インドChanakya 大学との協働―モニ首相の「現場主義と技術の統合」は教育の未来方向として正しい

CWBアドバイザー 松井名津

Chnakya大学という新設の大学との協働プロジェクトの始まりは、CWBの理論的なメンター役でもあるスリーダラー先生の提案から始まった。この新しい大学の副学長に以前から付き合いのあるドングレ先生が就任し、社会起業研究所を設立する計画もあるという。

社会起業の実践でCWBと連携ができるのではないかと、スリーダラー先生がドングレ先生に提案されたわけだ。たまたまドングレ先生が日本に1ヶ月以上滞在する予定があり、実際に会って話をしませんかということで、5月末ドングレ先生と会うことになった。

片岡さんからのアドバイスもあって、今までのような形式、「現地の大学で講義→学生グループ作成→ビジネスプラン→現地での実践(に対するビジネス面でのアドバイスや販路の提供)」は取らないことを大前提とした。現地での実践に手を貸すというよりも、CWBネットワークの中でインターンとして実践経験を積んでもらう方向性で話をするつもりだった。というのも今までの経験上、最初の講義時や対面時は勢いがあっても時間が経つにつれ熱が冷める。学校の行事や試験が優先される。学生グループの中でのちょっとした行き違いでグループそのものが破綻する。等々。

どうしてもスカイプ等の遠隔でのコミュニケーションでは活動のモニタリングになってしまい、手間がかかる割には実践上の結果が伴わない(もちろん学生側だけに原因があるのではなく、モニタリングをしているメンターの実力不足や経験不足にも原因がある)ことが度々だったからだ。CWBネットワークの中でということは、学生にとってはインドから外国に行くことになる。さらにこれまでの経験から2〜3ヶ月の短期では効果がない。最低でも6ヶ月、できれば1年の時間が欲しい。正直いってこうした要請をドングレ先生側は渋い顔をするのではと私自身は思っていた。

しかし、話を始めると非常にスムーズに受け入れられた。むしろそれぐらいの期間が当然という感じだ。結果的に下記のような概略が定まり細部に関しては今後ということになった。

1)インターン学生の受け入れ:小規模なビジネスの実践や経験をつむ。

2)特に農業分野での6次産業化への実践場所を提供

3)各民族特有の文化保全とビジネスを結合させる実践・実験・経験
4)インターンシップの期間は最低6ヶ月から1年:学生の負担に関しては今後話し合う。
5)学生はこのインターンシップに関して大学から単位を認定されるので、学生評価に関して大学側も関わる。CWB側もJDや評価会議の結果を共有する。

6)対象となるのはChnakya大学ビジネスマネジメント学部の2年生もしくは3年生になる予定。

7)CWBでのインターンは農作業など退屈そうに見える活動が多い。がそれは現実の作業を知り、その中から新たなアイデアなり商品を生み出すことを期待してのことなので、単純作業の日々を覚悟してほしい。

話がスムーズだったのはドングレ先生がすでにCWB(とその前身)や、日本の六次産業化の試みをご存知だったことが大きい。しかしChnaka大学が2020年に制定されたインドの国家教育政策に基づいた新設大学という要素も大いに寄与しているのではないかと考えている。そこで最後にこの国家教育政策の中での高等教育の役割を紹介しておきたい(本文はhttps://www.education.gov.in/sites/upload_files/mhrd/files/NEP_Final_English_0.pdfにある)。

National Education Policy 2020は3歳から18歳までの統合的普通教育、それ以上の高等教育および生涯教育をすべて取り扱っている。序文では多方面における技術的科学的進歩により単純労働が機械に取って代わられること、逆に熟練した知的労働の必要性が高まること、特に気候変動・資源の枯渇・エネルギー問題に対しては理系・文系の枠組みを超えた教養が必要となることが述べられ、従来の正解のある知識を身につける教育から、「どのように学ぶのか」を身につける教育が必要であると謳われる。「教育は単に認知的能力―読み書きという基本的な能力からより高度な批判的考察や問題解決までーを養成するだけでなく、社会的、倫理的そして情感的な能力と姿勢を養成しなくてはならない」。こうした方針はインドの深い伝統(知識Juan・智慧Pragyaa・真理Satyaを人間の最も高度な達成目標におく)に根ざすものである(とこの辺りはモディのヒンズー第一主義を思わせるところもあるが)。したがって「教授法は経験的で、全体的、統合的、探究的かつ発見的であり、学習者中心で議論を基礎とした柔軟なそしてもちろん楽しいものでなければならない」とされる。

さて、こうした全体方針のもと、高等教育で何よりも強調されるのが「全人的(holistic)で専門蛸壺にならない(multidisciplinary) 教育」である。その方法の一つが認定された単位(credit)を貯金できるcredit bankシステムであり、このシステムを活用することで、一専門にとらわれないコースやプロジェクトの選択が可能となる。このクレディットを基礎とする教育と並んで3本柱になっているのが環境教育と価値教育である。環境教育といっても生物多様性といった生物学・化学的なものからゴミ、汚染・衛生といった社会政策的色合いのもの、森林や野生動物の保全までを含む。価値教育は人権や自由といった西洋的価値をインド伝統的価値から捉え直す(逆かもしれないが)とともに、コミュニティへの「奉仕(サービス)」に大きなウエイトを置く。そして全人的な教育の一環に地域の産業・ビジネス・アートや職人分野へのインターンシップが位置づけられている。こうしたインターンシップは「学生に自らが身につけた知識の実践的側面に現実的に従事することになる、そしてより一層職に就く機会を高めるという副産物を得られるだろう」とされる。

ここまでなら、日本の大学でもおおよそ字面的には謳われそうな事柄である。しかしこうしたインターンシップに加えて、職業教育が従来の知識型教育と同等のものとなる。職業教育が「大学に行けなかった落ちこぼれの生徒」用だとみなされているのは、日本でもインドでも変わらないようだ。が、この教育方針ではこうしたものの見方そのものが学生の選択の機会を狭めているとする。したがって4年制分野横断型の大学は自らのカリキュラムとして、あるいは産業や企業、NGOとのインターンシップのいずれかの形態で、学生に職業教育を提供しなくてはならないとされる。起業家教育もこの職業教育の一環であり、そのために各機関は研究所を設立することになっている。ようは「お客さん」のインターンシップはいらないということだ。学生の職業選択に役立つような職業教育、しかもその職業の中にはアート(ダンスがきちんと明記されている)や職人技(織物が代表に上がっている)が含まれている。 CWBの活動は、上記の環境教育、コミュニティ中心、カンボジアの伝統舞踊をはじめとする民族文化保全を含んでいる。その意味で以上の教育方針に適合的だ。しかしそれだけに一層責任も重くなる。果たして私たちの活動は、真にインターン生にとって有益な場になり得るのか。単なるちょっとした異文化体験や起業の真似事に終わるのか。これから私たちのネットワークの真価と進化(深化)が問われることになる。

変化の種⑥ インドの社会起業家の紹介

CWB 奥谷京子

先月はお休みしましたが、再びヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』からご紹介します。

前回は女性ドライバーを育成して地域で女性が安心できるバイクタクシーを増やしたり、地元の女性たちの手仕事にデザイン性を加えてIKEAのような世界市場へ応援するもの、聴覚障がい者の女性たちのドレスづくりをオンラインストアで支援するものなどバラエティに富んでいました。今回は“Transforming lives(人生を変える)”と原文のタイトルにあった3人の起業家をピックアップしたところ、3人ともやはり女性起業家でした。日本で“Social Entrepreneur”という言葉が現れる前は「生活密着型ビジネス」とWWBジャパンでは表現していました。生活の中の発想・着眼点で仕事を作り出す、地域に貢献する、人育てに力を入れる、不平等を無くすなど、それを作り出す多くの女性がいるのは世界共通です。

ウルヴァシ・サーニ博士:教育を通じて人生を変える

ウルヴァシ・サーニ博士は、インドの社会起業家精神の最前線に立つ、先見の明のあるリーダー、女性の人権活動家、教育者です。Study Hall Education Foundation (SHEF) のCEO兼創設者としての彼女の使命は明確です。それは、インドで最も恵まれない少女たちに教育へのアクセスを提供することです。

サーニ博士は30年以上にわたる献身的な活動を通じて、900以上の学校と協力し、15万人以上の女子生徒の生活に直接影響を与え、さらに27万人の女子生徒が彼女のプログラムを通じて間接的に恩恵を受けており、消えない足跡を残しています。彼女の献身と情熱により、2017年に名誉ある「社会起業家オブ・ザ・イヤー」賞を受賞しました。これは、教育とエンパワーメントの追求における彼女の無私無欲の行動が認められました。

