カンボジアで毎日練習!さぁ、日本公演へ!

CWBカンボジア 奥谷京子

私が今年2月にプンアジを訪れた時点から来日ツアーに向けて本格的練習が始まった。最初に見たのは、音入れ。日本には大きな楽器を運んだり楽団を全員招くことが難しいので、事前にみんなで演奏・歌を録音し、それを会場で流すことにしている。現在、カンボジアでも上演している「アツ物語」は1時間を超える大作なので、それを日本向けに30分に短縮するため、どこを削るか、この部分は絶対に入れるなどの念入りな打ち合わせが行われる。この写真からわかるように、太鼓(スコー)のほかに二胡(トゥロー)や琴(ターケー)のような楽器もある。そしてプロの歌い手さんも来てくれたが、こんな細い女性のどこから声が出ているのかというくらい楽器に負けないくらい通る声で歌ってくれている。

そして来日するメンバーに関しても、今回、簡単ではないのはみんなと合わせて上手にダンスが踊れたらいいだけではない。それは「アツ物語」のほんの一部で、演劇がメインだ。カンボジア版ではもっと多い人数で男子学生がアツ役を演じているが、今回は女子学生のみが参加するので、アツ役をやるのもコムジエンという女の子。いきなり主役に抜擢されているので、セリフや感情のつけ方なども含めて1から覚えなければならない。村の娘の恋人役のソクユエも男役、それから村長役もスレイマウ。プロのダンサーでもあるミーさんが舞台の端で一緒の動作をやって背中で見せている。

滞在中に「劇中の役に人が足らない」と脚本を手掛けたMr.Diから相談を受けた。なので、引率する日本人の大学生のボランティアがなんとアツのお父さん役を演じることになった!そこも日本とカンボジアをZoomで繋いで3月のうちに事前練習をし、来日したところで一緒に練習もしてみる。こうやって、役どころも練習も国境を越えて、合作で行おうとしている。

●エスニックと多様性を

そして今回はソポンさんがクイのことを話してくれる。国民や世界が分断しようとする今、インドネシアの独立の国是でもある“Bhinneka Tunggal Ika(=Unity in Diversity・多様性の統一)”が大切だ。今回のアサの文章も自分たち少数民族の誇りを綴っている。対立するのではなく、互いに理解していくことをもう一度考えさせられる。平和は武器をおろして戦うことをやめるだけではなく、違いを認め合うことだ。クイはいろんな独自の慣習(言葉、料理、農法など)があり、それはSDGsという言葉を知らなくても遺伝子レベルで実践している。しかし、それが大都市のように近代化していくことが発展だという迷信で失われつつあるライフスタイルをどのように守っていくか、これは過疎化で季節に応じたその土地独自の暮らし方を取り戻せなくなった私たち日本人への大きな学びとなるだろう。

いろんな準備が始まり、いよいよ4月2日から日本公演はスタートする。どうぞお楽しみ

政治とコーポラティブー文化を基盤に

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが訳してくれているラテン・アメリカのコーポラティブの論稿と、最新のモンドラゴンニュースを読んでいて、一つの共通点に気がついた。それを一言でいえば政治とコーポラティブということになる。

ラテン・アメリカではほとんどの国で、コーポラティブは政治(政府)の介入とともにあった。コーポラティブを促進する政策だけでなく、コーポラティブに有利な税制や融資が行われている場合もある。これはコーポラティブの発展に寄与したが、同時にラテン・アメリカのコーポラティブは、政策の道具として使用されもした。多くは下層労働者を体制側に引き込み管理するためだった。場合によっては先住民に対して彼らの伝統にはなかった「個人所有」をコーポラティブが持ち込む場合もあった(ラテン・アメリカのコーポラティズム1.8)。

コーポラティブ自体もこうした支援や促進策によって、政府からの独立性を失ったばかりではなく、経営体としても弱体化した面が多い。いわゆる「補助金づけ」で政府の政策に従った経営方針をとることになった。特にクーデターによって政権交代が行われた国々おいては、政変のたびに転変する政策に左右されることになった。そのため、難題解決は国に委ね、自分たちはただ組織の存続を気にかける、あるいは倒産の危機も国の力によって回避するということが起こった。

さて最新のモンドラゴンニュースに出てくる「エウスカディ」という言葉は「バスク独立」運動の中で、バスク国を意味する言葉として新たに創出されたものである。そして1970年代にはバスクの分離独立を目指すテロ活動や誘拐が頻々と起こっていた。しかしモンドラゴン協同組合はバスク語のアラサーテという地名ではなくスペイン語のモンドラゴンを名乗っている。それにはバスクの歴史が深く関わっている(以下の記述は渡部哲郎氏『バスクもう一つのスペイン《【改訂増補版】》』によっている)。

バスクといっても、バスク国が元々あったわけではない。アジアの諸民族と同じく、国民国家がない頃から、漠然とした集まりとしてバスクがあった(ちなみにバスク語というがその中は互いに通じないほどの方言があるという)。この地だけでなく、今のスペイン全体に国民国家という意識が出てきたのは、19世紀フランス革命後特にナポレオン戦争後の状況である。それ以前の大航海時代に、スペイン王国として世界を股にかけていた大帝国の内部は元々あった諸王国の連合という意識が強く残存していた。その中でもバスク、カタロニア、ガリシアの3地域は古くから特に強かった。特にバスクの中でも港湾に面するビスカヤ地域は、大航海地域以来、港湾都市・貿易都市として経済的に栄えており、王からの特権も与えられていた。

さらに19世紀の産業革命時には鉱業・鉄鋼・金融・保険・商業などの多くの民間企業が設立された。一方、モンドラゴン協同組合が立地する山岳地方は、農業中心で大地主制度も残っているところがあった。スペイン内戦でも、バスク地域はフランコに対して一貫して対抗したが、その内部での政治戦略はバスク分離独立・スペイン内部の自治独立・スペインとの同一化に大別され対立していた。

フランコ以降、地方自治の復活とともに、バスク語が復活するとともに、独立分離を主張する一部がテロ化し、武装闘争を続けることになる。とはいえ武装闘争は人々の支持を失っていく。それには19世紀以降産業革命によってスペインの州外や外国からバスク州内に移住してきた人々の増大という要素もあった。逆にいえばビスカヤ地域はバスク語を母国語とする人口比率が減っていった。とはいえスペインの他地域に比べ、バスク自治州は経済的にも社会的にも恵まれた地域ではあった。

20世紀後半、新興アジア諸国との競争の中でビスカヤの中心産業であった造船や鉄工業が軒並み不況・倒産、施設の老朽化が進む。産業の転換が求められる中でスペインは1986年にEC(ヨーロッパ共同体ー当時)に参加を決定、そのための構造変革を受け入れることになった。しかしその一方で分離独立の過激派のテロと社会不安のために新規投資は進まず、80年代に失業率は30%超を記録した。こうした産業衰退とともにビスカヤの都市そのものも衰退する。日本でもよくある地方都市のシャッター街と同じ風景が展開したと思って欲しい。ビスカヤ地域で地域再生化の目玉となったのがアメリカグッゲンハイム美術館とのフランチャイズ契約によるビスカヤ・グッゲンハイム美術館の建設である。なぜ文化だったのか。

たとえばここに最先端の化学工場を誘致したとする。それはかつて造船業が持っていたと同じ権益集団を生み出すことになる。何も富裕層に限ったことではない。工場に雇われたものと、雇われなかったものとの間に分断と格差を生み出すことになる。国際競争に既得産業が破れたことによって、既得権益を持っていた産業が壊滅して巨大な跡地が残った。その跡地をまた特定産業の利益に結びつけるのではなく、より多くの人々が参加可能な「文化」を前面に押し出すことによって、再開発を図ったのである。

そのための予算はビスカヤ県が負担した(バスク・カタロニア・ガリシアの3地方は独自の徴税権を認められている。各地方が徴税した税金の一部を国防等の資金としてスペイン政府に納められるが、その割合は35%程度だという)。ビスカヤ・グッゲンハイム美術館はその建築様式や展示物、街との融和が話題となり、県の負担は2年で完済されたという。

美術館の建設が全面に取り上げられたが、これと並行してさまざまなインフラが州自治体の手によって整備保全されていくことになった。結果的にバスク州外からの流入人口が多いビスカヤ地域で、バスク語を第2言語として習得し話す人口の比率が急増することとなった。非バスク語住民にとって、子供が学校でバスク語を身につけることは、子どもの将来にとって有益なことだと認識されているからこその現象である。

通常少数民族の言語保存は学校教育を通じて行われる。これはバスクでも同じである。が、周囲のコミュニティにおいてその言語を話すことが、何らかの意味や意義を持たない限り、学校内で教えられたとしても、日常的に使われることはない。もちろん文化的意義や伝統的意義はあるだろうが、それだけでは日常にはなかなか浸透しない。バスクの例は文化を保全し維持するためにも、経済的要素を組み込む必要性を表しているといるだろう。バスクではバスク州自体が徴税権を持つという財政的背景があって成功したという面も大きい。しかしそれは自分たちのコミュニティに支払った金が、自分たちの身近で使われるからこそ、住民の参加意識、関心が高いという面もあるだろう。

こうした潮流の延長線上で再び「エウスカディ」という言葉がバスク州の3つの県都を統一する統一都市圏の形成と、その都市圏が国際レベルで重要な役割を担うという狙いを持って使われている。モンドラゴンの最新ニュースで使われているエウスカディもこの意味合いであり、経済面だけでなく、環境や人権といった持続可能な社会の底支えに不可欠な要素を、自由経済の中で自律的にどう実現していくのか。社会性と経済性のバランスの未来像をそれぞれの分野で展開している動きとして、モンドラゴンが表彰されたというのが、今回のニュースの肝だと考える。

