ぶ人格形成の場でもあり、そしておしゃべりというヒーリングなんだなぁ…と。小泉さんに会って家に帰るときには気持ちも晴れ晴れ、頭もすっきり、いろんなことを吸収したという満足感で満たされていました。お茶やお花を学びに行くのは憧れの大人たちから生き方を学んで大人になっていくという意味でもあったのかも、と。私はまだカンボジアでも日本でも若い人たちに対して、私が得てきたような学びだったり、気持ちの面で鍛錬されるような時間や場というのを提供できていないと改めて気づかされました。

今回、久しぶりに小泉さんにお目にかかることができて、文化というのは国境を越えてつながれるものだと再確認させていただけるいいチャンスをいただきました。現在、カンボジアで文化を守るということも私たちの活動の柱の1つです。私たちの生徒が昨年日本各地で踊ったことで自分たちのアイデンティティを呼び覚まし、自信をつけたことに私もとても誇りを感じています。現在はノーという女子学生がこのダンスを教えることで生計を立てられるようにするにはどうしたらいいか、スマホを使ってダンス出前サービスやオンラインでダンスを教えることなど、少しずつ形にしていこうという動きが出始めました。

そしてもう1つ、“カシューナッツを文化にしていくには?”という着想を得ました。お茶もそもそもは中国由来のもの。日本でさらに加工法、味わい方が長い歳月をかけて発展して独特の文化になったのだと思います。カンボジアのカシューナッツもルーツをたどれば肥沃ではない土地に何か作物をと40年ほど前に外から取り込まれたものです。まだまだ歴史の浅いものではありますが、それをインドやスリランカでもアフリカでもない、カンボジアだからこそというものにしていくにはどうしたらいいのか、日本のお茶会ではないですが、カシューナッツを味わい尽くす懐石料理的なものなのか、何か他の人がやっていないけれどもこれは面白い!と思うことを産地から発信していくことができるのかなと思い始めています。昨日たまたまプノンペンでカシューナッツバターをもって瓶探しやラベルを印刷してくれる会社を探していたところ、そのスタッフたちがこの商品についてとても興味を持ってくれました。国内の掘り起こしは可能性を秘めているなと手ごたえを感じました。以前のインドネシアのフローレス島でカカオの経験でもそうでしたが、生産している地域では換金作物は収入源としか見ておらず、自分たちで味わう習慣がないと自分の作った作物が美味しいと誇りを持てることが「次世代に残そう」につなげられないのではないかと思っていました。コンポントムという小さな町ですが、プーンアジの位置は産地の畑からは町中で、外国人だけでなく、カンボジア国内の人をも呼び寄せられるところです。カフェのティーダさんとも協力して、こういう話題と人を呼び、お土産を買って帰ってもらう仕掛けができたら面白いかなと少しワクワクしてきました。

女だから今動ける

タイトルを見た人の中には「女だから・・・」はないだろうという思いを持った人もいると思う。男も女も均等だ、女らしさ、女だから云々とは・・・と。ちょっとその話はストップしておいてほしい。そういう「そもそも論」をする気は毛頭ない。女だから育児、女だから家事なんて主張には正直飽き飽きしている。

 けれど、世間一般にはいまだに育児は女性という意識は強い(少子化対策の該当インタービュー対象者はなぜいつも女性が多いのだろう)、統計的にも有業男性の家事や育児に費やす時間は、週1時間以下である。

 そんな「女」だからこそ、わたしは「今」動くことが出来ると考えている。今は「」の今。長年築き上げてきた営みが、目の前で濁流に飲み込まれる理不尽。どんなに大切に思っていた人も事も、遠慮会釈なく奪われてしまう理不尽。目にも見えず、臭いもない「放射能」をめぐる錯綜した情報、先行きどうなっていくのか分からない不透明さのなかで、自分の将来を考えなくてはならない理不尽。そんな理不尽な「今」である。そしてこんな時だから「女」は動けると考える。

 なぜか。理由は簡単だ。理不尽さに「女」は常日頃からつきあってきているからだ。え?と思われるかもしれない。けれど、想像してみてほしい。一所懸命作った食事が「あ、食べてきたから」の一言で無駄になる。かと思えば「え!今日晩ご飯ないの?」と責められる(確か出かけに遅くなるからいらないといったのに)。なんだ、そんな些細なことと思うだろう。確かに些細な日常の出来事でしかない。そんな日常の中で「女」は自分の努力を踏みにじられる理不尽さや、自分に責任のないことで責められる理不尽さに出会っている。家の中のことだけではないい。仕事を持っているとなれば、仕事の現場で、それも意外なで理不尽とぶつかる。たとえばこんな風に「君、女性だから、女性のことは分かるよね。この仕事は君にやってもらうよ」(それって私が「女」だから?能力じゃないのね…という言葉は密かに飲み込まれる)。育児ともなれば、相手はこちらの都合などいっさい配慮してくれない。徹夜に近い状態で、やっと眠れると思ったら、夜中の3時に泣かれる。はずせない用件のある時をねらっているんじゃないかと勘ぐりたくなるほどのタイミングで、熱を出し病気になる。明日どころか、一瞬先のことすら予想できない。そんなものとつきあわなくてはならない。職業を持っていても、いなくても、子供がいてもいなくても、「女」はいろんな理不尽さにつきあってきた。怒る場合もあるが、怒るだけでは何も解決にならないことも知っている。受け入れたくないと思いつつ、受け入れるしかない場合もある。表面で受け入れ、さらりと身をかわすという高等手段が通用するときもある。日常的にぶち当たる理不尽だからこそ、怒ってばかり入られない、受け入れてばかりもいられない。いろんな対処方法を自然と編み出している。

 そう、「女」は理不尽に慣れている。ことの大小はある。けれど茫然自失とする事態、自分ではどうしようもない理不尽な事態に出会ったとき「女」が強いとよく言われる。私の祖母たちも、8月15日の「勅語」を聞くやいなや、ネルのもんぺの糸をほどいたという。「これでまたコーヒーをたてて売るんや、商売がまたできるんや」と真っ先に思ったそうだ。些細な日常の理不尽さになんとか対処し続けてきているからこそ、茫然自失の事態に出会ったとき、「女」はまず日頃出来ること、慣れていることから手をつけようとするのだろう。それがそれまで理不尽さに対処してきた方法だったのだから。

 そして、日常の中で「女」が身につけているのは理不尽さに何とか対処するやり方だけではない。何年か前に、ある講座で、7人ぐらいのグループで各自が出来ることを出し合って、何が出来るかをまとめてみるというワークをしてもらったことがある。昼の講座だったのでずっと専業主婦だったとか、随分昔に仕事を辞めたという女性が主体だった。最初は「なにもないです」という声ばかりが目立っていた。そのうちの一人が「3人の子供を育てていたから…」と発言したとたん、隣の若い女性が「え、3人も育てられたんですか?実は今子育ての真っ最中で…」。その場で育児相談コーナーが始まった。70歳以上が集まったグループは、「私たちお店始められるわ!」と意気軒昂。何を始めるのかと聞いてみたら、グループの一人が和裁と洋裁ができ、趣味で布小物類を、人形を作っているメンバーがおり、タンスにいっぱいの古着の処分に困っているメンバーがいるとのこと。リサイクルショップではなく、自分たちで古着を再生しておしゃれなグッズや服に仕立て上げるのだという。

 彼女たちは別段特殊な技能を身につけた人たちではない。ごく普通に育児と家事にいそしんできた人たちだった。いや、逆にこう言った方がいいのかもしれない。育児や家事にいそしんできたからこそ、身についた技能があったのだと。それは会社組織の論理の中では評価されない技能かもしれない。けれども、日常を生き延びる上では欠かせない技能でもある。専業主婦が希少種となったといわれる現代でも、家事育児を担わなくてはならない「女」は、こうした技能を何かしら身につける。

 考えてみれば、家事や育児を担うということは、細切れになる時間、自分では思い通りに管理できない時間のなかで、いかに効率的に働くかを意識することでもある。洗濯機が止まる時間を計算しながら、朝ご飯を作り、洗濯物を干す手順を意識しながら、テーブルの上に離乳食をぶちまけようとする子供に素早く手を伸ばす、なんて芸当を、軽々とこなさなくてはいけないのだ。家事育児を担わなくてはならなかった「女」は、マルチタスクをこなし、タイムマネジメントをし、リスクを意識しているのである。

