日本より少ない人口でGDPで抜くドイツー生活の質

CWB 奥谷京子

何年ぶりだろうか、久しぶりにヨーロッパに足が向いた。アジアを軸に置いてから離れていたのだが。年明けに知り合いのドイツ人が結婚すると聞き、ぜひ9月の式に参加したいと思ったからだ。春にはチケットも手に入れ、着物も洋服感覚で着られるようにと起業家にも着方を教わり、行く気満々だった。しかし、8月にカンボジアでパスポートを紛失して再発行が間に合わず、日程を振り替えての訪問だったのだ。

その家族にお祝いを持って行く以外には特別な目的もなく、春先から夏場のヨーロッパは何度か訪れたことがあるが、寒い時期にはない。アジアの暑いところで活動している身としては寒いのはどうも億劫だったのだが、車窓から見える紅葉が美しく、どこを切り取っても絵になる。この時期に訪れてよかった。1日5~10キロ歩き回って、とても充実した1週間を過ごせた。

大学時代にドイツ語の同じクラスで勉強していた友人と再会したり、8年前に来日したドイツ人ジャーナリストにも再会できていろんな話ができたし、知人のドイツ人の家はオーガニックの酪農家なので、食品表示について尋ねてみたり、一人の時はひたすらオーガニックのスーパーなどを探してカシューナッツの加工品がどれくらい売られているのか、ビーガン事情などを見てみたり、今の仕事に関連するリサーチもいろいろできた。また、飲料ボトルのリサイクルの仕組みに関してはCWBのアジアメンバーに役立つだろうと思って、それも取材した。

折しも日本が世界のGDPの順位もドイツに抜かれ、一体何が違うのかというところも実は興味があった。

今回行ってみて、ドイツと日本はよく似ているところもある。例えば、高齢者の多さ。カフェに入っても高齢者の団体も多いし、日本と同じくみんなお元気だ。それから現金信奉も根強い。もちろんクレジットカードを使っている人もいるが、スーパーで買い物をしているのを見ると7割くらいは現金で払っていると思う。そしてアジアでは主流のQRコード払いは見かけなかった。そしてジャーナリストに聞いたのは、パンデミックが明けて、飲食店での人手不足が深刻なのだそうだ。   

以前従事していた人たちはどこにいるんだろう、と。日本も飲食店はいつも募集のチラシがあるし、ホテル業もだよと言ったら、彼女もうなずいていた。介護の仕事はベトナム人も日本を選ばずにドイツのほうが賃金が高いので結構行っていると聞いたのだが、ミュンヘンや郊外にはまだそこまで外国人ワーカーを入れている感じはなかった。アジアのスーパーも増えているが、やはり気候や食文化の違いは大きいのかなという印象だ。

私が30年前にミュンヘンに語学を勉強しに行った時と6年くらい前に再びミュンヘンを訪れた頃も雰囲気が変わり、観光客だけではなく生活する人たちも外国人が多いと強く感じた。中央駅周辺はアフリカ系やシリア難民を積極的に受け入れていたので中近東の顔立ちも目立っていた。今回はさらにインド人も多くなっている印象がある。

そしてアルプスに近くて壁に美しいフレスコ画が描かれていることで有名なガルミッシュ・パルテンキルヒェンは中近東の国々のセレブや王様が別荘を持っていたり、治療で長居をしたりするそうで、お金持ちが集まり、物価が急上昇している場所なのだそうだ。よそから来て家を買おうと思ったら100万ユーロ(1億6千万円)は軽く超えるという。ちなみに車の値段を聞いたら、フォルクスワーゲンだったら60万ユーロ(960万円)くらいするそうで、BMWとかはもっとすごいと言っていた。

食べ物については、夜ご飯で出てきたお肉などは15ユーロ、ビールを飲んでだいたい3,000円とかそれくらいの感覚だし、乳製品は安いので、食生活に関してはすごく高いという感覚はなかったのだが、ホテルも安くはない。ドイツに着いて日が暮れて暗くなるのも早いし心配だったのでフランクフルト中央駅前周辺をとろうと思ったら2万円は当たり前だったので、空港から反対方向に30分電車で行ったマインツにした。ちなみにオクトーバーフェストの頃はミュンヘン周辺のホテルは4万円以上10万円のところもたくさんある。大型都市よりも中堅どころのほうが治安もいい。

しかし、日本のビジネスホテルのような機能性やおまけサービスは全くない。パジャマもついていないし、歯ブラシセットや入浴剤などを選択できるアメニティコーナーもない。お湯を沸かすポットがないところも結構ある。ドライヤーはあるが、モーターの音だけが大きくて風量の少ないものもあるし、コンセントはユニバーサルではないし、USB用の穴もない。Cタイプの変換をもっていかなかったら、何も充電できなくなっていた。手洗いのソープとシャンプーは備え付け。そんなところで1万5千円くらいは当たり前にある。

そう考えると、日本は朝ご飯のバイキングも充実して、毎日メニューが変わり、今のユーロの強さからすれば半額くらいの値段で泊まれたら、外国人から見れば驚きだろう。過剰すぎるサービスに対して価格転嫁が追い付いていないのを強く感じる。しかし、無料サービスで大盤振る舞いではなく、最小限でも十分なことはいくらでもある。例えばアメニティを取り放題にすれば、1つずつパッケージされているものからもゴミも出るし、結局余計なものまで欲張って取って無駄にしてしまったりと、良いことばかりではない。日本の水はどこでも飲めるのだから、何も部屋にペットボトルをわざわざ用意しなくてもよいわけだし。コテコテにせずにもっとシンプルでよいのではないかというのが一番印象的なことだった。

とあるお店の中国人の店員と話していたら、コロナが明けて中国人も何でも欲しいというマインドから熟慮して取捨選択する人が増えているとも聞いた。確かに昔ほど爆買いして飛行機に乗る姿も関西空港でもなくなった。それもいいことだと思う。より熟慮して選ばれたものに納得した対価を払ってもらうために、本来の価値の高さ、現地でしか味わえない貴重な経験など、そういうものが世界の中で選ばれていくことなんだろうなと思う。高い技術、それをきちんと裏打ちする説明が“独立して”きっちりできている。

ドイツ人のジャーナリストが過去の歴史からドイツのジャーナリズムはとても独立性を担保してどこかの勢力に偏重したりしないように厳しく監視されていると話していた。食品表示1つにしてもいろんな情報が載っている。栄養価が5段階に評価されたり、動物福祉という観点でどういう場所で飼育されているかということ、ビーガンか、BIO(オーガニック)かなど。生産者側はお金を払わないと資格が維持できない点では我々のように弱小のグループを守るためにフェアトレード認証自体に反対するという運動要素も確かに大事だ。大量に流通するために条件が変更になるのも許せない。直接つながっていれば本当はこういう認証も必要ない話なのだから。しかし、いろんな国の人が住んで宗教上の理由から食べられないものがあるなど、ユニバーサルになればなるほど、誰もがわかる可視化というのも大事な要素だ。ここは島国である日本がとても遅れているところだ。原料が上がったから仕方なく値上げではなくて、より価値のあるものを胸を張って作り、売るという姿勢が大事なんだということを今回改めて学んだ気がする。

2つの社会的企業間でも競創:モンドラゴンとラ・ファジェダ

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが翻訳してくれたのは、より長い論文の第1部から第3部までだが、社会的企業を考える際にとても参考になる問題提起がされているので、一旦ここまでの翻訳をまとめて、コメントしてみたい。

【要約】

この論文はモンドラゴンの協同組合主義をマネタリズム資本主義に対して、連帯の原理に基づく「もうひとつの経済」を形成するものとして位置付けている。が、モンドラゴン自体が様々な経済的政治的変化の中で変貌を続けているため、その中核となる要素や動因を明確にするために、カタロニアにあるラ・ファジェダとの比較検討を行っている。そこでクローズアップされるのが、モンドラゴンが3つの要因によって動かされてきたことである。第一にバスクの人々に対して真っ当な生活ができるような職を作り出すこと、第二が労働者が主人公となること、この目的を達成するためにモンドラゴンが重視したのが教育である。第三が人々が自分自身が主権をもって行動するとともに、互いに協働できる人々となることである。この3つの要因は常にモンドラゴンを動かし続けたものである。しかしモンドラゴン自体が拡大し多国籍に展開するにつれて、組合員の中に参画に対する温度差が出てきたのも確かである。