ウルヴァシ・サーニ博士は、学校のガバナンス、カリキュラム改革、教師トレーニング、教育におけるテクノロジーの利用、特に女子教育に重点を置いた専門家として知られています。彼女の影響力は国境を越えて広がります。彼女はブルッキングス研究所のユニバーサル教育センターの非常勤研究員です。

彼女の献身は世界的に認められ、オバマ財団グローバル・ガールズ・アライアンスとクリントン財団からチェンジメーカーとして認められています。シュワブ・ジュビラント・バーティヤ財団による「インド・ソーシャル・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」賞は、インドで最も恵まれない少女たちの教育における彼女の影響力のある取り組みをさらに強調しています。

サーニ博士の社会起業家としての旅は、1983年の女性の人権団体であるSurakushaの設立から始まりました。彼女はその後、SHEF を設立し、プルナ女子学校を含む3つの幼稚園から高校までの学校を手掛け、手頃な価格で高品質の権利を提供しました。都市のスラム街の1000人以上の少女たちに教育を提供しました。SHEFは、都市部の中産階級の子供たち、貧困地域の恵まれない少年少女、学校に通っていない子供たち、そして農村部の子供たちを含む4000人以上の生徒に直接影響を与えています。

Digital Study Hallの共同創設者兼ディレクターとして、サーニ博士はウッタル・プラデーシュ州の地方および都市部の学校に教育実践を広げ、10万人を超える生徒と教師に影響を与えています。彼女の影響は、女性に持続可能な生計を提供する社会的企業であるDiDiにまで及び、65 人のPrerana(*1)卒業生とその母親を雇用しています。

サーニ博士は、カリフォルニア大学バークレー校教育大学院で教育学の修士号と博士号を取得しています。彼女の学術的貢献は国際フォーラムや大学に及んでおり、彼女の広範な出版物は教育学への批判、教育現場における演劇学、フェミニスト教育学、児童文化、女子教育とエンパワーメントを網羅しています。

彼女の最新の著書『空に手を伸ばして:教育を通じて女の子たちのエンパワーメント』は、Prerana女子学校との14年間にわたる取り組みに基づいており、教育は、少女たちの生活に固有のニーズと課題に敬意と配慮を持って対処することで真に変革をもたらすことができると強調しています。ウルヴァシ・サーニ博士の旅は、教育と社会起業家の変革力を体現し、エンパワーメントと変化という不朽の遺産を残しました。

*1 Prerana:ナレンドラ・モディ首相が故郷グジャラート州メーサナ地区にあるヴァドナガルに最初に建設した学校は、国の若者が「変化の主人公」になるよう鼓舞する「PRERANA」というモデル学校として開発されている。文化や技術、信仰など9つのテーマが用意されている。

https://prerana.education.gov.in

SHEF  https://www.studyhallfoundation.org/

アカンクシャハザリ:m.Paaniを通じて人生を変える

アカンクシャ・ハザリは社会起業家精神の先駆者であり、自身の事業である m.Paani を通じて世界的な水危機への対処に多大な貢献をしています。ビル・クリントン大統領に認められ、100 万ドルの賞金を授与されたハザリの革新的なアプローチは、モバイルベースの報酬プログラムを通じて、十分なサービスを受けられていないコミュニティに力を与えることに重点を置いています。

ハザリの使命は、十分なサービスを受けられていない家族に、彼らの願望を達成するために不可欠なスキル、知識、ツールを提供することに重点を置いています。 m.Paaniプログラムは、支出とポジティブな行動をポイントに結びつけ、これまでアクセスできなかったコミュニティに機会を生み出します。

m.Paani のモデルの核となるのは、コミュニティ開発基金の創設です。パートナー企業は、コミュニティメンバーが製品やサービスを購入するたびに、利益の一部をこの基金に投資します。蓄積された資金は非営利パートナーを参加させるために使用され、スキル開発、教育、医療サービスなどのサービスを提供します。

報酬ポイントシステムは m.Paani の成功の中心です。コミュニティのメンバーは、ポジティブな行動や支出に対してポイントを獲得し、さまざまな機会と引き換えることができます。たとえば、経費記録を維持したり、教育クラスに参加したりするとポイントが獲得できます。

m.Paani の影響力はコミュニティの変革に明らかであり、3か月で合計最大 5,000 ルピー(9244円)の機会と報酬を提供しています。この報奨金は、飲み水が出る水道を各家庭に1台設置、各家庭にトイレを設置など、必要不可欠なニーズに応え、病気や健康関連の出費の削減につながりました。

コミュニティにおける実験の成功により、アカンクシャ・ハザリはムンバイ全土に m.Paaniの影響力を拡大することを目指しています。ユーザーベースは大幅に増加しており、このプログラムのモデルは携帯電話会社パートナーから認知、支持されています。ハザリ氏は、このシステムを拡張して、都市部のスラム街の住人が村の家族にポイントを移転できるようにし、農村地域の発展に貢献することを構想しています。

長期的には、m.Paani は消費者に関して収集したデータを活用して、企業が消費者とどのように関わるかに影響を与える可能性があります。テクノロジーとビジネス戦略の革新的な利用により、m.Paani は社会起業家精神における変革力としての地位を確立し、地域レベルと世界レベルの両方でポジティブな変化を生み出すというアカンクシャ・ハザリの取り組みを体現しています。

*TEDでのプレゼンは彼女の仕組みについてわかりやすく説明しています。実際4700世帯くらいのキアンダという地域にかつて共有の水飲み場は115か所、トイレは285か所でしたが、各世帯で年間使う携帯電話の料金160.5ドルのうち、5%をm.Paaniの水基金へ寄付するプログラムを作り、年間で37,581ドルが集まり、442か所の水飲み場やトイレを新たに設置でき、当初41世帯に1つの水飲み場が、1年目は8世帯に1つ、2年目は4世帯に1つ…5年目にして1世帯に1つという普及に成功している。このモデルはアフリカでもお手本とされていまあす。

m.Paaniが地域の零細ビジネスに技術で貢献 https://youtu.be/pXa03y7m7g0

ラジベン・ヴァンカール:

アップサイクルと起業家精神を通じて生活を変える

グジャラート州ブジのコタイ村出身の作家兼起業家であるラジベン・ヴァンカールは、自分の人生とコミュニティの他の女性の人生にポジティブな影響を与えるために、重大な課題を克服しました。逆境に直面しているにもかかわらず、ラジベンは廃棄されたプラスチックをアップサイクルして美しく持続可能な芸術品を作ることに特化した、彼女の名を冠したブランドの誇り高きリーダーです。

ラジベンは、わずか2年間しか学校に通っておらず、限られた教育を受けながら始まりました。しかし、正式な教育を受けていないことが、学び、家族の幸福に貢献するという彼女の決意を妨げるものではありませんでした。6人の姉妹と1人の男の子の家族で育った彼女は、父親が女性の教育の必要性を否定していたために、性差別に直面していました。ラジベンはめげずにこっそり学校に通ったものの、家族の反対に遭いました。困難にもかかわらず、彼女は秘密裏に手紡ぎ手織り綿の伝統的な形式であるカディを織る技術を開発しました。

4年間続いた干ばつを乗り越える間にラジベンの人生は予期せぬ方向に進み、代わりの収入源を探すことを余儀なくされました。最終的に、彼女は公然とカディを織ることを学び、家族の生計に貢献しました。18歳での結婚により新たな困難が生じ、夫の早すぎる死により、彼女は3人の子供を養わなければならない弱い立場に置かれました。

2009年に、工芸品、遺産、文化生態学を専門とする NGO であるカミールとつながりを持ったとき、ラジベンの人生は好転しました。この極めて重要な瞬間が、彼女のアップサイクルプラスチック成功の始まりとなりました。カミールの支援とヘタルという協力者による革新的なデザインに触れたことで、ラジベンは廃棄されたプラスチックを実用製品に変えるというアイデアに至りました。

2019 年、ラジベンはプラスチックのアップサイクルとその過程における女性のエンパワーメントに焦点を当てたブランドを設立することを決意しました。自助グループのサキ・マンダルから当初反対にもかかわらず、ラジベンは粘り強く、村や近隣地域から捨てられたビニール袋を集め始めました。カーリガークリニック(ビジネスインキュベーション)のニレッシュ・プリヤダルシとヌープール・クマリの助けを借りて、彼女は自社製品のブランド確立や、デザイン、マーケティング戦略を開発しました。

ラジベンの仲間は約70人の女性で構成され、10台の織機とミシンを稼働させ、さまざまなアップサイクル プラスチック製品を生産しています。フルーツバスケット、買い物袋、トレイ、クラッチ、財布、ハンドバッグなどのこれらの製品は、カーリガー医院が運営するWebサイトpabiben.comで紹介されています。それぞれの製品には、その創作に携わった女性作家のストーリーがあり、製品と作り手とのつながりを育みます。