翻ってラテン・アメリカ諸国のコーポラティブのその後を見てみよう。ここでも日本では悪者扱いされる「構造改革」によって、コーポラティブは自律的な存在でなくてはならないことが明記されることとなった。もちろんこれはネオリベラル的な改革の一環ではあるが、同時にラテン・アメリカのコーポラティブが独り立ちをする契機ともなった。世界的にもこの時代にコーポラティブが社会性だけでなく、カンパニーとして位置付けられることになった(1995年)。ラテン・アメリカ諸国のコーポラティブの前にはまだ数々の難関が待ち受けている。なんといっても政府自体が、コーポラティブの特質をよく理解せずに各種制度や規制を打ち出していることが問題であると述べられている。 しかし、自律性を持った民主主義的な組織であると同時に、市場社会で求められる効率性を実現するという道は、ラテン・アメリカに限らずどの社会のコーポラティブにも突きつけられている課題である。モンドラゴンも両立に成功しているとは限らない。けれど、自律的・民主主義的組織とビジネス的な効率という二つを掛け合わせる場所として、「文化」という要素は大きな可能性を持っているのではないか。これがラテン・アメリカの諸論稿とモンドラゴンの最新ニュースを読んで、私が考えたことである。

カンボジアでの10日間

CWBカンボジア 奥谷京子

昨年9月以来のカンボジア。今回の主な目的は4月に来日する7名のカンボジア人たちのビザを取るために日本大使館にアテンドすることだった。

これまで何年にもわたって何度も短期商用ビザの申請に挑戦しているが、大使館ですんなり受理されたことが一度もない。申請時に日本人が付き添いをしていないからカンボジア人のそれ相応の身分の人に推薦状をもらってこい、来日予定日には超えるけれども申請時に18歳に達していないために親の同意書にサインしたものと親のIDカードをコピーせよなど、何かしら不備を指摘してくる。そのたびに再び片道3時間の道を戻って、時には生徒たちは実家に戻って書類を整えて再びプノンペンに持っていく。

ただ、今回は7名いて、5人が学生で2名が学校の教師やダンスの指導者といった社会人がおり、このメンバーの予定をすべて合わせてこられるのも1回限りにしたい、と念入りな準備と確認をした。それでも当日にファミリーレコード(住民票のようなもの)は原本を見せないといけないので早朝3時に出発して姉のプノンペンの家に寄ってから来ると約束したはずなのに持ってきていないという事態が起き、朝6時半に着いてから8時に大使館が開くまでに取りに行ったり…。大使館前に残った3人のメンバーと待っている間に書類の確認、写真の添付、直筆のサイン、さらには大使館スタッフから質問されることに対してちゃんと答えられるかなどの練習をしておいて、入館後も順番待ちの間にほかのメンバーに同じことを伝えて…と7人の足並みをそろえるのは結構大変だった。大使館に入ってから約2時間、質問攻めもうまく応対し、全員の申請書を無事に受理され、無事にパスポートを引き取ることができた。

そして今回来日して披露するYike(現地では「ジーケー」と発音する)というドラマに関して、である。2019年に女子生徒5名が来日した時は、この5名でできる演目をピックアップし、ダンスの音楽を準備し、途中で一緒に手の動きを真似たりとダンサーと観客が一緒になって作り上げるイベントとなった。しかし、今回はドラマ仕立てでしかも「武器のない平和」がテーマ。私たちがカシューナッツの栽培を行っているコンポントム州は内戦が続いた20世紀終わりに民主的な選挙がカンボジアで行われた時に国際ボランティアで現地に入った中田厚仁さんが殉職した地域でもある。そこから「アツ村」という名前が付けられ、小中学校もある。そんな私たちの活動拠点との因縁もあり、中田さんと同じく平和は作るものであり、この地域に仕事が生まれて家族仲良く暮らせることであると私たちもコミュニティビジネスをこの地で実践している。今回はプロの役者さんにも演者・指導者として入ってもらい、地元で長らく文化活動を推進してきた人にシナリオを描き下ろしてもらい、構想から1年以上かけて作り上げてきたのだ。本来は上演する場所に生演奏の楽団も一緒に参加し、その太鼓の音の迫力などもまたすごいのだが、残念ながら今回は録音で行く。その音源を撮り、練習も私が滞在している期間中に行った。

ちょうど今、ミャンマーのメンバーはかなり緊迫した状況で、この4月以降18歳以上の若い独身の男女は政府軍に否応なく徴兵されそうだ。ウクライナも戦争が始まって地雷をたくさん埋まっているエリアではそれを除去するのに日本の機械が役立っていて、男女関係なく市民が機械の扱い方を教わっているというニュースをテレビで見たことがあるが、今この瞬間でも世界でこのようなことがある。今回のドラマはカンボジア人が演じてクメール語で30分近い演目なので、確かに日本人観客にはハードルが高いと思う。何を言っているのかを理解しようではなく、その情熱を感じ取ってもらって、カンボジア・日本に関わらず、平和とは何かを考える機会になればと思っている。演じる10代の彼女らももうポルポト政権のことを知らない世代であり、今のような平和を享受できることを教育し後世へ受け継いでいかねばならない世代でもある。戦地や危険な場所に若者がなぜ赴かねばならないのか、どれほど親が悲痛な思いであるのか、そんな状況にさせないために私たちは何ができるか、ウクライナやパレスチナ、そしてミャンマーはよその国の戦火だと自分事として考えなくてよいのか。

この公演を全国で開催するにあたって、前号のシビルミニマムを読んで沖縄でやりたいと申し出て下さった大学の理事長もいらした。その近所の高校の教頭先生も賛同して下さった。ただ、来日を長期休みが取れるクメール新年(4月12~16日)に合わせたために、日本では新学期が始まったばかりで実現することができなかったが、沖縄では慰霊の日に合わせて6月は平和を考えるような学校行事が全学年であると聞いた。広島は8月には原爆のことを忘れないためにも夏休み期間でも登校して語り部の話を聞くなど、今も平和教育に力を入れていると聞く。しかし、今、全国でもっと身近に考えなければならないテーマとなっている。何年か前に山口県の大津島に行かせてもらった時に回天記念館を案内されたことがあった。飛行機ごとぶつかっていく神風特攻隊のことは知っていたが、一度中に入ったら出られない、ブレーキもない、海の中で敵の潜水艦に突っ込んでいく回天があったことを初めて私はそこで知った。海流の速さを計算して自分で運転をしなければいけないので、より高度な技術と知性を求められ、ほぼ命中することなく優秀な若者が命を落としていった。誰もがこんなことを望んでいない。でも世界の動きや利権、政治家の思惑、リーダーたちのにらみ合い、複雑な要因が絡みあった時によからぬ方向へ進んでしまうこともある。今一度私たちは戦争や武器のない平和を深く理解しなければ、私の祖父母の世代の悲劇がいつまた繰り返されるかわからない。

プンアジのみんなで最後の夜はBBQをおなか一杯食べて、楽しんだ。大掃除をして、埃まみれになって笑いながら汗を流し、みんなで頑張った後のご飯はおいしかった。アツ村で育った子どもたちもプンアジにはいる。中田厚仁さんが今生きていれば50代半ばだが、彼が今いたらこの風景をにっこり見守ってくれていたであろう。

変化の種:インドの社会起業家  その3

CWB 奥谷京子

2024年1月号より紹介しているインドの社会起業家ですが、若い読者が読んで印象に残る記事の1つとして取り上げることが多く、私もうれしいです。

今回は若い人々の取り組みをピックアップしてみました。自分の持っているデザインを社会に役立てるというプロボノ的なアプローチ、インドは喫煙者が多くそのポイ捨てを何とか解決しようという発想、さらには余剰食糧を困っている人たちに提供するという、まさに現在の社会問題を解決する発想を持った人々です。

ラクシュミ・N・メノン

: 純粋な生活を通じて持続可能な変化を生み出す

コーチンを拠点とする先見の明のあるデザイナー、ラクシュミ・メノンは、自身の組織「Pure Living」を通じてデザインの力を活用し、社会や環境への影響を推進してきました。持続可能な生業解決への取り組みと、環境に優しい生活についての意識を促進するという使命を持ったラクシュミは、コミュニティに変化をもたらす力になっています。

「Pure Living」の哲学の中心は、恵まれない人々のエンパワーメントです。ラクシュミのアイデアは、シンプルでありながらインパクトがあり、疎外されたコミュニティを巻き込み、元気づけることを目的としています。彼女の先駆的なプロジェクトの1つである「Ammoommathiri/Wicksdom」は、クラウドファンディングを活用して、恵まれない高齢者に生計の機会を提供しています。老人ホームや孤児院の女性たちは、一般的に照明に使用されるろうそくの芯の製造に貢献し、尊厳を持った目的のある取り組みを提供しています。

ラクシュミ・メノンのイノベーションは、環境に優しい「ペン・ウィズ・ラブ」にまで及びます。これは、廃棄されると木に芽吹く種が埋め込まれた紙で作られた植栽可能なペンです。この取り組みは、環境の持続可能性を促進するだけでなく、30人以上の農村部の女性に雇用を提供し、自宅でペンを作る柔軟性を提供します。この取り組みによる生産ユニットは、1日あたり3000本以上のペンを製造する能力を誇ります。

ラクシュミは交通安全を懸念し、「オレンジアラート」警告システムを設計しました。地域のボランティアが、段差や穴などの危険箇所から50フィート離れたところにオレンジ色の三角形を描き、ドライバーが速度を落として慎重に走行するよう視覚的な合図として役立てています。

使い捨てプラスチックペンが環境に与える影響についての意識を高めるために、ラクシュミは「ペンドライブ」キャンペーンを開始しました。この革新的な取り組みにより、1か月以内に100万本のプラスチックペンが収集され、持続可能な代替品の必要性が浮き彫りになりました。