ラ・ファジェダの創設者は元々精神障がいおよび精神疾患の治癒方法として「労働セラピー」を勧めていた。ラ・ファジェダはこの労働セラピーの実践の場であるとともに、精神障がいをもった人たちに労働を通じて自尊心を涵養するための場でもあった。そのためラ・ファジェダには専門のケアチームが組み込まれている。このようにラフファジェダはモンドラゴンと異なり、社会的プロジェクトとしての側面が強いが、補助金を受け取ることなく、今やスペインでも有数のヨーグルト製造企業として経営を続けている。特筆すべきなのは、ラ・ファジェダが精神障がい・疾患の人たちを雇用している企業であり、その製品が精神障がい・疾患の人たちによって作られていることを一切宣伝していないことである。ラ・ファジェダは精神障がい・疾患のある人が「通常の人」と同じく、仕事をし賃金を得ることが重要であると考えているため、自分たちの商品が「障がい」の故に売れていると見なされることを拒否し、商品の質によって消費者に選ばれる道を選択した。そのことが障がい・疾患の人たちの自尊心にもつながる。

モンドラゴンでは組合員は経営への積極的な参画を期待されるし、資本の共同所有者でもある。モンドラゴンでの教育はいかにして組合員=労働者を共同所有者として、自ら経営判断ができる人に育てるかである。したがって組合員=労働者は自分の仕事の内容や全体の中でのその役割を常に意識することを求められる。ラ・ファジェダでは仕事は各労働者の個性(障がいも含む)によって割り当てられる。

ラ・ファジェダでも教育は重んじられているが、それはあくまでも労働者が労働を通じて自己成長を遂げるためのものである。労働者は経営に関与していない。ラ・ファジェダで重んじられているのは仕事が「意味ある仕事」となっているかどうかである。

この両者の違いは、経営危機にあたって組合員=労働者がどのような行動を取るのか(求められるのか)によく現れている。モンドラゴンでは組合員は経営者の立場から自分たちの休日は賃金を自らカットして、経営を軌道に乗せようとする。ラ・ファジェダでも経営課題の解決のために労働者に宣伝等の活動を無償で求めた事があったが、一時期にとどまっているし、労働者自身も無償労働を拒否している。ラ・ファジェダの労働者にとって賃金は自分たちの生活と同時に自立や自尊心を支えるものでもある。

ラ・ファジェダの経験がモンドラゴンに突きつけている問いは、個人の自己成長や個性の発展と経営事業体としての連帯との間のバランスである。これはビジネスと社会性のバランスとともに、社会的企業にとっては大きな課題の一つである。

【コメント】

格差が拡大し深刻化する日本で、ワーカーズコレクティブやアソシエーションに対する関心が再び(あるいは三度?)高まってきている。シビルの読者にとってはいまさらの感があるかもしれない。元来、資本主義的な雇用関係でも無償労働でもない「もう一つの働き方・生き方」を目指した運動として、1980年代に始まったワーカーズ・コレクティブの実践と展開に関しては、私よりもむしろ読者の皆さんの方がより詳しいだろうと推察している。それでもなお、今この時期にモンドラゴンやラ・ファジェダといった社会的協働組織の記事を掲載し、その意味を考える必要があるのではないかと私は考えている。

その理由の一つはモンドラゴンが追求してきた経済性と民主主義的な経営事業体(連帯)との両立が今なお課題だという事があるし、この論文で指摘されている「意味のある仕事」がグローバル化の中でどんどん失われているという問題がある(意味のある仕事の対局にあるのが「クソ仕事(ブルシット・ジョブ)」である。詳細はデイヴィド・グレーバー著『ブルシット・ジョブークソどうでもいい仕事の理論』を読んでほしい)。もう一つの理由は果たして日本で社会的協働組織をめぐる理論的・実践的な課題がどこまで真剣に捉えられているのだろうかという疑問がある。生来の天邪鬼体質のためか、研究分野が「思想史」だったせいかはわからないが、日本における「思想」(カッコ付き)の流行り廃りの速さを痛感する事が多々ある。ラカンにしろ、フーコーにしろ、新聞の書評欄や週刊誌の中吊り広告に名前が掲載されたかと思うと、消費されて消えていく。その中で実践上の課題、実際の社会問題は解決されないまま、滞留して残り続けていく。そんな気がしてならない。というのも、会社に縛られた正社員と不安定で低賃金の非正規雇用という構図の「外」として、ワーカーズ・コレクティブがあるとして、その厳しさと同時に日本的なワーカーズ・コレクティブの特質がきちんと位置付けられていないと考えるからだ。

もちろん私は専門的な研究者ではないし、実践家でもない。しかし「使命感」「働きがい」がワーカーズ・コレクティブの特性として指摘され、時に評価される(ただしそれは給与・報酬の低さの指摘と同時にである)のには違和感を否めない。ましてワーカーズ・コレクティブの事業分野が介護等の「エッセンシャルワークであり低報酬」の分野と重なることを考えると、日本社会が「やりがい」や「使命感」を食い物にして成立しているのではないかと疑いたくなる。この点に関しては今回の論文でラ・ファジェダの労働者が「真っ当な賃金」を要求して、タダ働きを拒否したことをあっぱれと言いたくなる(もちろんそれをきちんと認めたボードに対しても)。

しかしそのためには「厳しい」市場社会で生き残る、つまりビジネスとして収支の目処が立っている事が必要になる。しかしこの道は日本ではとても厳しい。それは市場社会がマネタリズムに覆われているせいだけだろうか。モンドラゴンがビジネスとして成立することを掲げ、ラ・ファジェダが政府からの補助金なしで活動を続けているのは、なぜだろうか。独立不羈という言葉がある。中央であれ地方であれ補助金を受け取ることには条件がつきまとう。それは活動の余地を狭めることでもある。ビジネスとしての収支を追求することと、社会性を追求することを同時に成立させることはスペインでも難しい。それでも形態は異なっても両者は40年近くの歴史を刻む。

とはいえ日本で、特にワーカーズ・コレクティブ等が事業を展開している分野で、補助金に頼らず経営を続けるのが難しい構造が根っこにある。それはサービスの対価が政府によって決められていることだ。安価で均一なサービスを全員に平等に届けるために設定されているとされている公的サービスだが、逆にそれが労働する側の低所得や低待遇を招いているという。その一方で、自由化されれば市場原理に委ねられ、価格が高騰しサービスを受給できない人が増えるという主張も根強い。さて、この2分法、どこかで聞き覚えがある。お馴染みの「市場対社会」だ。この2分法にとらわれると市場原理に委ねられないものは全て社会的に守らなければならないものであり、その社会(あるいは公益)の代表としての政府(行政)が現れてくる。市場対社会という構造の「外」にあるはずのワーカーズ・コレクティブの実践がどこかでその構造の「中」で便利に安価に使える(使われる)ものとして位置付けられてしまってはいないだろうか。これはワーカーズ・コレクティブに関わらず、公と民の間にあるもの(第3セクターとか、中間団体など言葉は異なる)に共通する問題点だ。特に日本のように「道徳」だとか「よいこと」を強調する割に、その行動なり理念なりを持続可能にする経済的裏付けを無視しがちな社会風潮の中で、こうした分野や諸団体が「補助金」をもらいつつギリギリのところで喘ぐ合切袋になっているとしたら、そのこと自体を問題にしなくてはならないだろう。

さらに付言するならば、ワーカーズ・コレクティブにおける報酬は金銭的報酬に限定されなくても良いのではないかとも考えている。農家とのネットワークがあるところであれば、野菜や米、果物などの現物と、自分たちのサービスとを組み合わせる方法もあるだろう。清掃サービスを展開しているところであれば、ワーカーズ・コレクティブのメンバー自身が給与の代わりにサービスを受け取るということも可能だ。ワーカーズ・コレクティブ同士の間で、互いにサービスや物品の交換を行い、労働の対価とすることも視野に入ってくる。かつてはこうした交換の記帳や調整は人手を使う煩わしいことであったが、幸い今はパソコンなり携帯のソフトが発展している。金銭ではない安心のネットワークを提供することが、働く意義につながると考えている。

一方で、日本のワーカーズ・コレクティブには未来につながる特徴もある。モンドラゴンとは異なり、単体の事業体として拡大するのではなく、同種の事業体を周囲に生み出しつつ連携するネットワークを作り出すという日本的なあり方が、拡大ではなく持続可能性を第一義に考えた経済社会にとってヒントを持っていると考えている。モンドラゴン自体もその内部は多様な業態を持つ各事業体が、相互に監査や投資を通じたネットワークの中にいるといえる。ラ・ファジェダがカタロニア地域全体に影響を与えたのも、なんらかのネットワークを築けたからだろうと推測する。ネットワークを拡大する際に大事なのは、思想(ミッション)が共通であること、手段に対する了解だと考えている。日本のワーカーズ・コレクティブの中には共通の母体から発生したものも多い。そのことがミッションや手段に対する了解を支えていると考えられる。また中には設立時に外部の人材から積極的にアドバイスを得る事ができる組織づくりを進めたところもある。ミッションを同じくするという意味ではクローズドでありつつ、外部にも開かれたオープンさを保つ。これもまた協働組織にとっては重要なバランスではないかと考えている。

こうした事柄が現実社会でどのように展開しているのか、ブルーノさんによるモンドラゴンやラテン・アメリカの諸団体の論考は、私たちにたくさんの問いを与えてくれている。このコメントの執筆にあたり、様々な文献を参考にしたが、紙面上載せられない。

フェアトレードからコミュニティトレードへ:買うことだけが貢献か?