ラジベンのブランドは目覚ましい成長を遂げ、昨年度の売上高は1700万ルピー(3153万円)に達しました。このブランドの成功を受けて、米国やヨーロッパの大手ブランドとのコラボレーションの可能性についての話し合いが行われています。ラジベンのビジョンは彼女自身の成功を超えて広がっています。彼女は自分のモデルを他の村でも再現し、より多くの女性に力を与え、環境の持続可能性に貢献したいと考えています。彼女の目標は、アップサイクルを通じて最大1000人の女性を訓練し、雇用の機会を創出し、環境を保護することです。彼女はまた、ブランドの影響力をさらに高めるためにデザイナーを雇用することも構想しています。

ラジベンの物語は、恵まれないコミュニティの女性に持続可能な生計を築く上でのアップサイクルの回復力、決意、そして変革をもたらす力を例証しています。https://www.pabiben.com/products/rajiben/

*どのような作り方なのかはこちらのページがわかりやすいです

https://artisanscentre.com/blogs/meet-the-makers/meet-the-maker-rajiben-vankar

インドネシアでの「銃のない平和を!」公演に向けて

CWB 奥谷京子

4月の日本での公演で10か所回って、「Peace without Guns―武器のない平和を」という脚本でYikeを披露したのですが、次はインドネシアのバリ島で開催することが決まったのは先月号でお知らせしたとおりです。これをどうやって開催するのか、日本公演で使ったデータをもとに、手伝ってくれた学生インターンの羽成優花さんがいろいろとインドネシア語にチェンジをしてくれています。

1つはインドネシアも楽団を呼べないので事前収録した音声を使うのですが、日本では幕間に解説を入れていました。それもインドネシア語に変えなければなりません。まずは英語にして、それをインドネシア語にGoogle翻訳をしてみて、実際ネイティブの人が読んだ時におかしくないかをチェックしてもらい、それでなるべく読み上げるスピードも日本語バージョンと同じくらいにしてもらい、録音を繋ぎ合わせています。今回私が行って、実際にヴァニー先生にその音声を届けることができました。これで彼女らの練習もタイミングを見ながらうまく進めることができるようになると思います。

2つ目にパンフレット。12ページあるものを8ページに短縮するのですが、インドネシアに行くメンバーは入れ替わるので、その人たちの紹介文章や日本語で書かれた中田厚仁さんの歴史などこういうものもすべて英語にした後にインドネシア語に直しています。なぜ日本語から直接インドネシア語ではなく、英語を経由しているかというと、日本語というのは結構曖昧な言語なので、そのまま翻訳にかけると主語と動詞がうまく結びつかなかったりすることがあります。それが直接インドネシア語になってしまうと私たちもそれがあっているのかどうかの判断ができません。そして今後ほかの地域に行く時も英語にしておくとフィリピンやインドにも使えますし、何かと便利だからです。日本語で言わんとしていることを敢えて説明を加えるなどしながら英語にして、それをインドネシア語にして、またネイティブチェックをもらって問題なさそうだということでそれを編集に回すといった具合です。

 3つ目にMr. Diのインタビュー。これもクメール語なので、インタビューのスクリプトをもらって、それを英語にして、さらにインドネシア語に翻訳するといった過程が必要です。そして字幕付きに編集しなおしてくれるところまで羽成さんにやってもらっているので、私は本当に助かっています。

そして最後にもう1つ、日本公演での改善案として、やはり劇中のクメール語での会話が何を言っているのかがわからなかったというお声も頂戴しました。もちろん物語の解説はパンフレットに入れていますし、誰がどの役かも説明をしているのですが、じっくり読んでから公演に臨む人は大多数ではありません。ヴァニー先生をはじめとして白熱した演技で心を動かされますが、話している内容がもっとわかれば…ということで、映画の字幕のように投影されたスクリーンに映し出せないかという改善案が出てきて、これが次なるチャレンジです。字幕を出すタイミングも演じている人たちに合わせないといけないので、どれくらいうまくいくのか未知数なのですが、多少会話の店舗がずれたとしても、全くないよりも理解する助けになるだろうということでやってみようと思っています。 これらのことを準備し、インドネシア公演へ臨もうと思っています。アジアの国で開催することで、カンボジアでは当たり前に用意できることが海外ではできなかったり、言葉の壁をどうやって超えられるかなど、いろんなことを乗り越えて、いいパフォーマンスができるように進めていきたいと考えています。

国際チーム(ミャンマー・カンボジア・日本人+ヤナイ君)でフェアへの出展準備進む

CWB 奥谷京子

ベトナムやタイは日本と同じように展示会場で世界中のバイヤーと生産者が集まるようなメッセや展示会というのがたくさんあり、私もかつてホワイエの花卉を探すのに通訳としてスタッフの皆さんと一緒に回ったことがあります。中国の広州に行ったときには3日早朝から閉館の時間まで回っても回り切れないほどの広い会場でした。

それに比べて、カンボジアでは展示会で商品を見て、取引の商談をするような慣習がほぼなく、若い人たちが「グリーンフェア」を企画して今年で3回目。会場となるエリアも緑に囲まれた、メコン川の中州にある交通量の多い場所で7月5~7日に開催されます。

この企画にChnai Marketの場所をもともと紹介してくれたソペアックさん(通称ソペさん)が共同代表としてかかわっており、ここにホワイエのリースやポリカといった商品やフィリピンのSHAPIIの紙製品、そして手作り水耕栽培キットなどを作って実際に展示をする計画で動き始めました。

ちょうど私もカンボジアに1週間滞在していましたので、その時にソペさんと直接どういう展示をしたらいいか、事前に案を共有して実際の場所についてのすり合わせをし、長机1台のスペースに棚を持ち込んでいろいろと見せようという話をしました。その後、ブースのイメージ図を手描きし、これまでホワイエで展示会に出たときの写真もいくつか見せながら、単に机に並べるではなくて、小さな箱の上に布をかけて高さをつけながら飾るなど工夫をして、限られたスペースだけれどもほかに負けない目を引くブースにしようと、帰国前にもう1度ディスカッションの場を設けました。

今回一緒に進めているメンバーはミャンマーから避難してきたノノ君、タタ君が中心で、ノノ君は持病の問題からミャンマーに戻ることが決まり、タタ君はアサさんのお兄さんでいずれアメリカに行くことが決まっているので、「Beyond Border Team」と名付けて、日本にいる私とバラバラのところで働くチームが結成されました。さらにはチュナイマーケットでクッキーを作って販売しているカンボジア人のスレイリャックも加わり、このフェアに向けて動くことになりました。

まずは水耕栽培用のポンプをネットの情報から探し当てて自分たちで手作りしたものを完成させました。言葉が通じない国でネットで調べながら材料を買って作っていくというのはかなり試行錯誤だったと思いますが、ノノ君は手作りすることがパソコンに向かって何か仕事をするよりも好きなようです。

 そして棚をどうやって魅力的に作るか棚に網を張って、そこにリースをかけられるようにして、背後からも商品が見えるようにしたらいねというので、棚をどうやって作るのか、素材をパイプにしたら組み立て可能じゃないか、メジャーで大体どれくらいの大きさ、高さにしようかというのを議論しました。

 最後に話をしたのは、この展示会に出展することがゴールではなくて、そこで出会ったお客さんに次を投げかけるために知ってもらうことが一番の目的だよ、と。そこで100人の情報を集めよう。本来ここがSocial Entrepreneur Instituteであることから、起業の話をしたり、展示即売会をこの場所で行ったり、そうすればスレイリャックのクッキーやスムージーを知ってくれる人がいる、そうやって徐々にここを知ってもらう、訪れてもらう人が増えるためなんだよと伝え、それを遠隔でもサポートするチームにしよう、と。私もどう魅力的な場所として紹介できるか、チラシ作りに力を注ぎたいと思います。

変化の種⑦ インドの社会起業家の紹介

CWB 奥谷京子

今回もヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』からご紹介します。私は産業能率大学で年に1回「ビジネスマインドと発想法」という講座を担当しています。どういうアイディアと動機で人々が事業を始めるのかという紹介を日本の女性起業家だけでなく、今年度はこちらのインド社会起業家シリーズからも紹介したのですが、改めて目の付け所、社会に対する問題意識など、大事な要素がちりばめられているように感じます。

今回は地方の村の仕事づくりや若者の育成ということに焦点を当て、3人の社会起業家を紹介します。

〇ニヴェディタ・バネルジ:クンバヤのプロデューサーを通じて女性に力を与える株式会社

1994年、ニヴェディタ・バネルジは、マディヤ・プラデーシュ州デワス地区のニームケダという人里離れた村に縫製センターとしてクンバヤを設立しました。現在、クンバヤ・プロデューサー・カンパニーリミテッドは、疎外されたコミュニティの 100 人以上の女性に年間300日の雇用を保証する、繁栄したベンチャー企業に成長しました。