ラクシュミ・メノンは、高齢者が作った製品を識別する商標「グランドマーク」の所有者として、高齢者の才能と貢献の促進に積極的に取り組んでいます。彼女は、コミュニティの精神を体現するケララ州の元気なマスコット、チェクティの共同制作者でもあります。

ラクシュミの献身的で革新的な取り組みは、次のような著名な評価と賞を獲得しています。

● スタープラスでアミターブ・バッチャンが司会を務め、BBCワールドが制作した番組「Aaj Ki Raath Hey Zindagi」。

● 2018年10月、環境とエコロジーへの貢献によりアースデイ ネットワーク グローバルからアースデイ ネットワーク スターとして表彰され、特にシードペン (過去4年間で100万本近くを販売) が注目されました。

●2018年にNational Innovation Foundationの運営評議会メンバーに選出。

ラクシュミ・N・メノンは、デザイン思考と社会起業家精神の変革力を体現し、暮らしと環境の両方にプラスの影響を生み出しています。「Pure Living」を通じて、彼女は変化の先駆者であり続け、持続可能で包括的な未来を築く上で他の人たちに倣うようインスピレーションを与えています。

ナマン・グプタとヴィシャル・カネット:インドにおけるタバコ廃棄物の管理とリサイクルの先駆者

2016年、2人の若い友人、ナマン・グプタとヴィシャル・カネットは、タバコの廃棄物の大量ポイ捨てという差し迫った環境問題に取り組む画期的な事業に着手しました。タバコの吸い殻が世界で最も多く廃棄されている廃棄物であり、毎年8億5000万キロの有毒廃棄物が発生していることを認識し、二人は行動を起こすことを決意しました。

ノイダに拠点を置く同社の社会的企業である Code Enterprises LLP は、インド全土20州で事業を展開するために急速に事業を拡大しました。彼らの取り組みの中核には、タバコの廃棄物のリサイクルだけでなく、そこから魅力的な副産物の作成も含まれています。

 ナマンとヴィシャルが友人の家でぶらぶらしていたときに、何気ない日の夜に発生するタバコの廃棄物の量に驚いたときにインスピレーションが湧きました。この認識により、彼らはこの問題を深く掘り下げ、持続可能な解決方法を模索するようになりました。

当時デリー大学で学士号を取得していたナマン・グプタと、米国のカーニバル・クルーズ会社でプロの写真家として働いていたヴィシャル・カネットは、この問題に正面から取り組むことを決意しました。広範な研究と実験を経て、彼らはタバコの吸い殻に使用されるポリマーである酢酸セルロースを洗浄してリサイクルするための実行可能な化学プロセスを開発しました。

再処理の化学組成は、企業独自の販売提案 (USP) を保護するために機密に保たれます。彼らのリサイクル活動の副産物には、タバコの残りや紙のカバーから作られた有機堆肥粉末が含まれます。この堆肥粉末は農園や苗床に利用できます。

さらに、リサイクルされたポリマー素材は、クッション、ガーランド、小さなぬいぐるみ、アクセサリー、キーホルダーなど、さまざまな製品に生まれ変わります。

ナマンとヴィシャルは、スタートアップを宣伝するためにソーシャルメディアを広範囲に活用し、彼らの信頼性が高まるにつれて、地元メディアや全国メディアが彼らの革新的な取り組みを取り上げ始めました。広範囲にわたるメディア報道により、彼らの認知度が高まっただけでなく、彼らとの協力を希望するデリー外の個人からのパートナーシップのオファーも集まりました。

ナマン・グプタとヴィシャル・カネットの物語は、環境問題に取り組む起業家精神とイノベーションの力を例証しています。廃棄されたタバコの廃棄物を価値ある製品に変えることで、廃棄物の削減に貢献するだけでなく、持続可能で社会的に影響力のある企業を生み出しました。

https://www.facebook.com/watch/?v=246435580297425

アールシ・バトラ

: ロビンフッド軍を通じて社会変革を育む

インドのダイナミックな若い社会起業家であるアールシ・バトラは、自身の財団であるロビンフッド軍を通じて社会福祉のストーリーを再構築する上で大きな進歩を遂げました。バトラは、志を同じくする3人の友人とともに、余剰食料を困っている人たちに届けるという、唯一の使命を持ったボランティア主導の組織を設立しました。ロビンフッド軍は希望の光として浮上し、世界60都市の500万人の恵まれない人々に食料を提供してきました。

社会起業家としてのアールシ・バトラは、職業上の取り組みと密接に関係しています。現在、インド最大の自動車エンジン用排気多岐管メーカーである SPM Autocomp Systems Pvt Ltdで事業開発担当エグゼクティブディレクターを務めている彼女は、ビジネスの洞察力と社会的責任を独自に組み合わせてその役割を果たしています。アールシの学歴としては、デリーのJMC(Jesus & Mary Collage) で経済学を卒業した彼女は、ロンドン スクール オブ エコノミクス アンド ポリティカル サイエンスで経営修士号を取得し、シンガポール国立大学のビジネススクールで国際経営修士号を取得しました。彼女の学業成績は、目的を持ったキャリアの舞台を整えました。

アールシ・バトラは、若い頃から家業の鉄と砂を扱う会社に参入し、成長を続ける企業の2代目を代表しています。男性中心の業界の壁を打ち破る彼女は、立ち直る力と決意を体現しています。企業活動を超えて、アールシはロビン フッド軍の創設メンバーの1人であり、社会の幸福に対する彼女の取り組みを反映しています。ロビンフッド軍は、レストランから余った食べ物を集めて、恵まれない人々に届けるという、シンプルですが強力な原則に基づいて活動しています。アールシのリーダーシップの下、この組織はその拠点を4か国にわたる27都市に拡大しました。「ロビン」として知られる 5000人以上のボランティアからなる献身的なチームを擁するロビンフッド軍は、困っている約60万人にサービスを提供してきました。アールシの社会的影響に対する情熱は、探検への愛によってさらに補完されています。

インド全土および世界中の40以上の都市を訪れた彼女の、新しい文化や料理の発見に対する熱意は無限です。余暇には、アールシはライフスタイルブログの執筆に創造力を注ぎ、ロマンチックな小説を執筆中です。

アールシ・バトラの多彩な活動は、ビジネスの成功とコミュニティへの影響の融合が変革力を生み出す社会起業家の本質を体現しています。ロビンフッド軍との彼女の仕事は、若くて献身的な個人が社会に有意義な変化をもたらす可能性を例示しています。

https://robinhoodarmy.com

能登半島震災、私たちに何ができるのか

CWB 奥谷京子

年明け早々、日本は能登半島で強い地震が起き、被災地の日々刻々と変わる状況をただニュースで見聞きするしかない状況が続いている。迂回ルートがなく、頼みの綱の国道もひび割れの上に雪も積もり、物流もスムーズに動かない。外部のボランティアもかえって迷惑をかけるだけで、しかし現場は人手不足で困っているというこの歯がゆい状況。1か月が経過して、少しずつ復旧のニュースも舞い込んできているが、なんだか日本の弱点がすべて出てしまっているような気がしてならない。

そんな中で2年前から石川県にUターンした元スタッフ、金丸雄司君に地震が起きて5日後に連絡を取った。高校卒業後に何をしたいかわからないから、面倒を見てやってくれと紹介されて東京の事務所にやってきた、どこにでもいる青年だった。そして山口に転勤になって、20年くらい前に豊浦町(現下関市)の無人駅でインターネットカフェをやっている時に一緒に働いていた仲間だ。当時はまだ彼も20代前半だし、あまり社会的な活動ということには興味がないのかなと思っていたのだが、現在はアウトドア用品を扱うMont-bellに勤めており、今回も寝袋やテントなどをいち早く被災地に届けることで動き、その義援隊を志願して現地に入った、とのこと。その時の写真も送ってくれた。何もできなくて悶々としていたので、いち早く動いている仲間がいることを知って私もうれしく思い、この会社にすぐに義援金を送った。

私は何ができるだろう?阪神淡路大震災のときは大学生で、当時インターネットがほとんど普及していなかった時代に、私のいたキャンパスはいち早く進んでいた。避難所から受けたFAXに書かれた必要な物資の情報を当時主流だったパソコン通信を使って、協力してくれるコミュニティに流すというボランティアを春休みに入った大学に通いながら行っていた。

2011年の東日本大震災は女性起業家と共に被災地に入ってソーシャルニットワークプロジェクトを始めた。福島第一原発付近の大熊町から避難して東山温泉に避難した人々は2カ月経っても家に戻れず、お金も節約して1時間も歩いて会津若松の街中へハローワークへ職を探しに行っていたり、津波で何もかも流された宮古の人が3か月経っても体育館で段ボールで間仕切りされた場所で生活されており、そこも見学させていただいた。仮設住宅にもお邪魔して一緒に編み物もした。

2015年、この時の経験を活かして、ネパールの大地震の後、12月末にカトマンドゥを訪れ、ソーシャルニットワークプロジェクトを立ち上げた。数カ月経っても電気が通っておらず、私が滞在していた小さなホテルで暖房も使えず、毛布を3枚ぐるぐる巻きにしてようやく眠れたが、朝は氷点下になる。まさに今の能登半島と同じだ。幸いにも水は出たので歯磨きなどには困らなかったが、給湯器が使えないので体は何とかタオルを濡らして全身を拭いたがシャワーをする気にはなれない。そして髪の毛を濡らした後も乾かせないので躊躇する。日中に陽がさすとあちこちから人が集まってきて、日向ぼっこができる時が何よりの幸せだった。でも現場の被災した人たちはコンクリートの壁に囲まれて入り口をビニールシートでふさいだようなシェルターにおり、もっと過酷な状況だったので文句は言えなかった。確か2、3泊したと思うのだが、二度と味わいたくない経験だった。その時の気温とほぼ能登は同じだと思うと、どれだけ辛いだろう…と。