CWB 松井名津

表題はそのまま金沢で私がおこなった講演のタイトルである。主催者は「金沢フェアトレードタウン推進委員会」なのに、このタイトルを受け入れてもらえたことにまずは感謝の言葉を申し上げたい。

この講演会で私が強調したかったのは次の2点だった。まず第一に私たちがなぜフェアトレードではなくコミュニティトレードという言葉を使っているのかを理解してもらうこと。そして二番目にコミュニティトレードの実際を知ってもらうことである。

後者に関してはカンボジアと結んでのやり取りがあるので、来場した人も実感を持ってもらえるだろうと考えていた。前者についてはまず私自身がフェアトレードに関してきちんとした整理をする必要があった。あちこちの論文を拾い読みしながら、改めてフェアトレードの眼目はなんだろうと考えた時に出てきたのが「真っ当な」という日本語だった。

元々フェアトレードは開発途上国の生産者の手にわたる報酬と、その製造品を買う先進国の消費者が支払う金額のあまりの格差に対する疑問から始まっている。つまり「真っ当な金額が生産者の手に渡す」ためのプロジェクトだった。したがって先進国側の組織が途上国側の生産者(農家だったりハンドメイドの職人だったり)と直接繋がり、中間組織の手数料を省くことで、生産者が真っ当に生活し続けることができる金額を支払う仕組みを作ったわけだ。

この試みが広がるにつれて、フェアトレードという言葉が(主として欧米で)拡大し、何がフェアトレードかを判断する第三者機関として国を跨ぐ認証機関の存在が必要となった。さらに、フェアトレード商品を取り扱う組織ではなく、フェアトレードの基準に従って生産された製品に対して「フェアトレード商品」のマークを付与することも行われるようになった。この段階になると、大手の企業であってもフェアトレードに関与することが簡単にできるようになる。また企業の社会的責任が喧伝されるようになると、大手の企業でもフェアトレード機関の認証を取得するところが増えてきた。

結果的に私たちは大手スーパーマーケットの商品棚でフェアトレードグッズを買うことができ、カフェでフェアトレードコーヒーを飲むことができる。特別なフェアトレードショップを探さないとフェアトレード商品に手が届かなかった頃に比べると、フェアトレードは身近になったともいえる。

しかしその一方でフェアトレードとは何かとか、実際の生産者がどのような暮らしをしているのか、どのように生産されているのかという現実の現場への関心は薄くなってきてはいないだろうか?大企業がフェアトレード商品を扱うことは、多くの消費者がフェアトレード商品を買うことにつながる。が、それと同時に「不良在庫」として見切り販売されることもある(実際にある大手スーパーでフェアトレードの雑貨が在庫見切り品として半額以下の価格で売られていた)。

仕入れの段階で生産者の手にはすでに「真っ当な」金額が支払われているし、仕入れた側が在庫処分をしてリスクを減らすのは「真っ当な」ことだ、そう考えることもできる。実際商売としてみれば何一つ不正なことはない公正な取引である。消費者だってフェアトレードだから高めの価格を支払って商品を買う人もいれば、価格だけを目安にして買う人もいる。そのこと自体を咎めることはできない。

しかしこれは元々のフェアトレードが目指していた形、あるいはその発展系だと素直に肯定できないものを感じる人もいるのではないだろうか。生産者と消費者を繋いでお互いが真っ当だと思う金額を授受する。その形は保たれている。しかし「つなぐ」ところは見えなくなっていないだろうか。たとえばフェアトレードの大きな部分を占めているコーヒーでは、スターバックスが登場して以来のスペシャルティコーヒーやシングルオリジンのコーヒーが人気だ。しかしこうした飲み方で「美味しい」コーヒー豆は特定の種類に限られる。この特定の種類のコーヒーを生産することができない地域、あるいは生産できる地域にいるが技術や投資が伴わず一定の水準のコーヒーを生産できない生産者がいる。消費者が求めるフェアトレード商品を売りたい企業は、人気の特定の種類のコーヒー豆でのフェアトレード商品を求める。

結果としてそれ以外の生産地や基準を満たさない生産者はフェアトレードの枠から抜け落ちてしまう。フェアトレード商品を買う消費者に、こうした人たちがいることは伝われない。それはフェアトレードといえども消費者と生産者という枠組みを維持しているからではないだろうか。

私たちCWBがフェアトレードという言葉を使わないのは、フェアトレードにまつわる生産者と消費者という二分法を超えたいからだ。途上国の生産者と先進国の消費者ではなく、共に一つの製品、新しい価値を作り出す関係を私たちは目指している。それは互いに売る・買うという関係から一歩も二歩も踏み出した関係を作ることであり、互いの文化・宗教・慣習の違いを深く知り、場合によってはその差異につまづき、悩む関係でもある。売り買いよりも面倒で手間がかかる。新しい商品や価値を作り上げるのにも時間がかかる。その手間や時間を惜しまない、むしろ楽しむ。CWBがコミュニティトレードで目指しているのはそんな関係だ。

その過程で何が起きるのか。それを今回の講演ではカンボジアのデンくんや、インドネシアのアグンさんがインタビューに答える形で明確に示してくれた。

デンくんはプーンアジで行われている「働き学ぶ」が学校教育とは別の教育として根付いてきていること。その教育によって子どもたちが実際の社会生活の中で重要なチームワークや責任感を学んでいること。プーンアジの教育課程に組み込まれている伝統的なダンスや音楽が、内戦で疲弊した人たちに癒しを与えていること。さらにプーンアジの長年の活動が他の民族であるクイ族との共同に結びついたことを示してくれた。ともすれば経済的効率性(大きな実ができる、早く成長する)の高い栽培種に対して、原種に近いカシューナッツを生産から輸出さらに加工品までを手がけることで、原種を守ることにつながっていることを示した。

アグンさんは国境を超えてインターネットを駆使してWEBプログラミングを教えた自分自身の経験と、さらに実際に生徒たちが住んでいるカンボジアに来て自分の技術が実際のコミュニティに役立っていることを実感した喜びを語り、技術の本来的な役割を実感できた、今後もコミュニティに貢献する仕事をやりたいと力強く語った。

そしてカシューナッツビジネスを日本から支える中原さんは、この機会をさらに活かすために輸入されたカシューナッツを金沢に送って、実際に一緒に新しい製品を作る呼びかけを行うセッティングをしてくれた。そして主催者の一員である中谷さんの力強い呼びかけに、金沢の地元の人たち、お菓子屋さんやパン屋さんが応えてくれた。

通常、講演会は単なるお話で終わる。それがお話ではなく行動に結びついたのは、何よりZoomから参加してくれたデンくんやアグンさんの実感のこもった話と、その感動を行動に移すための手段を用意してくれた中原さん、中谷さんのおかげだと思っている。話を聞くだけ、モノを買うだけでは、「真っ当な」関係は継続しない。国境を超えて、あらゆる境界(宗教・男女・文化等々)を超えて「真っ当な関係」を継続し続けるために、互いに「創る・造る」コミュニティを持続すること。これがコミュニティトレードではないだろうか。

ビデオ編集講座、国・地域を越えて始まる

CWB 奥谷京子

カンボジアの若手起業家であるソチェンダさんと夫のレイチーさん。20~30代を中心に環境問題について意見を交わすグリーンプラットフォームづくり(Zerow)をSNS上に展開しており、FacebookやInstagram、そしてTik-Tokの視聴者は13万人以上!最近ではASEANの国に招待されたり、カンボジアの首相と面会するなど、パワフルに活躍しています。