1980年代、ニヴェディタ・バネルジは、デリー大学とジャワハルラール・ネルー大学 (JNU)で学びながら、基本的な社会問題に根ざしたフェミニスト運動や草の根活動に積極的に参加しました。1990年、ソーシャルワーカーのババ アムテの指導のもと、彼女はマディヤ・プラデーシュ州の農村部で水の保全、生活の安全、金融アクセスに焦点を当てた重要な草の根の取り組みであるサマジ プラガティ・サハヨグ(SPS)を共同設立しました。

SPS内で、クンバヤはアパレル、パッチワーク、ホームリネン、アクセサリーのブランドとして誕生し、縫製技術を通じて女性や障がいのある人に力を与えました。ニームケダの小さな村から始まり、バネルジはそこで部族コミュニティの地方統治における女性の存在が目に見えないことに気づきました。この認識が彼女にインスピレーションを与え、スキル構築の取り組みと女性の権利についての意識を高める手段の両方として刺繍を導入しました。

限られた資源や地元男性の反対などの課題に直面し、バネルジは当初、借りた機械で女性たちを教えました。国立農村開発銀行(NABARD)の融資を受けてミシンを調達し、女性たちは寄付された布切れを使って縫製を始めました。挫折にもかかわらず、パッチワークに感銘を受けた卸売業者が米国への輸出を開始したことで、この事業は再び再生し勢いを得ました。クンバヤは女性に生計を立てる機会となり、経済的自立をもたらしました。縫製センターの焼失などの困難にも関わらず、この事業は継続しました。タタ・トラストからの支援により、事業を拡大することができました。現在では、疎外されたコミュニティの出身の100人以上の女性が同社の株主となっています。

クンバヤはスキル開発に重点を置き、80の村の2500人以上の女性に縫製を教えてきました。このベンチャーは衣料品のデザインに取り組み、世界的なデザイナーと協力し、世界中のブランドと提携しています。新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって引き起こされた挫折にも関わらず、クンバヤは循環的な実践を通じて持続可能なファッションとデザインを生み出すという使命に引き続き取り組んでいます。

ニヴェディタ・バネルジとクンバヤの物語は、スキル開発と持続可能な起業家精神を通じて女性とコミュニティに力を与え、草の根の取り組みが変革をもたらす力を実証しています。https://www.kumbaya.co.in/

〇サントシュ・パルレカール: Pipal Treeを通して希望と力を育む  

インドの起業家精神の広大な風景の中で、サントシュ・パルレカールは希望の光、インドの田舎の失業中の若者の生活に変化をもたらす触媒として現れています。「Pipal Tree」の先見の明のある創設者として、パルレカールは、エンパワーメントに対する情熱を、スキルを授けるだけでなく、尊厳ある雇用の機会への扉を開くプラットフォームに変えました。

2007年に設立されたPipal Treeは、安定した仕事を確保する上で農村部の若者が直面する課題に対処するというパルレカールの揺るぎない取り組みを表しています。これらの人々の未開発の可能性と才能を認識し、スキルの習得と就職の間のギャップを埋めることを使命としてPipal Treeを設立しました。

Pipal Treeの核心は、従来のトレーニング・プログラムを超えています。若者が全国の企業にとって貴重な人材となるための正式な教育とスキルを提供しています。パルレカールは、田舎の若者が適切な指導と訓練を受けて障壁を乗り越え、労働力に有意義に貢献できる未来を思い描いています。

Pipal Treeの影響は大きく、革新的なトレーニングを受けた1500人以上の労働者の生活に影響を与えています。新たに獲得したスキルを武器に、これらの人々は自信と能力を持って雇用市場に参入し、失業のサイクルを断ち切り、より明るい未来への道を切り開きます。

パルレカールの物語は、社会起業家の本質、つまり差し迫った問題を解決するための揺るぎない取り組みを体現しています。Pipal Treeの成功は、システム内のギャップを特定し、それに対処する革新的なソリューションを作成する彼の能力の証です。

パルレカールは、利益だけに焦点を当てるのではなく、個人とコミュニティを向上させる持続可能なソリューションの作成を優先しています。

サントシュ・パルレカールの物語は、田舎の若者の可能性を信じる人々にインスピレーションを与えます。彼の起業家としての歩みは、ビジネスが社会変革の手段となり、最も必要とする人々に成功と尊厳への道を生み出すことができることを私たちに思い出させてくれます。彼はPipal Treeを通じて変革の種をまき、インドの農村部の労働力に明るい未来を育んできました。パルレカールの遺産は単なる起業家精神ではありません。それはエンパワーメントと前向きな変化の遺産であり、一人の個人がコミュニティやそれを超えて大きな影響を与えることができることの証です。

https://pipaltreeventures.com

◯ラディカ・メノン、プリヤ・ディーパック: ヴィレッジ・フェアの健康的な調理器具革命

テフロン加工の鍋が主流の現代のキッチンの賑やかな世界の中で、コチ出身のラディカ・メノンとプリヤ・ディーパックは、鋳鉄や陶器を使ったより健康的な料理の伝統を思い返すことにしました。彼女らのベンチャーであるヴィレッジ・フェア(The Village Fair Natural Cookware)は単なるビジネスではありません。それは、毒素を含まない天然の道具を使って料理をするという、昔ながらの習慣を復活させる物語です。

「ヴィレッジ・フェア」のアイデアは、鍋に加えると鉄欠乏症に対処できる鋳鉄製の魚について論じた Facebook の投稿がきっかけでした。この反応に興味を持ったラディカは、鋳鉄製のカダイ (中華鍋) の写真を共有し、より健康的な調理器具を導入したいと願う人々からの問い合わせが殺到しました。この啓示は、自然の調理器具を入手しやすくし、鍋やフライパンの味付けに携わる女性に経済的自立を提供するという使命を持ったヴィレッジ・フェアの発足につながりました。

このベンチャー企業は、女性の自助グループによって慎重に調達され、味付けされた、さまざまな天然調理器具を提供しています。テフロンが独占する市場において、ヴィレッジ・フェアは、より安全で健康的な代替品を提供することで、常識を打ち破ることを目指しています。包括性に重点を置き、チームは 5人の中核業務グループと、調理器具の工夫に携わる自助グループの女性18人で構成されています。 

送料を除く価格が600ルピーから6000ルピーの鋳鉄や粘土の容器を含む製品は、健康上の利点だけでなく、製造過程での人間味によって人気を集めています。チームは近々石器製品を導入し、その製品を拡大する予定です。

ヴィレッジ・フェアは、堅牢なサプライチェーン過程と戦略的な市場開拓アプローチに基づいて運営されています。Facebookを実験場としてスタートし、その後ウェブサイトとEショップを立ち上げました。実践的な体験を好む人のために、ヴィレッジ・フェアはオーガニックで健康的な生活を推進する地下鉄にある店舗と提携しています。

チームは、このモデルを段階的に世界的に複製することを構想しています。自己資金で運営され、販売ごとに40~50%のマージンをとって運営されている ヴィレッジ・フェアは、年間400万ルピー近くの売上高を誇り、毎日約50個を国内外の顧客に出荷しています。ビジネスの成功以外にも、このベンチャー企業は恩返しも行っており、売り上げの5%が精神障がい者向けの医薬品のための Mehac Foundation を支援しています。ヴィレッジ・フェアは、伝統と革新を融合させ、すべての人により健康的なライフスタイルを促進する可能性を証明するものです。

「インターンも旅の仲間」 移民コープとモンドラゴン

CWBアドバイザー 松井名津

ブルーノさんが毎回紹介してくれているラテン・アメリカ諸国のコーポラティブでは、国家とコーポラティブの関係が一つの焦点となっていた。今回のモンドラゴンの新しい動きは、増え続ける移民に対してコーポラティブが「支援」に当たるというものである。

通常移民への支援は国家の仕事と考えられている。移民先の社会に馴染むための言葉や慣習の習得、正規の職業に就くための訓練などの費用を、移民から徴収するわけにはいかない。各個別の企業が負担金を出すというのも、移民を労働力として活用するかどうか未決定な企業にとっては、納得できる話ではない。しかし移民が社会に馴染まないまま、正規の職につけないまま地域社会に滞留することは、社会全体に不安と不安定をもたらす。したがって国家が税金を使って(国家の安全のために)移民に対する支援を行うというのが一つの理屈である。これはラテン・アメリカ諸国のコーポラティブに国家が支援を行っていた理由と重なる。社会の周縁部に存在せざるを得ない人々を、社会の中心部に同化するための支援ともいえる。

これに対してモンドラゴンの新しい動きで紹介された方策は、移民自身が起業家となるためのコーポラティブプログラムである。インタビューによれば目的は「コーポラティブが移民が自分自身の仕事を計画し人生の見通しを改善する」ことにあるという。