これまでの震災同様、何年にもわたって応援は必要になってくる。1つ頭の中にあるのは、みんなから応援をもらっていると被災地の皆さんが遠慮したり恐縮してしまうのではなく、そこにいる人も何かで社会に役立っている、貢献していると誇りが持てることが大事なのではないか、と。例えば、伝統的な日本家屋の多い地域だったので、たくさんの瓦が割れている。それを瓦礫として単に処分せず、細かく砕いで水はけのよい瓦の利点を生かして公共施設の道路沿いに生かされ、リサイクルとなっているとか。

あるいは現在寒いので低体温症にならないためにもたくさんの使い捨てカイロを使ってもらいたいのだが、単に捨てるだけではもったいない。以前カイロの原料を水の浄化に生かしているというニュースをテレビで見たことがあったので、例えば被災地で使われたものを集め、今後の水の浄化に生かすものへと生まれ変わらせて、お寺の池、川の水の浄化などに生かすなど(今回も生活用水がかなり困ったようなので)、何か自らの行動で社会に還元できることにつなげられないか、そんなことが私の中ではよぎっている。使い捨てカイロを回収するということであれば、例えば物資を現地に届けに行ったボランティアの人々が帰りの便で持ち帰って発送するということもできる。

今回の号で紹介するインドの社会起業家で紹介しているSELCOはなかなか面白い。チャパティの話を13ページ冒頭に紹介したが、単に電気を貧困層に普及させるというだけでなく、仕事を創り出している点が興味深い。こういうアイディアは被災地でちょっと前向きに動き出そうという時に学べる要素がいろいろある。

これから暑い時のボランティアは大変なので、ソーラーパネルでかき氷マシンでもいいかもしれないなぁとも考えていたが、チャパティに代わる日本独自のものだと「飲む点滴」と呼ばれる甘酒づくりをソーラーパネルの熱源で作るというのもいいかもしれない。工事、建築などの重労働に携わる人、警備で立ちっぱなしの仕事の人、あるいは片付けなどでボランティアに入る人など、気候が温かくなっても多くの人が今後も能登に携わる。甘酒は糀と水があれば甘酒が作れる。ポイントは50~60度に温めて10時間ほど保つことだ。これをお日様の力で温度を調整出来たら、電源にお金はかからない。カンボジアでもカシューナッツの薄皮を剥く際に電気のない村でソーラーオーブンを作ったのだが、大きな鍋にお湯を常に沸かし、そこからポンプでお湯をくみ上げて(このポンプに動力が必要で、太陽光発電を活用)オンドルのようにお湯の熱を庫内に届け、冷めたお湯は再び鍋に戻して沸かして循環させるような仕組みを作った。山口大学工学部の先生と共同開発したので、例えば地元の金沢大学の先生や大学生たちとそんな機械を考案して作り、糀も全国から集め、被災地の皆さんが自分たちが飲むだけでなく、応援に来た人たちにもふるまえないだろうか。冷やせばアイスクリームの代わりに夏バテ予防にもいいかもしれない。 

まだアイディアレベルではあるが、世界の事例からも学び、被災地と何か繋いでいけたらいいなと思っている。

国境を越えて社会的共通資本を守る

CWB メンター 松井名津

シビルミニマムの前号で後藤薫平さんが宇沢弘文氏の社会的共通資本について紹介しました。 それは、1)森、空、海などの自然、2)橋などのインフラ、3)教育、福祉などの制度です。これらの社会共通資本は、人々が「豊かな経済生活を送り、洗練された文化を発展させ」、「持続可能で安定した人間にとって魅力ある社会」を実現するための社会装置として不可欠なものです。 この定義に基づいて、私は宇沢氏の社会的共通資本とパトナムの「社会的共通資本」をあえて組み合わせてみたいと思いますが、後者は経済学ではなく社会学の概念および定義です。

なぜ私が宇沢氏とパトナム氏の考えをあえて組み合わせようとするのかを説明する前に、パトナム氏の「社会的共通資本」の概念を説明した方がよいでしょう。 彼の有名な著書『孤独なボウリング』の中で、彼は近所のコミュニケーションが減少するにつれて、投票などの社会活動への積極的な参加が減少すると主張しました。また、他者への思いやりや共感が減少する傾向も反映しています。一緒にボーリングをしたり、ビンゴゲームに集まったりする近所の施設が減少するにつれて、米国の人々は個人主義的、さらに言えば自己中心的になっています。たとえ普遍的な初等教育や国民皆保険などの優れた社会制度があったとしても、人々がそれに参加できなかったりすると、これらの社会制度は当然のものとみなされがちです。そうなると形骸化してしまいます。だからこそ、私は宇沢氏とパトナム氏の「社会的共通資本」を組み合わせたいと考えています。

典型的な例は日本のPTAです。大日本帝国は敗北し、同盟軍、特に米国に占領されました。占領軍のGHQは、日本を民主的で自由な国家にするために、多くの古い確立された制度を変更したいと考えていました。 教育もその制度の一つで、GHQは小学校ごとにPTAという制度を作るよう要請しました。PTAは、米国のモデルに基づいて設立された保護者と教師の団体です。保護者と教師は、学校を取り巻くさまざまな問題や問題について話し合います。子どもへの教育だけでなく、大人への教育も。また、学校生活と家庭生活の橋渡しをし、各学校を地域社会の中心とすることも目的としていました。しかし、日本が急速に経済成長するにつれて、保護者はPTAに参加することに消極的になりました。その理由の一つは、PTA制度がトップダウン制だったということです。PTA全体で取り組むべき課題は中央PTAが決定します。各地域のPTAは、これらの問題にあまり関心を持っていない場合がありました。各PTAの活動は例年と同じで、社会に合わせて変わるものではありません。一言で言えば、本質を失ってしまいます。

日本のケースとは対照的に、プンアジの両親のミーティングは現在非常にうまくいっています。親はプンアジのコンセプトや使命を知っており、積極的に質問し、時には子供たちにプンアジのルールに従うよう説得します。両親はプンアジ自体に強い関心を持っています。

この例が示すように、社会的な仕組みをうまく機能させるには、強い動機と、強い関心を持つ人々の積極的な参加が必要です。もちろん宇沢氏はこのことをよく知っていますが、残念ながら経済分野では政府の政策のみに焦点を当てています。いずれにせよ、社会共通資本を自ら保全・維持していくためには、仕組みと人の両面を見据えることが重要です。そこで私は、宇沢氏とパトナムの社会的共通資本の概念を組み合わせます。

では、グループとして、組織として、社会的共通資本を維持し維持するにはどうすればよいでしょうか? 営利企業?理論的に言えば、営利企業は十分な利益が得られないため、社会的共通資本を維持する責任を負いません。協同組合はどうでしょう?ブルーノさんの翻訳からわかるように、モンドラゴンは個人向けの金融システム、教育施設、相互扶助などの社会の仕組みを作りました。モンドラゴンまたはバスク地域内に限り、モンドラゴン協同組合は社会的共通資本を保存および維持しています。

雇用などのビジネス面だけでなく、バスクの文化やコミュニティも同様です。従業員はモンドラゴンの使命とコンセプトをよく理解しており、モンドラゴンのメンバーであることに誇りを持っており、その経営に責任を持っています。しかし、バスク州外では、モンドラゴンが独自性を維持できない場合があります。その理由は、モンドラゴンがバスクのコミュニティに強く結びついていたからではないかと推測します。スペインがEU市場に参加したとき、彼らはスペイン国外で事業を拡大する必要がありました。外国企業や他の企業と競争するためです。

現在、社会的共通資本をどのように維持し、維持し、再生するかという問題は国境に制限されません。川、山、海、空気、それらは人類にとっての社会共通資本です。 地球温暖化は言うまでもなく、社会共通資本のそれぞれの問題は、すべての人類に影響を及ぼします。しかし、地球規模の問題は、各人にとって、その人の認識やイメージを超えている傾向があります。それぞれが関心を持っている社会共通資本、つまり各個人を取り巻く問題を維持することは容易でしょう。先進国ではありますが、各人にとって共通の利益を見つけることは非常に難しいことでもあります。政府が社会共通資本を維持すると、社会の緊張が高まることがあります(また、政府は金融危機により社会的共通資本を維持する力を失いました)。

幸いなことに、アジア諸国にはコミュニティが残っています。彼らは地域社会との強いつながりを保ち、自然とともに暮らしていました。 しかし、これらのコミュニティは「グローバリズム」と「モダニズム」によって脅かされています。彼らは伝統的な生活様式、伝統への誇りを失いました。一つのコミュニティだけでは生活を維持することはできません。一方で、コミュニティが自らの伝統や文化を強くコミットし、力ずくで維持する場合には、外国人を排除したり、外部からの変化を否定したりすることになります。それは最終的に彼らのコミュニティを弱体化させます。各コミュニティは互いに協力する必要があります。しかし、どうやって?

