継続が信頼を生む

CWB 奥谷京子

カンボジアに行くとどこにいても若者で溢れている。6月にはASEAN内のスポーツ祭典でホスト国になったカンボジアでは、あちこちでイベントが開かれ、その周辺はバイクで大混乱だった。コロナも落ち着き、徐々にいろんな活動が再開している。若者のやりたいことをチャレンジできる場を作れば、どんどん可能性が広がっていきそうなワクワク感を与えてくれる。

 週1回行われるカンボジア若者リーダー会議に、クイ族のリーダーであるミエン先生(地元で歴史を教えている)も参加するようになった。クイ族はカンボジア国内では少数民族で、その昔は製鉄の技術を持ち、アンコール王朝で有名な建物に多く使われた。そして1000年以上、森を活かした生活をベースにしてきたが、ここ最近のプランテーション開発でその森も減り、焼き畑農業といった伝統も失われつつある。生活の基盤が根っこから奪われ、近くのゴム工場に出稼ぎに行くしかなくなり、独自の文化は消えようとしていた。いくつもの世界中のNGOが地元に入って支援プログラムや資金を提供してきたが、2年か3年と決められた期間が終わるとさっさと引き上げてしまうので、地元のためなのか、NGOの報告書作りのためなのかクイの人々は懐疑的で有難迷惑になってしまったという。そこで世界中の数々の支援団体の中から私たちCWBを選んで組織も一体としてやることを決めたのは7年間、CWBが逃げずに地域に根差した活動をしている実績からだという。ミエン先生をコミュニティリーダーとして、その下に若者で4つの部門を作った。ツーリズム、伝統ダンス、そして二つの仕事作りチームだ。CWBメンバーがコオロギの飼育の方法を教えて実際に2組の家族がそれで仕事を始め、うまく回りだして出稼ぎに行く必要がなくなった。もうひとつの鶏ビジネスでは鶏小屋を一緒に汗して創る。メンバーは30人を超える。他のクイの村からも参加したいと言ってきているが、と相談があった。CWBとしてはまず、ミエン先生の村で成功事例を作ってからが良いだろう、とアドバイスした。平均年齢は20歳前のティーンエイジャーだ。輝く目とほとばしるエネルギーは無尽蔵なのだ。日本人である自分からはうらやましい限りだが、この「アジアの若者と日本人は連携して学び働く」が解だと気付いた。このクイの村に今年、大学1年生の後藤薫平君と、楠の榎本愛子さんが訪問する。こうして互いに一歩踏み込んだ結果、週一会議にクイチームも参加することになった。これまで築き上げてきた信頼の賜物だ。

ここでの支援も日本人が中心ではない。50ヘクタールの畑を運営するSCYの若者、学校を拠点にITなどを学んだ学生。この50人が学んだことを次に継承することができるようになったのだ。その実績から国連のユネスコから、世界遺産・サンボープレイクックにも若者活動が期待され予算が付き、新しいプロジェクトも委託された。そこでは学生による清掃作業が始まっていたのだが、さらにリサイクルの理念の元、サンボープレイクック周辺のレストランから出た残渣をエサにしてBlack Soldiers Flyと呼ばれるハエの幼虫を飼育し、それを周辺で鶏を飼う農家へ安いエサとして提供し、高価な飼料を買わずに地域内で循環させようというのを若者チームは始めた。その幼虫を飼育できる建物が自前で完成し環境が整ったのだが、地元で食べ残しの分別が思うように進んでいないので、幼虫を飼育するエサが足りないという壁にぶつかっている。しかし、分別の仕方を親など周りの大人たちに教えるようになり、若い人たちから親世代への意識改革も同時に始まっている。分別という面倒な新しい習慣を地域に持ち込むのは確かに大変だ。しかし、においも気になる邪魔者のゴミが鶏のエサとなる宝を生み出し、コンポストまで作れることが徐々に浸透していけば地域内循環が始まる。世代を超えた教育の実践だ。  その種の予算と言えば2年~3年の期間で終わるのが一般的だ。長期にわたると癒着や依存が起こるからということだろうか、お金を出す側の理由でどこも均一的に区切るのが実情だ。そしてある一定の成果を上げなければならないので無理やりにでもプロジェクトを起こして去っていく。その間、本部からやって来て事情も分からず指示し自発を阻害する。期間を経て書かれた報告書は上から目線の言い訳的になることも多い。本来であればその地域が本当に必要とすることをその人たち自身の手でできるように長い歳月をかけて取り組んで報告してこそ当たり前のことだが。CWBカンボジアは国連やヨーロッパの財団から支援を受けているが、その下請けではない。彼らもスマートになりつつある。国境を越えて人材が、技術交流で協力しているので、それら団体より私たちの視野が広く深く長い。まさに未来学者のダニエル・ベルが看破した「世界の問題を解決するのに国家は小さすぎ、コミュニティの課題をきめ細かく実践するには大きすぎる」のだ。もうそろそろ、日本のこういう国際貢献は大きく見直す時期だろう。お金を出す側の都合から、コミュニティが自立し本当に喜ぶことへとパラダイムシフトができず、お節介・押し付けがマイノリティの人たちに続く限りは世界に新しい変化を起こすことは難しい。そこに今、私たちは気づけてよかった。若い人を中心にコミュニティで活動を継続し、信頼を築く、これが私たちCWBの国境を越えた活動のミッションであり、時代の先端にいることを実感する日々だ。日本人が世界で認められる道は「相手のために働く」人材育成だ。そういう場を作る、それを競創と名付けた。CWBはその先進事例を作り、世界に広げる。限界性ばかりを言う日本に、リアルな可能性を汗しアジアと連携し作り示す。日本との交流だけでなく、ASEAN・インド圏も含む。CWBは合わせて25人の国境を越えた派遣を年内にする。シビル読者の皆さんにはお金よりも技術や知恵での助力をお願いしたい。