今回、ソチェンダさん夫妻からの提案で、この9月から3か月間、各地にいる若い人たちにビデオ編集のコツを教え、地方特派員の輪を広げたいという申し出がありました。クオリティの高いビデオ作りができれば、Zerowでどんどん紹介していきたいという願ってない提案です。私たちも若者に第一線の人から直接コツを学べるいい機会だと思ってカンボジアのプーンアジの生徒のみならず、クイの先生、プノンペンのスタッフ、さらには日本のインターンやミャンマーのメンバーにも広く呼びかけ、スタートしました。

第1回目の講義は普段私たちが目にするビデオのストーリー作りについての考察。ショートフィルムを見て何がよかったのかというのを3つ以上あげるという宿題が出て、グループチャットにそれぞれが紹介。2回目は私たちが撮影・編集するテーマの設定とグループ分け。商品紹介、ツーリズム、そしてクイの紹介というチームに分かれ、ディスカッション。3回目はPre-production paper(日本でいえば起承転結の中でどんなセリフを話してもらうか、間に挟む映像は何か、など)という取材前に準備する書類について、実際にソチェンダさんが撮影・編集したビデオを見ながらどういうことを準備してこの撮影に臨んでいるのかを解説。それをグループで埋める宿題が出されました。

4回目は埋めたものを基に、ソチェンダさんからアドバイス。さらにこれまで撮影した素材を共有したうえで、人気のある動画と何が違うのか―例えば15秒間にカメラの切り替えが何回もあること、全体と手元とをうまく切り替えることなど。また、どう撮影したらいいか(スマホで撮影する際に三脚がない時には脇を締めてぶれないようにするといった具体的なコツ)を教えてくれました。

  私は進行役としてこの会議に参加していますが、私自身が一番勉強になっているかもしれません。ツーリズムのリーダーであるコムシエンとはこのレッスンが終わると土曜日の日中に宿題を行うために英語で1時間ほど議論するのですが、プーンアジツアーのいい紹介ビデオができればいいなと思っています。

モンドラゴンのケーススタディから何を学ぶか

CWB 松井名津

ブルーノさんは毎月、モンドラゴンとラテンアメリカの協同組合について翻訳して紹介してくれます。この記事では、CWBネットワークの観点から、モンドラゴンのケーススタディから学んだことについて議論したいと思います。

モンドラゴンの事例記事を読むと、モンドラゴンとCWBには民主的な意思決定やビジネス面の重視などの共通点があるように思えるかもしれません。特に最後の点は、モンドラゴン、CWB、その他の協力団体を識別する特徴的です。一部の研究者は、モンドラゴンは資本主義の効率性とビジネスの革新、そして協同組合と民主的組織の団結という相反する要素を兼ね備えていると述べています。私たちCWBも活動を継続していくためにビジネス面にも力を入れています。

CWBとモンドラゴンは市場経済の傾向が似ていますが、違いもあります。この違いは、私たちがどこを目指すべきかを教えてくれると思います。モンドラゴン会員の場合、資本金(約15,000ユーロ、16,000ドルに相当) を寄付する必要があります。これはアジアのメンバーにとって非常に大きなことです。その見返りとして、会員は企業の所有権を取得し、利益または配当を受け取る権利を有します。会員は退会するまで処分することはできません。このシステムは、従業員やメンバーが企業の意思決定にさらに積極的に参加し、経営状況に敏感になるように促します。状況が悪くなると、労働者はより多くの時間を無償で働かなければならず、給料も減らさなければなりません。

一方、「純黒字の10%は教育、社会活動、プロモーション活動に割り当てられます。20%は強制積立金で、30%は任意積立金に充てられ、40%は協同組合が各労働者の名前で持つ口座に預けられます。」つまり、労働者が資本を所有し使用するシステムであり、資本主義企業における雇用システムではありません。 もちろん、現在資本主義会社では、会社の株式を労働者に割り当てる同様のシステムがあります。

しかし、だからといって労働者が会社の意思決定に参加できるわけではありません。対照的に、ICA(国際協同組合同盟)のアナ・アギーレ代表は、モンドラゴンの仕組みについて、「共有オーナーシップと参加型経営のこのシステムは、社会変革のツールとして会社に献身的に取り組む、責任感があり、人間性を意識した人材を生み出します」と述べています。

モンドラゴンファンドでは、全企業の利益の10%が業績不振の企業の損失を相殺します。コミュニティの教育センターとしてスタートしたCWBに関しては、メンバーのほとんどは学生かインターンでした。カンボジアとミャンマーでは、各リーダーの役割と責任をより明確にするためにシステムの再編成を開始しています。しかし、私たちは各リーダーに対し、CWB活動の資金としてある程度の金額を支払うよう強制するものではありません。彼ら、メンターはCWBの所有権を持っていません。コミットメントと責任を高めるために、所有権を共有するモンドラゴンのようなシステムを目指すのでしょうか?それは大きな根本的な質問だと思います。

アギーレ氏が主張したように、共有所有権にはメリットがあります。しかし、責任感と責任感を引き出す唯一の方法はオーナーシップなのでしょうか?もちろん、モンドラゴンの会員は民主的な方法に従っていますので、子会社では、協力するという職場文化はありませんでした。それが、彼らがこれらの子会社に共有所有権を拡大しない理由の1つでしょう。

2010年代半ば以降、この状況は変わり、スペインの子会社のメンバーは所有権を持つことができますが、それは二次的なものです。その結果、新会員のコミットメントと知識が不足しました。ブラジルを除くその他の国では依然として所有権はありませんが、特に労働者の雇用の安定性と福利厚生に関して大幅な変化がありました。

私たちのCWBは、コミットメントと責任を引き出す別の方法を考える必要があると思います。私たちは、コミュニティで雇用を創出するためにより大きな組織になることを目指しているのではなく、むしろコミュニティで雇用を創出できるように、若者が自立し、起業家になることを奨励することを目指しています。カンボジアやミャンマーのリーダーはどうでしょうか?確かに学生が責任感を欠き、自分の仕事の成果を自覚していないケースもあります。それが私たちがシステムの再編に着手する理由の一つです。共有所有権を導入するのは適切ではないと思いますが。所有権や個人の財産に関する限り、西洋の考え方、特に現代では長い議論が行われています。これらの議論は、個人と共同体は相互に関連しているにもかかわらず、異なるものであることを前提としています。なぜなら、西洋文明では権威から独立することが大きな課題であったため、共同体と個人は対立するものとして考える傾向があったからです。

アジアでは、コミュニティと個人の関係について少し異なる感覚があります。特に私たちのネットワークが拠点を置いている地域には、共通の米文化があります。お米を育て収穫するためには、全体の協力が不可欠です。小さな子供たちにも役割があります。私たちはコミュニティとして行動し、考える必要があります。

近代化された思想では、私たちの文化のこの核心または根は、個人が文明的で責任ある人間として成長するのを妨げるものであると考えられていました。私はこの議論を認めますが、私たちの伝統的な考え方の賛成派を失いたくありません。私たちには、労働力、森林、水を「共有財産」として利用する長い伝統があります。

これは、「誰も所有権を持たない」ことを意味します。私たちの先祖は、労働しなければ米を育てることができないので、共有地を維持するために労働する必要があります。この観点からは強制労働ですが、地域社会の一員としてのボランティア労働でした。今では、コモンは人の土地ではなく、メンバー全員がそれを管理するという古い考え方は失われています。若い人たちにはこの考え方を取り戻してもらいたいと思います。

私たち人間は、世界のすべてを所有することはできません。私たちは生きている間にそれを使うだけで、後は次世代や他の必要な人が使うことになります。私たちは生きている間にそれを大事にしなければなりません。それが私たちの責任と取り組みの根源でありたいと思っています。

したがって、私はCWB組織に共有所有権を推奨しません。私たちは、各起業家が純利益を得た時にその基金の3分の1を寄付する新しい寄付基金を開始します。次のコミュニティの人々や若者が自立する機会をより多く得られるように。寄付はCWB自体への予備としてではなく、コミュニティに寄付されます。もちろん、CWBは事業計画を検討し、アドバイスをし、事業にコミットすることになりますが、寄付金はCWB自体のためのものではありません。この基金は、地域のすべての青少年のための共通の基金であるべきです。私たちのCWBはよりコミュニティに根ざしていると思います。