モンドラゴンの重要なポイントからいくつかのヒントを得ることができます。まず各コミュニティは、自分たちの核となるアイデンティティは何なのか、そしてアイデンティティを維持するために必要な社会的共通資本は何かを明確にする必要があります。第二に、各コミュニティは各メンバーがコミュニティの一員となるよう動機づけるべきであり、各メンバーは個人の尊厳として成長する機会を持っています。次に、各コミュニティは他のコミュニティと連携する方法を模索します。場合によっては、リサイクルを促進する方法など、1つの問題だけについて協力することもあります。時には、特に教育に関して多くの問題や側面と協力し、スキルや知恵を交換します。最も重要なことは、各コミュニティが互いに競争し、刺激し合う対等なパートナーであることです。一言で言えば、使命、哲学、野心に基づいたコミュニティネットワークを作ることです。 このようなネットワークの構築に成功したら、私たちのネットワークに興味のある他の組織や人々と協力していきます。 他の組織や人々は、社会的共通資本の維持についてそれほど深く考えたり行動したりしないかもしれませんが、私たちのネットワークとともに行動し、それらの一部は影響を受け、より深く協力します。 それは、私たちにとって不可欠な社会的共通資本をどのように維持するかを解決するために、上から下へや組織を作るのではなく、世界的なネットワークに拡大する方法です。

コスタリカ:コーポラティズムと国家

CWBメンター 松井名津

ブルーノさんが英訳してくれたコスタリカのコーポラティズムパート1からパート3までを読んで、ひどく不思議に思ったことがある。それはコスタリカではコーポラティズム(協同組合主義)と国家がとても密接な関係にあることだ。

例えばパート2ではコスタリカの協同組合をめぐる法制度が取り扱われている。1940年前後から営利企業に関する法律、労働者に関する法律等々が整備されていくが、その中で、協同組合に関する方が整備されたとされている。しかもこうした法律の淵源に1871年に策定された憲法(マグナカルタ=大憲章と書かれている)があって、そこには国が協同組合(協働型の組織)を促進するとともに労働者の生活水準の向上に取り組むべきとされていた。さらに1947年にはコスタリカ国立銀行が、協同組合を支援し、監督、指導するとともに、協同組合を設立するための動きを促進し、教育する事が定められている。

こうした法制度や条項は政治的動向に左右され変更が加えられるが、1972年には国立銀行とは独立したINFOCOOPが設立され、国家がコーポラティズムの促進と発展に関与する事が表明された。ここで協同組合としているのは消費者協同組合だけでなく(というよりもむしろ)生産者の協同組合であったり、労働者の住環境向上を目指す協同組合であったりと、さまざまな役割を果たす中間団体を指している。

パート3ではコスタリカのコーポラティズムと国家との間の関係性が論じられている。そこでは20世紀前半にコスタリカの協同組合は国家と市場の間に抜け落ちてしまう社会の最も脆弱な部分に浸透することで、その勢力を強めたと論じられる。とはいえ、国家との関係や国家の介入は当初から「ある」ものであって、時に政治的な集票マシーンとして、時には労働者や脆弱な部分をコントロールする機関として働いたとされる。

 なんだか旧ソビエト連邦の組合とか共産党と国家の関係を思い出してしまいそうなのだが、論文全体の調子で見る限り、協同組合が厳しい統制化に置かれているというわけではなさそうだ。どうやらコスタリカ特有の状況があるのではないかと思った。

コスタリカは中南米諸国でも特有の歴史と特徴を持っている[1]。歴史的には厳しい山岳地帯と熱帯雨林に囲まれた地理的状況から、スペイン植民地支配の周辺部分に置かれていた。コスタリカはメキシコやグアテマラと同じく、グアテマラ軍務総監領に属していたのだが、グアテマラやメキシコが独立したのと同時にコスタリカも自動的に独立を果たした―ただし、コスタリカがそれを知ったのは独立後1ヶ月経ってからだったという。それほど植民地統治中央から遮断された領域だったといえよう。その後コスタリカは、1856年隣国ニカラグアから攻め込んできたアメリカ傭兵部隊を退けた「国民戦争」によって一つの「くに」意識を高める一方、18世紀から19世紀にかけて整備され大きな経済動力となったコーヒーとバナナの輸出によって経済力を高めていく。しかし20世紀前半のコスタリカ社会は「珈琲貴族[2]」と呼ばれる一人握りの人たちに掌握されていた。

その一方で1870年にクーデターにより大統領となったトマス・グアルディア将軍により、一院制議会と強い大統領権が認められた1871年憲法が制定された。これが先に触れた大憲章であり、トマス・グアルディアの後も「リベラル[3]」な大統領が続き、権威主義的な「自由主義国家の時代」を迎える。この自由主義国家の時代に、コスタリカでコーポラティズムが生まれ、成熟を始めたわけである。社会的にはコーヒーやバナナによるモノカルチュアの基盤を掌握したエリートたちによるエリート的社会の中で、職人や手工業者、都市労働者の相互扶助を目的としたコーポラティズム(ワーカーズコレクティブも含む)が形成されたとパート1で書かれているが、その背景にはこうした政治的動きがあったといえよう。また第一次世界大戦による輸出収入減の中で、主要産業であるコーヒー産業でも1918年に協同組合が生まれ、輸出業者や大規模生産者に対抗したとパート1で述べられている。この第一次世界大戦による経済危機を乗り越えるために経済改革と税法の革新に取り組んだのがリカルド・ヒメネス大統領であり、この時期から珈琲貴族による寡頭政治が衰え始める。パート1でもこの時期にコスタリカの農業組合は国の政策と軌を一にして、失業者救済や農業貸付を行い、社会的緊張を和らげたとある。小澤卓也による「『自由主義』時代は独裁的な大統領による『上からの』近代化政策から始まったが、やがてその『自由主義』を本当の意味で実現しようとする市民たちの『下からの』運動によって政党政治へ[4]」の移行が社会的側面でコーポラティズムとして現れたともいえる。

さらに1948年の内戦を経て成立した1949年憲法では常備軍が廃止されるともに、女性や黒人の政治参加も認められ、1919年以降中南米諸国の中で唯一クーデターを経ない政権交代が常となっている。コスタリカでは軍事費に回される予算が教育と福祉に使われるといわれ、高い識字率と低い乳幼児死亡率を誇っている。こうした背景がコーポラティズムと国家介入との親和性をさらに高めていると考えられる。国民の民主主義への支持や満足も高く、民主主義に対して固有の価値を持つ国民が存在していると考えられている[5]

 しかし、コスタリカは1970年代最後の経済危機の結果、世界銀行およびIMFからいわゆる「構造改革」を迫られる。80年代には「新しい保守」として社会問題への国家介入を制限し、国際的なビジネス関係を優先する経済政策がとられた。協同組合に有利な制度や税制は廃止され、一般企業や多国籍企業の参入がより容易になった。また多くの国と同様に公営企業の民営化と自由化が図られた。しかしコスタリカでは例えば公的ヘルスケアの民営化は「サービスのコスト上昇なしにヘルスサービスを継続させ、貧しい住民に対してケアを制限したり、応分負担を求める(負担できる金額に応じた手当のみを行う)ということなしに実施された[6]」。諸々の協同組合は、民営化に伴う負担増やサービスの停止といった国民の不満を増大させる政策のバッファーの役割を担うこととなった[7]

コスタリカの財政赤字の要因の一つは国内債務で、国債発行による財政赤字補填の拡大やが元本と利子の返済が財政を圧迫しているという。日本の現在の財政状況を考えるとき、コスタリカ以上の財政縮減(もしくは増税)が迫られるであろう。その時日本の各種協同組合が、社会と国家のバッファーとしての役割を果たすことができるだろうか。コスタリカでは民主主義が根付いており、大統領選挙への投票率も常に高い(80%程度を維持している)。国家の政策をどう受け入れるかに関して、協同組合をはじめ様々な中間組織を含んだ諸団体との協議や契約の形成が図られている。コスタリカは人口も少なく、資源に恵まれているともいえない。中米諸国の中では先進国並みの医療制度や公教育制度があるとはいえ、高度な医療や教育にはまだまだ手が及ばない。しかし環境政策や外交政策において対米従属だけではない独自性を発揮し、国際社会の中で発信している。コスタリカのコーポラティズムはこうしたコスタリカ独自の特質の中で、国家とともに成熟し、また変容―効率化―してきたといえよう。今後コスタリカの協同組合が、ビジネス的な要素を取り入れつつ、社会性を活かす取り組みを継続できるかが問われている。これまでの歴史から国家との密接な関係がどこまで個々の協同組合の財政に影響を及ぼしていたのかは、今回の4つの論文から伺うことはできない。もし日本的な補助金制度があり、それに依拠していたのだとすれば、ビジネス要素を受け入れることは難しいだろう。しかし、協同組合を管轄するINFOCOOPが協同組合の財政規律を重んじていたとすれば、公的・行政的な要素から脱して、社会的役割とビジネス要素のバランスの新しいモデルの一つとなることができる。民主主義への高い参与意識がこうした新しいモデルへの道を切り開くのではないかと考える。


[1] 以下の記述は国本伊代(編著)『コスタリカを知るための60章【第2版】』,明石書店, 2016年による

[2] コスタリカのコーヒー生産は中小規模の農家によって行われており、いわゆるラチフンディアシステムではなかった。が、生産から一次加工・二次加工・流通・輸出までを独占的に支配していたのが珈琲貴族である。

[3] ここでの「リベラル」「自由主義」は国家が国民の生活水準や福祉水準に責任を持つというケインズ主義的な政策をとる主義のことである。アメリカ合衆国でもリベラルといえば、こうした社会民主主義的傾向を持つ政治的見解のことを指すので注意が必要である。

[4] 小澤卓也「『自由主義時代』と政党政治―政治を動かした市民」,前傾書所収.