カンボジアが雇用 50 人の組織に変わる  私も変わる

CWB     奥谷京子

「働き学ぶ」をコンセプトにしていたプーンアジ・アジア村。今年度、手取り足取りだった幼稚園状態か ら、創造的な競争にステップアップすべく、カンボジ アの首都・プノンペンンで起業ビル・チュナイマーケ ットをプーンアジ卒業生で始めた。しかし、甘やかし てきた体質は抜けず、停滞している。私も日本がベー スになって、日々の現地の動きが見えないし、苛立ち ばかりが募るが、圧倒的コミュニケーション不足であ ることは承知していた。

今回訪問して、大きく再編することになった。みん なが仲良く暮らす寄宿舎ではなくて、自立に向けて本気で動こうとする若者だけが残る場所でよいという、 大胆な方針の切り替えだ。

さもなくば、単に都市部の学校を卒業するためだけ の伝統ダンスの育成所だけになってしまう。ここで汗し学びコミュニティ意識を育成するという目的には 当てはまらない、と。近くに働く場所もないし、外に 働きに出かけられない地域のお母さんたち、あるいは自分たちの文化を守ろうとしているクイ民族の地域の人々のほうが仕事を作り出すことを渇望している。 その足を引っ張ることになりかねないと言う危機感だ。

そこで私は何ができるか、デン君と話した時に必要なのはいろんな知恵や新しい価値の作り方の技術だ、 と。今後会計などのバックヤードと共に、現場でさらに加工、IT、農などで起業に向けた取り組みを一緒にしていくことだ。今までの関わりは部分でしかなく、 あくまでも脇役に過ぎないことも感じていた。

お金に関して会計ももちろん必要でもあるが、特に ヨーロッパが熱心なのはそういうコミュニティ開発 のためにお金を出すという NGO がいくらでもあるこ ともいまさらながらわかった。確かにこの 10 年、私 もアジアに軸足を置いてから、こんな村でもインドネ シア語を話すドイツ人がいるのかなど、いろんな小さ なところにもヨーロッパの人々は入り込んでいる。もちろん布教のための人もいるが、それだけではない。 そして地元の賢い若きコミュニティリーダーを単に お金漬けにするのでは彼らを自立から遠ざけるのと 同じだ。やはり自分たちの力でビジネスにしていける 事例を日本ではやってきた。その販路ももっているこ と、それが私たちのできることなのだと実感した。

これからのアジアでの新しいステージでは日本へ 売ることだけを見ていない。詳しくは次号に紹介する ことになるが、国内、ASEAN 内、ヨーロッパ、日本も 可能性があればどこにでもという形で進めていくこ とになる。奇しくも 5 月は日本でサミットがあったが、 国単位であちこちに援助の約束をすることが国際貢 献ではないことはみんな承知している。日本人一人ひ とりがどこで貢献できるのか、これを改めて突き付けられた。私も変わる。

文化・コミュニティを発信、Pteah Chas 1957がオープン!

CWBカンボジア 奥谷 京子

 昨年12月、プノンペンへ準備のために入って事務所としてオープンさせるために必要なものを買い揃えたりしたのですが、その後入口もガラス扉だったものを全面的に変えて素敵な場所へと生まれ変わりました。今年2月4日にオープンして以来、私も初めて訪れたわけですが、空港からトゥクトゥクで店に向かって通り過ぎるくらいおしゃれになっていました。

 昨年9月にソペアックさんと出会い、このビルを借りることを決めてから、プーンアジの3人生徒(ティー・スレイリャック・若ソペアック)が専門学校・高校を卒業して、その後プノンペンのカレッジでさらにITやデザインのスキルを磨きながらお店を運営して自立していくことになりました。

 しかし彼らは田舎出身の10代の若者で、唯一スレイリャックは実家で売店をやっているのでお商売に接したことがある程度で、ずぶの素人もいいところ。試作をして原価計算をすることなどもやったことがない中でちょうどミャンマーのスーがカンボジアに来てくれたので直接教えてくれて助かりました。

 地域のいいものを仕入れて都会に売ると言っても何がいいのか、そこも遠隔で日本から中原さんが全面的にサポートに入り、また現場ではソペアックさんがブランドづくりや内装、そして入居者のアレンジなども手配をしてくれました。Pteah Chas(プテアチャ)とは古きよき家という意味で、通りを挟んで向かいにあるソペアックさんが最初に始めたビルも1Fが園芸店、2F・3Fはスタートアップのグループ(縫製、野外活動のNGO、下着づくり、デザインなど)が入居し、吹き抜けの階段を上がった3Fには素敵なカフェ、4Fには展覧会ができるスペースもあり、いつも外国人でにぎわっています。そことうまく連携できるような形でこのビルも始まりました。

 1F手前はChnai Market(チュナイ・マーケット)です。ネーミングはいろいろと案を出して最終的にクメール語になりました。Chnaiとは“原石、よいもの”という意味です。ここでいいものを発掘してほしいという現在は半分の壁は地元でコミュニティのために熱心に活動するアーティストの作品が飾られ、さらには環境にやさしい商品を集めたZerow、女性が作っている編みぐるみ、そして我々の活動拠点であるコンポントム州で作られた手工芸品やカシューナッツ商品、さらには赤米などが売られています。

 また現在人気なのはスレイリャックがスーと1月から試作して準備していたベアマフィンとカシューナッツを使ったクッキー。そして先日、日本の大学生がプーンアジ訪問の翌日に来てくれた時にカシューナッツシェイクを提供しましたが、とても美味しい!と喜んでくれました。カシューナッツの産地、生産者だからこそできることが私たちの強みではないかと自信を付けました。

 現在3人が役割分担をしてこのお店番を担っており、LoyverseというPOSレジのシステムを導入しました。これによって日々いくら売り上げたのかを日本からでも毎日チェックすることができています。