 だからこそ、私は「女」は「今」動けると考えている。途方もない理不尽さ、そのあまりの巨大さを見つめると、何をしていいのか分からなくなる。けれど、日常生活は続いていく。ともかく明日のご飯は食べなくてはならない。限られた物をどう活かすか。これは常日頃、日常の中で意識してきたことだ。やったことが無駄になるかもしれない。そんなことは当たり前だった。評価されないかも?そんなことが当たり前なのが、家事育児だ。だから無駄になるかもしれないと思っても、何かしら始めることに抵抗は少ない。さらに「女」の(通常悪口としていわれる)特徴的な行動「しゃべりながら…する」。これも「今」の状況には結構役立つ。たかがおしゃべり、されどおしゃべり。他愛もないとか、所詮井戸端会議で噂話で‥などといわれる。でもおしゃべりは内容だけに意味があるわけではない。他人と繋がっている、自分がここにいるという表明でもある。女性と男性では鬱病にかかる割合は女性が高く、自殺する割合では男性が高いのも、このあたりに原因があるという人もいるぐらいだ。理不尽さを分かち合い、互いの経験を交換するときもあるだろう。その中から、新しい動きを始めようという意欲や方向が見えることもあるかもしれない。

 そして私が今動ける「女」に、理不尽さになれた「女」に期待していることが一つある。それは理不尽さに怒りを持って立ち向かう虚しさだ。

 理不尽な出来事、理不尽さ仕打ちにあったとき、人は茫然自失とし、やがて怒りの感情を覚えることだろう。「なぜ自分だけが」「なぜ私たちだけが」…。そして怒りの感情をぶつける対象を探す。けれど、怒りの感情は(例えそれが正当なものであったとしても)破壊的な効果をもたらす。怒りの感情を抱いた本人自身に。怒りは人を縛り付けてしまう。理不尽な状況から一歩も動けなくしてしまう。まして怒りの対象を敵として固定してしまったら、なおさらだ。敵を殲滅するまで、何もできなくなる。けれど、その敵はだれだろう。日常の些細な理不尽の中では、その敵は自分がつきあい続けなくてはならない相手でもある。殲滅戦は勝利への道ではない。相手を憎み怒り…そして残るのは怒りに縛り続けられた虚しい自分。それは些細な日常ならよくわかる(夫婦げんかの後みたいに)。でも大きな物事では分からなくなる。同じ怒りを抱く人の数が多ければ多いほど、怒りが正当化されたような気になる。けれど、怒りはやはり怒りでしかない。それは人を前に進めはしない。ましてや周囲の人々を動かしはしない(怒る人間をはやし立てる人はいても)。怒りを覚えるなとはいわない。怒りは自然な感情だと思っている。けれど、怒ることの虚しさ、敵を作ることの虚しさも心得ていて欲しいのだ。

里山にて

  職業:大学教員。所属:経済学部。専門:経済思想史、主として19世紀イギリスのJ.S.ミルを対象とする。これが私の公式のプロフィール。大学教員だから、当然のごとく講義やゼミで学生を教える側にいる。そして、私のゼミは自称「経済学部農学科」である。なぜかって?2年前から松山市の郊外で米を作っているからだ。ちなみに作った米のほとんどは販売している。パッケージデザイン、価格の設定、販路の開拓はすべて学生が自分たちで行っている。教員はアドバイスはするが、介入はしない。「こうした活動を通じて、市場経済の仕組みを単なる机上の理論だけではなく実感として知るとともに、自ら動く力、課題を生み出し解決する力を養う」というのが、このゼミ活動の目的である…。
 というのは、全くの建前。

 本当の理由は単純明快。私自身が現地の里山里地に惚れ込んでしまったから。

 それゆえ、1年目の学生はある日突然「あ、里山でお米作ることになったから」と言い渡され「え~~っ」。その後「うん、そのかわりできたお米は自分たちで売っていいって。頑張ったら売り上げはあんたらのもんやから」とフォローにもならぬフォローが入り、再度「えぇえ~~!?」という具合。

 という訳で、1年目の去年は教員も学生も全くの手探り状態。教員学生とも米作りには全くの素人。里山に広がる棚田3畝(1畝は30坪)の先生は若きは70歳前から最長老は80云歳になんなんとする指導農家の方々。ひたすら教えを請う日々が始まる。
 まずは田植え。「3畝じゃけんの~。6人で一杯じゃ」。ちょうど間がいいというか悪いというか、お隣の田を借りていた市民の方がぎっくり腰。同じ棚田を耕すのも何かの縁とばかりに、隣の田も同時に田植え。しかしなぜ6人で一杯???謎が解けたのは、指導農家さんが田定規を持ち出した時。一本の竹の両端に長い棒と短い棒がくみ合わさったものがついている。竹には一定間隔でひもが小さく丸くついている。「ええか、この棒の端を畦の端に合わしてみぃ。ほれ、まっすぐせんかい」「ほうじゃ、ほしたら、ひものとこを目当てに苗をこう持って植えて…ほれ、そんなにたくさんうえたらあかんじゃろが…3本ほどでええんじゃ」「よっしゃ、一列終わったら、縦横の棒を植えたとこに当てて、ほれ、次の列が分かるじゃろ」。名前の通り「田」植えの「定規」。これで一件落着…とはいかないのが素人の哀しさ。棚田は曲がりくねってる。一列に植えながら下がっていくと、田定規が余ってしまう。さて…「先生。これ縦棒を直前の列じゃなくて、その前の列に当てて、横にずらしたら、次の列出来ますよ」と学生が発見。「あ、ほんま。あんた、頭ええやん」「単位は落としましたけどね…」。

 こんな調子で、新しい物事に出会いながら、夏の草刈り(太いナイロンひもを取り付けた草刈り機で草をたたくように刈っていく。ストレス解消にもなる私が一番得意とする作業)、田の中の草取り(稲と野生のヒエの見分けが難しい。田の中での作業なので、手足だけでなく顔を葉で切ってしまうことも)…。
 稲木干し用に里山から竹を切り出すこと。竹は細い部分は箒、雀よけの糸を張るため等々、余すところなく使えるので、里山には必ず竹があること。昔、換金作物として作っていた肉桂が今は野生化してしまっていること。愛媛で絶滅危惧種となっている蛙やトンボが復田とともに、里地に戻ってきていること。同時に猪や猿もやってくること(かつては里地に人が多かったのでよってこなかったのだという)。里山里地では教わることが多い。

 それは農作業にとどまらない。例えば農家の収入。単純に現金収入は昔から低いと思い込んでいた。ところが最長老曰く「わしが若かった頃は、里山で仕事して月に1万5千円、田んぼで仕事して月に1万5千円ぐらいは楽に稼いどったわ」。聞けば昭和20年代後半から30年代始めの頃。その頃4年制大学卒業の初任給は1万2千円程度。なんと、かつては大卒の倍の収入だった訳だ。(今農家の平均年収は200万円以下といわれている。昭和2,30年代の4大卒はエリートだったから、現在であれば年収600万は軽く超える層だろう)。

 指導農家さんたちは厳しく暖かい。学生を叱咤激励しつつ、うまくおだてほめて働かせる。そしてちょうど疲れた頃に「ほれ、スイカじゃ。裏の畑で作ったやつ。スーパーのよりまずいとはいわせん」と差し入れがくる。見事な人心掌握術。

 けれどもここには、見えないけれど、もっと大きな先生がいる。里山里地そのものだ。

 田植えをしている時、草刈りの時…。里山里地を訪れると自分の五官・五感がどんどん変わっていくのを感じる。足の裏、手の先のちょっとした変化をすぐに感じ取れ、そのかすかな感覚をたよりに自分の体の動きを調整するようになる。
 なにより裸足でたっていると、足の裏からすうすう「風」が入って、頭の上の方からすうすう抜けてゆく。手が入っていなかった竹林から竹を切り出した後、ふと肩に手をおかれた気がして振り返ると、風が吹き抜けてゆく。お疲れさん。そういわれたような気になる。雑草を刈っていると「刈られ往く 我が身にも名は あるものを」とつぶやきが漏れる。ふと手元を見ると、つい最前まで小さな可愛らしい花と思っていた草を、私の手が刈っている。多くの命を犠牲にして一粒の米が出来ていく。