特に多くの移民が自分たちのコミュニティから切り離され、相互扶助や相互支援の輪の外に放り出された状態であることから、彼ら自身の困難や必要性を表明できるネットワークを作り出すことが鍵になるとされている。したがってモンドラゴンの役割はコーポラティブの概念や組織化の方法、トレーニングといった側面支援にとどまる。事実インタビューの中で「私たちのような恵まれた立場から移民にアプローチすることは、とても難しいのです。それゆえ移民たちとすでに関係がある団体や場所と協働する事が肝要になっています」「私たちは旅の仲間にとどまるべきなのです」と述べられている。

この二つの対照的なアプローチを読んで、私が想起したのは日本の障がい者運動や近年の高齢者介護で使われる「当事者主権」という言葉である。この言葉はある種の曲解を伴って使われる場合がある。健常者として長年障がい者の介助に従事する立場から、介護の問題に迫っている渡邉氏の言葉を借りれば【本人の思いは、もっともらしい装いを纏って家族や介護職員の思いへと普通にすりかえられる。「こういう状態になったんでしたら、〇〇するのが、ご本人にとって一番いいんです」-「当事者主権は耳触りが良いだけに、その言葉が都合よく曲解されることに対して、ぼくたちは重々に気をつけなければならない(渡邉琢『障害者の傷、介助者の痛み』青土社2018年)」。この記述をあらためて読んだのは、私自身の母が難病の診断を受けた上に大腿骨骨折で入院し、退院後の生活をどうするかという話し合いをケアマネージャーとしているところだった。そして私自身も「母にとって一番いいんです」という罠に陥っていることにあらためて気付かされたのだった。

一人暮らしを望む母、一人暮らしを継続してもらいたい私。その一方日々一緒に生活していく中で「一人暮らしして大丈夫だろうか?」という心配を持つ私。ケアマネージャーからは「一人暮らしをするための支援」と「施設で生活する」という二つの選択肢を示されている状況。その中でともすれば「母にとって…」という言葉で本人の意向を無視しがちになっている自分。まさしく「都合よく曲解」する状況が生まれつつあった。そしてこの曲解は、高齢者に対してだけでなく、さまざまな障がい者、移民、マイノリティと言われる人々に対して、そうではないマジョリティが陥ってしまう罠でもあると痛感した。特に国が関与している場合、いわゆる「健常者」は自分たちの税金が使用されているというただその一点を持って優越的立場に立てる。そして自分たちの意向を無意識のうちに「本人のためだから」と曲解して押し付ける。そしてその意向からはみ出していく人たちに対して「〜の癖に贅沢な、わがままな」主張をする人間だと排斥する。

日本の障がい者運動はこうした社会的規範に対する抵抗であり、社会的規範を変更するための運動だった[1]。なぜ脳性麻痺者が「外出する自由」を持てないのか―具体的にはなぜ車椅子でのバス乗車が拒否されるのか。障がいのある子供が生まれることが出生前診断でわかった時、堕胎する権利は女性だけのものなのか―それは社会から障がい者を消し去ることを意味しないか。障がい者にも性欲がある。障がいがありながら家族を持つこと、子供を持つことは「贅沢」「我儘」なのか。障がい者=当事者の欲求・要求は「健常者」にとって当たり前のことであるのに、障がいを持つから制限されなくてはならないのか。障がい者が地域で「当たり前の生活」を営むのは当然のことではないのか。当事者主権は本来こうした文脈で使われるものだった。

ところが、70年代に始まった障がい者の運動、障がい者の自立生活運動に対抗したのは労働者であった[2]。実際の現場で介助や補助にあたる病院や施設の労働者、交通機関の労働者にとって、障がい者の要求は自分たちの労働強化として受け取られ、ともに問題を解決しようという姿勢が見られなかった。90年代になると介護補償制度が各自治体で制度的に認められるにつれて、障がい者の地域生活基盤整備が進んでいく。それは障がい者に対する24時間介護補償が実現する=障がい者が地域で自分で生活していくことでもあったが、同時に福祉介護部門における非正規労働者の増大を伴うものであった。非正規労働者の増大というと負の側面が強調されるが、障がい者介護の現場ではそれまで9時~5時、週18時間という正規ヘルパー派遣以外の部分は、ボランティアによって担われていた。重労働でもある障がい者介護(介助)を無償で、しかも深夜であっても対応するボランティアを確保することは非常に難しい。したがって時給が払われ、かつ24時間誰かが対応してくれる形での非正規労働者の存在は、障がい者が地域で自立生活を営む上で必要でもあった。一方で非正規労働者の増大は、多くの人の生活基盤を切り崩すことになった。また90年代に始まった「自由化」「市場化」の動きが、社会のセーフティーネットを弱めた。その動きは同時に障がい者の介助者の給与が減少していく動きと連動していた。これはちょうどフリーターという言葉が「自由でカッコいい」働き方から「底辺労働」へと意味を変容させ、ニートが社会問題になった時期と重なる。そして介助者の報酬が切り下げられてしまうことは、障がい者の地域生活基盤を切り崩すことにつながる。

ここで長々と日本の障がい者と労働者の問題を取り上げたのは、問題が障がい者の自立と労働者に限定されないと考えるからだ。障がい者の部分を高齢者に変換すれば、現代の高齢者社会における介護問題に、移民に置き換えれば近い将来の移民と労働者の問題に通用するだろう。それゆえ、以下の引用は心に刻むべき指摘であり、モンドラゴンのインタビューと共鳴している。

「相手との対等な関係ということは、弱者と関わるとき、誰しもがみな思うことですが、こういう思いそのものが、白々しく、関わる人のうぬぼれなのです。たとえば脳性マヒ者は、障害による緊張で顔の筋肉が強ばって、どう見ても普通の人とは見られないし、また、トイレも好きな時に行けません。対等というより、そこでは、両者の立場の違いを、はっきりと双方が自覚した上で、そこは、両者の思いやりのなかで、深く理解しあっていくしかないのです。…対等な関係というのは、双方の関係の中で詰めあっていく努力をして、それぞれの立場の違いを自覚した上で、双方がお互いの生活を見あっていくという関係が無いかぎり、お互いに認め合った関係とは言えないのです」。

さて、その上でもう一度モンドラゴンの試みを考えてみよう。先に引用したようにモンドラゴンは移民に自分たち自身で起業家・コーポラティブを結成することを促すための手段、機会あるいは教育を与える立場だと表明している。さらにスペインでの事例として介護職の移民女性たちがアソシエーションを創り始め、この分野で無視できない存在になりつつあるという。日本の経験から敷衍してみるに、彼女たちは低賃金・低待遇に置かれていたのだろう。その待遇改善とともに自分たちの人生を自分たちで組み立て、尊厳を守るために、彼女たちは集団として組織を創設したのだろう。しかし、単純にコーポラティブを結成することが最終解決になると述べられているわけではない。むしろこうした動きが気づき(awareness)をもたらし、理論から実践へと実験を促すことにつながるとされる。さらに受益者は移民にとどまるものではなく、草の根からの経済を築くものすべてが受益者になりうるし、そうなるものとしてプログラムが存在すると述べられている。とすれば、これは上記の引用にある「双方の関係の中で詰めあっていく努力」を担保する試みであるといえよう。

とはいえ、モンドラゴンの試みをなぞるだけでは何も生まれないと思う。私たちが目指すべきなのはモンドラゴンを超える(というと言い過ぎかもしれない)こと、コーポラティブが1つのコーポラティブとして閉じてしまわないことではないか。唐突な言葉のように聞こえると思う。けれどこれは日本の障がい者運動が労働者や労働組合と対抗関係に陥ってしまったことを踏まえての考えなのだ。当事者は当事者だけで存在できない。障がい者であっても、高齢者であっても、移民であっても、その周囲には支える労働を担う人がいる。さらに当事者が住む地域社会の住民がいる。こうした周囲の人々もまたそれぞれの当事者としての利害を持っている。ちょうどさまざまな中心を持った円が重なり合うように、それぞれの利害は特有の焦点を持つとともに重なり合う部分がある。その重なり合った部分で、それぞれが当事者としての利益に拘泥すると、対抗関係に陥る。利益に拘泥しやすいのは、それぞれが組織の立場を重んじる時ではないかと私自身は考えている。「個人的にはわかるのですが…」というやつだ。コーポラティブも組織体である以上、組織の立場は生じてしまう。だからコーポラティブを閉じてしまわないことが必要になる。