 まだお店の中が閑散としており、ほしいと思う商品の選択肢を増やしていかなければいけないのが課題です。そしてカシューナッツシェイクやバターサンドなどがあるということも目立たなかったので、もっとアピールする必要もあります。私にいた数時間でも外国人のお客さんが何組か見に来てくれましたので、英語でもっと会話ができるように努力が必要です。

 まさにお店の運営というのは“働きながら学ぶ”を実践した場所だなと実感します。また、1F奥は4月初旬に若者向けの小説などを多く取り扱う本屋さん“Somnae Store”がオープンし、初日に250人の若者が集まったそうです。

 そして螺旋階段を上がっていくと、2Fは会員制のコワーキングスペースがまもなく始まります。すでにみんなで壁塗りまでは終わっており、あとは什器などを揃えれば始められる状態です。奥には予約制で会議やワークショップができるような場所もあり、仕事を始めたばかりの人たち、またそういう人たちに刺激を受けたい地元の大学生たち、世界を旅しながらホテル以外で仕事ができる場所が欲しい外国人向けにはよいのではないかと思います。

 3Fの手前にある部屋はカンボジアに長らく住んでいるエリックさんという年配のアメリカ人が借りており、ここで週1程度ですが絵画教室を地元のアートを目指す若者向けに開いています。たくさんのイーゼルが立てかけられています。また奥はダイニングスペースにする予定で、2Fのスペース利用者がちょっと休憩でそこでお茶をいれて飲んだり、お湯を沸かしてカップ麺などが作れるような場所を用意しようと準備を進めています。

 さらに屋上はオープンスペースになっていますが、いずれお隣の歯医者さん&大家さんにも協力を要請してエリアを拡大して、ここでクメール舞踊など様々なジャンルのパフォーマンスを披露できる屋外エリアにしていきたいと話しています。この辺りはいわゆる下町で、このビルも1957年に建てられています。日本人にも人気なBKKといった開発地区には20階以上の建物が林立していますが、ここは屋上に出ると邪魔する建物がなくて空が自分のものになった気分になります。ここを使わない手はありません。  街中で始まり、いよいよ田舎と結ぶ実験が始まりました。プノンペンもだいぶ観光客が戻ってきています。この人たちがまた興味をもってコンポントムまで足を運ぶ、その流れを作っていきたいと思います。

お母さんパワーでカシューの生産力増強

CWBカンボジア 奥谷京子

 今回カンボジアで最初に訪問したのは私たちの畑のあるSCYだった。SCYとはSambor Community Youthの略で、サンボーという地区で若い人たちが農の仕事を行っていけるようにということで始まった活動で、現在はカシューナッツの栽培、牛を飼い、さらに太陽光発電を使って鶏の孵化をさせて育てるなど、様々な活動を行っている。

 私が訪問した3月はじめ、2023年のカシューナッツの収穫が始まっていた。みんなで熟れたアップルから固い殻に覆われた実を一つ一つとっていく。それをよく乾燥させて、1年分の製造のためにストックしていく一大仕事だ。その後どうやってあの乳白色のカシューナッツが日本に届くのかは以前にも紹介したことがあるが、殻割、薄皮剥きなど様々な工程を経る。これまでカンボジアのカシューナッツはインドやベトナムなどに持っていかれ、そこで一斉に機械で全工程を効率よく加工し、輸出している。しかし、私たちはカシューナッツの収穫できるその地域で加工をすることで仕事が生まれるので非効率ながらも地域でやることを敢えて選んでいる。

 外側の固い殻割りは生徒たちの出身の村のお母さんたちにお願いしており、1か所から2か所に増えている。薄皮剥きはプーンアジとSCYの生徒の仕事として役割分担をしている。しかし、このところ生徒たちも地域にダンスをしに行ったり、村にパソコンを教えに行ったりと何かと忙しいことが多く、思うように進まない。しかし、日本との輸出の約束は年々増えているのでここをどうするかは気にかかるところだった。

 そんな時に、SCYのメンバーのモニ君の出身の村で薄皮剥きの仕事ができないだろうかという提案を受けた。モニ君は3人兄妹の長男で、2年前にお父さんを亡くし、家のお米を育てながら、妹たちを支えなければならない。また、このエリアは典型的なカンボジアの田舎で、お母さんも家に鶏やアヒルもいるし、周りに何か働きに行くようなところもない(コンポントムの街中でもせいぜい役所、ホテル、銀行くらいだろうか)。家でできる仕事を必要としている場所なのだ。今回、どういうところでやっているのかを是非観に行きたいとリクエストして、モニ君に連れて行ってもらった。SCYからの道すがら、一歩道を入ると辺り一帯稲作をやる場所が広がる。乾季だったので水が干上がって5月の終わりごろの雨季に入るまではお米の仕事もお休みのようだが、大雨が続くと近くのセン川も氾濫して辺り一面湖のようになり、モニ君の家に行くのもボートを使わないといけないくらいだそうだ。このバイクで通った道がすべて水の中というのは驚きだ。

 おうちにはバナナやマンゴーなどいろんな果樹もあり、旦那さんが亡くなっても底抜けに明るいお母さんが迎えてくれた。ここでやっているんですよと、家の中にも案内してくれましたが、こぎれいにしていて、近所の人たちが6人くらい集まり、自分たちの生活のペースに合わせて、時には子どもたちを寝かしつけてから始めて夜22時ごろまでやることもあるという。50キロほどのカシューナッツの薄皮剥きをプーンアジの生徒は1週間かけて行うのだが、わずか3日で終えてしまうほどやる気満々だ。今年の収穫を乾燥させて、いつから始まりますか?と質問をもらった。お金が手に入ると、食費や子供の教育などにお金が使えるというのでお母さんたちはとても熱心だ。またCWBカンボジアは去年以上の量のカシューナッツを日本に輸出できる契約を結ぶことができそうだ。こんな心強いコミュニティのお母さんたちの力を得て、私たちはカンボジアで活動する。