 それだけにさやさやと揺れる穂並みは涙が出るほど美しい。多くの命を吸い上げているから。そしてそれを食べるのが私たち人間なのだ。

 里山里地は言の葉も鍛えてくれている。私は元々論理的に文章を組み立てる方ではない。どちらかというと感覚的というか、情感的に文章を書いてしまう方だ。だから専門論文であっても、何かを感じ、その感覚や思いのもとを突き止めるために文章を書く。その時、いつも突き止めたい何かを具体的なものやイメージに変換しながら、自問自答する癖がある。「う~ん。結局このところの論理と帰納は往還運動て進んでいく訳だから、尺取虫的なんだけど、もうちょっとこう…武張っているというっか」とか「ここでの社会のイメージって、おぼろ豆腐みたいにふわふわしてるけど、塊魂はしっかりしているって感じ」。

 こうした具体的なイメージがなぜ浮かんだのか、どこから浮かんだのか、そのイメージから何が言えるのか、そのイメージから何がどうつながっていくのか。その時々に思いついた文章を一気にかけるところまで、書いてしまう。そして大概3000字程度で原因も分からないまま止まってしまう。その時は、しばしば止まったままにしてしまうことが多い。そしてまた具体的なイメージに戻ってやり直す。こんな感じで先の見えないまま論文を書きだすものだから、ことごとく無駄な文章が乱立してはデスクトップのゴミ箱に突っ込まれ…ずに、別ファイルにしまい込まれる(もったいない精神ー苦笑)。

 里山里地はこうした癖のある私にたくさんの言葉やイメージをもたらしくれる。竹の音、風の色。言葉だけでしかなかったものが、私の手足を通じて入ってくる。山は本当に笑い、水音は千差万別。風は青くも赤くも変化する。草の香はむせ返るほど高いときもあれば、枯れかけて寂しく地をはうときもある。知らず知らずに私はそれを教えられている。里山にいるときに論文のことを考えている暇はない。論文を書いているときに里山のことを思い出すことはない。けれど同じ私の中で、両者はどこかで確かにつながっている。名も無い草が繁茂する風景、人間がいてこそ維持される自然と、荒れ果てた自然の寒々とした荒涼さ。

 人間ってどんなものなんだろう、他人が考えてることや感じていることなど所詮分かるはずも無いのに、なぜ人と人はつながれるのだろう。机上で考えていては堂々巡りする論議を里山の自然は目の前で断ち切ってくれる。豁然として。堂々として。根源にあるのは「生き続ける」ことなのだと。

 私だけではない。一緒に行っている若い学生たちもそれぞれに里山の教えを持ち帰っているようだ。単純に作業でほめられたことをしっかりと抱きしめる子もいる(あの子はずっと自分は何をやってもだめだといわれてきたといっていた)。販路開拓で交渉のこつを教えてもらった学生もいれば、試食販売で大声を出したおかげで面接が怖くなくなったという子もいる。就職活動の暇を縫って手伝いにくる学生もいる。里山に戻ると彼らの顔から角が取れる。それを「癒し」という今風の言葉にしてしまいたくはない。彼らは里山に教えてもらいに帰ってきているのだと思いたい。「生き続ける」ことの原点を。

何のための経済活動か?

松井 名津

 今回編集からいただいたお題は「ミルと経済成長」。実はあまりにど真ん中の直球なので、バッターとしては酷く戸惑うところがある。というのも、マルクス経済学の影響が強い日本では、ミルはずっと「生気なき折衷派」の一言で片付けられてきたのだが、70年代に一度脚光を浴びた事がある。ローマクラブが『成長の限界』の中で「資本と人口の定常状態は人類の進歩の定常状態を意味するものではない」という言葉をひいて、(経済)成長至上主義に警鐘を鳴らしたからである。これまでも何度か書いたことだが、オイルショックを受けて化石燃料、ようは自然資源の限界を世界中が痛感していた時代だった。この時は日本中が文字通り暗かった(夜間照明を必要最低限に抑えた)し、省エネルックが提唱され(非常にダサくて消えてしまった)、定時帰宅が推進された。経済成長は何のために?という議論以前に、経済成長はもはやあり得ないという風潮が蔓延した時代でもあった。その中でミルの定常状態論は、低成長もしくは0成長の中でこそ、人間的発展が可能となるという説として、あるいは経済成長ではない成長(ローマクラブの研究者はそれを「発展」と名付けたが)がありうる一つの論拠として、脚光を浴びたのである。しかし、政治的背景を持つエネルギー危機がひとまず緩和され、技術進歩により多くの油田が開発されるとともに、成長の限界は遠のき、やがてバブル経済を迎えることになった。

 そして21世期を迎え、またミルの定常論を紐解くとすれば、そこから何を読み取るべきなのだろうか。定常状態はミルだけが唱えたものではない。当時の経済学では経済が成長するに従って増大する人口を支える食料の生産には限界があると考えた。食糧生産の限界に達したとき、経済成長も止まる。それ以上の経済成長を遂げるための人口を支える食料がなくなるからである。そして19世紀半ばの経済学者の多くが、この限界が目の前に迫っていると考えた。それゆえ多くの経済学者はこの限界をどうやって先に伸ばすかに注力した。リカードは自由貿易によって海外の未開拓地に食料を求め、マルサスは農業発展の限度内に工業の発展を収めることを主張した。どちらも経済発展の延命を図る点では一致していた。

 ミル自身もすべての定常状態を歓迎していたわけではない。ミルが危惧していたのはすべての土地が人間の食糧のために耕され、人間の役に立つと認められた動物、家畜しか存在が許されない、そんな定常状態である。大阪万博に代表される「明るい未来都市」もミルが危惧した定常状態の都市だ。人間の居住空間、人間の移動手段、人間の憩いとしての緑地は揃っていても、手付かずの自然、野生の自然は何一つ残っていない。人口過密として描かれるディストピアも同様だ。人口過密と格差に喘ぐーもしくは徹底的に管理されているディストピアは、全てが人間の管理下にあるという点で、定常状態の行く末を暗示しているのかもしれない。反対に何らかの戦争や災害によって地球が荒廃したという前提のディストピアは、人間の制御外にある「自然」が残存しているという点では、ミルが危惧した定常状態とはかけ離れた存在である。

 こうした定常状態は経済学の法則上必然的に訪れるものとして設定されている。そしてこうした定常状態に入る前に、経済が発展した地域は自ら選択して「別の定常状態」に入ることをミルは推奨した。それは未開発の自然を残す定常状態である。未開発の自然でミルがおそらくイメージしていたものはおそらくはフランスからスイスにかけての山岳地帯だろう。ここで青年ミルは生涯の趣味である植物採取に出会うことになる(イングランドは一度人間によってすべての森林が伐採されてしまったので、手付かずの自然は存在しない)。人を寄せ付けない峨々たる山岳の連なり。それは経済にとってはものの役に立たないどころか、経済活動を妨げる要素でしかない(だからこそ戦後日本ではトンネル工事が一大事業となり、トンネル工事やダム工事は崇高な使命を担った闘士による戦いとして描かれるー『黒部の太陽』)。しかしこうした人を寄せ付けない山岳、手付かずの自然が残っていることこそが、人間性の進展にとって必要不可欠な要素だとミルは考えた。それは定常状態論(『経済学原理』所収)だけではなく、晩年彼が立案に関わった「土地保有改革連盟」の綱領においても同様である。特にこの綱領では、未開発地やコモンズ(共有地)が人類共通の相続財産(inheritage=後に残し続けるもの)とされている。

 ではなぜこうした未開発の場所が必要なのだろう。経済発展をあるいは農業の拡大を止めてまで、未耕作地を残さなければならないのはなぜなのか。それは自然のためではない。動植物のためでもない。人間のためである。広漠で未知な存在に満ちている場所、人間に自分の存在の小ささを思い知らせるための場所、それが未開発の場所の役割である。こうした場所で孤独に自己と対峙することが、人間にとっては必要不可欠なのだとミルはいう。なぜだろうか。ミルは孤独になることで、人間は自己を振り返り、内省することができるとする。それは日常世界では経験できない内省である。日常では人は経験を蓄える。経験の中から気づきを得ることができる。しかし、日常生活に埋没してては、思索は深めることなく、浅薄に流される易くなる。特にその日常が「お互いに肘を張り、互いを押し除け、追いやろうとする」ものであれば尚更、ゆっくりと自己を見直す時間も機会もごくわずかだろう。そしてそのまま経済発展の道を進み、世界は人類の食糧のために完全に開発され、人間は孤独になることはなく、未知と出会うこともない。