20世紀初頭から始まったモンドラゴンは、大量生産、大量消費を基本とする現代社会を調整する必要があります。彼らは現代の大量生産に合わせて工場を作るべきです。モンドラゴンは協力的な精神を保ち、ビジネスマインドを持って団結します。現代システムが危機に直面した2010年代、彼らは立ち直り、本来の精神を再発見します。彼らは実践的な側面だけでなく、哲学的、社会的な側面から経営教育を開始します。この管理教育の目的は、「管理能力を強化し、管理者の専門能力開発を促進するだけでなく、文化の発展、…協力教育…、協力的なリーダーシップやチームワークなどの社会的スキルなどの側面にも注意を払うこと」です。

私たちはモンドラゴンから、専門スキルと文化の発展、協力の精神、リーダーシップ、チームワークを結集するマネージャーの教育を学ぶべきです。起業家を育成し、組織の独立性をさらに高めることを目指す場合、マネージャーやリーダーの教育は不可欠です。モンドラゴンは、かつては効率重視の資本主義的経営者教育に近づきましたが、現在は協同組合の精神に立ち戻り、社会のコミュニケーションを再構築し深めています。

見逃せない、イスラム金融の考え方

CWB 奥谷京子

イスラム教徒というと、私たちの日常とは関係がないと感じる人が多いと思う。日本という島国は世界の中でもイスラム教徒の割合が極端に少ない稀有な国だからだ。しかし、世界全体を考えると、イスラム教徒は着実に増えている。砂漠のある中近東だけの宗教ではない。ムスリム人口の統計によると、国別でいうとインドネシアが一番多い。インドも多い。アフリカの国々も多い。勢いがあり、出生率の高い国にイスラム教徒が多いのだ。

2015年の日経新聞の記事によると、2010年のキリスト教徒は約21億7千万(全人口の31.4%)、イスラム教徒が約16億(23.2%)。同じ条件でこのまま続くと、2070年には割合が拮抗し、2100年にはイスラム教徒が35%を超え、キリスト教徒を上回る勢いだという。そうなると、イスラム教の考え方をベースとした社会の仕組みを理解し、取り込んでいくことが当たり前の世の中にがらりと変わるかもしれない。神からの啓示、神そのものの言葉を「クルアーン(コーラン)」にまとめ、創始者ムハンマドの規範をまとめたものが「スンナ」、そして「イジューマ」「キヤース」という4つの法源があり、さらにそこから「シャリーア」というイスラム法が生まれる。六信(信ずべき6つの信条:アッラー・天使・啓典(クルアーン)・預言者・来世・定命)五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)も有名だ。

私たちCWBのグループは実はかなり前からイスラム金融に注目をしていた。シャリーアに適合した金融がイスラム金融で、利息を取らないという特徴をご存じの方も多いだろう。すでにイランやパキスタンではすべての銀行が無利子だそうだ。私たちもお金を持っているだけでお金を生み、富む人はますます富む、格差がますます広がるマネタリズムに限界があり、いつかこの仕組みが破綻すると思っている。

ところがお金を利息で増やす以外にどうお金を増やすのか?積極的に地域にお金を使うことがカギになる。一緒にリスクをとってお金を出し、成功した時にはみんなで喜びを分かち合って分配する。今回は『世界を席巻するイスラム金融』(糠谷英輝著、かんき出版)から引用させてもらいつつ、イスラム金融について紹介していく。読んでいけばいくほどに、今までCWBでやっていた活動にとても共通点を感じるのである。

〇イスラムの4つのスキーム

預言者ムハンマドは商人の子でメッカは商業が盛んな町だったそうだ。その中でいかにお金を動かし活気を作るかという生活と宗教の下でのルールが融合していく。金利で稼がない代わりに4つのスキームがある。

  • ムラーバハ:銀行が顧客に変わって商品を購入して、購入価格に銀行のマージンを上乗せして顧客に売却するというスキーム。イスラム金融の資金運用手段の7割がこのムラーバハにあたる。
  • イジャーラ:リースの仕組み。シャリーアではモノの所有には、所有権と用益権の2つから成り立つと考えられており、用益権を銀行から移転する契約のこと。長期資金調達に利用されることが多い(住宅や車のローンはここにあたる)。
  • ムダーラバ:信託のような仕組み。銀行が顧客から預かったお金をプロジェクトに投資し、利益を決められた割合で配分を受けるスキーム。銀行はプロジェクトの運営・管理には一切干渉しない。
  • ムシャーラカ:共同出資のような仕組み。こちらは銀行も共同出資者としてプロジェクトの運営に参画する。ムダーラバに比べてより長期的なプロジェクトに使われるスキーム。

〇日本のマインドは真逆であることに注意!

お金を動かさないことはイスラムの世界では「退蔵」(動かさずに隠し持つ)と思われるのである。その価値観からすると、多くの日本人は銀行に置きっぱなしの、退蔵だらけだ。この本の中では、“ハイリスク・ハイリターン”というのが強調されているが、これは「日本人の感覚からすれば」ということなのだろう。お金を持っていないと将来が危うい、残れば子孫のためにと考えるからこそ、成功すればリターンも高いが、失敗したらその分のお金はなくなることに恐怖を感じるからこそハイリスクと私たちは捉えるのである。

しかし、最初に記述したイスラム教の六信五行を思い出してほしい。六信には「定命」というのがある。神が定めている運命だと受け入れる力がある。また「喜捨」という貧者の救済という視点がある。彼らの感覚では、きっと貯め込むよりも生かす、貧しくても助けてられるコミュニティの力がある、お金の流動性に意味があると感じているのではないだろうか。

日本はゼロ金利。預けていても事実上利息が付かないので、実態が無利息のイスラム金融と同じようなものだ。退蔵ではなく、どう生きるお金にするか。

CWBはアジアの国々で期せずしてイスラム金融のようなスキームでコミュニティビジネスを推進するために投資をしたり、お金を活かしてきた。ミャンマーの活動実績を次ページで樋口さんから紹介してもらう。

対談:インスパイア経済がもたらす未来社会

プレス・オールターナティブ河村恭至×CWBアドバイザー 松井名津

〇改めてインスパイア経済とは

河村:創業者の片岡が提唱するインスパイア経済について、明確なイメージを持てないでいますが、もう少し教えてください。

松井:CWBの活動は、私たちの哲学である「インスパイア経済」に基づいています。お金そのもの、市場システムは否定しません。しかし、人間を単なるお金儲けに駆り立てる「マネタリズム」を受け入れません。 インスパイア経済では、お金は取引の手段にすぎませんし、各取引を容易にするために市場システムを利用します。

人間には競争する性質がありますが、お金だけが評価の軸になると、ほとんどの人はより多くのお金を手に入れようと翻弄し、お互いを押しのけ合います。しかし、インスパイア経済では、他の人にいい刺激を与え、次なる行動を導くアイデア、コンセプト、活動が最も評価され、賞賛されるのです。つまり、最も共感されたものが評価されるのです。この制度では、評価尺度が複数かつ多様です。スポーツの功績、農作物への農民の努力、編み物の技術などによって、他の人に感動を与えることができます。したがって人々は多数の価値観の土俵で勝負できます。 こうした異なった土俵に共通していることが1つだけあります。 どれだけ他人に感動を与えたり、自分自身を向上させられるか、です。

 この「インスパイア経済」には 2つの特長があります。「働き学ぶ」と「コミュニティワーク」です。「働き学ぶ」は個人の能力の側面、「コミュニティワーク」はコミュニティの側面からインスパイア経済を見たものです。 たとえばIT技術を学ぶために、「働き学ぶ」から私たちのネットワークに参加した人がいるとしましょう。もしその人が自分自身または自分の家族のためにお金を稼ぎたい、そのためにスキルアップしたいという動機だけであれば、その人は私たちのネットワークから離れていくことになります。私たちのネットワークでは、コミュニティのために働くことが求められているからです。 IT技術は地域社会に役立つものでなければなりません。ITプログラミングのスキルを取得したい場合でも、「そのスキルで何に貢献しますか?」と尋ねます。 個人スキの向上も、すべてのスキルが自分や他のコミュニティの仲間に役立つことに気づくでしょう。そうでなければ、スキルだけでは意味を成しません。