人のつながりと自分が貢献できること

CWBカンボジア 奥谷 京子

 数か月ぶりのカンボジアだったが、今回はその中でも楽しみの1つはカンボジア唯一の少数民族と言われるクイのコミュニティを訪問したことだ。口伝で高度な製鉄方法を信頼のおける人にのみ受け継がれたという歴史があり(しかし、残念ながら第二次世界大戦の頃に安い鉄が手に入ってから伝承も消え、今はもう誰もできないという)、さらには焼き畑をして森を移住しながら生活をしていて、森にある自然の恵みや日本でいう伝統野菜のような地元にしかない種を繋いできて、プラスティックを使わずに自分たちでかごを編んだりしているという話を聞いており、とても興味があった。

 実はこのコミュニティで無農薬、無化学肥料で栽培するカシューナッツ農家からも仕入れて我々は加工して日本に輸出している。実際どういう人たちが携わっているかを見に行くのも今回のミッションだった。

 噂に聞くクイの人々に勝手に “森の民”のイメージを持っていた。しかし、実際は普通に国道沿いに建つ高床式の家に住んでおり、若いリーダーたちは本当に子育てにも熱心な20~30代の男性たちで、服装も普通。これは大いなる勘違い。

 そしてここにも現代の生活の波は押し寄せている。さすがにプラスティックがゼロではなかった。しかし、伝統的な暮らしを守り続けていることは確かである。薪のコンロだったり、野菜などを混ぜる臼や棒はかなり年季が入っている。そして食材に関しても彼らは原種のトウガラシを庭で栽培しており、それを必要な分だけ使う。黒ゴマを炒って潰して塩と混ぜてゴマ塩を常備する。それをプロホックという魚の発酵食品に混ぜて、野菜のディップソースを作ったり、黒米を入れたモチモチのご飯に振りかけたりするのはまるでお赤飯のようだ。日本だとお菓子とかにも使うんだよというので、スマホでいくつか写真を見せたところ、へぇ~と興味津々。そこから日本との比較議論だ。私たちはコミュニティ全体で100人以上が集まり、建築祝いや結婚式なども祝う。都会だとうるさいと言われるけどカラオケも下手な人が歌ったらみんなで笑うだけだよと底抜けに明るい。日本もカンボジアも「ほら、もっと食べて。これも持って行って」と勧められ、田舎のお母さんは万国共通いいなぁとつくづく思う。

 この人たちともっと関係性を深めるためには、今度は私が何かを返さなければならないと直感的に思った。それこそデン君もこの地域によそ者を連れていく意味が出てくる。そこで、プーンアジに戻ってから生徒のいない午後の時間に試作に取り掛かった。黒ゴマクッキーは焼き上がりが若干固くなった印象はあるが、デン君も含めて試食してもらったら「今度カシューの買い付けに行った時にこれをコミュニティに持って行ったらきっと驚くよ」と言ってくれた。彼らとの関係性で何か前進できる材料の1つになるのであれば幸いだ。日本に持ち帰ったゴマでもいろいろ探ってみようと思う。

 今度はその試作のクッキーをプノンペンの新ビル事務所Chnai Market(挑戦市場)のスレイリャックに届け、カンボジアの都会の人たち向けに売れないかを考えようと思っている。やはりクッキーの固さや味にはもう少し工夫が必要そうだと彼女も感じたようだが、早速レシピは教えたので、自分で作ってみると言っていた。また、カシューバターを使ったクッキーも一度作ってみたいと新しい商品を作ることに意欲的だ。

こういう何かが始まる時に立ち会えるのは楽しい。カンボジア国内でも私たちは田舎のものを都会に紹介するというマーケットを広げる一歩が始まった。まだまだカンボジア人たちには値段が高いからと敬遠されることも多いようだが、プノンペンに住む外国人にじわじわと広がっているようだ。私たちには黒ゴマもカシューナッツも直接生産者とつながっているストーリーがある。どんな人が作っているか、カシューナッツのあの形にまでするのにどれだけの工程を経るのかを知っている。これは何よりの強みだと思う。上手にこういうものをアピールしながら広げられたらと思う。

もう1つの社会、メタバース

CWB 奥谷京子

 メタバースという言葉を聞いたことがあるでしょうか。VR(バーチャル・リアリティ) =仮想空間のこと?すでに10代は使っている子たちも増えてきています。どこにいても制約を受けない、翻訳を使えば世界中の子たちとも友達になれます。

 この30年くらいの情報通信は飛躍的に変わりました。最初はポケベル、その後ケータイ電話で絵文字つきのメールが送信で、きるようになり、さらに写真や動画・スタンプを送るようになりましたよね。自分のスマホから簡単にグループでもテレビ電話ができるようになりました。でもまだ絵と文字が主流(カンボジア人は書くのが面倒なので声を録音して送信していますが)。それが立体的な世界に飛び込み、自分が主人公で動く3D変わっていきます。今までは東京の一等地にスペースを持たないと商品の認知度が上がらないと思われていたものでも、誰もが面積を考えずにいろんなものを紹介できる。そしてこのコロナが後押しをして、現地に行けなくても体感できるのがより大事になってきました。仮想空間を飛び回り、運動し、現実世界で飛行機や車での移動が少なくなればガソリンも減り、自分自身の消費カロリーも節約する省エネモードになっていくのかも? !でもまったく誰とも接点を持たないのはやはりつらいので、現実世界の中でカフェに行ってお友達とおしゃべりは続くのでしょうか…。その辺りも私もまだわかりません。

 またインターネットの世界も同時に変化しています。普及が始まった頃はマスコミの媒体がオンラインになったという形で発信中心(パブリッシャー)なのがWEB1、そして現在のアマゾンのようにそのサイトにたくさんお屈を集めて集客をして商品を提供するプラットフォームをイ乍るのがWEB2、そしてGAFAなどが顧客情報やマーケットデータの全てを牛耳るのはどうかと疑問を持ち始めたクリエーターたちが独立して新しい世界を作ろうとするのがWEB3。