「閉じてしまわない」とは具体的にはどのようなことを指すのか。これに対する答えは抽象的なものになってしまう。組織の構成メンバーが組織への帰属意識と同時に個人としての判断を手放さないこと。逆に組織体は組織に属するメンバーが、個人として判断し異論や意見を発議したとき、その発議を拒否しないこと。さらにメンバーが個人の判断を優先させ、組織を離れることを敢えて促進すること、つまりいつでも独立していけるように個人の能力を育成し続けること。そんな組織は組織体として成立しない、維持し続けられないといわれるかもしれない。しかし、私自身はこれぐらい「閉じない」組織でないと、将来的に組織として存立し得ないのではないかという予感を持っている。


[1] 日本の先駆的な運動としては「青い芝の会」が挙げられる。青い芝の会の歴史や主な文献をまとめているのが、
http://www.arsvi.com/o/a01.htmである。

 

社会システムが崩壊する足音が聞こえるが…

CWB 奥谷京子

2023年新年号として「フェアトレードからコミュニティワークへ」という冊子にして読者の皆さんにお届けした。アジアを助けるから、アジアから助けられる国にと潮目が変わったと朝日新聞の永井記者も当時記事として紹介してくれた。

その本の中に、かつてフィリピンの看護士を福岡の介護施設で受け入れた時に私が英語の通訳で入った時のエピソードを紹介した。フィリピンで看護士の資格があると半年カナダで働けば永住権が得られる、ドバイのほうが稼ぎがいい、日本は英語で上司が話してくれないし、お給料がいいわけでもないし、魅力を感じないと20年以上前に言われたのだ。

そこから現在は介護の現場はミャンマーやネパールが中心で、ミャンマーは徴兵のために国外へ男性は出られなくなった。つい最近、ネパール人で看護コースを専攻し、その経験を生かして現在技能実習で地方の特別養護老人ホームに3年勤めている女性から話を聞いた。彼女の仕事ぶりは評判がよく、意地悪もなく、いいスタッフに恵まれているという。だが、驚いたのは時間を埋め合わせる作業員でしかない現状だ。

月に8、9回くらい夜勤があり、2時間ごと日本人スタッフと交代し、40人近い介護度3以上の高齢者をたった一人で夜間見ているという。同じグループ内の別の施設にいた時は週1回スタッフ全員が集まるミーティングもあったが、今はそういう機会もなく、任された時間で大きな事故や容体の急変がないように祈りながら担当するという。20代後半だが、顔にある吹き出物がその大変さを物語る。50キロくらいのお年寄りを一人で体を動かしたりしなくてはいけなくて最初はコツもわからず、腰も痛めたそうだ。日本で働く前は介護というのはお年寄りに寄り添って、お庭で一緒に土いじりをしたり、やりたいことをお手伝いするというようなイメージだったが、かなり大きな施設ということもあり、その施設のスタッフの時間に入居者が合わせるという状況で、朝7時からご飯を食べてもらうために眠くても5時から起こし、食べる時も一人ひとりで、入居者同士で談話などもない。介護スタッフは5人の面倒を見て、食べ終わったら寝かせるという状態だという。すべての介護施設がそうではないとは思うと言っておられたが、弱っていく高齢者をみていくのがつらいと漏らしているのだ。日本という場所に憧れたが、施設が立派じゃなくても大家族で身内のお年寄りを見るネパールのほうがいいと感じていそうだ。

これではネパールからもそのうち人が来なくなり、次は経済危機に陥った国を探し、どこもなくなるという道をたどるのだろうか。現在技能実習制度も見直しが図られて、技術を学んでもらって国際貢献の名目から育成にシフトするそうだが、現場の感覚とは乖離している。ネパールにいる彼女の友達で今看護の勉強を始めた人もいるようだが、オーストラリアの給与がいいので(時給は2倍強)、そこを目指しているという。ミャンマーは国の事情でもう若者も出国できなくなり、ネパールの人も1,2年で来なくなると、さらなる人手不足。そしてたまたま介護が自分の天職だと思って20年働いていた日本人女性もこの7月に介護現場から足を洗ってエステの仕事に転職をすることを決めたと聞いた。この仕事が好きだと思っていたけれども、どんどん現場の人がやめていき、彼女も鬱状態になってしまったという。また旦那さんが事業に失敗して蒸発し、4人の子どもを抱えていたシングルマザーも、一番下の子がもうすぐ高校を卒業したらほかの職種にチャレンジしたいといっている。

たまたま介護の例ではあるが、いろんなところで日本のシステムの崩壊がある。農業の人手不足は深刻だとか、学校の先生を目指す人が少なくなったとか、2024年問題で建築現場や運輸業はどうなるかなど、ニュースで聴く話題だけではない。これだけ複雑な要因が絡み合う社会なので簡単には解が見つからない。さらに円がこれだけ安くなると、輸入もいよいよ危うい。輸入食品を扱う街中のお店でも品切れと書かれている表示も見かける。数日経っても慢性的に物が入ってこなくなることも起きてくると、今後一般のお店の運営方法もおそらく変わってくるだろう。

負のスパイラルになった時に、そこから逃げ出していく人たちはたくさんいる。ただ安全と思しき所に移るためにも、自分にスキルなど役立つものがなければ実力が試される場であるほど定着などできるわけがない。お先真っ暗なシナリオを並べても気分が沈むだけだ。以前、片岡が起業スクールでよく言っていたが、「お金のあるところに人が集まり、情報が集まるという時代から、情報化の時代は面白い情報が集まるところに人が集まり、お金が後からやってくる」と。日本も機材は進歩・充実しているけれども、それを扱う人たちがいまだ古い体質から抜け出せなかったのか、周回遅れでやっと情報化にシフトする時が来たのか、と気づかされる。既存の枠組みで限界を論じ、解も見いだせず唸ってばかりいても何も変わらない。

以前、ある地方の障がい施設の話を聞いたことがあるのだが、予算が削られて毎日お風呂が入れなくなったが、近くの山で薪拾いをして燃料を入居者自身が集め、森の中を歩くおかげで幻聴・妄想も減り、さらに運動するので汗をかいて毎日お風呂に入ってぐっすり寝るのでおねしょも減るという一石三鳥くらいの効果が出た、という。

今さらながら「面白がる」心で「やってみる」、それぞれの人が自分の媒体で「楽しい」を発信できること、実験すること、他にやっていないことをやってみることだ。その時に、余裕や遊びの部分があることは重要だ。自給できる食料があることと、今私たちが力を注いでいる自らの文化に誇りをもって守っていくこと、そしてニュースに踊らされて不安がってばかりいずに自分で何かアクションを起こすことなのではないだろうか。ニュースは読むものではなくて、作るもの。それが時代に刺さり連鎖する時の面白さを感じられる自分であり続けたい。

ご縁が実を結ぶ、「銃のない平和!」全国公演

CWB  奥谷京子

今年はラッキーなことに桜が遅かったおかげで、プンアジダンサーたちが名古屋に到着した時に満開になりました。劇中にもアツ(中田厚仁さん)を偲んで村に桜を植えるというシーンがあるのですが、成長し咲き誇るとどれだけ美しいかを間近に感じられた彼女たちはより演技に力が入ります。

今回、愛知県は3か所+高校の訪問を果たすことができました。1か所目はソーネOZONEで公演後には運営スタッフのお母様がカンボジアのメンバーに浴衣を着つけてくれたり、三味線と小唄・日本舞踊の披露や日本の歌を歌ったりと、盛りだくさんな内容でした。2か所目はオルタナティブスクールのあいち惟の森。ここではお昼ご飯の豚汁の具材を一緒に切って、日本の大根やネギの大きさに感激したり、近い年齢の若者たちとスレイマウがホワイトボードでクメール文字を教えました。そして3か所目の南知多では仏教のお寺に訪問ができてそれにも興奮していたメンバーたち。移動はかなりきつくて、バスや電車に乗るたび頭が痛いと寝てばかりですが、毎日違う環境で刺激を受けているようです。

今回の企画を名古屋で引き受けて下さったのは顔の見えるフェアトレード風”sの六鹿晶子さん。フェアトレードタウンを推進した土井ゆき子さんの風”sで経験を積んで、土井さんが田舎へ引っ越された後も名古屋の中心街でその精神を受け継いで活動しています。彼女が2020年2月に新婚旅行でカンボジアを選んで訪れ、プンアジに宿泊しました。その際にカシューナッツのパウダーを入れたケーキ生地にバナナを挟み、生クリームをコーティングした小さなケーキをプンアジの生徒が作り、サプライズでプレゼントしてお祝いしました。それから六鹿さんはより身近にカンボジアを感じてくれ、今回もいち早く来日公演に手を挙げてくれました。