[5] 久松佳彰「コスタリカにおける民主主義の価値―ラティノバロメトロに基づいた記述統計」,山岡神奈子編「調査研究報告書 コスタリカ総合研究序説」アジア経済研究所,2012. https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/2011/2011_412.html 2023年11月9日アクセス

[6]Cooperatisim in Costa-Rica Part III。また宇佐美耕一は1980年代の財政危機を原因とする医療サービスの低下や保険省とコスタリカ社会保険公庫との二重行政の問題の改革が、医療部門に市場原理を導入する方向で行われたとする。が、この改革が国民に受け入れられた理由として、超党派の医療係者の専門委員会が設置され、国内の政治合意のもとに改革が遂行されたことを挙げている(宇佐美耕一「第4章中米の福祉国家における新自由主義改革―コスタリカの社会保障制度改革―」アジア研究所『岐路に立つコスタリカ:新自由主義か社会民主主義か』(アジア研究所選書36, 2014年所収)

[7] とはいえ2000年には通信部門への一般民間参入を求める法案に反対して、電力公社(電力・通信)の労働者を中心とし、一般労働者や学生が参加した大規模なデモが起きている。(松田郁夫「第41章ようやく動き出した民営化と遅れる財政改革」国本伊代(編著)前傾書所収)

インドの大学と「社会起業」研究所でCWB8か国が協働 ―会議で会ったヴェンカテシャ・ナヤックさんの社会起業家50人を紹介

CWB 奥谷京子

ご縁というのは不思議なものだ。2018年に南インドのマンガロール大学でネパールのアリヤさんをはじめ、CWBメンバーが社会起業に関して紹介をしたのを聞いていたヴェンカテシャさんとはSNSで繋がっており、ウェビナーでゲストとして一度お話もさせていただいたこともあった。

その彼が、今回本を書くので書評を書いてほしいという連絡が来て、この社会起業のムーブメントをインド、そして世界へと発信していきたいのだろう。

――『Seed of Change』には、社会起業家の成功事例が50件紹介されており、外国人にとっても非常に分かりやすいです。とても励みになったので日本語に翻訳したいと思います。 私たちは分断の時代に生きています。国家は他国と戦います。しかし、影響を与える人たちだけでなく、市民も国境を越えて地に足を着いて(心を開いて)、草の根からパラダイムを変えていく必要がある。新しい世界を作ろう!

ここに載っている事例には映画にもなって日本でも知られているものもある。このような成功事例を踏まえて、自らの手でどれだけ育て、作っていけるか、だと思う。ちょうどスリーダラー教授が現在、ITで有名なバンガロールの新しい大学で社会起業家研究所のようなものを作りたいという話が出て、準備を始めている。

かつてマンガロール大学に行った時に大学に通う生徒はいわば人口の数パーセントでエリート意識が強い。しかし、階層意識が根強くあり、ソーシャルニットワークプロジェクトのスジャーナさんと一緒に編み物を練習していたら、毛糸のくずなどをあっさり床に落とした。わざわざゴミを作らなくても…と思って「こんなのはまとめてゴミ箱に捨てたらいいじゃない?」と指摘すると、「これも清掃する人たちの仕事づくりです」と女子学生がぽろっと発言したことに驚いた。

これでは地域の人々と同じ目線に立って何かを始めるのは簡単ではないかもな…と感じたことがある。しかし、大学に行くチャンスを得ていろんな情報を持っているからこそ、世の中の難しい課題解決に若いエリートはチャレンジをするという息吹が生まれたらと願っているし、CWBも一緒に推進していきたいと思う。この1冊が社会起業に関心が増える人々がインドだけでなく、世界に増えることを願っている。

今年はこのインドの社会起業をシビルミニマムでも連載で紹介していきたいと思う。

  • アンシュー・グプタ:

思いやりのレガシーを繋ぎ合わせる

インドの社会経済が織り成す複雑な風景の中で、アンシュー・グプタは仲介人のプロとして、都市部の過剰なニーズから農村部のニーズまで、慈愛のレガシーを繋ぎ合わせている。ウッタル・プラデーシュ州の中流階級の家庭に生まれたグプタは、大きな野望と変革に満ちた物語として展開される。グプタはメディア・インターン時代に、インドの農村部の恵まれない人々の厳しい現実、特にまともな衣服も着られないことに直面した。この発見により、彼の人生の使命、そして原動力となっていった。

グプタが設立したNGOのGoonjは、彼のヴィジョンを実現するための器となった。グプタは、インドの都市部で余っている資源を、農村部の人々の満たされていないニーズへと導くパイプ役を担っている。グプタが中古品、特に衣料品の再分配に力を注いでいるのは、より公平な社会を作ろうとする彼のコミットメントの証である。

Goonjの影響は、日常的なチャリティをはるかに超えて反響を呼んでいる。グジャラート州、タミル・ナードゥ州、ケララ州での自然災害の後、グプタと彼の組織は希望の光となった。グプタの救援・復興活動は直接的な被害を軽減するだけでなく、アショカ・フェローシップや社会起業家賞など、名誉ある賞も受賞している。

グプタのリーダーシップの下、Goonjは衣服だけにとどまらない。地域社会の進化するニーズに適応し、ダイナミックな変化をもたらしている。グプタのヴィジョンは再生可能エネルギーの領域にまで及び、低所得世帯に持続可能なソリューションを提供することを構想している。この画期的なプロジェクトは、Goonjの影響力の視野を広げ、進歩と自給自足への道を照らす。

グプタが物語を紡ぎ続けるにつれ、この物語は単なる社会起業家精神の物語ではなくなっていく。それは思いやり、レジリエンス、そして溝を埋める勇気を持った男の不屈の精神の物語である。グプタはGoonjを通して、思いやりの糸が地域社会を結びつけ、都市と農村の二項対立を超えた物語を紡ぎ出している。

グプタの手にかかれば、チャリティはエンパワーメントの物語へと変貌する。グプタの旅は、一針ずつ変化を生み出す人間の精神力についての深い探求である。Goonjという織機が動き続けるなか、アンシュー・グプタの物語は、彼の人生の証としてだけでなく、より思いやりのある公平な世界へのインスピレーションとして響いている。WEB> https://goonj.org/

  • ドゥルヴ・ラクラ

 ミラクル・クーリエ エンパワーメントの人生

活気あふれるムンバイの中心で、声なき人々の静かな闘いとぶつかり合いながら、ドゥルヴ・ラクラはミラクル・クーリエを通してエンパワーメントの物語を作り上げた。

ヴィジョンを持った社会起業家であるラクラの人生は、宅配便サービスを営むという意図だけでなく、インドの聴覚障害者コミュニティの機会を再定義するという意図から始まった。

2009年1月に設立されたミラクル・クーリエは、単なる宅配サービスではなく、インクルーシブとエンパワーメントの象徴である。このアイデアは、ラクラがムンバイのバスの中で、定期的なアナウンスにもかかわらず、耳が聞こえないために移動することができない少年に遭遇した、痛切な瞬間に出会ったことがきっかけとなった。この出会いは、聴覚障害者が直面する課題を見過ごしがちな世の中で、聴覚障害者コミュニティが直面する無言の闘いを実感するきっかけとなった。

ミラクル・クーリエの種はこの意識から発芽し、ラクラは聴覚障害者とろう者の間のギャップを埋める行動に出た。ビジネスと社会セクターの両方における学識と経験を生かし、彼は聴覚障害者に有意義な雇用を提供できる営利目的の社会事業を構想した。

聴覚障害者の視覚的な洞察力を理解していたラクラは、彼らは視覚がスキルとして活かせる強みと最低限の言語的コミュニケーションで成り立つ宅配便事業を選んだ。

3人の従業員から始まったこの事業は、今では50人以上の従業員を抱えるまでに成長した。市内に2つの支店を持つミラクル・クーリエは、50社以上の企業から毎月75,000件以上の配達を請け負っている。

ミラクル・クーリエは、ビジネス領域における単なる成功物語ではなく、社会変革と認知の道標なのだ。ラクラと彼のチームによる卓越した活動は、ヘレン・ケラー賞、エコイング・グリーン・フェローシップ賞、インド大統領自らが授与する障害者エンパワーメント国家賞など、名誉ある賞を受賞している。

ミラクル・クーリエは、数字や称賛にとどまらず、聴覚障害者コミュニティに機会を創出するというラクラのコミットメントの証でもある。共感とヴィジョンを原動力とする社会起業家が、いかにして生活を向上させる持続可能なビジネスを生み出すことができるかを示す模範となっている。会社の成長は、単に出荷量で測られるのではなく、ミラクル・クーリエを通じて目的と尊厳を見出した聴覚障害者の従業員一人ひとりの静かな勝利で測られる。

ミラクル・クーリエは、一見平凡に見えるサービスが、いかにして障壁を打ち破り、より包括的で思いやりのある社会を育む、変革のための並外れた力となりうるかを示す、輝かしい例であり続けている。

ドゥルヴ・ラクラの人生は、単なる起業家精神の物語ではなく、エンパワーメントの物語であり、すべての配達が荷物だけでなく、より良い、より公平な未来の約束を運ぶことができることを証明している。   

WEB:https://www.miraklecouriers.com/

  • ハヌマッパ・スダルシャン

部族の権利を擁護し、コミュニティに力を与える

インドの多様な風景の中で、ハヌマッパ・スダルシャンは部族の権利の献身的な擁護者であり、コミュニティのエンパワーメントの影響者である。

1950年12月30日、カルナータカ州イエマルールに生まれたスダルシャンの人生の歩みには、インドの部族民の幸福と向上に対する深いコミットメントが反映されている。医学の専門家として研修を受けたスダルシャンは、バンガロールの医科大学を卒業後、思いがけない方向へと歩みを進めた。ラマクリシュナミッションと手を組むことを選んだ彼は、従来の医療の枠を超えた使命に乗り出した。カルナータカ州の緑豊かな野原から、そびえ立つヒマラヤ山脈まで、スダルシャンの人生は、国の隅々にまで医療サービスをイニシアティブに展開した。

スダルシャンのヴィジョンは医療ケアにとどまらず、社会から疎外されがちな部族コミュニティにも及んだ。1980年、彼はカルナータカ州の部族集団の総合的な発展に焦点を当てたヴィヴェーカナンダ・ギリジャナ・カルヤナ・ケンドラを設立した。この取り組みは、医療にとどまらない変革の始まりとなった。さまざまな部族が暮らすカルナータカ州チャマラジャナガル地区は、スダルシャンの仕事の中心となった。