 このメタバースの注目とWEB3の波が一気に押し寄せてきました。ここで、私たちは何をするか、です。私たちなりの仲間作りです。例えばですが、熊本県天草市で200ヘクタールの森をみんなで後世へ残していこうということで動き始めましたが、数名だけで何かできるような広さでは到底ありません。しかし、営利企業に売却されたらあっという聞に材木が伐採されてはげ山になり、植林して手入れするという循環を守れなくなると保水して土砂災害を防いだり二酸化炭素を吸収する森の役割をあっという聞に失います。市民である私たちがどうやってこれを守っていくか、こ
の問題意識を持った世界中の“アバター森人”と一緒に知恵を出し合って守っていこうというのが1つのアイディアです。

 今年初めから楠クリーン村のホームページでは“アパタ一村民”というページを作っており、私のほかに、カンボジアの住民やスペイン人や東京に住む創立時のメンバーなど、楠に住んでいない多様な人たちが執筆を楽しんで、います。必ずしも楠の話題だけではないですが、いろんな出入りが活気を生むんですよね(https://kousakutai.net/post/)。目の前にある世界でなくても、どこに住んでいても同じ趣味や問題意識を持った人たちが集まるもう1つの社会。次頁の築100年の吉田屋はアバター旅人に皆さんを誘います。

モンドラゴン協同組合創始者の思考とCWBの挑戦

学生耕作隊理事 奥谷京子

 今年になって山口にいるブルーノさんと毎週 l回会議を行うことになった。彼はスペイン人で日本語 1級を取り、メーノレを送るのも仕事で会話することも何ら問題がない。しかし、早い展開の議論や抽象的な言集を理解するのは大変だ。日本語を読むよりも英語で理解するほうが楽ということで、私が英語で解説を入れたりしている。彼がこの 1年くらいリサーチを進めているスペインのバスク地方にあるそンドラゴン。そこで次々と協同組合が生まれ、スペイン国内で、有数の企業になったものもある。前から彼のレポートは目にしていたが、改めてこれまでスペイン語原文を英語に訳したレポートを全部読んでみた。さらに知りたいと思って『バスク・モンドラゴン協同組合の町から~(石塚秀雄著、彩流社)という中古本をネットで取り寄せた。

 ホセ・マリア・アリスメンディアリエタという聖職者がそンドラゴン協同組合を立ち上げた。そこには 10の基木原則がある。①自由加入、②民主的組織、③労働の優越(労働が自然、社会、人間を変革する基本的な要素。賃金労働者を原則として雇用しない、社会のすべての人が仕事につけるように雇用拡大を目指す、など)、④資本の道具的・従属的性格(資本を企業の発展のための道具として労働に従属するものとみなす)、⑤管理への参加、⑥給与の連帯性(協同組合の実情に応じた十分な給与)、⑦協同組合の間での共同(協同組合間の人事異動など)、⑧社会変革、⑨国際性、⑩教育というのを掲げている。協同組合が資本主義を乗り越えて新しい体制を作れるかどうかについては、労働者階級が団結しなければならないと彼は述べるとともに、同時に資本主義との共存も受け入れなければならないことも述べている。こうして「新しい体制Jのために、協同組合における教育は、協同組合が硬直しないこと、社会変革を目指し、自治社会へ向けた教育を進めることだ、と。これらを読むと、まさに我々CWBが目指すところにシンクロする。齊藤さんの文章の中にもあったが、形だけの協同組合ではなく、活力ある協同組合をどう維持するか。そこに教育がある。モンドラゴンの協同組合には利益の 10%は教育投資に回すというルールもある。職業訓練から始まった大学を持ち、技術習得に加えて創始者アリスメンディの精神に若いうちから触れる。協同組合としては即戦力になる人材を育て、この仕組みが途切れることがない体制を作っている。さらにはバスク語や文化を守ることまで力を注いでいる。文化の社会化、知の社会化こそが労働者が権力の民主化から勝ち取る道なんだというところに繋がる。「創造し、所有せず行動し、私物化せず進歩し、支配せず」という彼の印象的な言葉にも魅かれる。

 そこから 70年経った今、工業化を中心に据えていたところはモノ作りからコンテンツの時代へ、さらにはインターネットで国を越えて協働で・きる変化こそあるものの、行き過ぎた個人主義は未成熟な社会であり、権力・派閥ではない民主的なつながりが求められている。ブルーノさんとの会議で、「なぜこれからは協同組合か」と議論した。協同組合が働いている人の自立・自治の教育機関となり得るかが問われる。自立自治を目指して参画することに魅力を働く人が持てるか、その自主性にかかっている。仕組みも大事だが、そこに集う一人ひとりの意識変革こそが求められる。また、ライターの坂本さんが聞き取りインタビューするミャンマーも今の抑圧された状況が嫌で、必死に抵抗し、自分たちの力で立ち上がっている。自分たちで、責任を取って自由を獲得する。平和や自由は闘いなのだ。しかし、どうも日本はいろんなことに直面しても現状維持、責任回避、波風が立たないように見ざる、言わざる、聞かざるになっていないだろうか。世界の情勢だけでなく、日本も非常事態であることに早く気づいて、災害時に発揮した「助け合い精神を一人ひとりが当事者として持ち寄り、事態に向き合う時が来ているのではないだろうか。