 コミュニティと個人の交差点には「社会的共通資本」があります。これは私たちの未来社会の重要な側面です。私たち市民は、橋や道路などの社会資本を建設し、維持します。箱ものだけでなく、コミュニケーションも構築し、維持します。それには地域で橋など共通の社会資本を行政に頼らずに自分たちで管理し修理するなどの協働作業が有効です。そうすることで良好なコミュニケーションを保つ1つのきっかけになります。依存はしないが、助け合う。各個人が自分の生活や精神面で自立している必要があります。相互尊重が不可欠です。時にはもめることもありますが、目的が橋の修理なら暴力を使うことは考えにくいでしょう。むしろ、関わろうとしない、考えようとしない無関心は私たちの共通の敵です。  

〇社会を意識し、関係を築くために

河村:「経済」という言葉を検索すると、「人間の共同生活を維持、発展させるために必要な物質的財貨の生産、分配、消費などの活動。それらに関する施策。また、それらを通じて形成される社会関係をいう」(日本国語大辞典)とありました。

「生産」「分配」「消費」という3つの要素が書かれていますが、「消費」する対象を手に入れる手段として、自ら「生産」や、仲間と「分配」の割合は低く、多くの消費財は「売買」によって入手されているのにそれが抜けていると感じます。さらに「贈与」の割合を増やしていくこともカギと考えており、「生産」「分配」「消費」「売買」「贈与」、この5要素があると思います。一方、松井さんのお話から「他の人に感動を与える」「共感」「評価」という3つの要素を抜き出しました。この3つの要素は、上述の大辞典の説明の「それらを通じて形成される社会関係」に直結すると思います。

1)「生産」「分配」「消費」「売買」「贈与」→「形成される社会関係」

2)「他の人にインスピレーションを与える」「共感」「評価」→「形成される社会関係」

どちらの要素も社会関係を形成します。近代社会が生んだ問題の一つが「社会関係」の喪失であることは間違いなく、「インスパイア経済」は社会関係を作り直す仕掛け、だから「経済」なのだと理解しました。「生産」「分配」「消費」「売買」は社会関係が希薄でも成立してしまうから社会関係が失われた、それを補完するためには「他の人に感動を与える」「共感」「評価」が効果的、と解釈しました。一方、「生産」と「消費」がないと生きてはいけないので、これらも捨てることはできません。この両面を持ちあわせるということですね。

「経済」の定義を知らない人には、「インスパイア経済」がなぜ「経済」なのかわからないかもしれません。

松井:「経済」ですが、私自身はEconomyというより「交換市場(システム)」を考えていますが、こうした考え(定義)はごく少数派なので、多数派にできるだけ幅寄せした概念として、河村さんの1)生産・分配・消費・売買・贈与に近い定義です。

“近い”と書いたのは売買(交換)としたいからです。貨幣(お金)はどうやら人間が村落共同体を超えて交換を行う際に必須の装置のようですが、貨幣らしきもののない交換もありますし、それを贈与だといってしまうこともできないと考えています。交換の概念は多様化しているのではないでしょうか?

〇人間が作り上げたシステムが人間を阻害しないために

河村:経済は上に書いた2種類だけでなく、もっとあるのではないかと考えます。

3)「貸し借り」「金利授受」

4)「マネーの発行」「収税・納税」

5)「奪い合い」「ギャンブル」「搾取・窃盗」「戦争」

1)と2)で自立し、3)~5)とは棲み分けたコミュニティを作り、UC(United Community)でコミュニティ間で助け合う関係も作っていく、というのがCWBの使命かなと考えます。

マネーの流通量で言えば圧倒的に3)~5)が大きく、3)~5)はつながりあって利権やバブルを生みだし、モラルハザードが蔓延し、若者の絶望につながっていると思います。ここ最近の若者の私たちへの問合せを聞くと、本当に関係性を欲している、あるいは関係性に絶望している、と感じています。

松井:交換や売買と贈与とは全く違うものに見えますが、河村さんが指摘されているように「形成される社会関係」が肝要になっています。社会関係を恒久的にするために交換や贈与がが行われている場合もあります。贈与と交換は別物というよりも類縁関係(従兄弟関係)で、両者を支えるのが、人間が持っている「社会関係を構成したい」という欲望だと考えています。

3)に関しても、イスラム金融のように社会関係の中で行われる場合と、銀行等の融資では全く別になります。5)も「競争」がマネーなり利得なりに集中すれば、5)になるでしょうし、多面的な次元に評価基軸があれば「競創」になる可能性も持っています。

どちらにしても、強調したいのは「資本主義経済」「マネタリズム経済」「政治体制」など一般名詞で呼ばれるモノが、人間を阻害(疎外)しているのではなく、人間自身がそうしたシステムを生み出してきたのだということです。逆にいうと、どんなにシステムが変わったとしても、人間自身が変化しなければ、そのシステムは再び人間を阻害(疎外)するものになるということです。CWBの中で教育が中心的な意味合いを持つのは、人間の変容を唯一導ける可能性があるのが教育だからです。インスパイアする・されるという関係も、それぞれが互いの価値を認め合えるかどうかが肝心です。インスパイアされる側、インスパイアする側のどちらもが、対等の人間として尊重すべきものが何かをきちんと心得ている必要がある。そこが抜け落ちてしまうと、インスパイア経済もマネタリズム経済も名前が違うだけになると考えています。

河村:『贈与と交換は別物というよりも類縁関係(従兄弟関係)で、両者を支えるのが人間が持っている「社会関係を構成したい」という欲望 』はおっしゃるとおりですね。CWBが考える「経済」は金儲けではなく「交換による社会関係づくり」というのはシンプルでわかりやすいと思います。人にいろんな欲望がある中で、この「社会関係を構成したい」という欲望が強い人を集めてそれに応えられるコミュニティ、アソシエーション、ネットワーク、にしていきたいです。

もっと多くの人を引き込んでいくにはセーフティーネットが必要と思いますが、まずは生活を守ることで精いっぱいになっていない心に余裕がある人、それよりも社会関係への欲望の方が強い人、に伝わる実体を私たちは実践で作っていきたいと思います。それも国境を越え、世代を超えての協働で、です。協同組合の理念もここで繋がるのではないでしょうか?

フィリピン- コミュニティツーリズムの可能性を探る

CWB  松井 名津

サライはフィリピン・ミンダナオ島北部にある小さな地方都市です。このコミュニティに長らく根を下ろしてビジネスを続けているのが、紙漉き商品でおなじみのサライ・ハンドメイド・プロダクト(シャピイ)です。その社長でもあるニールさんが、長年取り組み続けているのが、サライから車で20分ほどの「マタンパの森」です。今までは植林活動が中心でしたが、人々が集まり観光スポットとなり始め、商業主義的な開発が進む危険性も出てきました。

 そこで、ニールさんが以下のようなビジネスプランをまとめて送ってくれました。コミュニティツーリズムというには少し難があります(これについては後述)が、まずはニールさんによる「マタンパの森」の紹介と将来的な計画を紹介しましょう(なお市場分析や収益計画は省略しています)。

1) マタンパの歴史:マタンパ地域は1980年代の反乱(モロ紛争のことを指すと思われる)の影響もあって、30年以上もの間、見捨てられた土地でもあった。特に山上は紛争により禿山となっていた。2000年になって、こうした紛争の影響も落ち着いた頃、ニールさんがこの地を訪れ、ここが自然環境として優れた可能性を持っていることに気がつく。山に囲まれながらも、海を見通すことができ、風に恵まれた土地であり、もしここに松を植樹すれば人々の癒しと交流の場になると考えたのである。

 そこで、まずは自分が植樹するとともに、2010年にはサライ・ハンドメイド・プロダクトの400人の従業員とともに、9.7キロの山道を踏破して、1000本の松の木を植樹した。この松が育ち始まると、あたりの気温は目に見えて低下し、海からの風も心地よい涼風へと変化した。

2)気候変動とマタンパ:サライは海と山に面した土地であり、最も低い場所は海抜0m以下になる。そのためサライは気候変動により海が土地を侵蝕する(低地にあった公共市場が移転)、巨大台風による沿岸住民の家屋倒壊、浸水といった被害を毎年のように受けている。その一方、マタンパでは植樹活動によって、あたりの気温が下がるとともに、植生が甦りつつある。マタンパは気候変動という地球大の問題に、一人一人の人間が立ち向かえること、その効果を立証してもいるのだ。