スダルシャンの努力は医療施設の提供にとどまらず、部族コミュニティの教育、生計、技能の向上にまで及んだ。この包括的な開発アプローチにおいて、スダルシャンは地域の生態系の保全にも同じように重点を置き、伝統的な慣習と現代科学の調和を生み出した。

彼の組織であるカルナ・トラストは、このヴィジョンをカルナータカ州だけでなく、アルナーチャル・プラデーシュ州にも広げている。

部族福祉に対するスダルシャンのコミットメントは、タミル・ナードゥ州、カルナータカ州、アンダマン・ニコバル諸島、アルナーチャル・プラデーシュ州の部族の生活に消えない影響を残しているヴィヴェーカナンダ・ギリジャナ・カルヤナ・ケンドラ(https://vgkk.in/)という組織を通して、さらに顕在化している。

部族の若者たちが率いるこの組織は、学校、職業教育トレーニングキャンプ、ヘルスケアセンター、意識向上プログラムを通じて、ホリスティックに充実することに重点を置いている。

スダルシャンの貢献が注目されないことはない。パドマ・シュリ賞、ライト・ライブリフッド賞、社会正義のためのマザー・テレサ賞など、名誉ある賞を受賞している。マハトマ・ガンジーとスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(ヒンドゥー教の改革者)の理想にインスパイアされた彼の謙虚さと献身は、社会奉仕に捧げる生き方に反映されている。賞賛にとどまらず、スダルシャンの人生には深いメッセージが込められている。彼の活動は、寛大な行為としてではなく、本質的な責任として、部族社会の声に耳を傾け、向上させる必要性を強調している。彼のたゆまぬ努力によって、スダルシャンは身体を癒すだけでなく、不当に沈黙させられている人々の力強い代弁者となり、より包括的で公平なインドを提唱している。

WEB: https://www.karunatrust.org/

日本より少ない人口でGDPで抜くドイツー生活の質

CWB 奥谷京子

何年ぶりだろうか、久しぶりにヨーロッパに足が向いた。アジアを軸に置いてから離れていたのだが。年明けに知り合いのドイツ人が結婚すると聞き、ぜひ9月の式に参加したいと思ったからだ。春にはチケットも手に入れ、着物も洋服感覚で着られるようにと起業家にも着方を教わり、行く気満々だった。しかし、8月にカンボジアでパスポートを紛失して再発行が間に合わず、日程を振り替えての訪問だったのだ。

その家族にお祝いを持って行く以外には特別な目的もなく、春先から夏場のヨーロッパは何度か訪れたことがあるが、寒い時期にはない。アジアの暑いところで活動している身としては寒いのはどうも億劫だったのだが、車窓から見える紅葉が美しく、どこを切り取っても絵になる。この時期に訪れてよかった。1日5~10キロ歩き回って、とても充実した1週間を過ごせた。

大学時代にドイツ語の同じクラスで勉強していた友人と再会したり、8年前に来日したドイツ人ジャーナリストにも再会できていろんな話ができたし、知人のドイツ人の家はオーガニックの酪農家なので、食品表示について尋ねてみたり、一人の時はひたすらオーガニックのスーパーなどを探してカシューナッツの加工品がどれくらい売られているのか、ビーガン事情などを見てみたり、今の仕事に関連するリサーチもいろいろできた。また、飲料ボトルのリサイクルの仕組みに関してはCWBのアジアメンバーに役立つだろうと思って、それも取材した。

折しも日本が世界のGDPの順位もドイツに抜かれ、一体何が違うのかというところも実は興味があった。

今回行ってみて、ドイツと日本はよく似ているところもある。例えば、高齢者の多さ。カフェに入っても高齢者の団体も多いし、日本と同じくみんなお元気だ。それから現金信奉も根強い。もちろんクレジットカードを使っている人もいるが、スーパーで買い物をしているのを見ると7割くらいは現金で払っていると思う。そしてアジアでは主流のQRコード払いは見かけなかった。そしてジャーナリストに聞いたのは、パンデミックが明けて、飲食店での人手不足が深刻なのだそうだ。   

以前従事していた人たちはどこにいるんだろう、と。日本も飲食店はいつも募集のチラシがあるし、ホテル業もだよと言ったら、彼女もうなずいていた。介護の仕事はベトナム人も日本を選ばずにドイツのほうが賃金が高いので結構行っていると聞いたのだが、ミュンヘンや郊外にはまだそこまで外国人ワーカーを入れている感じはなかった。アジアのスーパーも増えているが、やはり気候や食文化の違いは大きいのかなという印象だ。

私が30年前にミュンヘンに語学を勉強しに行った時と6年くらい前に再びミュンヘンを訪れた頃も雰囲気が変わり、観光客だけではなく生活する人たちも外国人が多いと強く感じた。中央駅周辺はアフリカ系やシリア難民を積極的に受け入れていたので中近東の顔立ちも目立っていた。今回はさらにインド人も多くなっている印象がある。

そしてアルプスに近くて壁に美しいフレスコ画が描かれていることで有名なガルミッシュ・パルテンキルヒェンは中近東の国々のセレブや王様が別荘を持っていたり、治療で長居をしたりするそうで、お金持ちが集まり、物価が急上昇している場所なのだそうだ。よそから来て家を買おうと思ったら100万ユーロ(1億6千万円)は軽く超えるという。ちなみに車の値段を聞いたら、フォルクスワーゲンだったら60万ユーロ(960万円)くらいするそうで、BMWとかはもっとすごいと言っていた。

食べ物については、夜ご飯で出てきたお肉などは15ユーロ、ビールを飲んでだいたい3,000円とかそれくらいの感覚だし、乳製品は安いので、食生活に関してはすごく高いという感覚はなかったのだが、ホテルも安くはない。ドイツに着いて日が暮れて暗くなるのも早いし心配だったのでフランクフルト中央駅前周辺をとろうと思ったら2万円は当たり前だったので、空港から反対方向に30分電車で行ったマインツにした。ちなみにオクトーバーフェストの頃はミュンヘン周辺のホテルは4万円以上10万円のところもたくさんある。大型都市よりも中堅どころのほうが治安もいい。

しかし、日本のビジネスホテルのような機能性やおまけサービスは全くない。パジャマもついていないし、歯ブラシセットや入浴剤などを選択できるアメニティコーナーもない。お湯を沸かすポットがないところも結構ある。ドライヤーはあるが、モーターの音だけが大きくて風量の少ないものもあるし、コンセントはユニバーサルではないし、USB用の穴もない。Cタイプの変換をもっていかなかったら、何も充電できなくなっていた。手洗いのソープとシャンプーは備え付け。そんなところで1万5千円くらいは当たり前にある。

そう考えると、日本は朝ご飯のバイキングも充実して、毎日メニューが変わり、今のユーロの強さからすれば半額くらいの値段で泊まれたら、外国人から見れば驚きだろう。過剰すぎるサービスに対して価格転嫁が追い付いていないのを強く感じる。しかし、無料サービスで大盤振る舞いではなく、最小限でも十分なことはいくらでもある。例えばアメニティを取り放題にすれば、1つずつパッケージされているものからもゴミも出るし、結局余計なものまで欲張って取って無駄にしてしまったりと、良いことばかりではない。日本の水はどこでも飲めるのだから、何も部屋にペットボトルをわざわざ用意しなくてもよいわけだし。コテコテにせずにもっとシンプルでよいのではないかというのが一番印象的なことだった。

とあるお店の中国人の店員と話していたら、コロナが明けて中国人も何でも欲しいというマインドから熟慮して取捨選択する人が増えているとも聞いた。確かに昔ほど爆買いして飛行機に乗る姿も関西空港でもなくなった。それもいいことだと思う。より熟慮して選ばれたものに納得した対価を払ってもらうために、本来の価値の高さ、現地でしか味わえない貴重な経験など、そういうものが世界の中で選ばれていくことなんだろうなと思う。高い技術、それをきちんと裏打ちする説明が“独立して”きっちりできている。

ドイツ人のジャーナリストが過去の歴史からドイツのジャーナリズムはとても独立性を担保してどこかの勢力に偏重したりしないように厳しく監視されていると話していた。食品表示1つにしてもいろんな情報が載っている。栄養価が5段階に評価されたり、動物福祉という観点でどういう場所で飼育されているかということ、ビーガンか、BIO(オーガニック)かなど。生産者側はお金を払わないと資格が維持できない点では我々のように弱小のグループを守るためにフェアトレード認証自体に反対するという運動要素も確かに大事だ。大量に流通するために条件が変更になるのも許せない。直接つながっていれば本当はこういう認証も必要ない話なのだから。しかし、いろんな国の人が住んで宗教上の理由から食べられないものがあるなど、ユニバーサルになればなるほど、誰もがわかる可視化というのも大事な要素だ。ここは島国である日本がとても遅れているところだ。原料が上がったから仕方なく値上げではなくて、より価値のあるものを胸を張って作り、売るという姿勢が大事なんだということを今回改めて学んだ気がする。

2つの社会的企業間でも競創:モンドラゴンとラ・ファジェダ

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが翻訳してくれたのは、より長い論文の第1部から第3部までだが、社会的企業を考える際にとても参考になる問題提起がされているので、一旦ここまでの翻訳をまとめて、コメントしてみたい。

【要約】

この論文はモンドラゴンの協同組合主義をマネタリズム資本主義に対して、連帯の原理に基づく「もうひとつの経済」を形成するものとして位置付けている。が、モンドラゴン自体が様々な経済的政治的変化の中で変貌を続けているため、その中核となる要素や動因を明確にするために、カタロニアにあるラ・ファジェダとの比較検討を行っている。そこでクローズアップされるのが、モンドラゴンが3つの要因によって動かされてきたことである。第一にバスクの人々に対して真っ当な生活ができるような職を作り出すこと、第二が労働者が主人公となること、この目的を達成するためにモンドラゴンが重視したのが教育である。第三が人々が自分自身が主権をもって行動するとともに、互いに協働できる人々となることである。この3つの要因は常にモンドラゴンを動かし続けたものである。しかしモンドラゴン自体が拡大し多国籍に展開するにつれて、組合員の中に参画に対する温度差が出てきたのも確かである。