Zoomで身近につながるプーンアジ

日本に帰国してから産能大学以外にも時々大学の先生からお声掛けを頂いて単発レクチャーを受け持たせていただくことがあります。9月には県立広島大学大学院、そして10月末には金沢大学でお話させてもらいました。コロナ禍になってすっかりZoomで講演することが当たり前になり、現地に行かずとも画面越しで大学生の皆さんに向かって話すのですが、同時に見聞きするだけのアジアの現場を生中継することでよりリアリティが増すだろうと思って、招聘してくれた先生に提案しています。どうやら先生方も本当にちゃんとカンボジアから映像が見られるのかと不安に思っていらっしゃるようですが、音もクリアで、発言するプーンアジの生徒たちの目の輝きに大学生も感動しています。
しかし、スムーズに運営するためには下準備も欠かさず行っています。現場の涼さん・光さんにカメラワークや進行のシナリオづくりなどをお願いし、数日前にリハーサルも必ず行います。プーンアジの生徒たちの発言は多少ぎこちなくても「いいよ!日本語も英語もうまくなった!」と褒めて自信をつけさせ、そのリハの際に逆光で顔が暗かったら立ち位置を変えたり、雨が降ったら別の場所にしようとか、もしも停電でWiFiが切れたときはすぐに携帯電話でテザリングできるように充電をフルにして準備をしてもらったり、あれやこれやと対処できることを想定して臨んでいます。この日本人スタッフのサポートがなくては実現できません。

ニューが卒業後にお菓子屋さんを始める決意を発表!

まだ1回もトラブルにはなったことがないですが、繋いで話すのはカンボジアの生徒たちはまんざら嫌いではなさそうです。これまでのプーンアジツアーや来日経験でお客様と交流して日本人が大好きですし、最近は私の生徒への講義でもなるべく質問をして「私に教えて」と彼女たちから意見を求めたりすることが多いので、ディスカッションすることに慣れてきたのかなと思います。5年経ってようやくこういう場が作れるようになったと感慨深いです。
前回、金沢大学では学生代表のマシャーがちょうど学校と生中継の時間が重なってしまったために映像で登場したのですが、にこやかに話す可愛い10代の女の子が最後に「私の会社はコンポントムで初めてのカシューナッツのビジネスです。成功させたいです」と発言。彼女の覚悟をうかがい知ることができ、とても誇らしく思いました。書くことや発言する場を経て、意思を固めていくことはとてもいいです!

このような大学との交流もプーンアジの生徒にとって貴重な経験です。大学のみならず同世代の中学・高校などにも広げたいです。さらに今後はステップアップさせて、第3世界ショップのお客様と直接つないで現場を見るZoomツアーなどへ発展させていけたらいいなと思い描いています。

日本に帰国してから産能大学以外にも時々大学の先生からお声掛けを頂いて単発レクチャーを受け持たせていただくことがあります。9月には県立広島大学大学院、そして10月末には金沢大学でお話させてもらいました。コロナ禍になってすっかりZoomで講演することが当たり前になり、現地に行かずとも画面越しで大学生の皆さんに向かって話すのですが、同時に見聞きするだけのアジアの現場を生中継することでよりリアリティが増すだろうと思って、招聘してくれた先生に提案しています。どうやら先生方も本当にちゃんとカンボジアから映像が見られるのかと不安に思っていらっしゃるようですが、音もクリアで、発言するプーンアジの生徒たちの目の輝きに大学生も感動しています。
しかし、スムーズに運営するためには下準備も欠かさず行っています。現場の涼さん・光さんにカメラワークや進行のシナリオづくりなどをお願いし、数日前にリハーサルも必ず行います。プーンアジの生徒たちの発言は多少ぎこちなくても「いいよ!日本語も英語もうまくなった!」と褒めて自信をつけさせ、そのリハの際に逆光で顔が暗かったら立ち位置を変えたり、雨が降ったら別の場所にしようとか、もしも停電でWiFiが切れたときはすぐに携帯電話でテザリングできるように充電をフルにして準備をしてもらったり、あれやこれやと対処できることを想定して臨んでいます。この日本人スタッフのサポートがなくては実現できません。

まだ1回もトラブルにはなったことがないですが、繋いで話すのはカンボジアの生徒たちはまんざら嫌いではなさそうです。これまでのプーンアジツアーや来日経験でお客様と交流して日本人が大好きですし、最近は私の生徒への講義でもなるべく質問をして「私に教えて」と彼女たちから意見を求めたりすることが多いので、ディスカッションすることに慣れてきたのかなと思います。5年経ってようやくこういう場が作れるようになったと感慨深いです。
前回、金沢大学では学生代表のマシャーがちょうど学校と生中継の時間が重なってしまったために映像で登場したのですが、にこやかに話す可愛い10代の女の子が最後に「私の会社はコンポントムで初めてのカシューナッツのビジネスです。成功させたいです」と発言。彼女の覚悟をうかがい知ることができ、とても誇らしく思いました。書くことや発言する場を経て、意思を固めていくことはとてもいいです!

プーンアジの庭からマシャーがご挨拶。鶏の鳴き声がBGMなのもご愛嬌

このような大学との交流もプーンアジの生徒にとって貴重な経験です。大学のみならず同世代の中学・高校などにも広げたいです。さらに今後はステップアップさせて、第3世界ショップのお客様と直接つないで現場を見るZoomツアーなどへ発展させていけたらいいなと思い描いています。

時代はどんどん進んでいる

 昨年の秋から日本を離れて7か月間、カンボジアの私たちの事務所にいました。コロナに振り回されて世界中でマスクをつけている日常が当たり前になっている中、私はコンポントムのプーンアジという寄宿舎に住み、地元の生徒たちとカシューナッツの収穫後に毎日のように乾燥させて袋詰めするような作業で汗を流して働いて…という生活をしていたので、何らこれまでと変わらない生活でした。敷地内の外に週1回マーケットに買い物に行ったり、銀行に出かける時以外はマスクをつけることもほとんどありませんでした。

 しかし、2月終わりくらいからカンボジアもコロナ感染者が増え始め、政府も封じ込めに乗り出しました。4月半ばのクメール正月に合わせて州間の移動禁止措置が発令され、さらにはますます広がる状況を鑑みてカンボジア中のレストランの営業が禁止になりました。