3)マタンパの現在:当初、ニールさんは「マタンパの森」を自由に使える土地として開放していたが、多くの人が来るにつれてゴミの散乱などの問題が生じた。そのため、現在は簡単な柵と門を作り、高校生でも払える額の入場料をとっている。また、「マタンパの森」が辺りで評判になるにつれて、専用のFacebookページが作られ、結婚式の前撮りの場所としても利用されるようになった。特に夏の暑い時期、多くの人がBBQやキャンプを楽しんでいる。こうした利用状況から、9.5キロの道のりも舗装され、夜間照明もつくことになった。

4)マタンパコミュニティと「マタンパの森」:反乱の影響もあってマタンパ周辺のコミュニティでは、社会的インフラが乏しく、雇用の機会に恵まれないため、多くの若者がコミュニティの外部に出て行ってしまっている。「マタンパの森」のさらなる開発にはこうしたコミュニティにどのような雇用の機会を提供できるかという視点が必要不可欠である。

5)開発の目的と必要事項:a)商業的ではない自然と調和した開発であること:今最も求められているのは、宿泊施設(ロッジやキャビンなど)である。実際に少しふもとに近いところにコンクリートでできた施設が建設された。しかし周囲の景観と調和しないこともあって、利用する人は稀である。「マタンパの森」を自然公園として生かすためには、木材を多用したキャビンやロッジを建設したい。これは特に家族連れから要望が強い。
b)マタンパのコミュニティとの共同:特にマタンパ周辺にあるいくつかの滝を結んだトレイルロードのガイドとして、コミュニティの人を活用する。またサライとマタンパ間の移動手段の提供、マタンパでの飲食の提供などで雇用を生み出すことができる。
c)子どもたちのために:子どもたちのための遊び場をDIYで作る。環境教育として「マタンパの森」を活用する(特に森林保護、生物多様性等)。

d)各種プログラム:ジップラインやロッククライミング、木の滑り降りなどスリルを求める人向けの施設を作る。文化プログラム:サライ近辺のコミュニティカレッジやNGO等と協力して、伝統的な芸術やハンディクラフトを見せるイベント等を行い、地域の伝統をアピールする。

 さて、ここまで読んでいただいてどのような感想を持たれただろう。もちろん短い要約に過ぎないし、マタンパの魅力を十全に伝えているものではない。けれど「既存のプラン」という感じは否めない。マタンパの最大の特徴は反乱を超えて緑を蘇られたことである。さらに緑が蘇るとともに人々の交流もまた復活してきているということだ。けれど集まってきている人はまだまだ「観光客」でしかない。

 コミュニティツーリズムに不可欠な要素は、異なったコミュニティ(文化等々)がその違い(ボーダー)を超えて出会い、互いに刺激し尊敬の念を抱く可能性(inspire)を見出す点にある。残念ながら、今のプランだとマタンパの景色に刺激を受けることはできても、マタンパへの貢献が見えてこない。単なる植樹体験であれば、マタンパでなくても良い。自然探索の専門知識がある人、生物多様性に関して専門的に関われる人がいれば、コミュニティガイドを養成することもできるだろう。が、今のところ計画のその部分は白紙のままである。d)の各種プログラムもすでにあるものをマタンパに持ってきているに過ぎない。

ではマタンパはコミュニティツーリズムに適さないのだろうか。戦火を超えて蘇った緑、一人一人が植樹することによって生まれた涼風。この要素は貴重だ。さらにニールさんはマタンパのコミュニティにサライ・ハンドメイド・プロダクトの生産拠点を移すことを考えている。というのも、マタンパが手漉き紙の主要な材料であるアバカの産地でもあり、古くから押し花やカードを作ってきた職人たちの故郷でもあるからだ。そしてマタンパは園芸作物(花や植木)農家が集まってもいる。花―緑―自然―エコプロダクトと揃っている。上で紹介した以外にも自然写真のコンテストとか、自然の中での映画上演などのアイデアがあるのだが、これを統一的に結ぶコンセプトなり動きがないのが難点なのだ。互いにインスパイアできるためには、お互いが「核」を持っている必要がある。その核がまだできていないのが、マタンパの現場だと考えている。

 で、皆さんにお誘いをしたい。フィリピンの中心、マニラから飛行機で1時間、さらにそこから車で2時間弱かかるサライへ出かけ、マタンパをコミュニティツーリズムの拠点とするために汗をかいてみませんか? 交通費は自弁、宿泊費と食事はフィリピン側が負担。マニラでは味わえない地方特有のフィリピン(というかサライ)気質=人懐っこくて、お節介、お祭り好きで後先をあまり考えないにどっぷり浸かりながら、新しいものを生み出す(クリエイティブ)な体験をぜひ味わってください!!!そしてロッジ建設支援も。日本から大学生の薫平君が訪ねる。きっとニールさんからロッジひとつ30万円の要請があると思います。上記コンセプトにご興味ある人はお金の用意を!!

継続が信頼を生む

CWB 奥谷京子

カンボジアに行くとどこにいても若者で溢れている。6月にはASEAN内のスポーツ祭典でホスト国になったカンボジアでは、あちこちでイベントが開かれ、その周辺はバイクで大混乱だった。コロナも落ち着き、徐々にいろんな活動が再開している。若者のやりたいことをチャレンジできる場を作れば、どんどん可能性が広がっていきそうなワクワク感を与えてくれる。

 週1回行われるカンボジア若者リーダー会議に、クイ族のリーダーであるミエン先生(地元で歴史を教えている)も参加するようになった。クイ族はカンボジア国内では少数民族で、その昔は製鉄の技術を持ち、アンコール王朝で有名な建物に多く使われた。そして1000年以上、森を活かした生活をベースにしてきたが、ここ最近のプランテーション開発でその森も減り、焼き畑農業といった伝統も失われつつある。生活の基盤が根っこから奪われ、近くのゴム工場に出稼ぎに行くしかなくなり、独自の文化は消えようとしていた。いくつもの世界中のNGOが地元に入って支援プログラムや資金を提供してきたが、2年か3年と決められた期間が終わるとさっさと引き上げてしまうので、地元のためなのか、NGOの報告書作りのためなのかクイの人々は懐疑的で有難迷惑になってしまったという。そこで世界中の数々の支援団体の中から私たちCWBを選んで組織も一体としてやることを決めたのは7年間、CWBが逃げずに地域に根差した活動をしている実績からだという。ミエン先生をコミュニティリーダーとして、その下に若者で4つの部門を作った。ツーリズム、伝統ダンス、そして二つの仕事作りチームだ。CWBメンバーがコオロギの飼育の方法を教えて実際に2組の家族がそれで仕事を始め、うまく回りだして出稼ぎに行く必要がなくなった。もうひとつの鶏ビジネスでは鶏小屋を一緒に汗して創る。メンバーは30人を超える。他のクイの村からも参加したいと言ってきているが、と相談があった。CWBとしてはまず、ミエン先生の村で成功事例を作ってからが良いだろう、とアドバイスした。平均年齢は20歳前のティーンエイジャーだ。輝く目とほとばしるエネルギーは無尽蔵なのだ。日本人である自分からはうらやましい限りだが、この「アジアの若者と日本人は連携して学び働く」が解だと気付いた。このクイの村に今年、大学1年生の後藤薫平君と、楠の榎本愛子さんが訪問する。こうして互いに一歩踏み込んだ結果、週一会議にクイチームも参加することになった。これまで築き上げてきた信頼の賜物だ。