 そんな世界に人間が人間として成長できる基盤が残っているだろうか。

 ミルは単純に経済発展を否定したわけではない。人間がある種の競争心を持つ限り、その競争心は何らかの形で発揮される。時にそれは獲物を争うことであったり、領地を争うことであったりする。もっとも暴力的な形で現れた場合、戦闘という形を取る。これに対して経済や貿易は人間の競争心をより穏やかな方向へと向かわせた。これがスミス以来の経済学の基本的な考え方だった。しかしミルは経済的競争が必ずしも人間性を穏やかにするものではないこと、また直接的暴力として現れないが故に、かえって歪みをもたらすことに気がついた。スミスが危惧したように工場労働者は単純作業に専念させられることによって、判断力や気力を奪われ、ただ労働する機械となる。一方で豊かな地位を得たものは、豊かであることを当然とし、たまさか「慈善」として貧困者を保護する。庇護と被庇護の関係は容易に権力関係に移行し、庇護者の自己の拡大、権力の濫用、被庇護者のへつらい、相互の妬みや嫉みを生み出す(ミル自身が『女性の隷従』で描いたように)。

 経済発展を諦め、自ら選択して定常状態に入ったとしても、こうした問題が一挙に解決されるわけではない。しかし生産量を増大するために導入された機械は、その本来の目的である人間の労力削減に使用され、一般の人々(労働者も含め)が始めて余暇を手にする。余暇を何に使うか。あるものは狐狩りに使うだろう、またあるものは熊いじめに興じるかもしれない(熊いじめとドックレースは当時の労働者に人気の娯楽だった)。そんな中で、ミルが期待したのは当時の上層労働者が始めた有料図書館(パブの2階にあることが多かった)であり、自営農家が日々行っている日常生活を彩る様々な手仕事・庭仕事だった。あるいは女性の嗜みとされていた音楽や絵画である。本に親しむことは多様なものの見方を知り、思索を深めることにつながる。手仕事や庭仕事、音楽や絵画は、理性と闘争心に偏った「男性的価値観」とは異なる価値観を感性を通じて経験することにつながる。

 人間性の陶冶といっても、あまり大きなことをミルは初手からは望んでいないと私は考える。人間が一晩で生まれ変わることなぞないということを繰り返し主張しているからだ。制度が、社会が変わったからといって、人間性もまた即座に変わると期待するのは危なっかしいと考えている。もし即座に変わると考えているのだとしたら、それは理性だけの議論で人が自分の意見を変えることができると信じているからだろう。けれど、ミル自身が論じたように理性による議論の背後には人間の感情がある。感情によって裏付けられた議論に対して理性で反論しても、相手が自分の主張を変えることはほとんどあり得ない。感性あるいは感情に理性で綱をつけることはできても、理性で感情を引っ張ることはできない。逆に感情や感性が磨かれれば、理性も血肉を纏うことができる。だからこそ、日常生活の少しの変化が必要だし、そうした変化を促すための「自然を前にした孤独」が必要となる。

 日常とは違う、余暇とも違う、空白の時間。

 何を考えるわけでもなく、ただ自然と対峙する時間。

 そう解釈するのは日本に生まれたせいかもしれない。日本では自然は人間に対して結構優しい。だから安心して自然と対峙してられる。けれど自分の命をかけなくてはならないような厳しい自然と対峙したとしても、やはり人の心は同じように反応するのではなないかと私は思っている。なぜならミルが自然と対峙する時に、人間に求めたものは己の小ささを自覚することなのだから。

「伝統」は守るべきものか

松井 名津

 今回のお題はミルと伝統である。正直この二つは相容れないのと相場がきまっている。大阪のうどんと東京のうどんのようなものだ(うん?ちょっと例えが変かも?)。まぁどちらかに肩入れすると、どちらかを貶さざるを得ないという感じに受け取って欲しい。その筆頭格がハイエクである(以前も紹介したことがある気がするが)。ハイエクは人間の理性による社会設計を嫌悪し、むしろ慣習や伝統を自生的な、自然に出来上がってきたルールとして重んじる。そんなハイエクにとって同じ個人主義であり、個人の自由を尊重しながらも功利主義者として、理性に基づいた新たなルールを求めるミルは獅子身中の虫といったところなのである。

 確かに功利主義、ことにベンサムは合理と論理によって法体系を作り直すことを目的として、功利主義を組み立てた面が強い。何しろ今でもそうだがイギリスの法体系は「体系」をなしていないばかりか(実のところ成文憲法もない)法令や判例の寄せ集めに過ぎず、原告と被告が互いに矛盾する判例の優先を言い立てる場になっていた。それゆえ判例に精通しない庶民は法律の場に出されると決まって不利益を被ることになっていたのである。したがってベンサムは過去の判例や法令等に囚われない、真っ新な法体系とそれにふさわしい言葉を作ろうとした。そして法体系の基準に「最大多数の最大幸福」という功利原理を置いた。ハイエク的に言わせれば、人間の理性に基づいて人間の生活や行動を制限しようという「理性の思い上がり」の典型例ということになろう。

 とはいえこのベンサムの欠点ー正確にいえば偏向に関して、内部から批判を展開したのがミルでもある。その批判を一言でまとめて仕舞えば、ベンサムは法律を合理化することに専念しすぎたあまり、法律を内側から支える道徳や道徳心といった感情を無視してしまったということである。さらに法律の枠外にある日常的な振る舞いに関するルール(イギリスでは伝統的に道徳理論は人間の行動原理に基づくものである)を説明することができない点にあった。現代でも良く功利主義批判に使われるのが「危機的状況で誰を優先的に助けるのが功利主義から見て最も好ましいのか」という問いかけである。一般的にはタイタニック号のように「女・子供」優先である。が、もしノーベル賞級の学者が乗っていたら?とか、世界的な音楽家が乗っていたら?のように、現在才能がある人物を助けるべきだという議論が功利主義では成立するのではないか、それは人間の自然の感情と相反するという批判である。

 実はミルと伝統というテーマは、この場面で非常に面白い展開を見せる。ミルは「道徳や全ての行為に関して、全ての人は…自らの手によってではなく、伝統的警句といった形でそれまで蓄積された知恵によって、自らを導いているのである」という。ミルは一人一人が自分の行動の全てを予見することはできないということに同意する。上の例でいえば、誰がどのような才能を持っているのかということを予見することはできないし、現在の才能を優先して未来のありうべき才能をとるべきか悩むこともできない。なぜなら人間は未来の全てを予見することができないからだ。それは何も危機的状況だけではない。常日頃の日常的な行動であっても、人間は昔からの知恵に従って生きている。今では少なくなったかもしれないが、かつては天気予報ではなく夕焼け空によって明日の天気を占うのが普通だった(それにその頃の天気予報よりは、夕焼け予報の方がより確実だった)。西風が吹く時、南風が吹く時、残雪が馬の形を取る時…農事暦に残ることわざは先人が積み重ねてきた知恵であり、農業科学の情報よりも確かなものであったりする。こうした先人の知恵が行動として守られてきたものを「伝統」と呼ぶのであれば、ミルは伝統に対して敬意を払っていたといって良いし、こうした伝統がなければ、人々は将来に向けて実践的行動を積み重ねることができないと考えていたといっていい。

 ではなぜミル=反伝統という考え方が根付いたのだろうか。それはミルの時代にこうした伝統と人間の直観あるいは人間性(人間の中の自然 human nature)を無根拠に結びつけ、絶対視し、普遍的なもの不変のものと考える人たちが多かったからである。そしてこの議論は伝統によって人を拘束し、活動を妨げる方向へと進んでいく。「女性の隷従」でも繰り返し取り上げられているように、女性は「生まれつき」「自然に」感情的で、ひ弱く、飾りのついた可愛いものが好きで、論理的思考に耐えられないものだとされてしまうからである。

 例え伝統的とされているルールや習慣であっても、社会が、時代が変われば見直しが必要になる。そういう意味では道徳的伝統は常に議論に対して「開かれている」べきものなのである。