 私も昨年末から日本へ帰国する予定がどんどん持ち越され、これ以上は家族のためにも延期はできないということで、ひどくならないうちに日本に戻ることにしました。しかし、陰性証明をもらうために早めにプノンペンに着いて病院通いをするだけでなく、このロックダウン中の移動は容易ではなく、シェムリアップにある領事事務所に州間をまたぐための通行願いのレターを発行してもらうように依頼したり、いろんな手続きを踏みました。いろんな人の協力のおかげで、無事に日本まで戻ってきましたが、大阪は過去最悪の広がりを見せている時期でした。

 この帰国に際して、街中に出てみていろんな変化に気づかされました。1つはコロナに対する日本との意識の違いです。プノンペンでは早々とマスクをして外出していない人は25ドルの罰金、さらにはこのクメール新年(4月14から17日)前後にレストランの閉鎖、陽性者が現れたプノンペン最大の市場であるオルセーマーケットとさらにはオールドマーケットも閉鎖。こういうことを早々に警告を出してすぐに実行されています。しかも市場や飲食店には補償なしです。イオンなどのショッピングモール内のレストランも閉鎖。ちょうどプノンペンに着いた次の日からこのような状況になったので、静まり返ったプノンペンには驚きでした。通常クメール新年の前は民族の大移動でプノンペンから地方へ帰る人が多くてバスなどもとれない状況ですし、家族が一堂に集まり、みんなで大皿のごちそうを囲んで団欒の時間が持たれるので、その準備のためにマーケットはものすごい活気で、商売人にとっては1年のうちで1,2を争う書き入れ時です。それをカンボジア政府が封じ込めようとしているのは、やはりこのコロナ自体の感染拡大をいかに恐れているかということだと思います。それに比べると日本はかなり緩い印象を持ちます。

(私が帰国した後も大使館からお知らせが来ているのですが、プノンペン内でも移動が厳しく規制されて、ロープが張ってあって隣の地区への移動も制限され、本格的にロックダウンが始まりました。たまたまスタッフが私と入れ替えで日本から入ってくれたのですが、プノンペンで3週間ほど足止めされ、彼女のレポートによるとデリバリーサービスも近所から出ないと届けてくれないそうです)。

 また、PCR検査を受けに国立衛生研究所に行った時のこと。朝7時から施設が開いているがそれより早くに着いて並んでおいたほうがいいという情報を得て、6時20分に到着しましたが、防護服に身を包んだ200人以上の人たちがすでに長蛇の列でした。中国人の集団です。カンボジアでの広がりを恐れてすぐに祖国へ帰ろうという人たちが列をなしていたのですが、たまたま個人で並んでいた上海出身の女性が日本とのビジネスをやっていて日本語が流暢だったので、待っている間にいろいろ聞かせてもらいました。中国の検査基準はPCR以外にも血液検査もあり、2日間通わないといけないといっていました。さらには上海に着いてからすぐにホテルに2週間隔離され、物価が高いので10万円以上の滞在費がかかり、その後自宅に戻ってから7日間待機ということで、21日間も身動きが取れない状況だそうです。日本はどうなの?と聞かれ、着いてすぐのPCR検査で問題がなかったら家族に車で迎えに来てもらったら家に帰れて、家で14日間おとなしくしていればいいと伝えたら、中国と対応が全然違うんだねと彼女も驚いていました。

 そしてプノンペンに数日滞在してみて、補償もなくレストランが閉鎖されているのですが、さらにアルコール類の販売も一切禁止となりました。みんなが集まって騒ぐことを見据えていろんなことが制限されています。それでもバイクでのデリバリーサービスが定着しています。日本でいえばUberEatsみたいなサービスがこの1,2年で広がりを見せており、FoodPandaやNham24など、いろんなバイクがプノンペンの街中を駆け巡っています。ジュース1杯からでも自宅へ届けてもらっていますので、この気軽な手配の感覚はおそらく日本以上ではないかと思います。外国人が多い地区では「Take Away OK」と入口に書いて、持ち帰りだけは受け付けているカフェなどもあり、この徹底ぶりは日本で役人たちの宴会でコロナ感染というニュースとは全く違うものです。

 また、プノンペン空港でラウンジを使ったのですが、これまではビュッフェスタイルで利用者が好きな分だけ取りに行っていましたが、注文方式に変わっていました。QRコードがテーブルにあり、それを読み取るとフードとドリンクのメニューが出てきてほしいものを選び、テーブルまで届けてもらいます。これならばフードロスも防げます。

 そして飛行機(シンガポール航空)に乗ってみると、衛生キットが一人一人に配られ、席に着くと機内誌は当然なくなり、機内食は容器が紙製でスプーンなどもすべて木製でプラスティック製品が消えていました。これまでのプラスティック袋などの無駄を考えるとこれも大きな変化だし、さらには不特定多数の人が触る機内誌などはなくなって無駄なものがなくなっていく、こうやって世界は変化していくんだなというのを実感しました。日本ではなんでもスマホでやるのはどうも…という抵抗も根強いですが、どんどん世界はペーパーレス、非接触のコミュニケーション、人が集まる場所をつくらない、効率化が進んでいます。

 そうやって考えてみると日本もサービス産業を中心に全てを見直していく必要があります。街の美容院だったらどういうことができるのか、電気屋さんなら?小さなパン屋さん、ケーキ屋さんだったら?介護や保育サービスは?ライブの楽しみ方は?伝統的なお祭りの開催の仕方は?というのが1つ1つ問われていきます。スマホを使って注文できると翻訳も手間がかからないので新たに日本に住んでいて日本語があまり読めない外国人の掘り起こしにもなるか?など、いろんな可能性も秘めています。そして逆に直接顧客と対面した時にどんな付加価値をつけたらいいのだろう?これまでのサービスの質や内容が変わっていくことを考えるとわくわくします。