土井さんもソーネOZONEの会場に参加してくれ、「30年近いお付き合いになるけど、ボリビアからの楽団を受け入れた頃、懐かしいわ」とコメントしていました。そして参加者からも「学生時代にフェアトレードのサークルで、第3世界ショップは泥臭くていいなと思っていて、ここで会えてびっくりです!」という声も頂きました。第3世界ショップを特徴づけるのは単なる商品の販売ではない、コミュニティを作る、文化を守るためにイベントを継続しているという点です。利益の3分の1は後世に残したいもの、社会に必要とされることに採算は二の次でお金を活かそうという創立以来のスピリットが受け継がれています。すでにあいち惟の森の校長先生もフィールドワークで中学生5人を海外に連れていきたいと、今回出会ったプンアジの学生たちを訪問してくれる可能性が出てきました。こういうご縁が次のアクションへと繋がっていくのが面白いところでもあります。

今回は全編クメール語での上演なので日本で耐えうるかが心配でしたが、アツ村出身のコムジエンが主人公を演じるというストーリー性で新聞でも取り上げられ、言葉を越えたヴァニー先生の演技の迫力、指のしなやかさなどクメール舞踊の動きに魅了され、参加者全員でココナツダンスを通じて交流ができて楽しんでいただけたようでほっとしています。準備で頑張った中原さん、安藤さん、そして学生インターンの皆さんの努力の賜物です。前半の1週間が終わったところですが、残りの公演でも様々な出逢いとご縁が広がりそうで、楽しみです。

民主主義を問い直す

CWBアドバイザー 松井名津

近頃民主主義は評判が悪い。民意を反映しない政治だとか、金権汚職やポピュリズムだとかいわれている。あるいは西洋生まれの「民主主義」は西欧以外では通用しない(根付かない)という言説もよく聞く。しかし果たして今現在ある民主主義、西欧流の民主主義だけが「民主主義」なのか、そもそも西欧流民主主義は本来の「民主主義」なのか?この根底的な問いを立て、民主主義の可能性の別の可能性を開いて見せているのがデヴィッド・グレーバーの『民主主義の非西洋的起源について』という本だ。この本を読みながら、これまでコーポラティズムに関して立てられていた民主主義的な経営の課題が、別の光の中で浮かび上がってきたような気がしている。今日はそのことについて書いてみたい。

まずはグレーバーが実践的民主主義の要諦として挙げているものを紹介しておきたい。

「垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上位下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に伝統的な参加方式のもとでなら周縁化されるか排除されるような人びとの声を聞き入れることを保証するために、何らかの仕組みを…([その仕組みは]無限に存在しうる…)確保する必要性(p.9)」

「文化と文化の間に開いた錯綜した空間の中から(p.66)」から生み出されるものであって、何らかの強制力を伴わないもの。

異なったコミュニティ間では、相互の行き違いは武力による解決の可能性を多大に孕んでいる。しかし実際に武力を行使することは互いに望ましくない結果をもたらす。したがって互いが対等でありつつ、互いが納得できる水準で、お互いの関係性を保つために「民主主義」が生み出される。こうした「民主主義」には多様な形態があり、西洋流の議会制や代表制民主主義や選挙にのみ限定されるものではない。グレーバーは、ホデノショイ・イロクォイ連邦(アメリカ先住民による5カ国連邦で、現在のカナダからアメリカ東北部に渡る大きな地域を占めていた)の形体が合衆国連邦に大きな影響を与えたという例を挙げている。ホデノショイ(イロクォイ)の「民主制」は以下のような特徴を持っているので、グレーバーが挙げている民主主義の要諦にもある程度合致するだろう(以下の記述は木村武史『ホデノショイ(イロクォイ)社会の「宗教」』(2004)および馬場優子『堀り棒とトマホークーイロクォイ母系制における女性の地位と役割』(1992)によっている)。まずホデノショイの「首長」は人々(女性)によって選ばれ、「首長」に腐敗等があった場合は人々によって罷免される。また「首長」の権威は他の役割(戦士)や部族民に優越するものではない。ホデノショイ連邦の「首長」たちは各部族の問題を話し合いによって全員一致で解決に努める。ただし「首長」による会議だけが審議体ではなく族母によるもの、軍事を司る首長、および長老たちの審議体があり、それぞれ別途に審議を行い、最終的に公開討論を経て、長老たちが結果を発表する。

さて民主主義は何も西洋の専売特許ではなく、今ある議会制民主主義とは別の形態の民主主義があるというグレーバーの議論にある程度納得がいったところで、これがどう民主主義的な経営の課題と結びつくのか。日頃ミャンマーとカンボジアを結んだ会議に出席していて、つくづく思うのが「発議」の難しさだ。発議といっても何か小難しい議論を提起しなくてはならないという意味ではない。ミャンマー・カンボジアでいえば、「ネズミがたくさんいて困る」とか「クッキーを何種類作ったか」という感じだ。書いてみると「なんだそんなこと」レベルのものだ。しかしこれを問題(課題)と感じることが全ての始まりになる。誰かが発議しても、面倒という空気が大半であれば、その場では議論が始まらない。発議が発議になるためには、そもそもそれがなぜ問題なのかが共有されている必要がある。これが意外にというか、当然のことというか、とても難しい。発議ができないとか、議論にならないというと、だから〜は自分の意見をもっていない、個人が確立していないといわれる。個人が自立しているというのは、個人が自分の意見を持っている(あるいは個性を持っている)という意味に使われる。ある集団や組織と個人とは別個の存在で、それぞれの個人は自分たちが共同で関わっている集団や組織にどう関わっているのかが、意見として表明される。意見が表明されれば、それに対して別の個人が意見を表明する。これが西洋流の民主主義の前提になっている。

この前提は果たして実践上前提にしてよいのだろうか。同じコミュニティの人と普段と変わらず生活をしていると、人は問題を発見するよりも、問題を見逃す風に動いてしまわないだろうか。見て見ぬ振りをするというより、見えていても見えていないまま―というか問題があることに気がつかないまま過ごしているのが普通ではないだろうか。道端のゴミとか、街路樹の手入れとか、自分たちの手でやればなんとかなるものも、「誰か」に委ねておくものとしてしまう。日本ではその方が楽だから。ではミャンマーでは?その「誰か」が銃を構えて互いに争っている。だから問題が目に見える。けれど誰も手を出さない。手を出すことが命懸けになるから。そんな土地から徴兵を忌避して、カンボジアにやってきたのだから、仲間意識は強固だ。メンバーは同じ文化に属してきたから、互いを評価することに慣れていない。より正確にいえば、互いに思っていることやメンバー内でなんとなく共有されている評価はあるのだが、それを言挙げすることに抵抗がある。討論discussionという言葉が「話し合う」ではなく「話し合いで相手を負かす」というイメージを持っているのかもしれない(これは日本でも一緒のような気がする)。高い低いに関わらず、評価をすることが、仲間の和を壊しかねないという危惧がある。こうした感覚は普遍的なものかもしれない。実際、アダム・スミスは道徳の基準をproprietry(深慮と訳されるが、世間で許容される範囲を指す)に置いた。とすれば、西洋流の民主主義は「議論しても組織やコミュニティは壊れない」という強固な信頼や、組織やコミュニティとは関係なく個人が存在し得るという幻想をベースにしていることになる。

西洋流にいけば「民主主義的経営」とは、常に互いに意見を表明し、討議し、結論を導き出す集団を基盤にしたものということになる。しかし正直にいえばこれが実践できているところはあるのだろうか?グレーバーは文化が同じところではコンセンサスが優先されるという。ホデノショイでも結論は全員一致だ。そのためには表面に出ない合意形成がなされることもあるだろう。雰囲気や「風」が全員一致を生むこともある。その一方でこうした合意形成は澱んだ空気を、強制された一致を生む。だからこそ敢えて仲間意識を自覚する必要がある。評価や議論が和を乱すものではなく、より良いチームを産むために不可欠のものだということを、行動を通じて実感する必要がある。幸いビジネスでは、評価や議論が市場で生き抜くために必要不可欠だ。「ビジネスとして」はよい口実というわけではないが、グレーバーの「文化と文化の間」の空間の持つ緊張感を生み出しやすい。つけて加えて私たちの会議メンバーは「異文化」メンバーだ。国だけでない、民族も文化も年代も違う。今はまだ発議に慣れていない。でも少しずつ慣れていくだろうと思う。

バイクで2時間かかるところに仕事で出かけた時の飲食費用をどうするか。そんな問題も「どんなルールを作れば全員が納得でき、気持ちよく仕事ができるか」につながる。毎日の会議で私が聞いているのは、今民主主義が芽吹き、育ちつつある現場なのだと考えている。私たちはコミュニティが壊れてしまった、あるいは壊れつつある時代に生きている。その中で民主主義的な経営は、常に組織やコミュニティを作り上げる、育てている営みでありうると考えている

変化の種5 インドの社会起業家の紹介

CWB 奥谷京子

今回もヴェンカテシャ・ナヤックさん著の『変化の種~Seeds of Change』からご紹介します。先月号はリサイクル、環境問題の解決ということに焦点を当てて紹介しましたが、今回紹介する3人はすべて女性起業家で女性の雇用づくりに焦点を当てている方々です。3人目に紹介する女性起業家は聴覚障がい者の人たちと共に服の販売をしているということで、現在CWBミャンマーで活動しているOne 4 Oneの活動に類似するところがあり、参考になればと思い、紹介します。