 では、いわゆる文化的伝統はどうなのだろう?時代とともに消えゆく身体技能、舞踏や信仰に伴う儀礼、しきたり…。残念ながらミルはこれらについて直接的に言及していない。またおそらく19世紀の西洋人として西洋至上主義的な見地を持っていただろうと思う。インドのダウリーとか、夫が死ぬと妻も殺される習慣などには強く批判しただろう。が、各地の固有の文化に対してそれを拘束的と見るか、自由の表現と見るかは、見る立場によって相当異なってしまう。ユダくんが原稿に書いていたように「安全の見地から顔を隠すヴェールが禁止された」と思ったら、同じく「安全の見地から顔を隠すようなマスクの着用が義務付けられる」ようなことが起こる時代に私たちは住んでいる。全ての相対的とみなすこと、全ての文化に価値があるとみなすことは簡単で容易だが、その一方で女子の陰唇切除のように命に関わる伝統習俗を継続させても良いのかという問題は残ってしまう。

 おそらく手がかりは「議論に対して開かれているか、どうか」にあると私は思う。伝統の保持や保存を言い立てる人の中には、伝統を維持する担い手に条件をつける人たちもいる(横綱は日本人でなくては)、伝統的価値がわかるのはその地に生まれた人だけだという人もいる(所詮外国人には日本の情緒はわからないと得意顔に)。けれど、実際には外にいるからこそ、その伝統の価値を高く認め、自らの生きる道にする人たちがいる。能楽の世界にも、歌舞伎の世界にも、日本国籍を持たない人たちが集まってくる。私と同じ謡の先生について習っている女性は、オーストラリア出身だ。だからいつも謡の章句には苦労している。でも好きだから数十年、習い続けている。彼女は謡の章句を易しい日本語にして欲しいとは微塵も思っていない(日本の教育では易しい日本語にしてしまうのだが)。能楽、歌舞伎、文楽、落語といった伝統芸能でも新作が取り入れられたりする(割と失敗するが)、昔に廃れた曲が復曲されたりもする。日本語が日本人のものだというのであれば、リービ英雄さんの日本語はどうなるのだろう(『我的日本語』は是非読んで欲しい)。

 音楽の世界では古い形式を外の国の人間が保持して、現地の人に大好評を得るということがよくある。例えば日本の東京スカパラダイスオーケストラは、本場ジャマイカで「こんなスカに忠実な古式ゆかしいスカバンドがいたんだ!!」と驚かれ、デキシーランドジャスではニューオリンズラスカルズが「こんなデキシーをやるのは俺とこと君ところだけだ」大御所ジョー・ルイスに認められている。日本でも本物の演歌歌手として人気を博していたジェロがいる。韓国のパンソリを、インドのシタールを受け継ぎ演奏する日本出身の音楽人がいる。現地ではどうしても時代の流れに押され、マイナーになってしまったり、それだけでは人気が出ないからと新しい分野と混在して行かざるを得ない文化的伝統であっても、外から見れば守るべき価値があるし、外だからこそ守っていける場合もある。

 伝統だからと細々と守り続けるイメージがあるが、実は外に向かって開かれているのが伝統なのかもしれない。何世代にもわたって受け継がれてきたからこそ、そこには時代を超える何かが存在しているのだろう。確かに権力者の恩寵のおかげもあるかもしれない。けれどそれでは説明できない何かがあるからこそ、風俗が変わっても残そうとする人がいるし、みたいという人、存続を望む人がいる。世代を超えて生き残る力があるのだとしたら、その伝統は国境という人がこの100年かそこら勝手に作った線引きを軽々と超える力があるのではないだろうか?  伝統は守り継がれるべきだ。ただし生きた伝統として、常に新しい血と新しい息吹に開かれることによって。ミルならそう言いそうな気がする(ちょっとひいきの引き倒しだが)。担い手が異なっても構わない、やり方が変わって行っても構わない。いやむしろそういう変化が伝統の中にある「守るべき中核」が何かを問い続ける原動力になるのではないか。そういう問いを受け付けず単に伝統だからとあぐらをかいて、偉そうな顔をしているのに限って、底の知れた浅薄な伝統だったりするのではないかと勘ぐっている。

道標として

松井 名津

 コロナ以来(AC)多くの人がなんとなく感じている。何かが進行中だと。学校で習う歴史は「後から見た」ものだから、変化の中にいた人はここが潮目だと思っていたに違いないと考えてしまう。けれど本当は今日に続く明日があって、でもその中にマダラに昨日と違う明日が確実に忍び込んでいるものなのだろう。そして当事者にとっても、ある日突然のように急速な変化が訪れる。不可逆的なものとして、誰の目にも見えるように。

 それまではなんとなく揺れ動いている。常識だと思っていることが、崩れるかもしれない…崩れないかもしれない。この生活が変わるかもしれない…変わらないかもしれない。崩れない方が、変わらないほうが楽だと思う人は多い。人間は過去から未来を推測するしかないから、できるだけ過去の経験が通用する方が、好ましいと思うものだ。しかし何かが進行中だという感覚が、多くの人に共有されてくると、人々は時に、自分は何を拠り所として生きるのかという問いを突きつけられる。問いに目を瞑ることもできるし、問われなかったふりをして生きていくこともできる。ただ、そこに問いがあることだけは確かだ。

 何を拠り所とするか。昔は簡単だったと詠嘆するものがいる。右肩上がりの経済成長の中で「明日はきっと今日よりも良くなる」が共通した拠り所だった。昭和の価値観が輝いて見えるのはきっとこの価値観をみんなが共有している心地よさがあるからなのだろう。過去を賛美するのが年長者であるとは限らない。意外に若者ほど「輝いていた過去」に弱かったりする。なぜなら今、未来とか将来に明るさー見通しの良さが感じられないからだ。過去を美化するの容易い。知らない世代から見れば、美化された過去が本当に存在していたと思えるから、光り輝いて見えるのも、過去が拠り所になる一因だろう。

 昭和が輝いて見える、明治維新が輝いて見える。それはこの日本特有の現象かもしれない。けれど世界的に見ても「先進国」にとって20世期は輝ける時代だったし、そうした過去への回顧が一定の訴求力を持つのは確かだろう(〜again!)。では先進国に全体にとって20世期に共通した拠り所が何だったのかといえば、おそらくそれは「科学」や人間の「理性」だったのだろうと思う。科学によって自然のもたらすあらゆる「害」(災害・病・不確実性)を乗り越えることができる。理性によって全ての問題を解決することができる(たとえ合理化が首切りの別称であったとしても)。この信仰(確かに理性や科学への信頼は「信仰」という言葉がふさわしい。実際、フランス革命の時に「理性」を崇拝する祭が行われたこともある)が揺さぶられ始めたのは、オイルショックであり、スリーマイル事故だったし、決定打はチェルノブイリや日本での大震災だっただろう。そしてこの時期に新興宗教が各地で勃興したのも、科学に対する反動だったのかもしれない。

 ところで、科学万能の時代といえばその始まりはミルが生きていた19世期半ばである。この時代はまだ科学は万能とはいえないが、科学的思考により世の中の全てを解き明かすことができるという期待を込めた熱意があった。ミル自身も科学的思考を推し進めてきた人物である。社会に関しても科学的分析と総合を目指して、新しい方法論を開発しようとしていた。それゆえ当時の人は彼のことを「理性の人」と呼んだわけである。そのミルが晩年宗教に関する論文を執筆し発表したのである。当然周囲の人は科学の立場に立って宗教を否定するものを期待した。しかしミルの発表した原稿はむしろ宗教を擁護する立場に立っていたのだから、周囲は愕然としたし、失望もした。なぜ「理性の人」ミルはあえて宗教を擁護したのだろうか。