 世界は動いていることを実感しました。それもいい方向へ動いていく波を私たちがどう捉えていけるのか。上手にサーフィンしていく必要性を強く感じて日本に帰国しました。

追伸>帰国して5月初旬に書いた文章だったのですが、サーバーの不具合でしばらく投稿できませんでした。その後、7月初旬現在、カンボジアの感染者数は広がっており、1日500人~1000人近い感染者が毎日出ているようです。プノンペンやシェムリアップなど都市部が多いとは聞きますが、私が買い物に行っていた近くの食料マーケットでも感染者が出たと聞いています。早く収束することを願うばかりです。

判断の軸を自分が納得できるように決める

しばらく日本に帰っていないと毎日のニュースや情報番組にはさらされていないが、それでもスマホ、インターネット、YouTubeなどでいろんなものを見聞きできる。このところのオリンピックにまつわる失言や、霞が関との癒着や接待問題、そして当人が開き直ったり、記憶にないどころか無意識だと言ってみたり、何としてでも自分のポジションを守るために悪態をついているようだ。世間との感覚がずれている、高齢になってもきれいな幕引きができない、ここが日本の中枢だと思うと情けないやら悲しいやら。そんな風に思われる高齢者にはならないよう、反面教師だと思っている。

ところで、世界から見ても恥ずかしいと思うことがいつからまかり通るようになったのだろうか。かつては地元の名家といわれるところは、地域の人から尊敬を集めていた。狭い地域の中では誰もが顔を知っている。立ち振る舞いに気を付けたり、尊敬されるにはこうであらねばならないといったような行動規範を自ら持っていた。また、伝統の世界も大人が子供のころからプロとして育てる。例えば歌舞伎でもやっとセリフを覚えて4,5歳で舞台を踏めるような子供たちをおじいちゃんのような世代の人たちがお世話をしているのをテレビで舞台裏としてみたりするが、きちんと一人前になるために、人としての生き方を教える人がそばにいるからではないかと思うのだ。華道や茶道も師範がいて、憧れのその人の生き方を学ぶ。その人の子弟として師範に泥を塗ることがないよう、恥ずかしくない立ち振る舞いをしようと努める。こういう歯止めがきいていたのだ。

ところが今は「自由」という言葉をはき違えている人たちが変に権力や利権を握って、一生安泰で暮らせることしか考えていないのではないだろうか。国民年金で月6,7万円しかもらえないので月々のやりくりに悲鳴を上げている高齢者がいるというのに、1回7万円の食事をしても覚えていないと答弁する官僚がいるだなんてことがまかり通るのだろうか?!

日本ではこういうことが起きると、最初に私が書いたようにあぁ、あの人は情けない、恥ずかしいという気持ちになるが、欧米諸国では同じような状況があるとどんな心持ちになるのだろうか。個人を見てその人を恥ずかしいと批判するのではなくて、分別のある大人だったら、こんないい加減なことをする人を議員に選んでしまった自分に見る目がなかったとか、未来はどうなるのかと考えるとその企業の商品サービスは買わないとか、将来や社会に思いを馳せて自分の考えや行動を悔い改めるのではないかと想像する。何人か知っている友人たちのことを思い浮かべると、そんな風に見えるのだ。彼らは自分たちが社会の構成員であるという自覚が強いのだと思う。

日本では教育の過程で大人として成熟するための学びが少ないと思う。そして学校を卒業すれば学びとは程遠い。働いている企業の中では自分自身のスキルを成長できるかもしれないが、社会の中で自分自身をバージョンアップしていく機会が乏しい。その中で、単に誰かを批判するだけではなくて、自分の行動を決める価値観みたいなものは何か、改めて問い直してみたい。よく「みんなが安心して幸せに暮らせるまちづくり」というのは耳にする言葉で、誰もが合意できると思う。でもその「安心」とか「幸せ」というのはどうやったら得られていくのだろうか。今まで「波風立たせずにこのままでいい」という連続が失われた20年、30年につながったのではないかと考える。そうやって何もしなかったことが劇的に変化する世界から取り残されつつある状況に陥ってしまっている。

そこで私は「100年先まで残したい」というのを自分の1つの判断軸にしてみた。これは京都の女性起業家たちとイベントをやったときに出てきたキャッチコピーだが、未来を見据えたとてもいいフレーズだと気に入っている。あえてこのご時世で差別発言を記すが、社会を意識しないオジさんにはピンとこなくても、子供を育てるようなたくましい女性たちにはしっくりくるはずだ。一度事故が起きたら廃炉までにとんでもない歳月がかかる原子力発電所を100年先まで残したいかどうか、これから成長産業として伸びていく分野をどこかの企業独占するこんな風土は100年先まで残したいのかどうか、資源が少ない国で何が100年先まで残る産業なのか、日本人としての誇りがある素敵な文化を100年先まで残したいかどうか、美しい風景と棚田を100年先まで残したいかどうか、優秀な人材を100年先まで残したいかどうか、ではその人材づくりは今のままで100年先まで残るようなシステムなのか。これで仕分けていくと、何が大事に残していきたいものか、近視眼的に今は大事・必要だけど将来性はないなと思うものはあっさりカットするということができるのではないかと思う。100年というのが長すぎるならば50年でもいい。今こそ見直す時期ではないかと強く感じる。

私みたいな鈍い人間でも、日本が落ちるところまで落ちたか…という絶望感が大きい。無関心、見ぬふりをしているというのではもう済まされないところまで来ている。何をやってもどうせ変わらないという諦めで終えていいのだろうか。

それをどうにかしなきゃいけないと地方の議会に知っている女性たちがこの春2人挑戦している。どちらもカカオワークショップでお世話になった地域だ。一人は先日の投票結果が出て町会議員に初当選した。彼女はガンを患い、寝たきりに近いところからの再帰で余生を地域のために捧げたいと立候補した。もう一人は子育て真っただ中なお母さんだ。こういう人たちが増えることで、これまでの利権をむさぼる人が中心で動いていく政治が地方自治から変わっていくことを願うばかりだ。