ここでの支援も日本人が中心ではない。50ヘクタールの畑を運営するSCYの若者、学校を拠点にITなどを学んだ学生。この50人が学んだことを次に継承することができるようになったのだ。その実績から国連のユネスコから、世界遺産・サンボープレイクックにも若者活動が期待され予算が付き、新しいプロジェクトも委託された。そこでは学生による清掃作業が始まっていたのだが、さらにリサイクルの理念の元、サンボープレイクック周辺のレストランから出た残渣をエサにしてBlack Soldiers Flyと呼ばれるハエの幼虫を飼育し、それを周辺で鶏を飼う農家へ安いエサとして提供し、高価な飼料を買わずに地域内で循環させようというのを若者チームは始めた。その幼虫を飼育できる建物が自前で完成し環境が整ったのだが、地元で食べ残しの分別が思うように進んでいないので、幼虫を飼育するエサが足りないという壁にぶつかっている。しかし、分別の仕方を親など周りの大人たちに教えるようになり、若い人たちから親世代への意識改革も同時に始まっている。分別という面倒な新しい習慣を地域に持ち込むのは確かに大変だ。しかし、においも気になる邪魔者のゴミが鶏のエサとなる宝を生み出し、コンポストまで作れることが徐々に浸透していけば地域内循環が始まる。世代を超えた教育の実践だ。  その種の予算と言えば2年~3年の期間で終わるのが一般的だ。長期にわたると癒着や依存が起こるからということだろうか、お金を出す側の理由でどこも均一的に区切るのが実情だ。そしてある一定の成果を上げなければならないので無理やりにでもプロジェクトを起こして去っていく。その間、本部からやって来て事情も分からず指示し自発を阻害する。期間を経て書かれた報告書は上から目線の言い訳的になることも多い。本来であればその地域が本当に必要とすることをその人たち自身の手でできるように長い歳月をかけて取り組んで報告してこそ当たり前のことだが。CWBカンボジアは国連やヨーロッパの財団から支援を受けているが、その下請けではない。彼らもスマートになりつつある。国境を越えて人材が、技術交流で協力しているので、それら団体より私たちの視野が広く深く長い。まさに未来学者のダニエル・ベルが看破した「世界の問題を解決するのに国家は小さすぎ、コミュニティの課題をきめ細かく実践するには大きすぎる」のだ。もうそろそろ、日本のこういう国際貢献は大きく見直す時期だろう。お金を出す側の都合から、コミュニティが自立し本当に喜ぶことへとパラダイムシフトができず、お節介・押し付けがマイノリティの人たちに続く限りは世界に新しい変化を起こすことは難しい。そこに今、私たちは気づけてよかった。若い人を中心にコミュニティで活動を継続し、信頼を築く、これが私たちCWBの国境を越えた活動のミッションであり、時代の先端にいることを実感する日々だ。日本人が世界で認められる道は「相手のために働く」人材育成だ。そういう場を作る、それを競創と名付けた。CWBはその先進事例を作り、世界に広げる。限界性ばかりを言う日本に、リアルな可能性を汗しアジアと連携し作り示す。日本との交流だけでなく、ASEAN・インド圏も含む。CWBは合わせて25人の国境を越えた派遣を年内にする。シビル読者の皆さんにはお金よりも技術や知恵での助力をお願いしたい。

コミュニティSDGs とは?いわゆるSDGsとの違い

CWB 松井名津

国連のSDGs(持続可能な開発目標)をご存知ですか?もしかしたら名前をご存じかもしれません。地元の「SDGs活動」に参加している人もいるでしょう。 イベントに参加して、地球に良いことをしていると感じるかもしれませんが、SDGsとは何かをうまく答えることはできません。「これこそがSDGs」をアピールするイベントや活動がたくさんあります。「SDGs」という言葉は聞いたことがあるけれど、具体的には何なのかというとよくわからないという人もいるでしょう。 国連のSDGsには17のゴールと169のターゲットが含まれています。私たちは政府やNPO、NGO、企業などの大きな組織が活動を企画・主導し、そうした企画に参加すればいいと考えがちです。

また国連のSDGsには多くの目標があるため、目標同士が分散したり矛盾したりもします。一つの目標はプラスチックゴミを減らすことですが、他の目標、例えば医療サービスでは医療用器具に多くプラスチックを使用する場合があります。イベントや活動をしている組織は1つの目標に集中し、他の目標は脇に置きがちです。

コミュニティSDGsは国連のSDGsと違って、1)コミュニティに根ざしていて、2)コミュニティを構築する統合的な活動であり、3)民主的な意思決定という特徴があります。

  1. コミュニティに根差している

各参加者だけがコミュニティに属しているという意味ではありません。各コミュニティにはそれぞれの条件や状況があります。それだけにコミュニティにとってSDGsとは何なのかについて話し合う必要があります。おそらく国連のSDGsがこの議論へのヒントになるでしょう。しかし、それは単なる手がかりにすぎません。例えばカンボジアのクイ族のコミュニティのように、伝統的な暮らしを守っているコミュニティもあります。彼らは葉っぱなどを器代わりにしてご飯を提供してくれます。近代化やグローバリズムがクイ族のコミュニティに押し寄せるにつれて、彼らは徐々に竹や木を活用することができなくなりました。生活に根付いた森が他のことにとって代わられ、失われつつあるからです。彼らの中にはプランテーションに代わってしまったゴム会社に勤めてその給料で生活しなければならなくなりました。それでもまだプラスチック製を使わないように努めています。この場合、クイ族にプラスチックを使用しないよう啓発するのは適切でしょうか?それとも未来社会を見据えて伝統文化を復活させるのがいいのでしょうか?現在、CWBでは彼らが外に出稼ぎに行かなくてもいいように地域で自らの仕事を創ること、そして焼き畑農業や現在消滅した製鉄技術の現場をより多くの人に知ってもらうようなツアーも企画しています。クイのケースを考えると、「コミュニティ SDGs」が現在のコミュニティだけでなく、コミュニティの歴史、そして未来についても考えていることに気づくでしょう。「コミュニティSDGs」を一言で言えば、コミュニティを歴史的な視点から捉えて、SDGsを設定したものです。

  • コミュニティを構築する統合された活動

各 CWB には多くの活動があります。 私たちはすでに国連のSDGsに記載されている目標、例えばゴミの管理、固有の民族文化を守ること、地域住民の仕事の創出、教育の機会の提供などを実践しています。違いは、私たちの活動には地域の人々が関わっていることです。私たちの活動は一過性のイベントではないからです。すべては持続可能であり、経済的に自給自足できることを目指しています。多くの若者が私たちの活動、特に仕事においてそれぞれの役割を担っています。彼らはチームとして何をすべきか、自分たちがどのような能力を持っているかを理解していきます。 私たちの活動に実際に参加すると、彼らは自分の能力に気づき、チャンスを得ることができます。若者だけでなく、家族、高齢者も私たちの活動に参加しています。子供と一緒に働いていることもあります。青少年にダンスなどの伝統文化、薬草の知識や知恵を教える人もいます。まさに渦のように、私たちの活動はコミュニティ全体を巻き込んでいます。それはコミュニティを再構築することを意味します。そこが国連のSDGsとの大きな違いです。私が言う「統合」とは、コミュニティを構築・再構築することです。

  • 民主的な意思決定

コミュニティSDGsでは、人々が自分たちにとっての最優先事項を決定します。それは、選挙のように投票するという意味ではありません。

まずは「アイデンティティ」について考えてみたいと思います。人はそれぞれ、母語と同じように、生まれたコミュニティに根ざした「アイデンティティ」を持っています。成長するにつれて自分とは異なる他者に出会うでしょう。その時、初めて自分のアイデンティティに気づきます。というのも別の価値観があることを経験し、自分の価値観とは何かを考えなくてはならなくなるからです。同じ価値観の中でコミュニケーションをとるだけでは、自分のアイデンティティを実現することはできません。価値観の異なる他人だけが、人に自分を気づかせることができるのです。

このアイデンティティは1つではありません。誰かが元のコミュニティとは異なるコミュニティに参加し、コミットする時、その人のアイデンティティは変化します。その人は元の共同体の価値観だけを持った人間ではありません。多くのコミュニティにコミットすると、私たちは複数のアイデンティティを持つことができます。このような複数のアイデンティティは、私たちに多次元の発想・考え方を与えてくれます。複数のアイデンティティを持つ人々は、アイデンティティが1つしかない人よりも、各コミュニティの優先事項についてより良い話し合いを行うことができます。

民主的な意思決定はさまざまな側面での議論を促進することができ、民主的な意思決定を重視します。SDGsについても、さまざまな視点から議論することができます。たとえば、「私たちのコミュニティにとって発展とは何か?」「経済成長は必要?」「なぜ森林を保護しなければならないの?森は私を幸せにしてくれるのか?」などです。これらはごく当たり前な質問です。国連のSDGsに関して、その目標には疑問を呈することはありません。なぜなら、このSDGsは国連で決められ、標準化されたからです。

コミュニティSDGsでは、こうした疑問を投げかけ、お互いに話し合うことができます。この議論では、各人が自分の経験や複数のアイデンティティに基づいてそれぞれ主張します。とはいえ、コミュニティSDGsでは、議論することが最終目標ではありません。 私たちは、コミュニティにとって最善またはより良い方法を考え、実践します。何かをやれば必ず結果は出ます。その結果について議論し、次のステップに進みます。こうした議論と試行錯誤(実践)によって、地域のSDGsは地域ごとに適切で現実的なものとなります。

結局、国連のSDGsとコミュニティのSDGsの違いは何かと言えば、コミュニティSDGsはコミュニティに根ざし、実践と議論とともに、コミュニティをさらに改善していくことなのです。