 まず誤解されるといけないので、最初に言っておくが、ミルの宗教論は宗教家としてあるいは哲学者として宗教を考えるものではない。あくまでも「科学」の立場から宗教を論じる。さらにミルは現在が「宗教あるいは信じることが弱い時代」だから宗教を論じる時だと考えている。一つにはある宗教に対して熱狂的な感情(信仰)がないからこそ、宗教を冷静に論じることができるという点がある。しかしその一方、信仰を疑いながらも信じようとする人、神の存在を疑いながらも「それを公言すると世間に波を立ててしまう、下手をすると今の道徳を壊してしまうのではないか」と心配して沈黙を守る人等、現在の道徳を疑いながらもそれを公にすることができない人が増えているという理由からだ。ここでいうミルの科学には社会に関する、個人の行動に関する科学(それぞれ社会科学・道徳科学)が入る。とはいえミルは宗教を外から眺めて分析する(その社会においてある特定の宗教が信じられる要因は何か。ある特定の社会で宗教はどのよう
な社会的機能を果たしているのか)のではなく、宗教そのものが人間の行動に及ぼす効果とその有用性を科学的に分析しようとする。したがって彼の分析は宗教を科学の俎板にのせて、論理のメスで解剖するようなものだ。下手をすると死んだ魚を解剖して生きている生態を明らかにしようとするような馬鹿げた行為になりかねない。そして通常こうした分析からは「宗教は幻想である」という結論が出る。最初の「弱まっている」からというのも少し奇妙だ。宗教心が弱まって、世俗化しているのであれば、わざわざ宗教を取り上げなくても良さそうなものだからだ。

 けれどミルがこの時代、わざわざ宗教を解剖しようとしているのは、実は信仰という人間の行動を規制していた原理が弱まっているからこそなのである。なぜその規制原理にしたがっているのかよくわからないが、まぁとりあえずしたがっておくほうが無難だから。自分は信じてはいないのだけど、世間一般が信じていることをこと荒立てて批判すると、信じている人まで混乱に追い込み、モラルが崩壊するのではないか。それは自分の望むことではないから黙っていよう。こうした意識が蔓延する時、人々の行為を内側から規制する原理はその力を喪い形骸化する。代替できる原理がないまま、人々はなんとなく従うが、もし誰かが「そんなもの建前だろ!本音で行こうや」「みんな内心はそんな綺麗なおままごと、信じてへんやん。頭、お花畑のめでたい奴だけやで」などという声が挙がれば、行動原理そのものが崩壊する危険性がある。そうミルは考えている。だからこそ、宗教をきちんと分析し、その有用性がどこにあるのか、それは代替可能なのかを検討する。そうして出てきたのが、彼自身の宗教である「人間性の宗教」である。

 ちょっと話を急ぎすぎた。まずはミルの議論を紹介しよう。ミルは宗教、あるいは神という概念が続いているのは、人間が持つ不可思議への畏怖と、それゆえの好奇心と想像心ゆえだとする。科学が進み、人間の知識が進んでも、世界は不可思議と神秘に満ちている。だからこそ、その不可思議を畏怖し、同時にそれを知りたいと思い、想像力を膨らませる。それは人間が何処かに向かって変化し続けるための原動力の一つでもある。その一方宗教には人々の行為を規制する役割、世俗的な意味での(とミルはいう)道徳の役割を持っている。ではこの役割は宗教と切り離すことのできないものだろうか。ミルはあっさりと否定する。人が既存の道徳律に従うのは1)権威の力2)初期教育による刷り込み3)世論の意見によるところが大きい。特に三番目の世論、周囲の人間が自分の行動をどのように評価するかによって、人は自分の行為を断念したり、実行したりする(ということで実例として挙がっているのが男女の不貞行為の差だ。一般に男性の不貞行為は容認されるので、男性の不貞行為は多い。これに対して女性の不貞行為は厳しい世間の制裁があるので、女性の不貞行為はほとんどない。という分析である。現代ではどうなのだろう)。

 ということで、宗教に含まれる不可思議への畏怖等は人間の自然な性向へ、一般的な道徳律の提供は宗教なしでも大丈夫となると、宗教の役割は消えるのだろうか。

 ミルは否という。宗教にはこれら二つを超えたもっと大きな役割がある。それはある人を「より高潔な」人になろうとする動因を作ること、社会的教師としての宗教である。そしてこれこそが宗教の本質だとする。少し長くなるが本人の言葉を引用しよう。「最高の卓越性として認識され、あらゆる利己的な欲望の対象を正当に凌駕する理想的な対象に、感情と欲望を強く真摯に向けること」が宗教の本質なのだ。なんだかわかったようなわからないような言葉なので、いらざるお世話かもしれないが、少し解説を。「個人の人生は短くとも、人間という種の生命は短くない」けれど自分が目指すところを、今の人、今の時代が受け入れてくれるとは限らない。永遠に認めてもらえず、永遠に異端者であるかもしれない。自分一人を考えるならば、この世を改革することはできないかもしれない。自分一人が目覚めていても、他が眠っているのであれば、自分もまた眠っていた方が良いかもしれない。一生かけて実現することができない理想を、誰も引き継いでくれないのではないか。大きく考えればこういうことになる。小さく考えれば「自分がこの世に残したいと思っている思いを誰が受け継いでくれるのだろうか」「私が存在したということは、数十年もすれば忘れられてしまうに違いない」ならば、なぜ今頑張らなくてはならないのか。なぜ世間に合わせてもっと楽な生き方ができないのか。そう思った時、あるいはそう思わざるを得ない状況に至った時、自分が認めてやまない、尊敬できる人が自分をきっと認めてくれるに違いないという思いに支えられたことがないだろうか。それは亡くなった親かもしれない。何十年と合わないかつての友人かもしれない。でもその人がいるから、その人がきっと認めてくれるから、そう思える人たち。架空の人物でもいい。そういう人によって「いいよ」と認められ受け入れられること。これが、人間がその時代、その社会の凡庸な基準からはみ出て、何か自分が目指す高みに向けて歩む動因になる。それこそが宗教なのだ、他に宗教にどのような役割があるというのだとミルはいう。

 そしてこういう理想のモデルに絶対的な存在、人間の能力の及ばない全知全能の存在を置くことは、かえって人々の多様な試みを型に嵌める結果になるという。ミルは明らかにキリスト教を念頭に置いて話をしている。たった一人の神が全知全能であり、その神に認められるかどうかが全てを左右しているのだとしたら、この世で頑張る必要などどこにあるだろう。いずれは神が全てを「よし」とされるのであれば、この世の悪と戦う必要がどこにあるだろう。全ての敬虔な人が救われるのだとしたら、この世で彼らを救う理由がどこにあるのだろう。一神教にはこの罠があるという。それよりも善を求めていても、その善を地上に行き渡らせるだけの力を持っていない神。人の手を必要とする神。ようはこれまで人々が崇め続けてきた人々(イエスであれ、ムハンマドであれ、ツァラストラ、ブッダ、ソクラテス等)と同じ戦列にいるのだという思いの方が、人をより高みへと導くのに適しているのではないか。そう。これがミルのいう「人間性の宗教」である。

 パンデミックの中でこの先を考える時、暗闇しか見えない人もいると思う。でも誰かが見ていると思うこと、誰かが背中を押してくれていると思うことで、一歩踏み出すことができるのではないだろうか。それは万能の神よりも、親しい人間からの方が暖かい気がするのは、多神教の世界に生きているからかもしれないが。

遠隔講義の罪と罰

 ちょっとキザなタイトルをつけてしまって、些か照れくさい。とはいえラスコーリニコフがそうだったように、遠隔で講義をやると独善的になる。つまらなそうな顔をしながら座っている学生、後ろの方でコソコソと友達と話す学生、ごそごぞ内職する学生、スマホを眺めている・ゲームしている学生等々。この姿を目にせずに済む。

 私はzoomでライブ配信しているので、画面の片隅にチャットを表示しているのだが、このチャットで質問する学生が結構いる。通常の講義だと講義中に質問する学生は0。講義後に質問に来る学生は半期で延1〜2人。講義中に「ちょっと早すぎる」なんていう指摘も入るから、それに応じて「じゃ、ちょっと前に戻ってゆっくり目に」とスピードを落としたりできる。中には「〜のスライドをもう一度お願いします」とか「〜は…ということであっていますか?」なんて質問が来るから、ちょっといい気になる。元々心療内科の主治医から「あなたは学生の反応を気にしすぎる。それがストレスになっています」と言われているぐらいだから、無視したい学生を無視することができ、熱心な学生だけを受け付けることができる遠隔講義は、いつもの講義に比べると楽だ。