ラ・ファジェダの創設者は元々精神障がいおよび精神疾患の治癒方法として「労働セラピー」を勧めていた。ラ・ファジェダはこの労働セラピーの実践の場であるとともに、精神障がいをもった人たちに労働を通じて自尊心を涵養するための場でもあった。そのためラ・ファジェダには専門のケアチームが組み込まれている。このようにラフファジェダはモンドラゴンと異なり、社会的プロジェクトとしての側面が強いが、補助金を受け取ることなく、今やスペインでも有数のヨーグルト製造企業として経営を続けている。特筆すべきなのは、ラ・ファジェダが精神障がい・疾患の人たちを雇用している企業であり、その製品が精神障がい・疾患の人たちによって作られていることを一切宣伝していないことである。ラ・ファジェダは精神障がい・疾患のある人が「通常の人」と同じく、仕事をし賃金を得ることが重要であると考えているため、自分たちの商品が「障がい」の故に売れていると見なされることを拒否し、商品の質によって消費者に選ばれる道を選択した。そのことが障がい・疾患の人たちの自尊心にもつながる。

モンドラゴンでは組合員は経営への積極的な参画を期待されるし、資本の共同所有者でもある。モンドラゴンでの教育はいかにして組合員=労働者を共同所有者として、自ら経営判断ができる人に育てるかである。したがって組合員=労働者は自分の仕事の内容や全体の中でのその役割を常に意識することを求められる。ラ・ファジェダでは仕事は各労働者の個性(障がいも含む)によって割り当てられる。

ラ・ファジェダでも教育は重んじられているが、それはあくまでも労働者が労働を通じて自己成長を遂げるためのものである。労働者は経営に関与していない。ラ・ファジェダで重んじられているのは仕事が「意味ある仕事」となっているかどうかである。

この両者の違いは、経営危機にあたって組合員=労働者がどのような行動を取るのか(求められるのか)によく現れている。モンドラゴンでは組合員は経営者の立場から自分たちの休日は賃金を自らカットして、経営を軌道に乗せようとする。ラ・ファジェダでも経営課題の解決のために労働者に宣伝等の活動を無償で求めた事があったが、一時期にとどまっているし、労働者自身も無償労働を拒否している。ラ・ファジェダの労働者にとって賃金は自分たちの生活と同時に自立や自尊心を支えるものでもある。

ラ・ファジェダの経験がモンドラゴンに突きつけている問いは、個人の自己成長や個性の発展と経営事業体としての連帯との間のバランスである。これはビジネスと社会性のバランスとともに、社会的企業にとっては大きな課題の一つである。

【コメント】

格差が拡大し深刻化する日本で、ワーカーズコレクティブやアソシエーションに対する関心が再び(あるいは三度?)高まってきている。シビルの読者にとってはいまさらの感があるかもしれない。元来、資本主義的な雇用関係でも無償労働でもない「もう一つの働き方・生き方」を目指した運動として、1980年代に始まったワーカーズ・コレクティブの実践と展開に関しては、私よりもむしろ読者の皆さんの方がより詳しいだろうと推察している。それでもなお、今この時期にモンドラゴンやラ・ファジェダといった社会的協働組織の記事を掲載し、その意味を考える必要があるのではないかと私は考えている。

その理由の一つはモンドラゴンが追求してきた経済性と民主主義的な経営事業体(連帯)との両立が今なお課題だという事があるし、この論文で指摘されている「意味のある仕事」がグローバル化の中でどんどん失われているという問題がある(意味のある仕事の対局にあるのが「クソ仕事(ブルシット・ジョブ)」である。詳細はデイヴィド・グレーバー著『ブルシット・ジョブークソどうでもいい仕事の理論』を読んでほしい)。もう一つの理由は果たして日本で社会的協働組織をめぐる理論的・実践的な課題がどこまで真剣に捉えられているのだろうかという疑問がある。生来の天邪鬼体質のためか、研究分野が「思想史」だったせいかはわからないが、日本における「思想」(カッコ付き)の流行り廃りの速さを痛感する事が多々ある。ラカンにしろ、フーコーにしろ、新聞の書評欄や週刊誌の中吊り広告に名前が掲載されたかと思うと、消費されて消えていく。その中で実践上の課題、実際の社会問題は解決されないまま、滞留して残り続けていく。そんな気がしてならない。というのも、会社に縛られた正社員と不安定で低賃金の非正規雇用という構図の「外」として、ワーカーズ・コレクティブがあるとして、その厳しさと同時に日本的なワーカーズ・コレクティブの特質がきちんと位置付けられていないと考えるからだ。

もちろん私は専門的な研究者ではないし、実践家でもない。しかし「使命感」「働きがい」がワーカーズ・コレクティブの特性として指摘され、時に評価される(ただしそれは給与・報酬の低さの指摘と同時にである)のには違和感を否めない。ましてワーカーズ・コレクティブの事業分野が介護等の「エッセンシャルワークであり低報酬」の分野と重なることを考えると、日本社会が「やりがい」や「使命感」を食い物にして成立しているのではないかと疑いたくなる。この点に関しては今回の論文でラ・ファジェダの労働者が「真っ当な賃金」を要求して、タダ働きを拒否したことをあっぱれと言いたくなる(もちろんそれをきちんと認めたボードに対しても)。

しかしそのためには「厳しい」市場社会で生き残る、つまりビジネスとして収支の目処が立っている事が必要になる。しかしこの道は日本ではとても厳しい。それは市場社会がマネタリズムに覆われているせいだけだろうか。モンドラゴンがビジネスとして成立することを掲げ、ラ・ファジェダが政府からの補助金なしで活動を続けているのは、なぜだろうか。独立不羈という言葉がある。中央であれ地方であれ補助金を受け取ることには条件がつきまとう。それは活動の余地を狭めることでもある。ビジネスとしての収支を追求することと、社会性を追求することを同時に成立させることはスペインでも難しい。それでも形態は異なっても両者は40年近くの歴史を刻む。

とはいえ日本で、特にワーカーズ・コレクティブ等が事業を展開している分野で、補助金に頼らず経営を続けるのが難しい構造が根っこにある。それはサービスの対価が政府によって決められていることだ。安価で均一なサービスを全員に平等に届けるために設定されているとされている公的サービスだが、逆にそれが労働する側の低所得や低待遇を招いているという。その一方で、自由化されれば市場原理に委ねられ、価格が高騰しサービスを受給できない人が増えるという主張も根強い。さて、この2分法、どこかで聞き覚えがある。お馴染みの「市場対社会」だ。この2分法にとらわれると市場原理に委ねられないものは全て社会的に守らなければならないものであり、その社会(あるいは公益)の代表としての政府(行政)が現れてくる。市場対社会という構造の「外」にあるはずのワーカーズ・コレクティブの実践がどこかでその構造の「中」で便利に安価に使える(使われる)ものとして位置付けられてしまってはいないだろうか。これはワーカーズ・コレクティブに関わらず、公と民の間にあるもの(第3セクターとか、中間団体など言葉は異なる)に共通する問題点だ。特に日本のように「道徳」だとか「よいこと」を強調する割に、その行動なり理念なりを持続可能にする経済的裏付けを無視しがちな社会風潮の中で、こうした分野や諸団体が「補助金」をもらいつつギリギリのところで喘ぐ合切袋になっているとしたら、そのこと自体を問題にしなくてはならないだろう。

さらに付言するならば、ワーカーズ・コレクティブにおける報酬は金銭的報酬に限定されなくても良いのではないかとも考えている。農家とのネットワークがあるところであれば、野菜や米、果物などの現物と、自分たちのサービスとを組み合わせる方法もあるだろう。清掃サービスを展開しているところであれば、ワーカーズ・コレクティブのメンバー自身が給与の代わりにサービスを受け取るということも可能だ。ワーカーズ・コレクティブ同士の間で、互いにサービスや物品の交換を行い、労働の対価とすることも視野に入ってくる。かつてはこうした交換の記帳や調整は人手を使う煩わしいことであったが、幸い今はパソコンなり携帯のソフトが発展している。金銭ではない安心のネットワークを提供することが、働く意義につながると考えている。

一方で、日本のワーカーズ・コレクティブには未来につながる特徴もある。モンドラゴンとは異なり、単体の事業体として拡大するのではなく、同種の事業体を周囲に生み出しつつ連携するネットワークを作り出すという日本的なあり方が、拡大ではなく持続可能性を第一義に考えた経済社会にとってヒントを持っていると考えている。モンドラゴン自体もその内部は多様な業態を持つ各事業体が、相互に監査や投資を通じたネットワークの中にいるといえる。ラ・ファジェダがカタロニア地域全体に影響を与えたのも、なんらかのネットワークを築けたからだろうと推測する。ネットワークを拡大する際に大事なのは、思想(ミッション)が共通であること、手段に対する了解だと考えている。日本のワーカーズ・コレクティブの中には共通の母体から発生したものも多い。そのことがミッションや手段に対する了解を支えていると考えられる。また中には設立時に外部の人材から積極的にアドバイスを得る事ができる組織づくりを進めたところもある。ミッションを同じくするという意味ではクローズドでありつつ、外部にも開かれたオープンさを保つ。これもまた協働組織にとっては重要なバランスではないかと考えている。

こうした事柄が現実社会でどのように展開しているのか、ブルーノさんによるモンドラゴンやラテン・アメリカの諸団体の論考は、私たちにたくさんの問いを与えてくれている。このコメントの執筆にあたり、様々な文献を参考にしたが、紙面上載せられない。