〇ジャイ・バラティの変化への意欲:

MOWO はモビリティを通じて女性に力を与える

建築家であり情熱的なバイカーでもあるジェイ・バラティは、モビリティを通じて女性の生活を変えるという使命に乗り出しました。 2019 年のメコンへの道遠征中のタイでの女性自転車タクシー運転手との出会いに触発され、ジェイは女性に力を与えるモビリティの可能性に気づきました。この認識は、女性が運転スキルを学び、モビリティ分野での機会を追求できるようにすることに焦点を当てた非営利団体である MOWO (Moving Women) Social Initiativesの設立につながりました。

熱心なバイカーであり、Bikerni Hyderabad のメンバーでもあるジェイは、インドの道路における男女間の著しい不均衡を観察し、女性の安全上の懸念を認識していました。彼女は、道路をジェンダー中立にし、女性、特に低所得者層の移動の重要性についての意識を高めることを目指しました。ジャイはハイデラバードで自動車訓練プログラムを開始し、2,500 人の女性に二輪車に乗れるよう訓練し、200 人以上の女性に電動オートリキシャの運転訓練を行った。このトレーニングは、テランガーナ州女性児童福祉局内にあるインド初の女性専用自動車トレーニングセンターで行われます。

ジェイは運転技術の習得に成功したにもかかわらず、安全上の懸念、アメニティの欠如、性別による偏見などにより、女性の労働参加における課題を認識した。これらの問題に対処するために、彼女は 2022 年に女性ドライバーを雇用し、モビリティ分野でより良い生計の機会を提供することに焦点を当てた営利スタートアップである MOWO Fleet を設立しました。この車両はすべて電気自動車(EV)で構成されており、専用アプリを通じて柔軟なスケジュールを提供し、女性ドライバーの利便性を確保しています。

MOWO フリートは、Blue Dart や Uber などの組織と協力して、女性ドライバーの雇用機会を創出してきました。この取り組みにより、女性(その多くは初職に就く人)に力が与えられ、家計の収入に直接貢献することができました。

女性ドライバーは、限られた労働時間の中で約 15,000 ~ 17,000 ルピーを稼ぎ、安定した有意義な収入をもたらします。さらに、MOWO フリートは、多様な交通ニーズに応えるために、サブスクリプションベースの通勤サービスやハイデラバードでの趣味のクラスの送迎サービスを検討しています。

MOWO Social Initiatives は非営利団体として運営されていますが、MOWO フリート は Villgro などの組織から、基金や Tvaran プログラムへの参加などの助成金を受けています。ジェイはMOWOフリートの影響を拡大することを構想しており、モビリティ部門をよりジェンダー包摂化し、持続可能な機会を通じて女性に力を与えることの重要性を強調しています。この取り組みは、モビリティ労働力における女性のための支援的なエコシステムを構築し、性別に関する固定観念を打破し、経済的自立を促進するというより広範な目標と一致しています。

https://www.mowo.in

〇カンチャン・バダニのループフープ:

かぎ針編みを通して部族の女性に力を与える

ジャールカンド州の小さな町ジュムリ・テライヤでは、部族の女性たちが週5日集まり、仕事を提供するだけでなく、子供たちに喜びをもたらす工芸に取り組んでいます。 Loophoopと呼ばれるこの取り組みは、ジャ​​ールカンド州出身の61歳の起業家、カンチャン・バダニによって始められた。 2021 年に設立された Loophoop は、かぎ針編みのおもちゃの手作りに焦点を当て、地域の部族女性に生計の機会を創出しています。

カンチャン・バダニとジュムリ・テライヤとのつながりは深く、彼女の家族はこの地域で鉱山を所有しており、地元コミュニティではよく知られています。しかし、雲母鉱山産業が閉鎖に直面し、多くの人が職を失ったとき、バダニは、この地域で苦しむ女性たちの希望の源となりました。彼女のベンチャー企業であるループフープは、これらの女性たちに希望とより良い生計を立てる機会を提供する手段として誕生しました。

バダニのかぎ針編みへの情熱は、コルカタで幼い頃、祖母がかぎ針編みのおもちゃを作っているのを見て育ちました。1982 年の結婚後、彼女はジュムリ・テライヤに移り、時折コミュニティ内の他の女性たちにそれを教えながら、その工芸品の練習を続けました。困っている女性たちの生活に変化をもたらしたいという彼女の願望にもかかわらず、バダニの社会的活動は家庭の責任のために後回しになっていました。

2021年、子供たちが落ち着いて時間も増えたので、バダニはかぎ針編みへの情熱を、地域の女性に力を与えることができるビジネスに変えることを決意しました。彼女はLoophoopを立ち上げ、主婦や部族コミュニティのメンバーを含む地元の女性たちにかぎ針編みの技術を教え始めました。無料で提供されるこのトレーニングは、女性たちが技術を習得するまでに通常10~15日かかります。

動物のおもちゃ、人形、神のフィギュア、オーダーメイド品などの Loophoop の製品は、ジャールカンド州の2つの製造センターで製造されています。在宅勤務を希望する女性のために、材料が提供され、都合の良いときにおもちゃを作成できます。女性たちは、生産する作品の数に応じて、通常、月に 4,000 ~ 5,000 ルピーを稼ぎます。

この製品の価格は450ルピーから2,500ルピーの間で、LoophoopのInstagramページとウェブサイトを通じて販売されています。同社はこれまでに3,000を超える製品を販売し、月間売上高は 10 万ルピーから 150 万ルピーに達しています。品質と安全性を重視する Loophoop は、原材料と最終製品がラボでテストされ、インド規格局によって認定されていることを保証します。特に、おもちゃの部品にはプラスチックが使用されておらず、目などの部分には細い糸が使用されています。

バダニは将来を見据えて、Loophoop をオフライン店舗に拡大することを構想しており、高品質の製品を提供する際の一貫性の重要性を強調しています。彼女は、夢を追い求めることに年齢制限はないと信じており、Loophoop を通じて女性をサポートし、高揚させ、女性の人生にポジティブな影響を与えるという夢を実現することに尽力しています。

https://loophoopkids.com

〇スムリティ・ナグパルのアトゥルヤカラ:聴覚障害者アーティストのためのエンパワーメントの物語

コミュニケーションは個人間の架け橋であるとよく考えられていますが、言語自体が障壁である場合はどうなるでしょうか? AtulyakalaのCEO 兼創設者であるスムリティ・ナグバルは、聴覚障がいのある2人の年上の兄弟とともにこのシナリオに陥っていることに気づきました。彼女は彼らの代弁者になることを決意し、幼い頃から手話を学び、家族間の架け橋となりました。

スムリティの物語は、16 歳のときに社会に貢献するために全米聴覚障がい者協会 (NAD) にボランティアとして参加したとき、意味のある変化を遂げました。その後、学生としてニュース番組の通訳となり、ドアダルシャン ネットワークを通じて聴覚障がいのあるコミュニティに奉仕しました。この経験が、聴覚障がい者コミュニティが直面する課題に取り組みたいという彼女の情熱に火をつけました。

経営学士号を取得した後、スムリティは通訳として働く機会をつかみ、才能ある聴覚障がい者の芸術家の物語に触れました。この啓示は、変化をもたらすという彼女の決意を刺激しました。スムリティは、友人のハルシットさんと協力して、クリエイティブなコラボレーションやデザインパートナーシップを通じて聴覚障がい者のアーティストに力を与えることを目的とした営利社会企業、アトゥルヤカラを設立しました。

アトゥルヤカラは、聴覚障がいのあるアーティストが作成するすべての作品に署名することを許可し、彼らの個性と創造性を強調することで、他との差別化を図っています。この企業は、これらのアーティストが制作したアート作品をオンラインおよびオフラインで販売することで収益を上げています。目標は、彼らの創造性を解放し、従来の期待の範囲を超えて才能を披露する機会を提供することです。

アトゥルヤカラはアートを販売するだけでなく、有名なミュージシャンやアーティストと提携して、聴覚障がい者コミュニティのための最初の曲やイラストを制作しています。この企業は、芸術活動に直接関わる人々だけでなく、ろう者コミュニティ全体に影響を与えることを目指しています。

さらに、アトゥルヤカラは手話についての意識を高めることに尽力しています。彼らは大学でワークショップを実施し、手話の基礎を人々に教育するためのハンドブックを開発しています。 スムリティはアトゥルヤカラを聴覚障がい者によって作られた製品を独占的に販売し、アーティストたちの誇りと達成感を育む強力なブランドとして構想しています。