 ただ、遠隔講義は証拠が残る。それだけに事務側は「文科省のお達し」に神経質になっている。例えばライブ配信ではなく、オンデマンド型にした場合、文科省は「質疑応答に十分な時間をとること」と一言付け加えている。で、どうすれば質疑応答に十分な時間をとったことになるのか、その条件が全く示されていない(ナンダカ緊急事態宣言みたいだが)。そこで「講義時間中は学生の質問に備えてパソコンの前で待機しておく」必要があるのだそうだ(もちろん質問が0であったとしても)。学生にも「質問は講義時間中にメールで行うこと」というお達しが出ている。これってオンデマンド型なのだろうか?と思うのだが、「質疑応答に十分な時間」をとったかどうかを確証する他に良い手立てがないかららしい。また、ライブ型(同時双方向型)でもオンデマンド型でも「十分な学習時間の確保」が求められているから、いきおいネット上に多数の課題や宿題がわんさと掲載されることになる。まぁ教員なら誰しも「この本ぐらいは読んでほしい」というのが10冊くらいあるだろうから、学生にとっては地獄のようになっているだろうと拝察する。で、私はというと学生が本を短期間に読むとは期待していないから、復習・予習の小テストを作って誤魔化している。とりあえず理解度を確認できればいいぐらいのつもりでしかないし、世界史の知識を補って貰えば良いというつもりなので、難しい問題ではないと思ってはいるのだが…。

 さて、今のところ遠隔講義に関しては、小テストと講義のスライドの準備を早め早めに行うことで、対処ができている。小テストは自学自習だから成績に反映しないと3回ぐらいアナウンスしても、まだ聞いてくる学生がいるのはいつものことなので、気にならない。元々200〜300人の講義だから、よっぽどのことがない限り学生の名前と顔が一致することはないので、これも気にならない。唯一独善の罰として想定できるのは(最終試験等での不出来を除いて)学生を大学生ではなく高校生や中学生と同じ扱いをしてしまうことだ。

 お互い声だけが頼り(まぁ画面はあるけれど)なので、説明は丁寧になる。小テストを論述にするととても採点できないから、○×や多肢選択、ランダム配列といった規定の方法に従うことになる。学生は高校までと同じく「正答」がある問題に慣れ親しむことになる。それを避けたいために、5年ほど前から学生のレポートはピアレビューにしている。学生が他の学生のレポートを一定の基準に沿って評価するという方法だ。実はこれは私自身がムークと呼ばれるネット上で配信される大学の講義を受けた経験から行ったものだ。結構背景が違う学生同士が採点するためなのか、自我が強いからなのか、評価もコメントもバラバラだったし、私がコメントをつけたレポートもいろんな切り口があった。ただ日本人が行うと「予想した範囲に入る、同じようなレポート」を評価するようになる。学生同士がこれならば大丈夫だろうという答え方しかしないようになるのだ。それでもまだ、模範答案を見せるよりはマシかと思って実行している(実は論述やレポートに際しても、模範答案を用意し公開するようにというのが文科省の方針だ)。ということで、学生は高校までと同じく「正解」を狙ったレポートを多数だしてくる。私としてはせいぜい評価の項目に「感想になっている場合は評価点を下げること」「感想というのは『〜だと思う』や『社会(or問題)が〜となっていくことを望みます』というものです。論述は自分の意見を書くものなので、こうした表現が出てきたら評価点を下げてください」というような注意書きを入れるではいるのだが。

 どうも遠隔講義というのは、今まで以上に金太郎飴的学生を生み出すのではないかという予想を持っていて、これは遠隔講義という手段が教員を独善的にする一方、ネットでの一律採点が正答を予想する学生を許してしまうことからくる罰だろう。

 さて、ゼミとなると話は逆だ。私の大学では専門ゼミは2年生後半から始まる。前期の今、私が指導している2年生は、私のゼミに来るかもしれないし、来ないかもしれない学生たちだ(まぁほとんどが来ない)。最初の1回目は双方向ともビデオをオンにしたが、これは結構耐え難い。何しろ相手の顔が、30センチそこそこのところにいつもあるわけだ。どう視線を保てばいいのか、全員がなんとなく気まずいまま終わってしまった。2回目からは課題をめぐって、相互に匿名で投票し、最終的に残った2つのレポートを選んだ理由を一人一人説明してもらうことにした。こちらは、通常のゼミより声がはっきり聞こえるし、照れ臭くもないようだ(画面はオフである)。ただ、後から「自分が送ったファイルの原本と先生がまとめて一覧にしたファイルの中にある自分の文章が異なっている」というメールがきた。内容が違っているというのではない。ワードが勝手につける校正しましょう赤波線が付いているというのと、フォントが異なっているというものだった。しばし????となったのだが、どうもその学生にとっては、自分が送ったものと全く同じものが一覧ファイルでも再現されるのが「正しい」こと(機能が真っ当に動いていること)らしい。

 自分が送ったものがそのまま相手の画面に表示されるのが当然、自分が送ったものは即時に相手に届いていて当然というのが、どうやらこの頃の風潮らしい。2年生後期からのゼミ募集に応募してきた学生は1時間の間に5回「届いていますか」と確認メールを送信してきた。もしかすると「既読」がつかないから心配なのかもしれない。かと思えば、募集要項に書かれている必要書類を全く無視して、応募用紙のみを送信して終わりという学生もいる。どうもネットに対する対峙の仕方が極端に違う感じがするのだ。いや、表現は極端に離れているが、根っこは同じなのかもしれない。自分が送ったものは、相手にそのまま届く。自分が送ったものは正しいはず(なぜならきちんと送信されたから)。

 3年生になると、半年の付き合いがあるから、声だけでもなんとかなってはいる。とはいえグループ活動のためにスラックを導入した。スラックでグループごとにチャットで相談してもらおうというわけだ。ゼミの時間中は私はグループチャットに口出しをしないし、見にも行かないようにしている。それでも嫌なのか、ラインチャットに切り替えるグループもある。結果がきちんと出ればいいのだが、そこが怪しいということを、この半年でこちらは学んだので、ちょくちょく尻を叩くつもりでスラックにしたのだが、ちょっと当てが外れている。もっともスラックでチャットしているグループを見ていると、ああ、なるほどね…言葉で分かった気になってるねというのがよくわかる。例えばコロナ騒ぎと何かを組み合わせてテーマにする場合。「やっぱ経済に絡めないといけないっしょ」「何がいいかね〜」としばらく続いて「俺ら、やりやすいのやっぱ観光じゃね」「あ、それそれ、それでいいんじゃない」で終わる。いや、そっから先が詰めどころでしょうなんだけど、そこはそれ漠然としたイメージで話が終わっているのが明確になるだけでも、遠隔講義はめっけものではある。  正直まだ始めて1ヶ月が経っていない。これから問題点がもっと出てくるのだと思う。だけどこれだけははっきり言える。言葉の不在が明確に問題化するだろうということだ。言葉でしかコミュニケーションできない中で、以前と同じ感覚で言葉を使っている今の段階を、どこかで突破しない限り、遠隔講義は時間が過ぎるだけ、情報を伝えるだけの装置になるだろう。そしてそちらに向かう可能性の方が非常に高いと私は考えている。

コミュニケーション?ミスコミュニケーション?

 人間のコミュニケーション全体に言葉が占める割合は、よくて1割だといわれる。けれどスカイプミーティングやズームを使った遠隔講義を担当していると、言葉をどううまく使うかという点に注意が向かわざるを得ない。読者の中にもネット会議システムのもどかしさを感じる人もおおいだろう。逆に音声と画像それにチャットと3つのチャンネルを同時に使用できることに可能性を感じている人もいるだろう。今回はこの言葉を使ったコミュニケーションに関して、少しミルをガイド役にして考えてみたい。

 ミルには『論理学体系』という大著がある。彼自身、自分の著作の中で後世まで残ると擦ればこの著作だろうと自負していたものである。けれど論理学の世界では古色蒼然、時代遅れの代物となって、顧みられることはない。しかし私はこの本は現代的な「論理学」の本というよりも、副題にあるように「推論と帰納」という人間が自分の考え方を整理し、展開していくための方法を書いたものだと思っている。で、それがなぜコミュニケーションの話になるかというと、人間はただ一人で推論を展開したり、帰納から結果を導き出しているわけではないからだ。自分の経験と他者の経験を照らし合わせたり、賛同を求めたり…と他者のコミュニケーションは自らの生命維持のための情報収集にも不可欠である。なので、この本は考え方の整理方法であるとともに、コミュニケーションのあり方、より良い意思疎通を図るための書物としても読めると考えている。

 さて前置きはこれくらいにして、ミルが人間のコミュニケーションをどう論じているのか、早速みていくことにしよう。まず第一に注意が必要なのが、人間が相互に完全に理解し合うことはないというのが大前提である点だ。どんなに愛し合う男女であろうと、親子であろうと、自分の痛みや感情は自分自身のものであり、他の人間が感じることはない。だから完全な理解は存在しない。人間は人間同士互いに決して理解し得ないという前提に立って、コミュニケーションを行う。これが基本的な立場である。ようは人間のコミュニケーションはミスコミュニケーションの連続であるということだ。そして言葉はこの状態を改善する場合もあるし、より一層深刻にする場合もある厄介な道具として考えられている。例えば二人の人間がたまたま出会って「水牛」の話をする。ただし片一方はアメリカ国籍、片一方はフィリピン国籍だ。共通の言葉は英語なので二人ともbaffaloという言葉を使う。けれどアメリカ人の方は北米大陸にかつて生息していたアメリカンバイソンを思い浮かべ、かたやフィリピン人は今も田舎で農業に使われるカラバオを思い浮かべる。この二人が「baffaloは力が強いし、なんといっても迫力がある」というような会話をしているうちは、二人とも自分自身のbaffaloのイメージを相手も共有していると思っている。ところが、アメリカ人が「でももうこの頃は絶滅危惧種で保護区でしか見ることができない」と言い出したとしたら、フィリピン人は「?」になるだろう。カラバオはフィリピンの国を象徴する動物でもあるし、今でも農家の貴重な労働力なのだから、「保護区でしか見ることができない」なんてとんでもないになる。

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急進的保守主義

 日本語の間違い???と思った人は感性の鋭い人かも。この用語は一般的には流通していません。なぜなら矛盾したものを引っ付けているから。急進的といえば、革新とか革命とかとにかく今の体制を破壊しよう!となりますし、保守主義といえば、守旧といわれる如く存在するものを守ろうとなります。この言葉を英語に訳したとしても、ラディカル(=根本的に変革しよう)とコンザーバティブ(保存しよう)なので、これまた言語矛盾に陥ります。けれどこの言葉、私が大学時代にイギリスのある一派の別称として紹介された言葉なのです。その一派とは「哲学的急進派」。ベンサムとかミル親子が属していた政治的かつ哲学的一団です。

 背景をちょっと説明しましょう。1688年にカソリックの王様を追い出して、その娘と娘婿を王位につけた出来事を名誉革命といいます。この名誉革命体制を正統として守り抜こうというのが、18世期から19世紀を通じてイギリスの保守主義の屋台骨になります。これに対して元の王政を正当とするのが、王党派(トーリー)です。保守主義である名誉体制派(ホィッグ)よりもさらに保守主義ともいえますが、一方で宗教的にはカソリックよりですし、元の王政を求めるわけですから、体制変革を求めるという意味では急進的ともいえます。この二派を中心として18世紀は動いていくのですが、その中から名誉革命体制が矛盾に満ちており、これを改革しなくてはいけないという一派が出てきます。アメリカ独立革命で有名になるトマス・ペイン等の急進派で、フランスで革命が起こるとこの動きを擁護します。これに対して従来の体制を擁護したのがバークで…。とここまではいいでしょうか。ちょっと図式化するとトーリー<ホィッグ<急進派となりますが、トーリーも急進派も体制変革を求める点では同一です。

 ところがフランス革命が急進化し、ルイ16世が処刑されるようになると、イギリス国内における急進派の勢力が衰え始めます(まぁそうですよね、王様がいますから)。その後ナポレオンが政権を握ると、イギリスは大陸封鎖の憂き目にあい、ナポレオンと徹底抗戦することになります。(大体イギリスがフランスを嫌うのは、ジャンヌダルクとナポレオンの為だとか)。ではナポレオン戦争が終了したら、体制は万々歳かというと、戦費の償還、大陸封鎖によって上昇していた穀物価格、貧民(単に貧しいだけでなく一ヶ所に定住しない人たち)問題と社会問題が山のように湧き出てきます。

 この状況の中で、名誉革命体制が不合理に満ちたものであり、理に適った政体に変化させるべきであると主張し始めたのが哲学的急進派です。しかしベンサムをはじめとして誰一人、王政を倒せとか、政府を打倒せよという主張は一切しません。政治改革や司法改革、それもダメなら言論を通じて選挙権者に訴える。フランス革命の主義主張が普遍的理性や自然法・自然権に基づいていたのに対し、哲学的急進派の思想は功利主義ですから、多くの幸福をもたらす政体であれば良いと考えます。フランス革命でも普通選挙による民主主義が唱えられましたが、それはあくまでも普遍的理性を持つ市民の権利としてでした(なのでこの市民に女性は入っていません。女性は理性を持たない存在とされていましたので)。一方功利主義はといえば、どのような支配体制であれ支配階級は自分の幸福を最大化すると考えます。ですからより多くの人の幸福を実現するためには、多くの人が支配階級となる(なれる可能性のある)民主主義が最も適切であろうと考えるわけです。なので多くの人が犠牲になるような暴力的手段は退けます。目的は手段を合理化しないのです。

 体制変革を求める急進主義ではありますが、革命ではなく漸進的手段を取り、体制内変革もしくは、議会外での活動や世論によって政治や体制を変革しようという点では保守的です。ということで、私の大学時代の教員は「急進的保守主義」という変な用語を作ったわけです。

 ところでベンサムや父ミルの場合は民主主義が適切で良かったのですが、息子のミルの場合は民主主義の中身を問題とするようになります。普通選挙(息子のミルの場合は女性も含みますが)で民主主義的に選ばれた政府であったとしても、少数者を弾圧する(あるいは無視する)政府になり得ます。いやむしろ多数派が政権を取るシステムだけに、正面切っての弾圧ではなく無言の圧制になる可能性が高い。ミルの関心はここにあります。

 政治体制が変わっても人の心が変化しなかったとしたら…。どんな政治体制も経済のシステムも実際に動かしているのは抽象的な「体制」でも「市場」でもなく、一人一人の人間です。ミルが「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会主義を理想の体制と認めながら、果たしてその体制にふさわしい人間性を今の人間は有しているのかと危惧を突きつけたのも、この観点からです。人間性が変わるには一定の時間が必要です。政治体制が変わったから、社会経済の仕組みが変わったから、突如として人間性が変わるわけではない。先に変わらなくてはいけないのは、人間性そのものだ。だからこそ個人個人が、自分自身の中に存在する可能性を磨くために競争は必要なのだ。金銭をめぐる競争は醜い。けれど現実にこれが人を前へと駆動する力なのだとしたら、せめて金銭をめぐる競争の出発点は同じにすべきだ。ここからミルはラディカルな相続権の制限を主張します。そして面白いことに、遺産を残す権利は認めるのです。人間誰しも自分の子供の行く末は心配になるものだし、私有財産制だから自分の財産を自由に処分する権利は認める。ただし、相続する側の権利を一定限度(余裕を持って一生が暮らせるくらい)に制限するというわけです。ラディカルな割には、なんとも中途半端な感じがします。なんだか現実に譲歩している感じがあります。なので一般的にミルは「折衷主義」といわれるのですが…。でも私はこれを譲歩とは考えません。むしろ政府などの手によって全てが規制されるよりも、もっと厳しい仕組みを提唱しているのだと考えます。自分の子供に巨額の財産を残したとしても、子供の手に入るのは一定額だけ。だとしたら残余をどうすればいいだろう。子供たちが「あんなゴウツクバリな親の子供やから…」と後ろ指を刺されないようにするには。子孫が周囲から「あの人の子孫やから」と好意的に見てもらえるためには。自分の財産をどのように残すのが最も良い方法なのか。その問いをこの仕組みは突きつけていると考えるからです。ラディカルで保守的。折衷かもしれません。しかし人間は何かと何かの間で生きている存在なのではないかと思うのです。

 今、コロナウィルスをきっかけとした危機の中で、日本では政府から「新しい生活習慣」をといわれ、自宅での自粛生活が推奨されています。アジアの各国ではさらに厳しく「制御」されています。そんな中で私たちが目指すのは体制の変革でしょうか?経済の仕組みを変えることでしょうか?誰にも譲れない自分の生き方を探ることでしょうか?それとも…。選択肢は一人一人にあります。